夏の終わりの綺想曲(カプリチオ)~メモリーズー夏ー 作:飛鳥 螢
遊歩道は途中流れる小川に沿うような形で、それを挟んで別の遊歩道とも合流して雑木林の中に続いていた。
けれど、その先で何か詰まっているらしく小川の水が溢れ、低い位置にあるこっちの遊歩道に流れ込んでいる。
水浸しとなった遊歩道はドロドロ状態になって、とても歩けそうになかったが、小川の向こう側の道は無事だった。
小川の幅はやろうと思えば飛び越えられない広さじゃないが、問題は渚だ。運動音痴のこいつに、果たしてこの小川が飛び越えられるだろうか。無理のような気がする。
俺は辺りを見回し、少し戻った小川の中に水から頭を出している石を見つけた。
一人小川を飛び越えると、俺は渚に向き直る。
「渚、おまえはそこの水から頭出してる石を足場にして渡って来い」
「え、でも……」
その場に立ち尽くし、渚は俺と石を交互に見た。
俺が足場にと示した石は、丸くてどことなく不安定な感じがする。足を乗せて体重を掛けても大丈夫かどうか心配なのだろう。
「大丈夫だ、渚。俺が引っ張ってやるから」
と、渚に向かって思いっ切り手を伸ばす。
それで渚は安心したらしく、一つ小さく頷いて伸ばした俺の手を握ると、水上に頭を覗かせている石の上に片足を置いた。
その足にそっと体重を乗せる。
グラッ。
「あっ」
渚が小さく悲鳴を上げた。
やっぱり安定が悪かったらしく、石は渚を乗せて大きく左に傾いた。
そのまま渚が水の中に落ちそうになる。
「くそっ」
俺は力任せに思いっ切り掴んだ渚の手を引っ張る。
それに釣られるように渚の体は小川を飛び越え、勢いよく俺の体にぶつかってきた。
ふんわりといい匂いが鼻孔をくすぐる。
渚の体の匂いだ。
腕の中にすっぽりと収まる華奢なその体が、今俺に抱きつくようにしてあった。
驚いたように渚が俺の顔を見上げる。
その顔は、ドキッとするほどすぐ目の前にあった。
微かに開いた柔らかな唇も、俺が軽く頭を下げれば届く位置にある。
チャンスだった。
俺は渚の体を抱き締め、顔を近づけようとした。
が、何故か自分の意志に反して体が動かなかった。
こんなチャンス二度とないかもしれないのに、まるで金縛りにあったかのように動かない。
いや、違う。何か得体の知れないものが、俺を押し止めていたのだ。
今ここで成り行きに任せてキスするのは危険だと。
それは、
——って、こんな所に何の危険があるって言うんだよっ。
思わず俺は、自分で自分にツッコミを入れた。
「朋也くん、大丈夫ですか?」
気が付くと、渚が心配そうに俺を見ている。
「え? 何が?」
「わたし、思いっ切りぶつかってしまいました。痛くなかったですか?」
「俺は、そんなヤワにできてねぇから大丈夫だよ」
安心させるように俺は言う。
「それよりおまえ、濡れなかったか?」
「はい、落ちる前に朋也くんが引っ張ってくれたので、大丈夫です」
「そうか」
あの石を足場にこっちに渡れと言ったのは俺だから、濡れなくて良かった。
ほっとし、俺は渚を見た。
渚は未だ俺の腕の中に居る。
まだ十分間に合う。
俺はさり気なく顔を近づけようとした。
——と、
「あっ、朋也くん、名前の札ですっ」
俺の背後にあった木の幹に新たな名前札を見つけ、渚は声を上げた。
何の
俺は呆然とぽっかり空いた腕の中を見た。
微かに匂う渚の残り香が、やけにわびしく感じられる。
——また、キスし損ねた……
俺は熱心に札に書かれた木の名と説明文を読む渚に目を向け、がっくりと肩を落として嘆息した。
二人が去った遊歩道脇にある繁みが不意にわさりと揺れ、中からずぼっと杏が姿を現した。
「と~も~やぁ、い~い度胸じゃない。このあたしに、何度も何度も肩透かし喰らわせるなんてぇねぇ」
頬をぴくぴくと引くつかせて言うその言葉は、まるで地獄の底から響いてくるようで、陰惨なまでに不吉で危険に満ちていた。
実際それを聞いていた椋とことみは、恐怖のあまり顔を
「こうなったら、意地でも渚とキスさせてやろうじゃないっ」
「お、お姉ちゃん。もう止めようよ」
恐る恐る椋が決意に燃える姉に声を掛けた。
「やっぱり覗き見とか良くないよ」
それに、ことみがこくりと頷く。
「渚ちゃん、朋也くんと一緒に居るだけで、とっても嬉しそうなの」
「何言ってんのよ、椋、ことみ。これは渚の為なのよ」
腰に手を当て、杏はずいっと二人に詰め寄った。
「晴れて恋人同士になったってのに、未だに手を繋いだだけなんて。渚が可哀想だと思わないの?」
「それは、そうかもしれないけど……」
「いい、あたし達は友達として、渚の幸せを見届ける義務があるの。ここで引く訳にはいかないのよ」
そう言って、杏はぐぐっと手にしたカメラを握り締めた。
みしっと杏の手の中のカメラが
それを見た椋とことみは息を呑み、声もなかった。
「分かったら、行くわよ」
沈黙を同意と決めつけ、杏はさっさと
——見てなさい、朋也。あたしにケンカ売った事、死ぬほど後悔させてやるわっ。
「ただ見届ける」などという殊勝な気持ちなど、既に微塵もなかった杏だった。