スカサハ師匠に拾われてから数年の月日が流れた。
影の国での濃密な修行の日々を経て、僕は九歳になっていた。
成長したのは身体や精神だけではない。装備もまた、新たな段階へと進んでいた。
師匠から授かった新たな魔術礼装、『ドルイドの指輪』。
杖と同じく魔術の発動と魔力操作を補助してくれるこの指輪は、僕の戦術を劇的に進化させた。
杖と併用して回路を並列処理すれば、倍以上の速度で空を翔けることができる。
そして何より画期的なのは──杖がなくとも、身一つで空を飛べるようになったことだ。
「……ほう。まさか、ヒトの身で自在に宙を舞うとはな」
これには流石の師匠も驚きを隠せない様子だった。
彼女の講義によれば、飛行魔術というのは極めて燃費が悪いらしい。対象の質量が増えれば比例して消費魔力が桁違いに跳ね上がるため、意識しての飛行制御は困難を極める。
だからこそ、魔女たちは「箒」という概念を用いる。
あれは単なる乗り物ではない。「地に足がつかないもの」「大地から追放されたもの」という概念を魔術基盤に乗せることで、世界を騙し、浮遊を成立させているのだとか。
それでも熟練の魔女ですら成功率は三割程度。
僕のように、鳥か何かのように自由自在に空を飛び回るなど、魔術の常識からすればあり得ない所業らしい。
「お前は本当に、私の想像の上を行くな。常識外れにも程があるぞ、織姫」
呆れたように言われたが、僕は心の中で即座に反論した。
いやいや、常識外れの師匠にだけは言われたくないです、と。
だってこの人、空気を「蹴って」飛ぶのだ。
魔術による浮遊でもなければ、風の加護でもない。純粋な脚力で大気を踏みつけ、足場にして跳躍しているだけ。
空を駆けるその姿は、物理法則に対する暴力そのものだ。
(僕なんてまだ可愛らしいものですよ。そんな、人間を辞めたような真似はできませんから)
僕はただ、魔力の波を読み、エーテルの流れに乗っているだけ。
サーファーが波に乗るように、鳥が風を掴むように。
どちらがより「魔術師らしい」かと言えば、間違いなく僕の方だと胸を張って言えるはずだ。
……まあ、それを口に出せば「ならばその魔術で、私の脚力から逃げ切ってみせよ」と鬼ごっこが始まりそうなので、賢明な僕は口をつぐんで曖昧に笑うだけにしておいた。が──。
「杖よ!」
思考より早く叫んでいた。
迫りくる師匠の殺気に対し、身一つでの空中遊泳などという悠長な機動では到底対応できない。
僕の呼応に応え、宙を飛来したドルイドの杖をガシッと掴み取る。
即座に爆炎を噴射。魔力放出によるジェット加速で、真上に跳ね上がるように空へと逃れた。
だが、赤い死の閃光は正確無比に僕の眉間を狙って追尾してくる。
「アンサズ!」
僕は杖を振り抜き、空中にルーンを刻みつける。
放たれた無数の炎弾が、複雑怪奇な幾何学模様を描きながら殺到する。かつて見た“板野サーカス”の如き飽和攻撃。
しかし、それは焼け石に水ですらなかった。
圧倒的な魔力を纏った朱槍は、炎の幕を紙細工のように引き裂き、勢いを殺すことなく突っ込んでくる。
避けられない。防げない。ならば──!
「ッッッぐ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーー!!!!」
僕は捨て身で左手を突き出した。
迫りくる死の切っ先ではなく、その柄を、魔力の奔流ごと鷲掴みにする。
ジュウウゥッ! と肉が焼ける音が鼓膜を震わせた。
掌の皮が瞬時に炭化し、神経が焼き切れるほどの激痛が走る。だが、僕は歯が砕けるほど食いしばり、気合と根性だけでその「死」を停止させた。
本物のゲイ・ボルクを、この手中に収めたのだ。
「はぁっ、はぁっ……まだだッ!!」
僕は奪い取った槍を空中に放り出し──即座に右足へ全魔力を充填した。
伝承によれば、この魔槍は本来、足の指で挟んで蹴り出す投擲兵器であるという。
宝具とは、その伝承の再現度によって威力が変動する。ならば、手で投げるよりも、原典通りに足で蹴り出した方が、その「格」は上がるはずだ!
「
轟音。
僕が蹴り飛ばした朱槍は、空中で無数に分裂し、赤い流星群となって師匠へと襲いかかった。
対する師匠もまた、手元に新たな槍を召喚し、不敵な笑みと共に朱槍を投擲していた。
「
空中で赤と赤が衝突した。
無数の槍が噛み合い、互いを喰らい合う。
本来ならば互角の術理。むしろ伝承への準拠という意味では僕に分があったかもしれない。
だが──使い手の「格」が違いすぎた。
付け焼き刃の模倣と、数千年の研鑽を経た本物。
その差はあまりにも冷酷で、埋め難い絶望の距離。
「ぐ、あ……っ!?」
僕の放った槍の群れは、師匠の槍によって次々に弾き飛ばされ、砕かれていく。
押し切られる。
必死に杖を操作して回避行動を取ろうとしたが、遅い。
視界が赤一色に埋め尽くされた。
「が、はっ……」
全身を襲う衝撃。
避けきれなかった無数の朱槍が、僕の衣服を、四肢を掠め、あるいは貫き、そのまま地面へと縫い付けた。
まるで標本箱の昆虫のように、僕は荒野の大地に張り付けにされ、空を見上げる。
降ってくるのは、雨のような赤い残光と──悠然と着地する、影の国の女王の姿だけだった。
◇◇◇
もうもうと立ち込めていた土煙が、風に流されて晴れていく。
視界を覆い尽くしていた赤色は、地面に突き刺さった槍の森だった。
僕の服の裾、袖、そして股下のわずか数センチの地面……。
それらが正確無比に縫い止められ、僕はクレーターの中心で大の字になって倒れていた。
動けない。全身が悲鳴を上げている。特に、魔槍を強引に掴んだ手は、炭化したような感覚と、神経を焼かれる激痛を訴えていた。
カツ、カツ、カツ……。
静寂を取り戻した荒野に、ヒールの音が近づいてくる。
煙の中から現れたスカサハは、傷一つない涼しい顔をしていた。だが、その赤い瞳には隠しきれない驚愕と、獲物を前にした獣のような獰猛な歓喜の色が宿っていた。
「……呆れた奴だ」
彼女は手近な地面に刺さった槍を一本引き抜くと、それが光の粒子となって消えゆく様を眺めながら、深いため息をついた。
「私の投げた魔槍を素手で掴み、あまつさえ『蹴り』で撃ち返してくるとはな。あの構え、あの蹴撃の軌道……どこで見た?」
彼女は不思議そうに首をかしげる。
彼女は僕の横にしゃがみ込むと、黒焦げになった僕の手を痛ましげに、しかし愛おしそうに取った。
ひやりとした冷たい指先から、清涼な魔力が流れ込んでくる。先程までの焼けるような痛みが、嘘のように和らいでいくのを感じた。
「『伝承の再現による威力向上』……その着眼点は見事だった。確かに、手で投げるよりも足で扱う方が原典に近い。宝具としての格も上がるだろう」
彼女は治療を続けながら、クスリと笑う。それは嘲笑ではない。無茶をする弟子の無謀さを愛でるような、聖母のような笑みだ。
「だがな、織姫。──お前の足と私の槍、どちらが硬いか、ぶつかる前に分からなかったか?」
ぐうの音も出ない正論だった。
「自分の肉体を犠牲にしての一撃。それが通じるのは、相手が自分と同格以下の時だけだ。格上相手にそれをやれば、お前が先に砕ける。……今回のように、な」
治療を終えると、彼女は僕の頬についた煤を綺麗な指で拭った。
「だが……合格だ。九歳にして神殺しの槍を受け止め、撃ち返した。その不屈の闘志と、私の予想を超えた発想は称賛に値する」
彼女の指が離れる。
「誕生日の祝いにしては少々手荒だったが……どうやら、お前には『死』すらも良きスパイスになるようだな?」
彼女は立ち上がり、パチンと指を鳴らした。
瞬間、僕の衣服を縫い付けていたすべての槍が光となって消滅し、身体が自由になる。
「立てるか? 立てるのなら……褒美をやろう。今日の特訓で見せたその度胸に免じて、一つだけ願いを聞いてやる」
◇◇◇
あの日、師匠との死闘の末に掴み取った朱槍。
その一本を、僕は正式に授かることになった。僕の血を吸い、僕の魔力を覚えたその槍は、僕が振るうに相応しい武器へと馴染んでいたからだ。
あれから1年、僕は10歳になった。
左手には、魔術の要となる『ドルイドの杖』と『指輪』。
右手には、必殺の『呪いの朱槍』。
魔術師と槍兵、二つの属性を併せ持った僕は今、空を飛びながら大地を踏みしめる竜を相手に立ち回っていた。
「グルゥゥゥアアアッ!!」
大気を震わせる咆哮と共に、灼熱の火炎が吐き出される。
師匠はこれを「木っ端」だの「雑魚」だのと言うが、冗談ではない。
山のような巨体に、鉄をも溶かすブレス。紛れもない怪物だ。現代人である僕からすれば、これだけで絶望するには十分すぎる。
だが、今の僕はただの現代人ではない。影の国の戦士だ。
ブレスの予備動作。竜が大きく息を吸い込み、顎を開いたその瞬間──僕は空中機動で懐へ飛び込んだ。
無防備に晒された上顎へ、魔力強化を施した踵落としを叩き込む。
強制的に口を閉じられた竜が、暴発した炎を飲み込んで悶絶し、地べたに這いつくばる。
好機。
ズドンッ、と僕は竜の正面、鼻先に着地した。
両手で朱槍を握りしめ、ありったけの魔力を充填する。
「吼えよ呪いの朱槍!
渾身の力で投擲された朱槍は、赤い閃光となって竜の眉間を刺し穿ち、脳を破壊し、心臓を貫き、その巨体を大地ごと串刺しにして手元へと戻った。
直後、貫かれた風穴から血の噴水が舞い上がり、僕の身体を赤一色に染め上げた。
「はぁ…………」
ドサリ、と山が崩れるように竜が絶命する。
その死を見届けると、僕は膝から崩れ落ちた。
師匠ぉ、竜のお肉手に入りましたよぉ……。今夜は竜の丸焼きですかぁ?
「ドラゴンスレイヤー」という英雄的な感慨など欠片もない。
あるのはただ、師匠の無茶振りをどうにか生き延びたという、泥のような疲労感だけだった。
パチ、パチ、パチ……。
乾いた拍手の音が、断末魔の消えた荒野に響く。
スカサハは、血の海と化した地面をものともせず、汚泥の上を滑るように歩いてきた。その磨き上げられたブーツには、不思議と一滴の血も付着していない。
彼女は、巨大な竜の死骸と、血塗れの弟子を見比べ、満足げに口角を吊り上げた。
「その程度の
彼女はスッと距離を詰め、僕の目の前に立つ。
血と脂と煙の匂いが充満する中で、彼女の香りだけが凛と澄んでいた。
彼女は懐からハンカチを取り出すと、僕の顔にベットリとついた竜血を無造作に拭った。
「──その戦い方は、悪くない。ブレスを吐く瞬間の無防備な顎を蹴り落とし、強制的に口を塞ぐ。魔術師の杖と指輪で機動力を確保し、戦士の槍で急所を穿つ。『魔術師』と『槍兵』……その両方の視点を持つお前ならではの殺し方だ」
彼女は拭った血を眺め、赤い舌で唇を湿らせる。
「それに、その真っ赤に染まった姿……。ふふ、初めて拾った時のひ弱な童とは思えぬほど、雄々しくなったではないか。竜の血を浴びたのだ。北欧の英雄ほどではないにせよ、その肌も少しは頑丈になるだろう」
彼女は竜の死骸を顎でしゃくった。
「褒めてやるぞ、織姫。今夜は竜のステーキだ。
彼女はニヤリと笑い、血塗れの僕を指差した。
「その汚れを落とさねば、城には入れんぞ? 近くに湧き水がある。そこで行水してこい。……それとも、疲れ果てて一人では背中も流せんか?」
その言葉を聞いた途端、僕の中で張り詰めていた糸が切れた。
もう駄目です。満足に動けません。
「師匠……洗ってもらえます?」
情けない声が出た。そもそも現代人が木っ端でも竜を討ち取るなんて普通無理ですよ、死んじゃいますよ!?
もう今日は、徹底的に甘えさせてください……!
スカサハは、泥と血に塗れて地面にへたり込んだ僕を見下ろし、ふぅ、と長く息を吐いた。
その表情は呆れ半分。しかし残りの半分は、強請ってくる弟子を可愛がるような、深い慈愛に満ちていた。
「……まったく。竜を殺すほどの闘気を放っておきながら、終わった途端に『甘えさせてくれ』だと? お前のその落差は、未だに私の理解の範疇を超えるぞ、織姫」
彼女は苦笑しつつ、僕の脇に手を差し入れて無理やり立たせると、そのまま肩を貸すようにして歩き出した。
「現代人、か。ふん。ここに来て何年経つと思っている。お前はもう、立派な影の国の住人だ。……だが、まあいい。『木っ端』とはいえ竜殺しの偉業だ。その対価として、今夜ばかりは師匠の世話焼きを受け入れてやろう」
スカサハは魔術で少し温めた岩場の泉の中へ、服を剥いだ僕を放り込んだ。
身体にこびりついた大量の竜血が、透明な湯に溶け出し、瞬く間に赤く染まっていく。
「じっとしていろ。傷に染みるぞ」
彼女は袖をまくり、手ぬぐいを使って僕の背中を丁寧に洗い始めた。
ゴシ、ゴシ、と少し力が強いが、そのリズムは不思議と心地よい。
戦場で無慈悲に槍を振るう死神の手とは思えぬほど、その指先は温かい湯の中で優しく肌を滑る。
「……背中も広くなったな。最初に来た時は、片手で折れそうなほど細かったものが。今では竜の爪痕すら、戦士の装飾のように馴染んでいる」
彼女は背中を流し終えると、僕の頭にお湯をかけ、血で固まった髪を解くように指を通した。
シャンプー代わりの香油の、甘い香りが漂う。
彼女の豊満な胸元が、背中に当たりそうな距離感。彼女は耳元で、子守唄のように低く囁いた。
「よくやった、織姫。お前が『現代人』の常識とやらを捨てきれず、恐怖に震えながらも……それでも一歩も退かずに槍を振るったこと。私は誇りに思うぞ」
彼女の手が、僕の頭を包み込み、ゆっくりと撫でる。
それはすべての労苦を癒やすような、魔法の手つきだった。
「さあ、綺麗になった。疲れが限界なら、このままここで少し眠るか? 湯冷めせぬよう、私が膝枕でもしてやろう」
湯気の中、赤い瞳が優しく揺れている。
それは冷徹な「師匠」の顔であり、同時に母性すら感じさせる一人の「女性」の顔だった。
今後の展開に沿ってタイトルを変えました。