アルジェの寝室の扉の前で、ルシアンは苦悩するように頭を抱えていた。
いや、もはや抱えるというより鈍い音を立てない程度に壁へと額をこつ、こつと打ち付けている。
先程、半ば事故のように目の当たりにしてしまったアルジェの姿──その残像を、必死に頭から追い出そうとしていたのだ。
同時に、別の感情も彼を苛んでいた。
アルジェと目が合い、自然と視線はその下方向へと向かっていった。
雪のように繊細な柔肌に付随する二つの──。
煩悩を追い出すように更に頭を強く打ち付けるのを繰り返す。
その後、もう一人の小さな影が素早く部屋のドアを勢いよく閉じたのだ。
その時のアルジェの瞳は──恐怖だったのか、怒りだったのか、それとも別の何かだったのか。分からない。
ただ、確かに言えるのは、自分が彼女を傷つけたということだけだ。
廊下の冷たい石の感触が額に染み込んでくる。
数分前──イシドロ団長や騎士団への報告等の用事が終わったあと、ルシアンは主であるアルジェの帰りを屋敷で待っていた。
敷地内にある使用人が暮らす宿舎に戻り、最初こそ「しっかりしなければ」と気を張っていたものの……。
結局は落ち着かずに自室と廊下を繋ぐ扉の前を、まるで檻の中の獣のように行ったり来たりしてしまう。
無意識のうちに、もう何往復しただろうか。
その間、彼の心を占めていたのは、今も街へと出かけているであろうアルジェの存在だった。
先日の一件──聖女誘拐という、あってはならない騒動。
一番近くで護衛していたはずの自分の、ほんの一瞬の不注意が招いた事態だった。
幸い、騎士団の迅速な対応によってアルジェ様は無事救出された。
だが、もし自分がもっと注意深く、もっと強ければ、彼女があのような危険な目に遭うこと自体、未然に防げたはずなのだ。
その自責の念が、鉛のようにルシアンの胸に重くのしかかっていた。
「……そんなに心配そうな顔をしなくても。今日はシスター・マデリーンが付いていらっしゃいますし、きっと大丈夫ですよ」
上の空で廊下を往復するという奇妙な行動を見かねてか、メイドのケイトリーが少し呆れたような、それでいて心配そうな声色で声をかけた。
彼女のまっすぐな瞳は、ルシアンの内心を見透かしているかのようだ。
「ケイトリーさん……。いえ、そう、ですね。マデリーン様がいらっしゃるなら……」
言い淀み、ルシアンは力なく笑おうとして失敗した。
「マデリーン様……。どうも俺は、彼女に疎まれている気がしてしまって」
「えっ? シスター長がルシアンさんをですか?」
ケイトリーは意外そうに目を瞬かせた。
シスター・マデリーン。
長年シスター長を務め、その厳格さで教会内の規律を保つ存在。
時折向けられる鋭い眼差しは、ルシアンの気のせいではなく、確かに彼を選り好みしているように感じられた。
本来ならば、アルジェの付き人として最も相応しいのは、彼女だったはずなのだから。
「結果的に、俺が彼女の本来の立場を奪ってしまったようなものですし……。庭師上がりの、何の力もない俺なんかが側にいて、内心では快く思っていないでしょう」
自嘲気味に呟く。
「それは考えすぎ……とも言い切れないのが、あのマデリーン様なんですよねぇ……」
ケイトリーも同意するように、困ったように眉を下げて苦笑した。
彼女の厳格さと、一部で見せる激しさ。
魔物相手に鬼神の如く戦ったという真偽不明の噂(最も、それは単なる噂だが)はシスターたちの間でも畏怖の対象だった。
「もし、俺がただの庭師のままだったら。彼女がずっとアルジェ様の隣に居てくれたら……もっとアルジェ様は安全だったんじゃないかって……考えてしまうんです」
ぽつりと、ルシアンは詮無いIFを口にする。
結局は、自分が彼女の隣に立つことへの劣等感が根底にあるのだ。
他の神殿騎士のような実績もなければ、特別な力もない。ただの、村人上がりの男。
そんな自分が、英雄である聖女の従者として、本当に相応しいのだろうか、と。
「相応しいかそうでないかは、重要じゃありませんよ」
不意に響いた──凛、とまではいかないまでも芯の通ったケイトリーの声にルシアンは俯かせていた顔を上げた。
彼女は先程までの困ったような苦笑いを消し、真っ直ぐにルシアンを見つめている。
その瞳には、同情とは違う、何か確信めいた光が宿っているように見えた。
「え……? ですが、マデリーン様のような方が本来は……それに、俺には騎士としての実績も……」
「もちろん、マデリーン様は素晴らしい方です。誰よりも教会とアルジェ様を想っていらっしゃる。それは皆が知っています」
ケイトリーは一度言葉を切り、ふっと息を吐いた。
「でも、アルジェ様が望んで、ルシアンさんを傍に置かれた。それも事実でしょう?」
彼女は少し悪戯っぽく微笑む。
「アルジェ様、ルシアンさんといる時、時々ですけど……本当に楽しそうに笑うんですよ。なんていうか、すごく『素』に近い感じがするんです。もちろん、大聖女としてのお姿も素晴らしいですけどアルジェ様は色々と表に出さないタイプです。なので聖女として気負いすぎる面もあると思います。だから、たまにはああやって気を抜ける相手が必要なんじゃないかなって」
ケイトリーは肩をすくめた。
「だから、ルシアンさんは『従者として』とか『騎士として』とか、あんまり難しく考えすぎなくても良いんじゃないでしょうか。ただ、アルジェ様が安心できる、信頼できる人が傍にいる……それだけで、すごく大きな支えになっているんだと思いますよ。……少なくとも、私にはそう見えます」
ケイトリーはそこまで言うと、「まあ、ただのメイドの戯言ですけどね」と悪戯っぽく、しかし温かい眼差しでルシアンを見て、軽くお辞儀をした。
そして、くるりと身を翻し持ち場に戻るように廊下の奥へと歩き出す。
その背中を見送りかけたルシアンだったが、数歩進んだところでケイトリーは「あっ」と小さく声を上げて立ち止まり、思い出したようにぱっと振り返った。
その表情は、先程までの落ち着いたものとは違い、少し楽しそうだ。
「ここで朗報です♪」
まるで秘密を打ち明けるかのように、彼女は声を潜めつつも明るいトーンで言った。
「どうやら先程、アルジェ様がお部屋にお戻りになられたようです。……マデリーン様とは別の方とご一緒のようでしたが」
にこりと微笑んで、彼女は続ける。
「ルシアンさん、会いにいかれてはいかがですか?」
その言葉は、提案のようでいて、優しく背中を押す響きを持っていた。
今度こそ本当に「では、失礼します」と小さく会釈し、ケイトリーは軽やかな足取りで廊下の角へと消えていった。
残されたルシアンは、すぐにはその場を動けなかった。
彼女の言葉が、予想外の角度から彼の心に広げた波紋。「相応しいか」ではなく、「ただ傍にいる」ことの意味。
──それを考えながら、アルジェの寝室へと向かった矢先に起こった出来事だ。
ガチャリ、と音を立てて、目の前のドアが勢いよく内側から開け放たれた。
しかし、そこから現れたのはアルジェではなかった。
「ぬわぁっ!?」
短い悲鳴と共に、小柄な──まるで幼女のような影が、部屋の中から廊下へと文字通り「放り出され」てきた。
まるで手足をばたつかせる猫のように、受け身も取れずに廊下に転がったその姿に、ルシアンは目を瞠る。
そして、間髪入れずにドアは再びピシャリと閉められた。
呆然とするルシアンと、放り出された勢いで体勢を崩しながらもむくりと起き上がり、服についた埃を払う幼女。
否、先程アルジェの部屋の中で揉み合っていたらしき気配の主、その張本人と目が合った。
それが、先程ルシアンの思考を一時停止させた「光景」の発端だったのだ。
「……お主、名は?」
転がされたことなど意にも介さぬ様子で、幼女はじろりとルシアンを見据え、古風な口調で問いかけた。
「あ、えっと……ルシアン、です」
突然の出来事と、目の前の存在の異質さに戸惑いながらもルシアンは正直に名を告げる。
すると幼女は、ふむ、と考え込むようにしてか細い顎に手を当てた。
「ルシアン……ルシアン、とな。……ほう」
何かを思い出したようにポンと手を打ち、にやりと口角を上げる。
「そうか。お主が、アルジェが時折口にしておった『幼馴染のルシアン』じゃな?」
「え……?」
思いがけない言葉に、ルシアンの心臓が小さく跳ねる。
「……あの、失礼ですが、どちら様でしょうか」
そして直ぐに我に返り、改めて問い返す。
「わしはナージャ。見ての通り、ただの美少女じゃが?」
ふふん、と得意げに胸を反らせる(小さいが)。
「……というのは冗談で、あやつの仲間じゃよ。魔王討伐の旅をちょいとばかり一緒にしてな。世間一般には『賢者』ナージャとして通っておる」
(賢者……!? この方が……?)
ルシアンは内心で叫んだ。
見た目はどう見ても10歳前後の幼女。
だが、その落ち着き払った態度と古風な物言い、そして何より「賢者」という称号。
情報が錯綜し、ルシアンの混乱は深まるばかりだった。
「さて」とナージャはパンパンと手を叩く。
「アルジェは今、ちと取り込み中じゃ。お主もちょうど良いところに来た。少しわしに付き合え」
状況を飲み込めずにいるルシアンを尻目に、彼女は続けた。
「ワッハッハ! 今日はここに泊めてもらうことになっておる客人じゃからの!」
そう高らかに宣言すると、ナージャはまるで自分の家であるかのように、勝手知ったる様子で廊下をずんずんと進んでいく。
(アルジェ様は大丈夫なのだろうか……? それに、この方は一体……?)
疑問は尽きない。だが、部屋の扉は固く閉ざされ、中の様子は窺えない。
そして、この『賢者』を名乗る幼女の有無を言わせぬ態度。
ルシアンは、今の自分には状況を打開する術がないことを半ば悟った。
アルジェの仲間であるというこのナージャに付いていくしかないと判断し、ため息を一つついてその後を追うのだった……。
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ばたん、と俺は乱暴に扉を閉め、ようやく一人きりの静寂を手に入れた。
ナージャはひとまず追い払ったものの、さっきの出来事が脳裏に焼き付いて離れない。
ルシアンに見られたかもしれない、あの無様な俺の姿を──。
「……はぁ」
俺は大きく息を吐き、気を取り直すように自分の私室にある大きな姿見の前に立った。
ピンク色の乱れた髪を手櫛で整え、深呼吸を1つ。
鏡に映るのは、紛れもなく完璧な『美少女』の俺だ。滑らかな肌、整った顔立ち、華奢な肢体。
ガワだけは文句のない出来だ。
内心で毒づきながらも、どこか自負する気持ちがあるのは否めない。
これこそがTS転生者としての特権であり、俺が理想とする「魔性のTS娘」を演じるための最大の武器なのだから。
チヤホヤされ、羨望の眼差しを向けられる。その快感を、俺は知っている。
そうだ、俺は可愛い。この世界でも指折りの美少女のはずだ。
俺は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと視線を下ろしていく。
普段なら見慣れているはずの、俺の身体。だが、その視線が下腹部に差し掛かった瞬間──俺の表情から、かろうじて保っていた余裕が消え失せた。
薄い部屋着に着替えた俺はそれをたくし上げる。
その存在を嫌でも認識させられる、大きな、生々しい傷跡。
それは、かつての死線──魔王との戦いの最後に刻まれた、決して消えることのない呪いのようなものだった。
普通の怪我とは違う、聖魔法ですら完全には癒しきれなかった、深い傷。
……何が、理想の聖女だ。
さっきまでの自信は脆くも崩れ去り、冷たい自嘲が胸を満たす。
何がTS娘は可愛い、だ。
こんな……普通の女としての機能すら失った、ただの『傷物』じゃないか。
痛々しい傷跡は下腹部から大きくみぞおち辺りまで至る。
どんな治療をもってしても消えない。
俺は、とっくに『子を産めない身体』になっているんだ。
こんな醜い痕がこびりついた体で……どの口が『完璧』を語る?
こんな、こんな……女性として完璧ではない姿が俺だった。
「もうこの身体は子供も産めない、中身を見れば消えない傷跡。それにどのくらい俺に寿命が残ってるかわからない。あはは……駄目だなぁ…………」
脳裏にルシアンの顔が浮かぶ。あの時の、彼の驚いたような、あるいは困惑したような表情。
もし、あの時、これを見られていたら?
いや、きっと見られたんだ。だからあんな顔を……。
ルシアンだって、幻滅したに決まってる。
そうだろう? 『大聖女』なんて持ち上げておきながら、その実態がこんな出来損ないだと知ったら……。
想像するだけで、俺は全身から血の気が引いていくような感覚に襲われた。
立っているのも辛くなり、俺は鏡の前でずるずると座り込んだ。
膝を抱え、顔をうずめる。
完璧なロールプレイで隠し続けてきたはずの、脆くて醜い本当の自分。
それが暴かれてしまったかもしれない恐怖に、俺はただただ打ち震えるしかなかった。
「ルシアンにだけは……見られたくなかったなぁ……」
そうポツリと呟くと、そのまま目を伏せた。
──……あれからどのくらいが経った?
気がつけば俺は色んな感情が渦巻いて眠っていたように思える。
窓から差し込む景色は夜を呼んでいた。
あれからざっと数時間は経過していたらしい。
「アルジェ。落ち着いたか?」
「ナージャ……」
ドアをノックされる音と共にナージャの声がした。
俺は重たい身体を持ち上げつつ彼女を招き入れる。
廊下にルシアンの姿はない。
それに俺はホッとしたのに。
……どこかきゅっと胸が締め付けられるような気持ちになった。