気付いたとき、僕は光のない、どこまでも広がる荒野に立っていた。
空も大地も塗り潰されたような漆黒。そんな闇の中に、ボウッと青白い燐光を宿した骸骨たちが漂っているのが見えた。
これが夢か現実か、そんなことを疑う猶予すら僕には与えられなかった。
カチカチと顎を鳴らし、骸骨たちが襲いかかってきたのだ。
戦う力などあるはずもない。僕にできることは、ただ無様に背を向けて逃げ出すことだけだった。
「はっ、はっ……!」
夢なら早く覚めてくれ。そんな祈りも虚しく、追っ手は数を増していく。
もどかしい。大人の思考を持っていても、今の僕の体はたかだか五歳の幼児に過ぎない。短く未発達な足では、どんなに懸命に走っても速く遠くへなど行けるはずがなかった。
「あっ……!」
最悪の事態はすぐに訪れた。足がもつれ、地面に激しく倒れ込む。
擦りむいた膝から走る鋭い痛みが、無慈悲にもここが「現実」であることを僕に突きつけた。
痛みを気にする余裕などない。背後を振り返れば、虚ろな眼窩に光を灯した骸骨が、その鋭利な爪を今まさに振り下ろそうとしていた。
僕はとっさに泥臭い地面を転がり、横へと回避する。
爪が空を切り、地面を抉る音が耳元で響いた。だが、避けたところで絶望は終わらない。一体だけではないのだ。続いて襲い来る脅威に、体勢を立て直す暇すら残されていない。
迫りくる死の気配に目を瞑りかけた、その時だった。
轟音と共に、襲いかかってきた骸骨たちの胴体が、何物かによって貫かれ、粉砕された。
それは一本の赤い棒――いや、先端に凶悪な刃を備えた、紅蓮の魔槍だった。
大地に突き刺さったその槍を中心として、圧倒的な死の圧力が周囲の闇を払う。
スッ、と。
音もなく、何者かが僕の目の前に舞い降りた。
暗い紫の長い髪が、ふわりと夜風に舞う。
闇夜に鮮血を垂らしたような赤い瞳。
この世のものとは思えないほど整った、冷徹かつ美しい顔立ち。
タイツのような紫の装束が、しなやかで均整の取れた肢体を包み込んでいる。黒い胸当てに金属製の肩当て、そして鋭いヒール。
戦場に咲く花のようなその女性を、僕は尻餅をついたまま、ただ呆けて見上げることしかできなかった。
僕はまだ五歳だ。いや、前世の記憶を含めれば三十年は生きていることになる。
それなりの人生経験があるつもりだった。けれど、目の前の彼女はあまりにも美しすぎた。
目が離せない。呼吸すら忘れる。
あぁ、これが「一目惚れ」というやつか――と、死の淵にありながら僕は妙に冷静に自覚していた。
彼女が右手を軽くかざすと、突き刺さっていた赤い槍が浮き上がり、主の手元へと戻る。
カツン、カツン。
静寂を取り戻した荒野に、ヒールの音だけが高らかに響いた。
彼女は、塵となって消えゆく骸骨たちには目もくれず、ただ冷ややかな瞳で、腰を抜かしている“小さな”僕を見下ろした。
「……ふん。数ばかりで芸のない。死にぞこないが、生者に群がるなど見苦しいぞ」
彼女は手にした紅き魔槍を一振りし、付着した穢れを払う。そして、その宝石のような赤い瞳を細め、地面にへたり込んでいる僕を覗き込んだ。
「さて……。こんな影の吹き溜まりに、迷い子が一匹か」
不審がるように、あるいは珍しい玩具でも見つけたかのように、彼女は小首を傾げる。
「おい、立てるか? 小僧」
僕は答えられなかった。恐怖で声が出ないのではない。彼女に見惚れるあまり、言葉を失っていたのだ。
彼女はその視線に気づいたのだろう。五歳児らしからぬ、熱を帯びた粘着質な視線に。
彼女はフッと口元を緩め、妖艶かつ不敵な笑みを浮かべた。
「ほう……。腰が抜けたかと思ったが、随分と熱心な視線だ。死の恐怖よりも、目の前の女に見蕩れるか」
カツン、と一歩、彼女が近づく。
闇の冷たさとは違う、鮮烈で良い香りが鼻腔をくすぐった。
「――ませたガキだ。あるいは……」
彼女はまるで、僕の魂の在り方そのものを見透かすように囁く。
「その器に見合わぬ魂の重み……。ただの幼児ではないな? まあいい。亡者に喰われるよりは、私に拾われる方が幾分かマシな運命だろうよ」
彼女は槍を粒子のように霊体化させて消すと、無防備な僕に向かって、白く美しい手を差し伸べた。
「立て。いつまで呆けている」
その瞳が、試すような光を帯びる。
「それとも、このスカサハに手を引かれねば立てぬと甘えるつもりか?」
『スカサハ』──。
その響きを耳にした瞬間、僕の脳裏で前世の記憶が激しく明滅した。
僕は知っている。その名を知っている。
目の前に立つ彼女がどのような存在であるかを。
影の国の女王。魔境の主。
数多の勇士を育て上げた偉大なる師であり、神代のルーン魔術を自在に操る不世出の戦士。
物語の中だけの存在だと思っていた“本物”が、今、僕を見下ろしている。
「……っ」
呆けている場合ではない。彼女の言葉に応えようと、僕は地面に手をついて立ち上がろうとした。
だが、限界を超えて酷使した幼児の筋肉は、主の意思に従ってはくれなかった。
ガクガクと膝が笑い、力が入らない。
ここまで後先考えず、死に物狂いで走ったツケが回ってきていた。半ば浮き上がった体は、無様にバランスを崩し、ドスンと再び尻餅をついてしまう。
(くっ……情けない)
助けられておきながら、まともに立つことすらできないなんて。
しかし、格好悪いからといって、このまま無言でうずくまっているのは、それ以上に無礼な振る舞いだ。礼儀を欠くことだけは避けなければならない。
僕は覚悟を決めた。
投げ出したままの両足を、震える手で強引に引き寄せる。尻餅をついた体勢から、背筋を伸ばし、踵の上に腰を落とす。
砂利の浮いた荒野の地面は痛かったが、そんなことは構っていられない。
僕は正座の姿勢をとると、小さな両手をハの字にして地面に置いた。
いわゆる、三つ指をつく姿勢。
この異界の女王に通用するかは分からない。けれど、これが今の僕にできる精一杯の、最上級の感謝の形だった。
僕は深く頭を下げ、地面の冷たさを額に感じながら、震えを抑えた声で告げる。
「……助けていただき、ありがとうございます」
一拍置き、顔を上げて彼女の赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、名乗りを上げた。
「僕の名は、境 織姫(さかい しき)。……貴女にお会いできて、光栄です」
下手に飾ることをせず、僕は名乗った。
◇◇◇
予想外の行動だったのだろう。
スカサハは一瞬、その美しい真紅の瞳を丸くした。
無理もない。ここは死の匂いが充満する荒野の真ん中だ。
骸骨の残骸が転がる惨状で、あろうことか幼児に三つ指をついた最敬礼をされるなど、長き時を生きる彼女にとっても未体験の出来事に違いない。
「……ふっ、く、くくく……!」
彼女は喉の奥でくつくつと、鈴を転がすように、けれどどこか愉しげに笑った。
その笑いは冷酷な女王のものではなく、興味を引かれた少女のようでもあった。
「立てぬ足を嘆くのでもなく、恐怖に泣き叫ぶのでもなく。その場で座して、礼を尽くすか」
衣擦れの音がして、彼女はその場にしゃがみ込んだ。
正座する僕の目線の高さまで視線が降りてくる。
間近で見ると、その美貌は暴力的なまでの引力を持っていた。夜の闇よりも深い紫の髪、透き通るような白磁の肌、そして長い睫毛に縁取られた魔性の瞳。
彼女は面白そうに目を細めると、スッと人差し指を伸ばし、僕の顎をくい、と持ち上げた。
「サカイ……シキ、と言ったか。東洋の作法だな。私の知る“東の果ての英霊たち”にも、これほど殊勝な心掛けを持つ者は少なかったぞ」
顎に触れる指先はひやりと冷たい。けれど、不思議と不快ではなかった。
彼女は値踏みするように、僕の瞳を至近距離から覗き込む。その赤い瞳の奥には、数千年の時を越えた叡智と、底知れぬ深淵が渦巻いているのが見て取れた。
見透かされている。僕の前世も、今の精神状態も、全て。
「よい。気に入った」
彼女は満足げに頷いた。
「ただの迷い子ならば夢路へ送り返すところだが……その精神(こころ)と礼節に免じ、少しばかりの加護を与えてやろう」
彼女は立ち上がり、僕に背を向けた。
なびく髪の隙間から、有無を言わせぬ凛とした声が降ってくる。
「立てずともよい。私が運んでやる」
しかし、そこで彼女の動きが止まった。
「……だが、お前のような童(わらし)を抱えるなど久しぶりでな。どうしたものか」
彼女は少し思案顔になり、ちらりとこちらを振り返る。
最強の戦士であり、数多の英雄を育てた師である彼女が、たかだか子供一人の扱いに困惑している。そのギャップが、不敬ながらも愛らしく思えてしまった。
◇◇◇
「お任せ、します……」
僕はただ、それだけを告げて身を委ねた。
次の瞬間、ふわりと身体が宙に浮いた。
ひょいと、まるで羽毛か何かを扱うような軽やかさで、彼女は僕の小さな身体を抱き上げたのだ。
片腕だけで抱えられているというのに、揺るぎない安定感がある。
頬に触れる鎧の冷ややかな感触と、その奥から伝わってくる確かな体温。そして、戦場には似合わない、どこか清涼で甘い香りが鼻腔をくすぐった。
至近距離に迫ったその顔は、この世の物とは思えないほど綺麗だった。
見惚れると同時に、僕は自分の顔がカッと熱く紅潮していくのを感じてしまう。
彼女はそんな僕の可愛らしい反応を見逃さず、楽しげに口元を歪めた。
「ほう……? 顔が赤いな、織姫。怪我の熱というわけではなさそうだ。死の淵から生還したというのに、安堵よりも羞恥が勝るか」
彼女は悪戯っぽく、抱きかかえた僕の額に、自身の額をこつんと軽く当ててきた。
あまりの距離の近さに、彼女の吐息までもがかかるようだ。心臓が早鐘を打つ。
「ふふ、ませたガキだ。だが、その正直さは嫌いではない。戦士たるもの、己の感情に嘘をつく必要はないからな。美しいものを美しいと認める。それは強さの第一歩でもある」
一通り僕をからかうと、彼女はふと視線を荒野の彼方へと向けた。
その瞳の色が変わる。あどけない童を愛でる姉の顔から、領域を支配する女王の顔へ。
「さて、行くぞ。舌を噛まぬよう、私にしっかりとしがみついておけ。この領域は不安定だ。長居は無用……私の城までひとっ飛びで帰る」
彼女の足元に力が漲るのが分かった。大気が震えるほどの魔力が、その華奢な肢体に集束していくのを肌で感じる。
「振り落とされるなよ、少年。――『魔境の智慧』、縮地」
瞬間、世界が置き去りにされた。
風切り音すらも後方へ消え去る、神速の跳躍。景色が流れることすらなく、ただ色だけが後方へ爆発的に流れていく。
けれど、彼女の腕の中だけは台風の目のように無風で、揺れ一つない。
絶対的な強者に守られているという安心感が、張り詰めていた僕の意識を急速に微睡みへと誘っていく……。
「……眠ければ眠るがいい。目が覚めた時、そこがお前の新しい修行場……いや、仮の宿だ」
遠くで響くその声を最後に、僕は意識を手放した。
◇◇◇
次に目が覚めた時、そこは見知らぬ天井……ではなく、重厚な石造りの天井だった。
背中には柔らかな感触。僕は天蓋付きの大きな寝台に寝かされていたらしい。
部屋の隅にある暖炉には火が灯り、パチパチという薪の爆ぜる音が、静寂な空間に心地よく響いている。
どうやらここは、「影の国」にある彼女の居城の一室のようだ。
ふと横を見ると、部屋に置かれた優美な椅子に腰掛け、一冊の古風な書物を読んでいる人影があった。
スカサハだ。
彼女は足を組んでページを繰っていた。紫のタイツに包まれたそのしなやかな美脚が、暖炉の灯りに照らされて艶めかしく輝いている。
僕が身じろぎをして目覚めた気配に気づき、彼女は静かに本を閉じた。
「目覚めたか、織姫」
彼女はこちらへ顔を向けると、穏やかな、しかしどこか試すような笑みを浮かべた。
「気分はどうだ? 死神の鎌の切っ先から逃れた気分は」
「はい。悪くない気分です」
なにせこんなにも胸の高まる経験をしてしまったのだ。悪いはずがないのである。