——鬱蒼とした森の中には、『あるべきもの』がなかった。
そのことに嫌な予感を覚えながら、少女は足を速める。
時は夕暮れ。正しくは、すでに日が完全に沈む直前であり、夕方とも夜とも言える時間帯だ。
ほぼ日が差し込んでいない森の中は、道標でもないかぎり完全に迷子になる危険性を孕んでいる。当然、それほどの暗闇の中。少女は視覚以外の感覚が過敏になるのだが、そこであることに気づく。
「……動物の声や気配がない……どうして?」
人間の感覚では感じえないことを言われても、共感を得にくいかもしれない。
だが、超常の感覚を持ちながら生きる彼女は、明らかな異常事態に鼓動が速くなるのを感じている。
鋭敏な感覚は生きており、自身に警鐘を鳴らしているのだ。
——なぜなら、彼女は嫌われ者のエルフだから。
人外じみた感覚と危機察知能力は、この一言で説明がつく。
「——」
長い生涯で培ってきた瞬足を酷使し、一目散に目的地へ向かう。
目的地は彼女の住む村。食料の確保のために彼女が遠出してきた間隙を縫って、襲撃を受けている可能性がある。
身に迫る嫌な予感が、襲撃という発想につながるのも、彼女たちの出自が原因の経験則からの物だ。
もっとも、その襲撃相手には嫌と言う程心当たりがあり——、
「——魔女教」
この一言で済む。
エルフを根絶やしにし、『嫉妬の魔女』の器とかいう何の得にもならない物を探し求める異常者集団。
彼女たちエルフが人々に嫌われる理由の一つだ。
ただでさえ、嫉妬の魔女と同じ容姿だなんて理由で疎まれるエルフたちにとっては、迷惑以外の何物でもない。
事実、彼らは故郷を何度も襲ってきたが、少女たちは全て撃退してきた。
莫大な魔力と高い身体能力を持つエルフは、白兵戦において無敗を誇る。
その上、魔女教の常套手段である民間人への偽装も、エルフたちには通用しない。
エルフに紛れ込んで内部崩壊を望んでも、その前に誰かに気づかれておしまいだ。
そんなもはやカモ同然の魔女教に今回、ここまで危機を覚えているのは冒頭の理由に戻る。
——あまりにも森が静かすぎる。
数々の襲撃では、こんなことはなかった。
そうなると、別の襲撃者である可能性が浮上するが、それはないと少女は否定する。住み慣れた環境を動物たちが捨てるほどの悪辣な気配は、やはり魔女教としか考えられない。
そしてその気配が、今回は周囲の環境に影響が出るほど顕著に出ている。
当然、今までの魔女教とは一線を画す何かがある。
脳裏をよぎる最悪の事態を振り払い、少女は走りながら今後の対策を練る。
——交戦中の仲間を見つけ、合流しなければ。
——そしていつものように、悪しき集団を追い払うのだ。
思いつく案と言えば、その二つで終わる。
こんな抽象的な考えでどうにかなってきたのが、彼女たちの戦闘力の高さを物語っている。
常勝無敗の自分たちが、一方的に攻め込まれるはずがないと。
数々の邪悪を退けてきた自分たちに、敗北などありえないと。
——だから、廃墟になった自分の村が、現実であるはずがないのだ。
「——嘘、でしょ……」
声に出たのは、それだけ。
それ以降、彼女は声を出すこともなく、変わり果てた故郷を走り回る。
現実を目に入れつつも、それを現実だと認識することができない。
崩れ果てた家屋も、至る所に刺さっている刀剣も、赤に染まった広場も。
見覚えがない。見たこともない。
見知った村の住人たちは、誰も彼もが血の海に沈んでいた。
自分の中の生存者候補が減っていく度、心は擦り切れていく。
残った顔なじみの数が両手の指で足るくらいになったときは、すでに走ることをやめてしまった。
認識し難い悪夢から逃げるように、少女は血に染まった地面を目線を落とす。
もはや活動をやめてしまった脳は、ただ一つ、現実逃避への道を示した。
残る生存者候補の、同胞たちはどこにいる?
果敢に敵を倒し、故郷を守らんとする仲間たちは何をやっていたのか?
彼らが、自分たちが立ち上がれば、このような状況などすぐひっくり返すことができるはずで——、
「こんにちは、こんなところにお嬢さん一人?」
そんな思い上がりに満ちた少女の考えは、突如降って湧いた声によって遮られた。
顔を上げ、視界に入ったのは、包帯を全身に巻いた怪人。
いつからそこにいたのかは不明だが、荒廃した周囲の惨状を考えれば、その包帯姿はある意味自然と言えた。
だが、その人物の双眸を見た瞬間、無視できない存在として警戒心が宿る。
かつての襲撃時に見た、操り人形のような魔女教徒共とは違い、明確な意思が紫紺の目に宿っている。
もっとも、その意思は常軌を逸しているに違いないが。
周囲の荒れ果てた様相を見れば、正気でいられるはずがない。
この狂った場所で正気でいられることが、この怪人が常識の枠外の存在であることを証明する。
「迷子はいけませんよ、お嬢さん。勇気を出して行動し、その果てにあるのは独りぼっち。それはいけない。子どもは孤独に怯え、親は子の不在に心を痛めます。そんな誰もが嘆き悲しみ、心を塞ぐ事象なんて、あってはならないでしょう?」
包帯に身を包んだ怪人は、尚も口を開き続ける。
温厚な言葉を場違いに続ける様は異常者に見えるが、襲撃者としては不自然としか思えない。
だが、この世界から浮いたような不自然さ。邪悪な組織の一員であることを一目で示す黒い法衣。そして、相対する者の根源的な嫌悪感を抉り出すような、悪辣に染まった気配。
——あまりにも森が静かすぎる。
悪夢を直視することを考えていなかった頃の、今更過ぎる警鐘が最大限に鳴らされる。
その発生源となる、この怪人は——。
「大罪司教……!」
「あら、こんなところまで名前が知り渡っているなんて。何だか恥ずかしいですね。どう思われているかちょっと心配。陰で悪口とか言われてなきゃいいですけど」
自身の問いを怪人に肯定され、少女が唇を噛む。
硬直する少女を目に映した怪人は、慇懃無礼な態度に改め、
「——『憤怒』担当、シリウス・ロマネコンティ。以後よしなに」
そう、名乗った。
「ここまで聞いてくれたことに感謝、感謝! 見ず知らずの人のために貴重な時間を割き、丁寧に話を聞いてくれた貴方。とっても優しいお方に違いありません。他者に寄り添うことを当たり前のようにできる、その美徳はあまりに貴重! 他者を思う心がもたらした奇跡!」
名乗りを終えると、怪人——シリウスは手を叩いて賞賛を送る。
シリウスの現実離れした狂演に、少女はこの世の地獄を垣間見た気がした。
襲撃を完遂させ、見ず知らずの村人を虐殺した存在が平然と『優しさ』を語る。
鼻が曲がりそうな程の歪な悪意。大罪司教の存在は、絶対にあってはならないのだと確信した。
周囲に目を光らせ、目の前の怪人の動きに警戒を続ける。
数多くのエルフが住まう村を単身で撃滅した存在。なおのこと、シリウスの戦闘力が計り知れない。
こちらが動いたときには、もう勝負が決まるかもしれない。
そんな少女らしからぬ後ろ向きさから、動きを封じられ——、
「だからこそ、そんな美徳を兼ね揃えた貴方が半魔であることが、とてもとても惜しい」
「————」
シリウスの口から出ることを、止められなかった。
その発言を皮切りに、穏やかだったシリウスの口調に、底知れぬ殺意が混じり始める。
「見る者を惹かせる金髪に、聞く者を悦ばせる甘美な声。そして、引き込まれる宝石のような翠眼——半魔でなければ、存在は許された。でも、貴方は何にも悪くありません。自分ではどうしようもないことに、責任を感じる必要はないのです。悪いのは貴方の在り方を歪めた存在なのですから」
言葉だけを捉えれば、それは責任転嫁の強要。
自分ではどうしようもないことから起きる災厄。そこから思考を抜け出させる、甘い蜜のようなものだ。
だが——、
「——パパとママは、悪くない」
「大丈夫。そこまで自分を責めないで。世の中、どうしようもないことばかりですから。何でもかんでも自分のせいにしていたら、いずれ貴方が潰れてしまいま——」
「悪いのは大罪司教! そして私は、この出自を後悔したことはない!」
言うまでもないが、シリウスの語る災厄の実行者は、シリウス本人である。
そんな人物の言うことなど、前提からして破綻している。
その上少女は、自分の生まれを悔やんだことなどなかった。
それは彼女に強靭な精神や、出自を周囲から隠し通す程の強かさがあったわけでもない。
あったのは、恵まれすぎた環境。
世間に広まった偏見に屈せず、ハーフエルフに接してくれた人たちが居てくれたから。
それだけである。
「敗れ去った同胞たちと私。それに対するアンタ。——独りぼっちのアンタじゃ、私には勝てない」
そう言って少女は立ち上がり、故郷を穢した極悪人に本当の意味で相対する。
少女の気迫に応えるように、マナが轟きだす。
それを見て心遣いを突っぱねられたことを認識し、怪人が呆けた顔をする。
一秒とだって見ていられないその顔を消そうと、少女は迷いを完全に消した。
「エル・フーラ!」
狙うは破綻者の胴と頭の間。切断されたら最後、どんな生物も即死に至る。
圧倒的速度で放出された不可視の刃は——身をよじった怪人の首を掠め、背後の木々を切断した。
だが、怪人が不安定な体制になったのはむしろ絶好の機会。即座に追撃の刃を射出する。
回避不可能の完璧な頃合い。たった二発で、故郷の仇に大きな一撃を——、
「——!」
しかし、突如として響く金切り音が、そんな希望的観測を消す。
不可視の刃という名を否定するかのように、シリウスの得物——鎖が正確に迎撃する。
だが、それ自体に驚くことはあろうとも、少女が心を乱されることはない。
膠着状態から脱することを決意はしたが、最初からこの攻撃で仕留めきれるとは思っていなかった。
相手は同胞たちを殺めてきた大罪司教。
どんな行動があろうとも、少女が心を脅かすことはないだろう。
「……お前が、それを言うのか?」
だが、そんな少女の確信は、あっけなく崩れた。
鎖を万力の握力で握りしめ、こちらを親の仇のように睥睨する怪人の様相を見てから。
「口を開くな薄汚い半魔がぁ! 誰が独りぼっちだ! 誰が独りよがりだ! 誰のせいで今の私がいると思っている!? 私からあの人を奪っておいて、何も知らない風な口を聞くなッ!」
とても同一人物には見えない。
紫紺の瞳は憎悪に歪み、理性的な喋り方は暴虐的な罵りへと変貌した。
さらに、怪人の周囲が、紅蓮の炎によって包まれている。
正確無比な武器の技巧に飽き足らず、魔法を使うことさえ可能だというのか。
相手の脅威度が一気に跳ね上がり、厳しい展開を強いられることになるのを、少女は認識する。
だが、彼女が心を乱されたのは、相手の戦闘力の跳ね上がり様ではない。
怪人の言葉にあった『独りぼっち』。それを皮切りに、少女は今更過ぎることに気づいた。
包帯から垂れている銀色の髪。悪魔的な偶然のように、それと同居する長い耳。
「アンタ、まさか私たちと同じ——」
それに対して怪人は、正確な返答をよこすことなく、
「私は! 魔女教大罪司教、『憤怒』担当ぉッ!」
まるで、同じ世界にいることすら不愉快だとでも言うように、
「シリウス・ロマネコンティ! 男を誑かすクソ半魔! 忌々しいその顔を焦がし、二目と見れない醜悪娼婦に変えてやるッ!!」
狂気的な憤怒を帯びた名乗りと共に、怪人が攻撃を開始した。
思わぬ会合に不意を突かれ硬直していたが、背筋に冷たいものが生じ、少女に回避行動を取らせる。
大きく背後に跳び、遠距離攻撃を警戒しつつ上空から怪人の動きを確認。——先ほどまで少女の居た場所に火柱が立っている。
長年の戦いの経験が、少女の勝つ可能性を手繰り寄せた。
「逃げるな恥知らずがぁ! そうやって男に尻を追わせてきたんだろ! 騙して略奪することでしか愛を理解できない、卑劣な売女め!」
聞くに堪えない怒号を響かせ、怪人が跳躍し再びの接近戦に持ち込もうとする。
だが、憤怒に支配された怪人には状況の判断能力がない。
近距離に特化したシリウスと、遠距離から狙い撃ちができる少女。今の状況で少女を追って空中に身を移す危険性を、怪人は理解してない。
冷静さを取り戻す前に、怪人を——シリウスというエルフを解放しなければ。
「——アル・フーラ!」
使命感に身をやつし、少女が最大火力で魔法をぶっ放す。
鎖すら迎撃が危ぶまれる超高圧な刃の嵐。命中すればミンチは逃れないほどの圧倒的殺戮空間が、怪人に降りかかる。
空中に居る怪人に、それを回避する手段はない。得物の鎖も、この嵐を受け止めるには
力不足過ぎる。
だが、そんな勝ちしか見えない状況でも、何故か自分の脳内には不安が残る。
それどころか、空中に自分が飛び出てから、警鐘が鳴り止まないのだ。
真に空中に居て危ないのは、シリウスではなく、まさか——、
「——うふ……遅すぎますよ」
命中する直前、シリウスの姿が視界から消えた。
思わぬ事態に少女は焦るが、瞬間的に状況を把握する。
樹木だ。
地面にしか存在し得ない物体が空中を翻り、シリウスに命中。刃の嵐の直撃コースから外れるようにその体が方向を変え、地面に墜落する。
無粋な横槍によって攻撃は回避され、残った樹木は風の嵐による攻撃力の証明を果たす。
突如として起こった異常現象に少女の思考は空白化し——、
「脳が、震える」
絶対的な隙を、第三者に与えたのだった。
空中に縫われるように、少女の体が宙で停止する。
だが、もはや単なる異常現象では済まない。——少女の胴体に致命傷となる穴が開いているのだ。
何の魔法を、どんな手を使ったのか、何もわからない。
ただ一つ分かったのは、自分が敗北したという事実のみ。
だが、傷の出血と痛みが、それ以上の思考を許さない。
屋根の高さ位の所まで降ろされ、やっと自身を害した第三者を目に入れる。
痩せぎすの、黒の服に身を包んだ男。
意識が失なわれかけている視界では、それくらいしか把握できない。
「ふむ。この半魔で最後のようデスが。残念ながら、魔女の器としては見当違いだったみたいデスね……。——ああ何と、何と言うことデスか!? 数ある村を襲撃し、数多のエルフを生贄にし、ここまで勤勉に愛に報いようとも、世界は更なる試練を求める! ああ、ここまで、ここまで! 勤勉に尽くそうとも、魔女の寵愛には値しない無駄、無為、無意味な徒労でしかなかった! 思考の停止! 事前準備の欠陥! そのような不備を放置したまま、無駄な行動を続けた我が怠惰を、どうかお許しください!」
彼の双眸に宿る狂気は、とても既視感があった。
どこだ。どこだった、か。
喚き散らし、言葉にならない声で発狂する男を無視し、記憶にならない記憶を探り出す。
だが、すぐにその答え合わせは果たされた。
「ああ、愛しのペテルギウス! 貴方は颯爽と現れて、私に迫る危機から助け出してくれた! これを愛と呼ばずとして何と言うのでしょう!」
投合物の被害によって血を流したシリウスが、少女の視界に入ってきた。
これだ。この怪人の目だ。
自身の中に巣食う愛を正義だと信じ込み、それに準ずる自分の行動すら正義だと認識している目だ。
「愛!? この無意味な虐殺を、無為に過ごしたこの数時間の行動すら、魔女への愛だとアナタは言うのデスか!? 徒労を徒労に終わらせず、凝り固まった価値観を排除し、思考停止の破壊へと導く! それが、今回の使命だったというのデスね!? ……感謝するのデス『憤怒』! アナタの一言が、ワタシの魔女への寵愛をより確かなものへと昇華させたのデス!」
シリウスから狂愛を向けられ、その愛を男は異次元の方向に解釈する。
そんな狂気に完全に堕ちた男は、もはや理解の埒外の存在だ。
だが、その愛に狂った男に付き従う怪人を、何の心情か、止めねばと思った。
先ほど生じた心の乱れ。それがこの状況で顕在する少女を見て、怪人は何も思ったのかこちらに目を向け——、
「心配してくれてありがと、ごめんね。でも大丈夫。体の距離は心の距離。彼、私が近くに居ても何も言わないんです。彼の所有物を使っても装飾品を持って行っても、あの人は良いとも嫌とも言わない。それは私とあの人の心が通じ合っているから。元来、人々はみんな一つになれる。私とあの人は、その生き証人なんです」
だが、狂愛に歪んだ存在に、言葉のない伝達など通じるはずもなかった。
幸せそうに頬に手を当てるシリウスに、少女は何も言うことはできない。
物理的にも、精神的にも、胸中のことを伝えるには難しそうだ。
「————」
同胞たちの仇を討てない。それに対する憤怒は、ある。
手足が動けば胴を穿っただろうし、魔法が使えれば頭を切り落としたはずだ。
だが、それと同時に——、
「全ての人は、一つになれるのです。——半魔のような、愛を知らない存在を除いて」
その言葉を聞いた直後、怪人の生み出した業火によって、視界が包まれた。
目も利かない音だけの世界で、『憤怒』に焼かれながら、場違いな感傷と共に少女は思う。
筋違いにも、思い違いにも、故郷を根絶やしにした張本人に対して、少女は思う。
世界から弾き出された、住む場所が違うだけの、同じ境遇の仲間だったはずの貴方に、言いたい。
あの精霊に、あの狂人に、貴方の愛が、分かるはずが——。
意識が消える数瞬前。怪人の嗤い声が、少女には同胞の号哭に聞こえた。
(fin.)