影の国の女王と常闇の邪竜   作:星乃 望夢

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第二話

 

あるようで無いような選択肢だった。

 

生きるか、死ぬか。あるいは、死してなお彷徨う亡者となるか。

 

この「影の国」で、人の身のまま生き延びる道は一つしかない。

 

僕は、スカサハ師匠のもとで生きる術を学ぶことになった。

 

とはいえ、五歳の幼児の身体では、彼女が得意とする槍術や体術の修行には到底耐えられない。

 

代わりに課されたのは、亡者にならぬための特別な「呼吸」と、生き残るための「智慧」を学ぶこと。

 

必然的に、僕の修行は積み上げられた本の山と格闘する座学が中心となった。

 

学ぶのは、ルーン魔術。

 

北欧の神代より伝わる、世界を記述する文字。

 

己の生命力を削る現代の魔術とは異なり、周囲の大地に満ちる魔力を回路として使うその術理ならば、身体が未熟な幼児であっても、相応の知恵と知識があれば操ることができるからだ。

 

 

◇◇◇

 

 

影の国の夜――もっとも、ここは常に夜のようなものだが。

 

城の一室にある静まり返った書斎にて、僕は机に向かっていた。

 

羊皮紙と石板、そして古めかしい書物が塔のように積み上げられた机の上。

 

僕は小さな指を指揮棒のように振るい、空中に文字を刻んでいた。

 

大気中のマナを指先で編み上げ、形にする。

 

本来、魔術回路の未熟な幼児が行えば、負荷に耐えきれず焼き切れる、自殺行為に近い所業だ。

 

だが、彼女の教え通り「外」の力を使うルーンの特性と、僕の前世から引き継いだ精神力が、ギリギリの制御を可能にしていた。

 

コツ、コツ、と。

 

静寂を破り、ヒールの音が背後から近づいてくる。

 

「……ほう」

 

吐息が耳にかかるほどの至近距離。

 

スカサハ師匠が、背後から覆いかぶさるように覗き込んできたのだ。

 

ビクリと肩が跳ねるより早く、彼女の手が伸びてきた。

 

その冷ややかな手が、僕の小さな手を包み込む。彼女は僕の指先を導き、空中で歪みかけていたルーンの軌道を強引に修正した。

 

「角度が甘い。『炎』のルーン……その描き方では、種火どころか己の眉毛を焦がして終わりだぞ」

 

手は相変わらず氷のように冷たいが、その指導は熱を帯びている。

 

彼女が修正したルーンを指先で軽く弾くと、ボッ、と小さな音がして、純度の高い青白い炎が空中に灯った。

 

美しく、そして危うい輝き。

 

「よいか、織姫。ルーンとは文字であり、世界への命令式だ」

 

揺らめく炎が、彼女の赤い瞳を照らし出す。

 

「お前の魔力回路はまだ細い小川のようなもの。だが、知識という堤防で流れを制御すれば、外海の水を引き込むこともできる。力で御するのではなく、理で御するのだ」

 

彼女は満足げに炎を握りつぶして消すと、僕の頭にポンと手を置いた。

 

そして、少し乱暴に、けれど確かな愛着を込めて髪を撫で回した。

 

「それにしても……驚いたな」

 

彼女の声に、偽りのない感嘆が混じる。

 

「座学を始めてまだ数ヶ月。まさか原初のルーンの基礎配列を、こうも容易く暗記するとは。……やはりお前の魂の形、凡百の英霊よりも余程『完成』されている」

 

師匠は僕の頭から手を離すと、行儀悪く机の縁に腰掛けた。

 

組んだ足をぶらつかせながら、長い睫毛の奥にある赤い瞳で僕を見下ろす。

 

「本来なら十年かけて叩き込む基礎だが……お前にならば、もう少しペースを上げても良さそうだ」

 

彼女は口元を三日月のように歪めた。

 

その表情は、新しい玩具を見つけた子供のように無邪気で、かつサディスティックな『師匠』の顔だった。

 

「どうだ? 音を上げるか? それとも、更なる深淵を覗いてみるか?」

 

その問いに答える僕の目に、否はなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

師匠の手が頭を撫でる感触は、暴力的なまでに心地良かった。

 

ひやりとした冷たさと、そこから伝わる不思議な安らぎ。

 

気を抜けばコロッと落ちて、幼児らしく眠ってしまいそうになる。

 

だが、ここで甘えてはダメだ。

 

そんな軽い男では、この誇り高き女王の視界に留まり続けることなどできない。

 

僕は必死に睡魔と戦い、男としての矜持を保ってみせた。

 

それにしても――と、僕は学ぶほどに感嘆する。

 

ルーン魔術というものは、あまりにも便利すぎる。

 

何しろ、文字を刻んでしまえば即座に効力を発揮するのだ。

 

例えば、その辺に転がっている石ころに『守護』のルーンを刻めば、それだけで簡易的な魔除け石になる。それを複数用意して配置すれば、堅牢な結界すら構築できる。

 

応用範囲も広い。

 

指の爪にルーンを刻めば、そこから火炎放射器のように炎を噴き出すこともできるし、足の爪に『力』の加護を刻めば、脚力を爆発的に強化できる。

 

極めつけは防御性能だ。

 

『守護』のルーンを皮膚に直接刻み込み、硬化させることで、鎧など着ていなくともフルプレートアーマーと同等か、それ以上の防御力を得ることができるという。

 

「なるほど……だから師匠は、あのような薄着でも平気なのですね」

 

僕が納得してそう言うと、師匠は「少し違うな」と首を振った。

 

彼女の場合、防御のルーンに頼る以前に、そもそも攻撃に当たらない。

 

当たらなければどうということはない、という極論だ。ただ、飛び道具に対しては『矢避けの加護』のルーンを用いているらしく、遠距離攻撃は身体を掠めるように自動的に逸れていくのだとか。

 

その上で、個人の魔力ではなく「大地のマナ」を回路として使うため、燃費は最強。

 

魔術という魔法のような概念に初めて触れた僕には比較対象がないけれど、これがとんでもなく「ズルい」技術であることは本能で理解できた。

 

そんな日々の中、師匠はある日、一本の棒を僕に差し出した。

 

「織姫、これをやる」

 

「これは……?」

 

「ドルイドの杖だ。魔術行使の補助と、魔力操作の安定を助けてくれる」

 

ありがたい贈り物だ。……常識的なサイズであれば。

 

僕の目の前に突き立てられたそれは、どう見ても師匠が愛用している深紅の魔槍――ゲイ・ボルクと長さも太さも大差ない、無骨な「棒」だった。

 

材質は高密度の霊木か何かだろうか、見た目以上にずっしりと重い。

 

「あ、ありがとうございます……師匠。でも、これ……」

 

僕は両手でそれを受け取り――即座に『力』のルーンを四肢に発動させた。

 

そうでもしなければ、持ち上げることすらままならない。

 

五歳児の身長を遥かに超える長さ。重心の制御などできるはずもなく、僕は杖に振り回されるようにして、どうにかこうにか構えてみせた。

 

「……ふむ。少し大きすぎたか?」

 

「い、いえ! これくらい、どうにかしてみせます!」

 

力の加護で筋肉を軋ませながら、僕は引きつった笑顔で答える。

 

魔術の補助具を使うために、身体強化魔術を全力展開しなければならないなんて、本末転倒もいいところだ。

 

けれど、師匠からの初めての贈り物だ。意地でも使いこなしてみせる。

 

影の国の修練は、今日も理不尽で、とてつもなくハードだった。

 

 

◇◇◇

 

 

ドルイドの杖──。

 

仰々しい名前がついているが、ざっくばらんな言い方をすれば、ようするに「魔法使いの杖」だ。

 

ケルト的な分類に従えば魔導師の杖ということになるのだろうが、本質は変わらない。魔術行使の要となる増幅器だ。

 

しかし、師匠から授かったこの杖は、幼児の腕力で振り回すにはあまりにも重すぎた。

 

だが、まともに振れないのなら、逆転の発想だ。

 

腕で杖を振るのではなく、杖そのものを魔術で振り回せばいい。

 

そもそも、成長途中にある肉体で、槍のような長物を扱おうとするから無理が生じるのだ。

 

僕は杖に跨り、風のルーンを起動した。外の世界の童話に出てくる魔女のように、あるいは古の魔法使いのように。

 

さらに慣れてくれば、杖の上に立ってマナの奔流を掴むことで、波に乗るサーファーの如く大空を滑空することさえ可能になる。

 

「ギィェェェェッ!!」

 

上空で咆哮が轟く。

 

今、僕が相手にしているのは幻想種、グリフォン。

 

鷲の上半身とライオンの下半身を持つ空の猛獣だ。その巨大な翼による飛翔は鋭く、風を友とする正統派の空の支配者と言える。

 

だが、あちらが風を掴んで飛ぶ獣なら、こちらは風すら置き去りにする魔術の弾丸だ。

 

「遅い!」

 

僕は風に乗るどころか、風の抵抗すら無視して魔力放出によるスラスターを点火した。

 

強引なベクトル変換による鋭角機動。

 

生物的な予備動作の一切ない動きでグリフォンの爪を回避すると、僕は杖の先端から魔力弾の雨をばら撒いた。

 

一斉射出された数十の光弾が、複雑怪奇な軌道を描いて空を埋め尽くす。

 

それはまるで、かつて見たアニメーションのミサイル乱舞――“板野サーカス”の如き飽和攻撃。

 

次々に直撃する魔弾に、グリフォンが悲鳴を上げ、体勢を崩した。

 

防御などさせない。回避も許さない。

 

そして生まれた致命的な隙。そのガラ空きの懐へ、僕は切っ先を向けた。

 

杖の先端、石突部分に全魔力を収束させる。

 

「ソニックッ、ブレイカーーー!!」

 

ドンッ、と背後の大気が破裂した。

 

爆発的な加速。杖と共に、鋭利な魔力の斥力壁を纏った僕は、生きた砲弾となって突撃した。

 

衝突の瞬間、肉を断つ感触すら置き去りにする。

 

グリフォンの強靭な胴体は、なす術もなく泣き別れに断裂し、宙に鮮血の花を咲かせた。

 

僕は杖に足を掛けたまま、地面スレスレで魔力を逆噴射し、急制動をかける。

 

ふわりと着地した背後で、ドサドサッと重い音が響いた。

 

絶命したグリフォンの巨体が、物言わぬ肉の塊となって荒野に落ちた音だ。

 

「ふゥ……」

 

僕は杖を肩に担ぎ直し、獲物を振り返る。

 

上出来だ。これなら師匠も文句は言うまい。

 

「よし、今夜のお肉、確保完了です! 待っててくださいね、師匠!」

 

 

◇◇◇

 

 

影の国の城、その食堂には似つかわしくないほど芳ばしい香りが充満していた。

 

大鍋の中でグツグツと煮込まれているのは、先ほど僕が仕留めたグリフォンの肉だ。香草と根菜を放り込み、スカサハ師匠が直々に味付けをした特製のシチューである。

 

湯気が立ち上る皿をテーブルに置き、向かいの席に座った師匠は、優雅な手つきでスプーンを口に運んだ。

 

そして、ほう、と小さく息を吐く。

 

「……悪くない。筋張っているかと思ったが、魔力で加速した衝撃が肉の繊維を程よく壊したようだな。下処理の手間が省けた」

 

「それは良かったです。苦労して突っ込んだ甲斐がありました」

 

僕もスプーンを動かしながら答える。

 

しかし、師匠の赤い瞳は、料理の味よりもその「狩り方」に向けられていた。彼女はスプーンを置き、片肘をついてこちらをまじまじと見つめてくる。

 

「それにしても、だ。織姫」

 

「はい」

 

「私が授けたのは『ドルイドの杖』だぞ? あれは本来、大地の脈を読み、星の息吹を繊細に操るための祭具であり、魔術礼装だ」

 

彼女は呆れたように、けれどどこか面白がるように目を細める。

 

「それを、あろうことか跨って空を飛び、あまつさえ質量弾として敵の腹に叩き込むとはな。歴代のドルイドたちが見れば、あまりの冒涜に卒倒するか、あるいは激怒して杖で殴りかかってくるだろうよ」

 

「ええと……やっぱり、使い方が間違ってましたか?」

 

恐る恐る尋ねると、彼女はフッと笑い、琥珀色のワインを呷った。

 

「いいや。道具の使い道など、持ち主が決めるものだ。お前のその小さな身体と、規格外の魔力量。そして何より、常識に囚われぬ発想。それらを組み合わせた結果、あの杖は『打撃兵器』となった。結果としてグリフォンは死に、我々の腹は満たされる。それが全てだ。……過程はどうあれ、勝利を掴んだのならば、それは『正解』だ」

 

師匠の言葉に、僕は胸を撫で下ろした。

 

影の国では結果こそが全て。その厳しい掟が、今回ばかりは僕の邪道な戦法を肯定してくれたようだ。

 

「ただ、一つだけ忠告しておこう」

 

「忠告、ですか?」

 

「うむ」

 

 師匠は悪戯っぽい笑みを深め、僕の顔を覗き込んだ。

 

「あのような高速戦闘の最中だというのに、技名を高らかに叫ぶのは止めておけ。『そにっく、ぶれいかー』……だったか? 敵に攻撃のタイミングを教えるようなものだぞ。……まあ、威勢が良くて可愛らしいとは思ったがな」

 

「っ……!!」

 

 指摘された瞬間、カッと顔から火が出そうになった。

 

 そ、それは言わない約束というか、つい勢いで出てしまったというか……!

 

「ふふ、顔が赤いぞ。シチューが熱かったか? それとも自覚があったか?」

 

 からかうように笑う師匠の前で、僕は小さくなりながらグリフォンの肉を頬張る。

 

「酷いですよ師匠! 必殺技の名前は重要です!」

 

僕はスプーンを握りしめたまま、食卓で身を乗り出して抗議した。

 

顔の熱さは引いていないが、これは譲れない一線だ。ただ格好をつけているわけではない。ここには明確な魔術的根拠があるのだから。

 

「それに、我が国……日本にも『言霊(ことだま)』の概念は、呪術的に極めて強い要素として知られています。その名を冠することで、対象はその名の力を得るのです!」

 

僕は師匠の赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、熱弁を振るう。

 

「それこそ、確固たる意志と名を刻み、魂を込めれば……極論、そこらの棒切れだって『ゲイ・ボルク』になり得るんですよ?」

 

一瞬、部屋の空気が凍りついた気がした。

 

神殺しの魔槍を引き合いに出すなど、不敬にも程がある。だが、僕は止まらない。

 

「『ソニック・ブレイカー』がどういうものか? あれはただの叫びではありません。先刻お見せしたように、力の障壁を流線型に纏い、空気抵抗を極限まで減らした状態での超音速体当たり……その複雑な術式工程を、あの一言に圧縮して定義しているんです! つまり、自己催眠による術式起動のトリガーなんですよ!」

 

ゼェゼェと息を切らす僕。

 

静寂が食堂を支配する。

 

スカサハ師匠は、きょとんとした顔で僕を見つめ――やがて、その美しい顔をくしゃりと歪めて吹き出した。

 

「ふ、ふふ……あははははっ!」

 

影の国の女王が、腹を抱えて笑っている。

 

「いや、すまない。まさかそこまでの理屈を並べ立ててくるとは思わなくてな。言霊、自己暗示による魔術回路の励起、そして概念の定着か。……ふむ。あながち、間違った理屈ではない」

 

彼女は笑い涙を指先で拭うと、楽しげに口元を緩めた。

 

「棒切れが魔槍になる、か。神代の神秘をナメられたものだが……その『思い込み』の強さこそが、魔術師にとって最強の武器になることもある。よいだろう。その生意気な仮説、認めてやる」

 

彼女はフォークで肉を突き刺し、僕の方へと向けた。

 

「ならば精進せよ、織姫。いつかその『ソニック・ブレイカー』とやらが、私の槍の一撃に届く日が来るまでな。――その時は、私が直々にその名を呼んでやろう」

 

「……っ! 言いましたね師匠! 絶対ですよ!」

 

僕は再びスプーンを握り直し、残りのシチューをかき込んだ。

 

呆れられはしたが、否定はされなかった。

 

何より、「いつか届くかもしれない」と、この最強の師匠が可能性を示してくれたのだ。

 

それが嬉しくて、僕は咀嚼する肉の味がより一層深く染み渡るのを感じていた。

 

 

 

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