――…………
――………よ
――……きよ
「やだ」
――……起きよ
「やだって言ってんじゃん」
「早よう起きんか、バカ娘!!」
言うなり振り下ろされたのは、一発の拳骨だった。
硬質な音と衝撃が脳を揺さぶり、眠気に浸りまだ呆けていた意識を無理矢理覚醒させた。
「痛い! なにすんのさ!?」
「何をするじゃないが。阿呆みたいに寝転けよって、時間見てみい」
「……八時二十分」
「ほうじゃの。で、おんしが起きないかんと言いよった時間は何時じゃ?」
「……七時半です」
爆発でも起きたかの様な寝癖の頭、栗色の髪を撫で付け、草臥れた寝間着姿でそう言えば、まだまだ眠気の気配が去らぬ顔から血の気が引いていく。
「……どうしよう」
「知らんが。小娘共にどやされるのは確実じゃな」
「やだー! ヒナのしょんもり顔は見たくなーい!」
「しかも、げへなの白娘との会合に遅れたとなりゃあ、あの乳放り出した青娘が喧しいじゃろうな」
着流しの姿が溜め息を吐く様な仕草で肩を竦めると、寝間着女はベッドから飛び出し洗面所へと走り出す。
「着替えはそこに置いちゅうきにゃ。朝餉は握り飯を拵えておくき、食いもって行け」
「あんたも行くの!」
「ワシが行って何になる。ここを空にするがか?」
「あんたが居たって空同然でしょ!」
女が振り返ると、そこには誰も居ない。
こちらの返事を待たずに、さっさと部屋備え付けの台所へ向かった様だ。
女は急ぎ歯を磨き顔を洗い、化粧や身支度を整えると、真結びにされた唐草模様の風呂敷と水筒がテーブルに置かれていた。
「仮にも〝先生〟ながやき、もうちっとしゃっきりせえよ」
「あー、もう! うっさいやい。あんたは私のお母さんか?!」
「おんしのおしめも替えたが?」
「ちくしょう! 年季じゃ勝てねえ!」
言いながらも風呂敷を掴み、水筒を風呂敷の隙間に捩じ込む。
「行くよ!」
「ほいほい」
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
「先生、遅かったね」
「いやー、目覚まし役が起こしてくれなくって」
「おんし、ワシがどれだけ起こした思いいうがな」
「そうなんだ。先生も気を付けないと駄目よ」
「仮にも教職に就いたというのに、何時までも中身は小娘のままじゃ」
「うえ~、イオリー。皆がいじめるー」
「……寝坊する先生が悪いんだろ」
助けを求めたゲヘナの風紀委員の銀鏡イオリにバッサリと切り捨てられ、先生は深く項垂れる。
確かに寝坊した自分が悪いのだが、こうも味方が居ないとくるものがある。
「で、話とはなんぜ?」
「そうそう、ヒナ。相談があるんだよね?」
「うん、最近ゲヘナの生徒達の間で噂になっている案件なんだけど、どうにも不思議で」
風紀委員長空崎ヒナが語るには、夜間に外出した生徒の中で、持ち物を盗られるという事案が発生しているらしい。
盗られた物に共通点は無く、たい焼きや鞄、果ては銃まで。とりあえず、その被害者の持ち物の中で目立つ物が盗られている。
だが、その内容が奇妙だと言う。
「ゲヘナの治安はお世辞にも良くはない。だから、発砲したりの抵抗はするけど、そこには誰も居ないし、持ち物がいつの間にか盗られてる」
「ふむ、何か声を聞いたか?」
「その子達は何か話しかけられたりした?」
「うん、確か〝置いてけ〟って声を聞いたって」
「置いてけ堀じゃの。周囲には盗られても困らぬ物を持つ様に言うちょけ」
「うーん、多分だけど盗られても困らない物を渡せば大丈夫じゃないかな?」
「盗られても大丈夫な物?」
ヒナが首を傾げると、先生は茶の入ったカップを傾けながら続けた。
「無論、ゴミはいかん。盗られても困らず、しかし利用価値があるものじゃ」
「簡単な日用品とかどう? ティッシュとか」
「まあ、問題なかろ」
「それでいいの?」
「構わん。今の奴には目的は無い。ただ縄張りを通りかかったからちょっかいかけよるだけじゃ」
「んー、多分ゲヘナ生に対するいたずらだから、適当なものを渡してれば、そのうち止まるよ」
「いたずらなら、私は犯人を捕まえなきゃいけない」
「安心せい。此度はワシが出る」
「大丈夫だよ。今回は多分シャーレでどうにか出来るから。……それより、相談は終わり?」
「え、う、うん」
「よし! 遊ぼう!」
「いや、まだ仕事あるから」
「ひんっ!」
「いい歳した大人が責任を放棄するでない」
「くっそー。じゃあ、ヒナまたね。また今度遊ぶよ!」
「うん、楽しみにしてるね。先生」
そう言って先生は立ち上がると、ふとイオリを見た。
「な、なにさ?」
「いや、イオリが居てヒナも居るのにアコとチナツが居ないのはちょっと不思議だなって。あ、外回り?」
「あ、ああ、そうだよ。二人はちょっとパトロールに出てる」
「そうなんだ。あ、お土産。先に委員会の子に渡してるから、皆で食べてね」
それじゃ。と言い残し去る。
その後ろ姿を見送り、イオリはふっと息を吐いた。
「分かった? イオリ」
「駄目です。私にはさっぱり。ですけど、やっぱり居ますよね?」
「うん、小鳥遊ホシノから聞いた通り、やっぱり〝居る〟。アコ」
「はい」
ヒナが呼ぶと、執務室に仕掛けられた隠し扉から天雨アコが出てくる。
「ミレニアムに極秘に協力してもらい作った集音機材、確かに先生の側にはもう一人分の足音の様な音がありました」
「小鳥遊ホシノが言うには問題ないという話だけど……」
この場ではヒナにしか見えなかったあの人の形をしたなにか。
あの日見た姿は見間違いや、過労からくる幻覚ではなかった。
「先生の守り神、本当なのかしら」
窓から眺める彼女の後ろ姿には、確かに陽炎の様な人影が浮かんでいた。