ねこは、はじめただの猫だった。それこそ、
そして猫は死を迎えた。単純に、餌をとろうとして、それで全身を滅多打ちにされて死んだのだ。
ねこは、何でかまた猫だった。わき腹にはじくじくとした痛み。からだは所々毛が抜けてて文字通り毛を抜かれた痛みに襲われていた。
人間のせいだ。人間のせい。
ねこが明るく拓けたところで寝ているうちに小さな人間にやられたのだ。
それで、ねこがどうにか安心できる場所を探しに行く途中に――ひかる何かに吹き飛ばされた。その何かは少し気にしたようにチラと猫の流れ出る赤いやつを見てから、どこかへいった。ねこはほとんど何かにかえりみられることなく…ほどなくして死んだ。
ねこは――猫だ。なんだかずっと猫だったような気がした。でもねこははじめから猫なので、それは、猫の名前くらい意味のないことだったので、ぷいっと空をむいて気を散らした。
猫の首には紐と、それとカチカチ鳴るいくつかが着いていた。ねこは、飼い猫になっていたんだった。
黒いでかい人間の飼い猫だった。
ねこの縄張りの中には黒いでかい人間と、いっぱいの人間がいた。いっぱいの人間たちはよく動き回るので、ねこはそれを黒いでかい人間の肩に乗って見ていた。
黒いでかい人間は、でかいので安定感がある。それに暖かい。それ以外のところにはあまり行かなかった。餌は黒いでかい人間が手づからくれるので、そのまま食べてゴロゴロしてたのだ。
猫の毛は大体が黒かったので、黒いスーツだとあまり目立たなかった。一部の赤茶けた錆毛がちらっと分かるぐらいで。
ねこは、その黒いでかい人間が好きだった。餌をくれるし、暖かかったからだ。黒いでかい人間は、ねこが肩にいる時はもう片方の腕で。膝とか、足元にいる時は両手でワシャワシャ撫ぜてくる。でも決まって最後に煮干しをくれた。
ねこはいつも黒いでかい人間と一緒にいた。大抵ねこは黒いでかい人間が餌をたべる時に一緒に食べていたし、そいつが寝る時にはベッドに潜り込んでいた。だって、暖かいからだ。唯一離れるのが、用を足すときとかだった。ほんとうにずっと一緒だった。
猫はいつしか、右前足をひょこひょことさせるようになった。男の肩に乗るのも苦労していて、でも乗ろうとするのは変わりなかったので、男は抱き上げて乗せてやっていた。
程なくして猫はこわごわ動くようになった。あまり動くこともなく、男の首の周りに丸くなっていた。
それから、猫は死んだ。1週間程で、すぐ死んだ。心筋症だ。
あまりにもさっぱりと死んで、後処理も恙無く終わってしまったので男はなんだか物足りなかった。少なくとも男よりは高い体温がなくなって、寒いなあとわらった。12月31日に死んだ。まだ、男が猫を飼ってから3年も経たないくらいだった。
それで、ねこは、でもやっぱり猫だった。ただ、今度は建物のなかの猫だった。
暗いところで、上から響いてくる音に怯えながら母の乳房を吸っていた。
ねこがじぶんで餌をとれるようになった頃には母たちはもういなかった。ねこはずっと暗いところに居た。
でも、猫はそこで人間に拾われた。そこ、というのはこれまでねこが居た暗かったところが暗くなくなったからだ。猫は、抱き上げられたことに対して爪をたて精いっぱいに不快をあらわしたが、なにも意味がないのに気付くとされるがままだった。猫の爪でほつれたスーツに、その男はわらいながらねこをワシャワシャ
猫は、男の腕のなかで温度を失っていった。
ある時ねこは、これまではなんなんだろう。と考えた。ねこは人間になっていた。
人間というのはとても変で、笑ったかと思えば、ねこを叩く。小さい人間も、真似してねこを叩く。
ねこには、人間の言葉がさっぱり分からなかった。
ごみ箱を漁って、ごはんを食べる。人間が見ていないときに魚をとろうとしたら、すぐに見つかってぶたれる。でも死ななかった。建物と建物の間で、ねこは、存外人間もかたいなって思った。
ねこの足の裏が固くなり、頭の毛が邪魔になるようないっぱいが経って――人間がねこに近付いてきた。
あの時の人間だ。黒いやつ!
「
「?」
ねこには、やっぱり人間の言葉が分からなかった。
「
…
「君は、あの時の猫かな?」
「!」
ねこは、人間の言葉がさっぱり分からなくても、猫の言葉は分かるんだった。
傍から見ると、スーツを着た男と浮浪児の少年が猫の真似をしているようだったろう。しかし、男――後の世で
少年は、これまで4つの『猫としての生』を過ごした。そして――其を認識しているかは分からないけれど、おそらくしていないだろう――いずれの生も男に関わるものだった。
奇妙な事に、ねこはずっと同じだった。同じというのは、そのボサボサとした毛。黒々としていて、でも所々錆色の見える毛並。双眸は鋭く、苛烈で――左の目だけすとんと
猫は、ねこは、彼の前で突然フッと現れて、それから何をするでもなく消えていくものだった――
言葉を話すことのない、でも気付いたら傍にいたようなものだった――これまでは!
どこか運命めいた何かを感じさせるように、決まって男の近くで姿を現したねこに興味を持つのは、まあ自然なことだった。
前の生で、男はその猫に『個性』を使った。個性の強奪と付与が出来るそれの名前は、今よりもずっと後で『悪の支配者』の代名詞とされている名前と同じ名前である。
それで、猫に『個性』があることはわかったけれども、奪えなかったのだった。正確には、奪えたけれど気付いたら無くなっていたんだった。
男は、ねこを連れて帰った。前みたいにねこの毛並みを整えて洗い、それで一緒に寝た。ただ、以前と違うところが…ねこが餌を食べようとすると椅子に乗せるのだ。はじめねこは上に置かれた餌も一緒に下ろして食べていたけど、それこそ猫の首輪と同じくらい意味の無いことと気付いてからはすんなり乗って食べるようにした。
ねこは、人間の言葉はさっぱり分からないけど…言っていることはぼんやり分かる。なので、男がねこに人間の言葉を教えようとしてるのも分かった。
さっぱり興味を示さないねこに、男は根気強く言葉を教えた。数年まともに発声をしていなかったために衰えていた喉のリハビリも、これまた根気強く付き合った。いっぱいが経って、ようやくねこは人間の言葉が分かるようになった。
部屋ではいつも洋画が流されていた。部屋の中はスクリーンと、投射機、机といくつかのクッションしかない。ここで、男が持ってきた教材で勉強するのがもっぱらだった。3時のおやつもここで食べる。
人間の言葉がわかるようになっても、男はねこに様々な事を教え続けた。まだそれは続いていた。それと、ねこがここに来てからもう4年経っていたらしい。
ねこが大きくなってしまっても…尚男は大きかったので、胡座を組んだ中にねこが座って学ぶというスタイルは今も続いている。
ねこの毛並みは、もうすっかり男に整えられていた。それで分かったことがあった。ねこの顔は醜くはないらしい。
男の手で整えられ、手入れまでされている
ねこはどうやら人間の常識とか、そういうのが足りないそうだ。(ねこだから当たり前だ!)それで、男が用意したものをみて感想のレポートを書くというのが宿題の内容だった。
3回ドアを叩く。「できたよ」
「入りなさい。」
ドアはねこにはまだ重いので、体重も使って全身で開ける。ある程度体の入る隙間が出来たら急いで入る。すぐ閉まってしまうからだ。(ねこはこの扉に何回も体を挟んだ)
「映画はどうだったかな?」
「つまらなかった。ねこには、むずかしい。」
「ねこはいつもそうだね。具体的にどうつまらなかったんだい?」
「話がだらだらと長く続き、進まない」
「それで?」
「全体を通した画面構成も、あまり見栄えはしなかった。でもメスにちやほやされたいから
「ねこの言うようにシンプルなのは分かりやすくていい。僕もそれは常々思っているよ。でも、ねこ。…今回の宿題は登場人物の関係性を見抜き、それを書くものであって…人間観察の結果を箇条書きにするものではなかったんだ。」
「うん」
「…………でも、まぁ――――うん。及第点をあげよう。人物の方向性という面では合っているからね。」
「やった!」
「今日のご飯は…ハンバーグだぜ!」
きゃあーっ!と喜ぶねこ――少年を微笑ましげに、目を細めて見つめながら男は考える――
――
ねことは、無論拾って世話をしているこの少年の事だ。ねこはもう8か…9歳になる。だろうか。肉体的年齢で考えると、個性が発現していないとおかしい年齢だ。
では、なぜ発現しないのか?男はこれについて頭をだいぶ悩ませてきた。だって、あの『個性』が知りたい。以前奪った際には―何故か―己の中からスルリと抜け出ていったために、あまり詳しくは分からないのだ。
ねこは元々猫だったから個性が発現しないのではないか?
――否。猫だった当時のねこには、『個性』が宿っていたことを己は知っている。
身体ではなく情緒面の発達が遅れているからではないか?
――否。個性が発現するおおまかな平均の年齢は4歳、5歳ほどであり同様に情緒面での発達は見込めない。
……………そもそも、ねこはあの猫ではないのでは?
………………………………………。
己の内側から、外側に目を向ける。嬉しくて嬉しくて、もう一周まわって無になったねこには、猫の耳としっぽが生えて――そう、猫の耳とうねうね動く尻尾が生えていた!
「どうした。そんなに見つめ…て…」
気付いたのか、ねこは自分の耳を自分自身の小さな手で押さえつけた。
「何もないぞ。ねこは猫じゃない」
「ねこ?」
「違うぞ。猫じゃないぞ」
「いつから隠してたのかな」
「隠してないよ。猫じゃないよ。」
「…………ねこの今夜のハンバーグは無しかな」
「そんなー!」
「チーズも入れる予定だったんだけど、」
男にとっては、無理やり聞き出
それをしても、特に不都合はなかったし、ねこの事を知る人は自身以外にはもう居ない。でも、彼はしなかった。ゆっくりと、自然とねこがオハナシしてくれるまで待つことにしたんだった。
夕飯時。ふんわりと漂ういい匂いと旗の刺さったチーズ・イン・ハンバーグにねこはいとも容易く陥落した。仕方ない。猫だもの(※猫は完全肉食動物です)。それに、美味しいものは食べないと勿体ないから…とねこは宥めるように、言い聞かせるように内心で呟いた。
男が運んできたハンバーグのお皿を右に動かせば、ねこも右に向く。左に動かせば、左に。きびすを返してキッチンの方へ戻ろうとすると…ほら。男のスーツの裾に、ねこの爪がかけられていた。
「ねこがそれについてお話してくれれば、僕もこれを独り占めしなくていいんだよ。」
「う………」
「一緒にハンバーグ捏ねたもんね」
「うぅ〜〜〜………………」
「どんどん冷めていくなあ」
「…………ぅ。」
「言う!言うから先食べる!」
それからねこは――いつも通りに洗い物を済ませて、しまった後のことだ――あの、ミルククリームの色の壁紙の部屋に行って…適当な洋画を流しはじめて…ゆっくりと話しだした。
「ねこは…猫だった。」
「でも……いまもねこなのは違いない。」
スクリーンの中で、血が舞う。カメラにべったりと血糊が張り付いた。ねこはこわごわと、持っていたホットミルクの入ったマグをさすった。蜂蜜入りだ。
「別に…もとからねこだったけども、でも猫じゃなくなったんだ。ねこは。」
――前から?
こくりと無言で返して、それっきり。尻尾をゆらゆら、視線もふらふら。確かに、前に奪ったその『個性』は、確かに一部が自分の中にあった。ねこの近くで比較して、それでようやく分かるほど微かな灯火。
そういえば、この映画は実際の抗争を撮っていたがために発禁になったものだった。それを男がツテで手に入れたもので、カメラマンも撮影当時には死んでいる。
画面が大きく揺れて――プツリ。再生が終わって、エンドロールになってもまだねこはゆらゆらしていた。
「眠い?」
「…………でも、お風呂………」
「明日の朝、一緒に入ろうか。寝室まで運ぶよ?」
確認というよりも宣言に近い形で言い切るやいなや彼はねこを持ち上げ…持ち運び?兎角ふかふかのベッドで横になった。それで、ねこは最後に…
ねこは、もう最後の最後…ほんとに寝る前にはいつも(子ども体温のためか)ぽかぽかした頬をくっつけて、男におやすみ…と囁く。
「ねこは…『猫』だ。でも、猫じゃなくなった――――だから、お前のねこだよ。」
猫は何も語らない。ただ、ミャアニャアと鳴くばかりだ。動物だから当たり前だ。ただ、ねこは…もう猫ではないけど『猫』だった。
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