重い足を引きずって、一歩ずつ階段を上っていく。
かの出来事を否定したい。そんな心のどこかで求めていた報いを探して、私はあの場所を目指してしまった。
彼女はそこで待っているのだと思い込みたい。
実は全部嘘。初めから何も起こっていなくて、何もかもがただの悪夢なのだと。
そう考えなければ頭がおかしくなりそうだ。
やがて、いつかあの少女と見た景色に辿り着く。
連れられて、語らって、そして彼女の内に秘める隠し事を共有したこの展望台は、一切の変化もなく私を迎えた。
「──っ」
残酷にも、目の前の景色は幻想的なままだ。ついには受け取れなかったツーショットの写真も、もはや同じようには二度と撮れないというのに。
あの時と違って隣に彼女はいない。儚げな笑顔も、愛しい声も瞳も全部、もう手が届かなくなったことを実感してしまう。
視界が歪んで、呼吸がうまくできない。脳裏に浮かぶ少女の最期の表情が、私の心を揺さぶって離そうとしない。
思い出に救いを求めて来たはずなのに、かえって私に追い打ちをかけるようだ。
ここに独り残された私は、フェンスにもたれかかって蹲ることしかできなかった。
「ホタル……っ」
握る拳に力が入る。
想えば想うほど苦しくなるなんて分かり切っていた。過去に囚われてしまえば今がずっと惨めになってしまう。……それでも彼女を考えずにいられないのだ。だって、あまりにも突然すぎる別れなのだから。
ほしい。あの子の言葉がほしい。ただ横に立って、ただ一言名前をぽつりと呼んでほしい。
恋しい。彼女の体温が恋しい。手を握って肩を寄せ合う、そんな仄かな温もりが恋しい。
たったこれだけの願いすら叶わないという絶望が、私の心に深く突き刺さる。
もう一度だけ。あともう一度だけでいい。嘘でもいいから、私の前に現れてよ、ホタル──。
「やっぱりここにいたんだ、星」
「え──?」
そんな願いが通じたのだろうか。私は、聞き覚えのある声を耳にした気がした。
脳が揺れる。ぎゅっと閉じていた目蓋が驚愕と共に開かれる。
ありえない、だって彼女は、ホタルはもう──。
勘違いだろう。私が自身を騙すために作った幻に違いない。
それを確かにするべく、私は顔を上げて振り向いた。
「ぁ」
時が止まったような不思議な感覚。瞬きも呼吸も、心臓の鼓動すら。全てあやふやになりながら、その姿をまじまじと見る。
錯覚でも何でもない。立ち姿や表情の一つ一つが証明している。
──そこにいるのはホタルだと。
「ホタ、ル?」
「一人にしてごめん。辛かったよね」
決してありえないと思っていた邂逅を前に、震えや涙、堪えていたものが勝手に溢れてくる。
何度夢に見ただろう。本当はホタルが生きていて、こうしてふと現れることを。
「うぁ、っ……ゎた、し」
慈愛に満ちた声が、私へと浸透する。
大切な人の前でこんな情けない姿を晒したくはないのに、嗚咽が止まらない。
聞けば聞くほど、そしてこの目で見るほどにその存在が明らかになっていく。
目を離したら泡沫に消えてしまう気がした。今度こそ、確かに抱き寄せなければ。
とめどなく頬を伝う雫を拭って、息を整える暇もなく私は腕を伸ばした。
「会いたかった──!ずっと、ずっと待ってた!もっと一緒にいたくて、私……っ」
「私もだよ、星。待たせてごめんね」
失ってしまわないように強く、強く抱きしめる。
この手からこぼしてしまわないように。二度と大切な友達を目の前で奪われてしまわないように。
彼女も同じように、私の背中に手を回してくる。閉ざしてしまった心の氷が少しずつ融けていく、そんな甘美な感覚がする。
彼女の息遣いと温度。
ああ、本当にホタルはそこにいるんだ。この温もりを待ち焦がれていた。
私は彼女の肩越しに顔をうずめる。
「そ、そんなに泣かないで。私まで泣きそうになっちゃう」
「ホタル、ホタル……っ!」
「……うん。大丈夫、私はここにいるよ」
あやす様に、手がそっと私の背中を撫でる。
もう我慢できる訳ない。恥じらいも何もかも捨てて、吐き出すように感情を露わにした。
何故、だとか。どうして、だとか。知りたいことも山ほどある。けれど今はただ、この嘘のような時間を噛み締めるのに必死だった。
「ねえ、星」
「ん……」
「寂しかった?」
頷く。
「もっと話したい。次は私が奢るって約束も、まだ果たせてない。ホタルがいないピノコニーなんて、……少しも楽しくない」
本心からの呟き。繕うこともない言葉が口を衝く。
「あんな別れ方なんてしたくない。もっと一緒にいて」
「うんうん、やっぱりそうだよね。大切な人に会えないなんて寂しいもんね?」
「──ホタル?」
それを聞いてか、腕の中の彼女がいたずらに微笑む。
唐突な違和感。ホタルは、こんな笑い方をするような子だっただろうか?
「叶わないお願いごとなんて苦しいだけ。だから──」
だが曇った思考はそれ以上の疑問を許さない。奇跡のようなこの喜びに浸れと理性が告げている。
「思ったんだ。哀れな芦毛ちゃんに、あまぁい夢を見せてあげようと思って」
その奇跡は、何もかもが間違いだとも知らずに。
違和感を肯定するように、瞬きの刹那。
“ホタル”だと思っていたそれは、全くの別人へと変貌した。
今までの優しげな笑みはどこにもない、妖しげで悪戯に歪む紅い瞳。
にまにまとこちらを見上げる様子は、まるで私を嘲笑うかのようだった。
「ひっ」
またしても目の前で消える少女の姿。かの死別がフラッシュバックして、ようやく目にした希望の全てが霧散する。
息が詰まる。かつてサンポの姿にも化けていた彼女を突き飛ばして、私は大きく後ずさった。
「あんた、何のつもりで──!騙したの?」
「騙しただなんて人聞きのわるぅい。花火はお友達に会えない芦毛ちゃんを可哀そうに思っただけ。……それに君、泣きそうな目をしてる。強がらなくたっていいんだよ~?全部分かってるんだから」
「っ……」
花火を自称する緋色の少女は、顔に愉悦を浮かべながらそう言った。
からかうようなその態度、そしてもう居ない友達を愚弄されたことに言い知れぬ怒りがこみ上げる。しかしどうしてだろう、目蓋の裏側からあの姿が離れてくれないせいか、竦んだ身体が言うことを聞かない。
「それにしても、さっきはすごかったね~。あんな情熱的に抱きしめられちゃうなんて。花火、ちょっとドキドキしちゃった」
わざとらしい演技をしながら、花火は頬に手を当てる。
「いい加減にして。やってもいいことと悪いことがある」
「あらら、もしかして怒ってる?ごめんね~。でも芦毛ちゃん、さっきまですごく安心した顔してたよ?」
「それは……。もう会えないと思ってた人が、無事だと思ったからで」
「でしょ~?」
強く言い返せなかった。ホタルに変装したこと、それは明らかに彼女を冒涜する行為のはずだ。
いつもの私なら、もっと憤っては武器を取り出していただろう。だがどうしてか、私の身体は動いてくれなかった。
「ねえ、芦毛ちゃん。君は後悔してる?」
「後悔……?」
「そう、後悔。きっとその様子じゃ、あの子に未練たらたらみたいだし。だから──」
「うあっ」
とんっ、と指先で小突かれる。
たったそれだけの衝撃で、私は尻もちをつく。
「花火が叶えてあげよっか」
そのまま馬乗りになった花火は、にんまりと口角をあげる。
「花火はね、どんな姿にだってなれる。見た目だけじゃない、演技だって完璧!……確かに花火はあの女の子じゃないよ?だけどここは夢の世界」
力の抜けた手を掬われて、そのまま指を絡められていく。
一本、また一本と重なる度に、目の前の彼女にホタルの姿がチラついて見える。
「つらぁい夢なんかより、幸せな夢のほうが楽しいでしょ?嫌なことぜーんぶ忘れて、花火に委ねよ?」
頭を空っぽにして、ついその言葉を受け入れたくなる。
それでも拒絶しなければ。
選ぼう、私は──。
▷もう一回だけ、会いたい
▷やめて……
▶もう一回だけ、会いたい
花火の手が伸びる。
その手は私を寝かしつけるように顔を撫で、
「星?大丈夫!?」
「──ぁ」
強く引っ張られるような感覚で意識を取り戻す。
飛び込んできた景色には、“ホタル”がいた。
地面を横たわる私を心配するように、しゃがんでこちらを窺うその姿。それを見るとどうしてだろう、これ以上ないほど安心感に満たされる。
……頭が重い。こんなところで眠ってしまっていたのだろうか?
辺りを見渡しても、他には誰の姿もない。ここには私とホタルの二人しか──。
──そもそも、一体誰を探しているんだろう?
「しっかりして、星」
「……平気。少し眠ってたみたい」
「そっか、良かった。君がここで倒れてたから、何かあったのかと思ったよ」
仰向けの状態から身体を起こす。安堵した様子で、ホタルは胸をなでおろした。
夢を見ていた気がする。ホタルが水泡のごとく消えてしまって、永遠に会えなくなる悪夢。……夢境の中でさらに夢を見るなんておかしいことかもしれないけれど。
だが結局それはただのまやかしなのだ。彼女は私の隣で微笑んでいてくれている、それこそが変わらぬ事実だ。
言いたいことや伝えたいことがたくさんあった気がする。でもそんなもの、ホタルと一緒ということに比べればきっと些細なことだろう。
「ねえ、ホタル」
「うん?」
「もっと色んなところに行って、おいしいものでも食べよう。今度は私が何か奢るよ」
「……うん!それなら私、行ってみたい場所があるの」
私はホタルに手を握られるまま、二人して黄金の刻へと歩き出す。
またこうして何気ない、それでいて特別な日常を過ごせる喜び。そんな幸せを噛みしめる。
ずっとこんな時間が続けばいいのに。意味も分からず零れた一筋の涙を拭いながら、私はそう願った。