声が出ない。喉の奥がカラカラに乾いて、まるで灼けた鉄でも押し付けられたみたいに痛い。
さっき、ルシアンの前でどんな顔をしていただろう。
取り繕おうとした冷静さなんて、きっと粉々に砕け散っていたはずだ。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。いや、考えたくない。
「……ルシアンに、きっとこの傷跡を見られてしまった」
「なんじゃ、お前さんの裸体がか? 確かに、揉み心地は良いものじゃ」
ナージャはこんな時でも軽口混じりに言ってくる。
いや、彼女はそうやってこちらの緊張を解そうとしてることぐらいわかっているのだ。
だけど、どうしても俺の表情は硬かった。
それから暫くの静寂に包まれた。
ナージャは俺から話すのを待っているようだった。
理想の聖女アルジェ? 笑わせる。そんなもの、最初から存在しなかった。
俺はただ、この奇妙な運命に与えられた『美少女』というガワを使って、都合のいい役割を演じていただけだ。
それなのに。
彼は──ルシアンだけはそんな俺が演じる偶像を、真っ直ぐに信じてくれていた気がした。
俺が元男であることも知らずに。
幻滅された。
気持ち悪いって、思われたんだ……。
じわりと目の奥が熱くなる。違う、泣きたいわけじゃない。
これは怒りだ。こんな身体になったことへの怒り。
服の上から、そっと腹部に触れる。
そこには、決して消えることのない、魔王が遺した呪いの印。
他の誰でもない、ルシアンに見られてしまったんだ。
子供の頃、唯一対等でいてくれた彼に。
俺がどんなに悪戯しても、呆れながらも隣にいてくれた彼に。
今の俺が、ただの欠陥品だってことを知られてしまった。
「『理想とする聖女アルジェ』は偽物だって、バレちゃった。彼にだけは、隠し通したかったのに……」
格好悪い。惨めだ。
それでも、この胸を締め付ける恐怖と絶望を誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
ナージャはその言葉を静かに聞いてくれていた。
「どうしよう、ナージャ……。もう、どんな顔して会えばいい……? きっと、避けられる。軽蔑される。もう、あの優しい声で名前を呼んでもらえないかもしれない」
縋るような視線を、静かにこちらを見つめているナージャに向ける。
この小さな賢者は、俺のこのどうしようもない姿をどう見ているのだろうか。
しばらく俺の慟哭にも似た言葉を聞いていたナージャが、ふぅ、と溜息ともとれる息を一つ、静かに吐き出した。
「……それで? お主はこれからどうするつもりじゃ。小僧がお主の『傷』とやらを見て幻滅したと思い込み、このまま壁を作って塞ぎ込むつもりか?」
ナージャの淡々とした、しかし的を射た言葉に思わず顔を上げる。
でも、どうすればいいのかわからない。
「……わからない。どうしたらいいか、わからないよ……」
か細い声でそう答えるのが精一杯だった。
俯いた俺の目に、ナージャがゆっくりと近づいてくるのが映る。
「ルシアンの前では『完璧な聖女』でいたかった! こんな、弱くて不完全な
彼と再会して思い立った完璧な聖女アルジェとしてのロールプレイ。
それは、本当に彼を誂う為にやったことだろうか?
心のどこかで、彼の理想とする聖女を隠れ蓑にしていただけじゃないか?
俺はTS転生者で、身体こそ女でも心は男のままだ。
そんな女性の身体も、見せたくない秘密になってしまった。
何もかも偽りで出来た不完全すぎる存在が『俺』なんだと。
「ふむ。まあ、そうじゃろうな」
ナージャは俺の目の前で立ち止まると、悪戯っぽく、それでいてどこか思慮深い光を目に宿して言った。
「ならば、手っ取り早い方法が1つあるじゃろう」
「え……?」
「お主がそこまで思い詰める相手のことじゃ。うじうじ悩むより、直接ぶつかってみるのが一番じゃろうて」
そう言うと、ナージャはくるりと踵を返し、ドアに向かって歩き出す。
「そうじゃろう? ──ルシアンよ」
──は?
ナージャの言葉に、一瞬、思考が停止する。まさか。そんなはずは。
心臓が喉元までせり上がってくるような感覚。
息が詰まる。違う、聞かれていた?
さっきの、俺の惨めな独白を? あの、誰にも聞かせたくなかった、弱音と自己嫌悪にまみれた言葉を?
ガチャリ、と重い音を立てて、部屋の扉が開かれる。
そこに立っていたのは、案の定──罪悪感と心配と、そしてどうしようもない困惑を顔に貼り付けたルシアンだった。
息を呑む音が、やけに大きく部屋に響いた気がした。
「なっ!? ナージャ、貴女まさか……!」
抗議の声を上げようとしたが、我知らぬと言ったようにナージャは子どものようにぷいと目を逸らして部屋の隅へ下がってしまう。
計られた。この小さな賢者は、俺の葛藤を知った上でルシアンをここに待機させていたのだ。
咄嗟に腹部を庇うように両手を当て、俯く。
ルシアンの顔をまともに見ることなんてできない。
何を言われる? 軽蔑の言葉か? 哀れみの視線か? そればかりがぐるぐると頭を支配する。
彼の足音が、一歩、また一歩と部屋の中に入ってくるのがわかる。
「アルジェ様……すみません。その……決して、盗み聞きをしようとしたわけでは……。ただ、ナージャ様にここで待つようにと……」
しどろもどろに弁解するルシアンの声が鼓膜を打つ。
ああ、やっぱり聞かれていたんだ。俺の醜い本音も、何もかも。
もう、後戻りはできない。逃げることも、隠し通すことも。
覚悟を──決めなければ。
俺はゆっくりと顔を上げ、震えそうになる唇をぐっと引き結んだ。
ルシアンの戸惑ったような、心配そうな瞳と視線が絡む。
彼の目に映る俺は、どんな顔をしているのだろう。
「……ルシアン」
か細く、けれど芯を持たせたつもりで彼の名を呼ぶ。
「こんな……不完全で、醜い私を……見て幻滅、したでしょう……?」
心臓が張り裂けそうだ。
それでも俺は震える指先で、ゆっくりと部屋着の裾を持ち上げた。
一瞬のためらいの後、意を決してそれを捲り上げる。
そこに刻まれた現実を──魔王との戦いの最後に残された、生々しく残る大きな傷跡を、彼の前に晒した。
自分ですら目を背けたくなる、この欠陥の証を。
「消えない、傷跡です。……皆が指標とする、完璧な聖女。そんな綺麗な称号に、この身体は……もう、相応しくなんて、ないんです」
声が震えるのを止められなかった。彼の答えを聞くのが、怖い。
息を詰めて、ルシアンの反応を待つ。
軽蔑か、哀れみか、あるいは無関心か。
どんな反応が返ってきても、きっと俺の心は砕け散るだろう。
俯いたまま、ぎゅっと目を閉じる。これが、俺の結末だ。
「……アルジェ様」
予想していた拒絶の言葉ではなく、静かで、けれどどこか強い意志を感じさせる声が降ってきた。
恐る恐る目を開けると、ルシアンは──驚きが混じり深い悲しみをたたえた瞳で俺の傷跡を……いや、傷跡のある俺自身を真っ直ぐに見つめていた。
幻滅も、嫌悪もない。ただ、純粋な心配と、俺が抱えてきたであろう苦しみに対する共感がそこにはあった。
彼の指が、ためらいがちにそっと傷跡のすぐそばの服地に触れようとして……寸前で止まる。
その優しい気遣いが、逆に胸を締め付けた。
「幻滅だなんて、するはずがない……!」
ルシアンの声が、少しだけ熱を帯びる。
「あなたがどんな傷を負っていても、どんな秘密を抱えていても……あなたは、アルジェ様だ。俺が知っている、強くて、優しくて、少しお転婆で……。大切な、アルジェ様です。その傷は、あなたが命を懸けて戦った証です。誇りこそすれ、恥じるものなんかじゃ、決してない」
「でも、私は欠陥品で……! こんな……こんな身体で……! 皆に見せていた『理想の聖女』とかけ離れていて……!」
一度溢れ出した自己嫌悪は簡単には止まらない。
受け入れてもらえた安堵よりも、自分が不完全であるという事実が重くのしかかる。
聖女として相応しくない、この身体。
この役割は嘘なんだと叫びたかった。
ルシアンは、ふっと息を吐くと、少しだけ表情を和らげた。
「相応しいかそうでないか……。アルジェ様も俺と同じ悩みを持っていたんですね」
そして、迷いを振り払うように、もう一度俺の目を見て、はっきりと言った。
「たとえ傷があっても、たとえ完璧な聖女様でなくても。あなたは、あなただ。俺にとっては、ただ一人の、大切な幼馴染のアルジェだ。それだけは、絶対に変わらない」
真っ直ぐな彼の言葉。
それは、俺がずっと求めていたのかもしれない肯定。
大聖女でも、ただの聖女でもなく、『アルジェ』として見てくれる言葉。
「だから……その、もし、許されるなら……」
ルシアンは少しだけ言い淀み、照れたように頬を掻きながらも続けた。
「『大聖女アルジェ様』の従者として、じゃなくて……。『ただのルシアン』として……『ただのアルジェ』の隣に、いてもいいですか……? 子供の頃みたいに……とはいかないかもしれないけど、それでも、俺はあなたの傍にいたいんです」
「ルシアン……」
彼の言葉が、まるで解呪の呪文のように、俺の心を雁字搦めにしていた冷たい鎖を溶かしていく。
『大聖女アルジェ様』じゃない。
『ただのアルジェ』としてルシアンは見てくれていた。
その、あまりにもシンプルで──それでいて俺が心のどこかで渇望していたかもしれない響き。
人々が俺に向けるのは、いつだって畏敬か、羨望か。
あるいは奇跡を求める狂信的な期待の眼差しばかりだった。誰も、『ただのアルジェ』なんて見ようとはしなかった。
俺自身でさえ、その重すぎる役割に自分を無理やり押し込めて、本当の自分を見失いかけていたというのに。
子供の頃。
そうだ、あの頃は確かにそうだった。
聖女でも何でもない、ただの悪戯好きで、生意気で。それでも必死に生きていた『アルジェ』と、内気だったけど、いつも隣にいてくれた『ルシアン』
そこには、『聖女様』も『従者』もなかった。ただ、不器用な幼馴染が二人、いただけだ。
「こんな、私でも……いいんですか……?」
か細い声で尋ねると、ルシアンは一瞬、言葉を探すように視線を揺らした。
だが、すぐに迷いを振り払い真っ直ぐに俺の目を見て力強く頷いた。
「いいに決まっているでしょう! あなたがどんな傷を負っていても、俺にとっては大切なアルジェだということには、何一つ変わりありません!」
彼の言葉が、凍りついていた俺の心に温かい雫のように染み込んでいく。違う。彼は、幻滅していなかった。俺が勝手に作り上げた恐怖に、怯えていただけだったんだ。
「
私は改めて、優しく。けれどはっきりとそう言って笑ってみせた。
その事実が、堰を切ったように俺の奥底の感情を呼び覚ます。
涙が、今度は止めどなく頬を伝った。
さっきまでの絶望や悲しみからじゃない。
胸の奥から、じんわりと湧き上がってくる、温かくて、どうしようもなく切なくて──そして……途方もない安堵からくる涙。
まるで暗い嵐の海で溺れかけていた時に、力強く差し伸べられた手を取ったかのように。
彼の真っ直ぐな言葉は、俺を孤独と自己嫌悪の淵から、確かに引き上げてくれた気がした。
「完璧」じゃなくても、ここにいていいんだ、と。
彼が、そう言ってくれたから。
気が付けば俺は、嗚咽を漏らしながらルシアンの胸へと顔を埋めていた。
彼の身体がびくりと硬直したのを感じる。それでも、今はただこの温かさに縋りたかった。
涙を見せたくない。弱い姿を──いや、これは弱い姿を見せたくないわけじゃない。
彼の前で、こんな風に感情を曝け出していることが、少し、いや、かなり……恥ずかしかったんだ──。
それから暫くが経ち。
ようやく落ち着いた俺は、名残惜しい気もしつつ彼から身体を離し乱れた髪や涙の跡を手の甲で乱暴に拭った。
「つまり、ルシアンからは傷跡が見えていなかった……と?」
落ち着きを取り戻した頭で状況を整理し、先ほどの会話を反芻する。
彼の反応は傷そのものへの言及がなかったことに今更気づく。
「え……? あ、はい。その、傷跡というよりは、アルジェ様の、その……お召し物が少し乱れて……その、見えてしまって……」
しどろもどろになるルシアン。
あの時の俺は、確かに下着姿で……しかもナージャと揉み合った結果かなりはだけていた。
つまり、俺が死ぬほど気に病んでいた傷跡ではなく単に俺の肌──それもかなり無防備な部分を見られてパニクってただけだと……?
……はぁ。馬鹿じゃん、俺。勝手に早とちりして、勝手に絶望して。
「あれ? じゃあ、ルシアンがあの時あんなに動揺してたのは……?」
「え゛っ!? あ、いや、それは……!」
俺の疑問に、ルシアンの顔がみるみる赤くなる。その反応で確信した。
「クッ、ハッハッハ! 喜べ小僧! 聖女の裸体なんぞ、そうそう拝めるものではないぞ! 勇者ですら見れなんだ代物じゃ!」
いつの間にか状況を面白そうに眺めていたナージャが、追い打ちをかけるように茶々を入れる。
「ち、違います! その、不意打ちというか、事故というか……! す、すみませんでした!」
ますます慌てるルシアン。その様子がなんだか可笑しくて、同時にぶわりと顔に熱が集まるのを感じた。
「~~~~っ!? ばか! あほ! ルシアンのえっち!」
気づけば俺は近くにあった枕を掴み、顔を真っ赤にしながらルシアンの胸をポカポカと叩いていた。
べ、別に見られたって減るもんじゃないし……!
俺なんか中身は男なんだぞ! なのに、なんだこの気持ちは!?
まるで、初めて異性に肌を見られた少女みたいじゃないか……! ルシアン相手だからか?
自分でも訳が分からないまま、ただ無性に恥ずかしかった。
「いだっ! ちょ、アルジェ様、落ち着いて……! うっ……! わ、分かりました! じゃ、じゃあ夜も遅いので、俺はこれで失礼します!」
枕攻撃から逃れるように、ルシアンが慌ててドアへと向かう。
「どうやら師匠であるわしも、お役目を果たしたようじゃし寝るぞい。お二人さん、夜はお静かにな?」
ナージャは楽しそうに一つあくびをすると、にやにやしながら部屋を出ていった。余計なことを……!
慌てて部屋を出ていこうとするルシアンの後ろ姿。
その大きな背中に、俺は……気づけばそっと駆け寄り、服の裾を掴んでいた。
いや、違う。そのまま、ためらいながらも……彼の背中に腕を回し、優しく抱きしめるように静止させていた。
驚いて固まる彼の背中が、やけに大きく、そして温かく感じた。
「……私を受け入れてくれて……ありがとうございます、ルシアン」
背中に顔を埋めるようにして、消え入りそうな、けれど心の底からの声で呟く。
「アルジェ様……」
彼の戸惑う声がすぐ近くで聞こえる。
「……二人のときは、『アルジェ』と、呼んでください……」
少しだけ沈黙が流れた。彼が息を呑む気配が伝わってくる。
やがて、彼の身体からふっと力が抜け、諦めたような、それでいて温かい空気が背中から感じられた。
「……もちろんだよ、アルジェ」
優しく、慈しむように。
そう呼ばれたのは、本当に、本当に久しぶりだった。
子供の頃以来かもしれない。その飾らない響きが、じわりと胸の奥深くまで広がって、今度こそ本当に心が満たされるような温かい感覚に包まれた。
彼の体温が心地いい。
同時に、やはり一抹の罪悪感がチクリと俺に突き刺さる。
……彼は、受け入れてくれた。
傷も、不完全さも……そして、『ただのアルジェ』でいることも……。
なのに、俺は……まだ、一番大事なことを隠してるじゃないか……。
ルシアンに対して、ずっと『聖女ロールプレイでからかう』だけじゃないのかという罪悪感。
彼の気持ちを考えず、側に置いた事に迷惑じゃないだろうか?
それに、俺の残された時間が、もう少ないことだ。
その罪悪感と一緒に、胸の奥で今まで感じたことのない種類の熱が生まれていることに俺は気づいてしまった。
ルシアンの不器用な優しさが、俺の傷ごと肯定してくれた彼の真っ直ぐな瞳。
それが俺の中の固く閉ざしていた何かを、静かに……けれど確実に溶かし始めている。
これは、なんだ? ただの安堵? それとも……。
ルシアンが、ただ隣にいるだけで……こんな気持ちになるなんて……初めてだ……。
俯き、彼の背中に預けたままの額に熱が集まるのを感じながら、俺はただ、差し伸べられた温かさと、芽生え始めたこの不可解な感情に、身を委ねることしかできなかった。
俺は──。
本当は『理想の聖女』なんて演じなくてもよかったのかもしれない。
次回で一旦の区切りになります。
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