夏の終わりの綺想曲(カプリチオ)~メモリーズー夏ー 作:飛鳥 螢
それは夏休みに入る少し前のある日の放課後の事だった。
その日、杏と藤林は学級委員の集まりがあり、ことみも県立図書館から借りてた本の返却日だとかで早々に帰宅し、演劇部の部室には久しぶりに俺と渚の二人だけとなった。
旧校舎三階の一番奥に演劇部の部室はある。演劇部員でもない限り、こんな辺鄙な所に人はやって来ない。
春原には、すっげぇ可愛い下級生の子がおまえに大切な話をしたいから、放課後体育館倉庫裏に来て欲しいと言ってたと、嘘を付いて追っ払っておいた。
今頃来る筈もない下級生を、今か今かと人気のない体育館倉庫裏で待ち続けている事だろう。
つまり、今日は誰も邪魔する者はいない。キスをする絶好のチャンスだった。
この時を俺はどんなに待ちわびていたことか。
そう、学園祭後から付き合い始めて、俺は何時も直前まで行きながら
部室では杏達が何時来るか知れず、家に帰って二人きりになるチャンスは結構あるものの必ず邪魔が入る。早苗さんは偶然だろうけど、オッサンは絶対にワザとだ。
外だと……人の目が気になるというか、なかなか二人っきりになれる場所がないので難しい。
だから、やっとできた千載一遇とも言えるこのチャンスを、俺は内心感動に打ち震えながら喜んだのだ。これでやっと念願が叶うと。
それなのに、やっといい雰囲気になって、いよいよ渚とキスをしようとした
「なんで体育館倉庫裏に追っ払っておいたおまえが、窓から飛び込んで来るんだよっ」
三階窓からなんて、普通有り得ないだろっ。
「僕だって、飛び込みたくて飛び込んだんじゃないよっ」
春原は俺に負けじと怒鳴り返した後で、はぁっと深い溜息をついて肩を落とした。
「——あの時、僕はおまえに言われて、体育館倉庫裏に向かう途中だったんだ」
遠い目をして、春原は独白モードに突入した。
「ルンルン気分で新校舎の廊下を抜け、体育館へと続く渡り廊下をスキップしながら歩いていたら、何故かそこにバナナの皮が落ちてて、僕はそれをうっかり踏んでしまったんだよ」
「下見て歩け」
「バナナの皮ってさ、ホントよく滑るんだよね」
ぼそっと言った俺のツッコミをスルーして、春原は話を続けた。
「僕は見事にひっくり返って、コンクリートの床に頭を打ってさ、すんげぇ痛くて目の前に火花が飛び散ったよ」
「それでも頭は良くならなかったのか……」
馬鹿はどうやっても馬鹿以上にはなれないらしい。
「——で、後頭部さすって身を起こしたら、丁度通りかかった女子生徒のスカートの中に、頭突っ込んじゃってさ……」
「そりゃ良かったな」
こっちはおまえの所為で、またも渚とキスし損ねたというのに、そんないい目をみていたとは。
「良かねぇよっ」
俺の皮肉を込めた冷めた応えに何故が怒鳴り返し、春原は全身をわなわなと震わせ、忌まわしきモノを吐き出すように、ゴクリと唾を呑み込んでその名を告げた。
「その女子生徒ってのは、杏なんだ」
「………」
あまりにも悲惨すぎる。
俺はその後の春原の運命が容易に想像できて、返す言葉がなかった。
「良く死ななかったよね僕——ってくらいボッコボコにされてさ、気が付いたら、空飛んでたんだよね」
「それで、旧校舎の三階まで飛ばされたと」
遥か彼方に視線を漂わせて回想する春原に、俺は少なからず同情した。それじゃ仕方ねぇか——と。
だが——
「いや、その時はまだ精々二階程度の高さだった」
「じゃあ、三階にはどうやって——」
「智代だよ」
「智代?」
何故ここに二年の坂上智代の名が出て来るのか。
「ああ」
怪訝な表情をして聞き返した俺に、春原は重々しく頷いた。
「落下地点に何故か智代とその友達連中が居てさ、そのまま落ちていたら頭からそいつらに突っ込んでいた」
「で、智代に蹴り返されたと」
「ああ、真芯で捉えた完璧なまでの見事な蹴りだったよ」
感慨深げに春原は満足そうに応えた。まるで戦友を称えるかのように。
どうやら春原には智代の蹴りの違いが判るらしい。流石常日頃智代の蹴りを喰らい続けてきただけの事はある。馬鹿でも何かしら取り柄というものがあるもんだ。今度から智代の蹴り測定器として使うことにしよう。
「しかしおまえ、杏と智代の凶悪蹴りコンボ受けて、よくあの時すぐ立ち上がったよな」
普通なら次の日の朝まで気絶したままだ。
ちなみにその場合、俺は見捨てるが。
「当たり前だろ。女の子待たせてるんだぜ」
「女の子?」
「ああ、体育館倉庫裏。おまえ言ってただろ。僕にコクりたい子がいるって。僕そこへ行く途中だったんだぜ。だったら、こんな事くらいで伸びてらんないだろ」
「………」
——その根性、色気以外に使え。
「それで、その女の子とやらには会えたのか?」
と、俺は判り切った事を敢えて訊く。
途端に春原はがっくりと肩を落とし、テーブルに突っ伏した。
「夜まで待ったけど、とうとう来なかったんだよ、その子」
——だろうな。嘘なんだから。
「やっぱ遅くなったのが悪かったのかな。僕にフラれたと思ってさ。今頃その子失恋の痛手を胸に、泣き暮らしてたらどうしよう……
ああ……、悪い事したよなぁ、モテる男って辛いよねぇ……」
——春原、おまえってホント幸せなヤツだよな……
未だに俺の嘘を信じ込んでいる春原に、俺は
——嘘だという事は、一生黙っててやろう。おまえの為に。
と、心に固く誓いながら。