明日の方舟よ、良い旅を   作:アルパカ戦士

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第八十一話 熱伝 エンブレイス

 寒い。

 

 手がかじかむ感覚はいつの間にか全身にまで浸透しており、壊れた玩具のように振動を繰り返す。意志ではどうしようもないその震えを耐え忍ぶ。コツは抗おうとはせず、ただあるがままに受け止め、そして切り離すことだ。冬がいつか過ぎ去るように、じっと待っていればいつも次第に治まっていた。

 

 こうして耐えていると、体の感覚を切り離した分だけ思考が浮き上がってくる。体は震える以外何もできないのだ。誰もいないこの場所で自分の意識のみを鮮明に自覚する行為は酷く孤独を感じさせた。

 この感覚を、私は覚えていたはずだ。誰にも触れられず、身の内から冬が訪れたような冷たさを。体の芯から凍り付き手足が意思とは関係なく震えるその様を。文字通り身に染みて理解していたはずだ。

 

 寒い。

 

 だが、今日はどこか寒々しい。まるでこの隣に何かがある事が当たり前であるかのように、肩に当たる吹雪が妙に肌に合わなかった。

 そんな事、レユニオンとして活動し始めた頃には思いつきもしないはずだった。冬の呪いは他者に触れることを許さず、私自身も自らその道を閉ざしたのだから。

 

(私も、随分弱くなったものだ)

 

 きっとあの日々に慣れ過ぎたのだろう。誰かを隣で支える日常。彼らとともに、未来へと歩むという事を信じ切る事に。そう自覚してなお、それを愚かしいと思えはしないが。不思議なことに、この孤独が深いと感じれば感じる程に安心感を覚えている。

 奴が、彼が、そうあれと願ってくれた日々の温かさをそれが証明してくれているようで。

 

 寒い。

 

 今この身を襲う冷たさは、過去に感じたそのどれよりもひどいものだった。常ならばそろそろ回復の兆しが表れてもいい頃合いだが体の芯はその冷たさを増すばかり。一度下り坂を下りてしまった雪玉は止まることなく転げ落ちていくように、限界を超え冬の呪いを受け止めたこの体は冬そのものになろうとしていた。

 体はとうに限界だ。とうとう震えという唯一熱を生じさせる生体防御すら投げ捨ててしまっている。氷像にでもなってしまったのか、指先に至るまで微塵も動きはしない。

 周囲には何も映らない。あるのは全てを閉ざす吹雪の白のみ。大気すら凍ったのか吹き荒ぶ風音すら聞こえはしない。自分を囲んでいた醜悪な血の眷属もだいぶ前に氷の結晶となり宙に散っていった。

 

 最後、自分の目の前で大君はその身を凍りつかせその脈動を終えた。奴は一度も退くことなく襲い来たが、その周囲を漂っていた夥しい量の血液ごとこの冬の呪いの餌食となった。赤く塗りつぶされるはずだったそこは色を失い、ただ一面の白に染まっている。

 

 寒い。

 会いたい。

 声が聴きたい。

 

 この閉じた空間は独りでいるには静か過ぎる。そんな感想を得ていた自分を見ていたのか、どこからか声がした。

 

 

『汝は、何処へ向かう?』

 

 

 それは聞いたことのない声だった。人ではなく何かの意志そのものと対峙しているような、そんな泰然とした印象を受ける声だ。だがそもそも声であるかすら疑わしい。音すら伝えぬこの空間で、それは私に直接語り掛けている。

 

 私は心の中で、我らに待つ未来へと答えた。

 

『汝は、何を頼りに前へと進む?』

 

 それに私は彼らとともに、そう答えた。それと同時に1つ思い至った事があったので問いかける。

 

『貴方は、冬の呪いか?』

『・・・・・・』

 

 だが返答はない。代わりにもう1つ、それは問いを投げかけた。

 

『汝は、それを憎むか?』

 

 それ、とはおそらくこの冬の呪いの事だろう。ここまで来て私はこの束の間の会話の相手の正体を悟った。

 

 暴走したアーツはもはや私の制御を超えて際限なく全てを凍てつかせる空間を展開し続けている。もはや体は動かせず、声を上げる事すら叶わない。そもそも声帯を震わせたところで風の音すら生まぬこの場では声は伝わらないだろう。

 孤独と冷たさの所為で大気と自分の境界が曖昧となり、自分の意識が徐々に薄れかけるのを感じる。

 

 その中、私は念じる。

 

 私は―

 

 

 

 

 

 

 

 

「フロストノヴァ! 聞こえているか!?」

 

 フロストノヴァの名を呼ぶ。だがいくら叫ぼうと吹雪は晴れず、アーミヤのアーツを切り裂く剣閃ですらその道は切り拓けなかった。

 

「彼女の感情が、どんどん希薄になっています! 早く助けないと」

 

 焦りを含んだアーミヤの言葉が事態の深刻さを物語っていた。

 アーツの暴走。それもスノーデビルと恐れられた彼女のアーツは範囲殲滅に長けた超高威力のそれだ。大君を倒すため、限界まで引き出した彼女のアーツの影響で目の前は既に生者に進入を許さない死の領域と化していた。

 アーミヤが繰り返し影霄を振るう。そこから迸る蒼炎も渦巻く吹雪に掻き消されてしまう。やっとの思いで切り拓いた道も瞬く間に塗りつぶされて元通りとなってしまった。

 

 嫌な結末が脳裏を過ぎる。

 彼女の冬の呪いの副作用はこの場の全員が知っていて、もしアーツの暴走がこのまま治まらなければどうなるかなど考えるまでも無い。

 

 なんとか道をこじ開けようと繰り返し攻撃するアーミヤとニアールとケルシー。

 成果を生まないその後ろでドクターが皆を呼び止めた。

 

 

「私を、彼女に近づけてくれ」

 

 振り返る彼女らの先でドクターは懐から何かを取り出し、握りこんだ。

 それに対しほとんどが否定的な意見だった。はっきり言って無謀過ぎる。先程トランスポーターが観測した通り、あそこはもはや生ある者が踏み込める領域ではない。あれはフロストノヴァが命がけで作り出した、敵諸共全てを凍てつかせる死の領域だ。貧弱な彼が向かったところで氷漬けにされるだけだ。

 

 ニアールは合理的に考えそれを却下しようとした。そもそも彼女らが総出でかかっても僅かな空隙を生み出す程度。今彼を送り出したところで失敗は目に見えている。Wもまた同じ意見で、いつにない無茶な要求を鼻で嗤いかけた。

 

「頼む」

 

 だが、その一言で否定の言葉は押しとどめられた。悲痛で、真摯な思いが込められた言葉は戦場に置いてどこまでも冷静な彼らしくなく、それ故に応えたいと思わせる。

 だがそう思っても具体策が出なければ話にならない。そんな中、彼女1人だけが真っ先に返事を返した。

 

「分かったわ!」

 

 いつも通りなはずなのに、その重苦しい雰囲気の中で彼女の言葉はやけに明るく聞こえた。

 ブレイズがチェンソー片手に笑っていた。驚く全員に、当たり前のように言った。

 

「このままフロストノヴァがいなくなっちゃったら、悲しむ人が大勢いる。なら助けなきゃ、でしょ?」

「ブレイズ」

「それに、ここにいる全員が力を合わせれば、あの白兎のアーツなんてちょちょいのちょいよ」

 

 簡単なことのように言うが、あのアーツはこれまで攻略法を見いだせなかった大君すら一方的に下したのだ。暴走状態にあるアーツがいかに危険かなど彼らは知り尽くしている。

 

 それでも、行かなければならないのだ。自分達を助けるため死地に自ら赴いた彼女の為に。合理性の欠片もない、ただ助けたいからという意地の為に。

 その意地を通すために、彼女らがいる。高い実力を備えかつロドスの理想に殉じる強い覚悟を持つ人々。故に彼女らはエリートオペレーターと呼ばれるのだ。

 

「それよりドクターこそ大丈夫? 多分ただじゃすまないわよ?」

「元より承知の上だ」

 

 ブレイズはその決意を見届け満足そうに笑った。そして特注の装備である身の丈を超える程のチェンソーを構え、そのスターターを引いた。

 

「ボイリングバースト!!」

 

 内蔵されたエンジンが全開で回り雄叫びを上げる。とある日にロドスの訓練室で見せたそれの何倍もの熱量が生み出され、回転する刃から紅蓮の花弁が舞い散っている。

 

 

 ブレイズ専用にカスタマイズされたそれは諸々の安全性と引き換えにその火力を何倍にも引き上げる。

 

 それは炎を伴った刃を回転させ、凍える大気を熱で塗りつぶしていく。

 これならば、そう期待するドクターの前でブレイズが額に汗を浮かべながらニヤリと笑う。

 そしてその一歩を踏み出した。

 

「さあ、凍えたウサギちゃんを迎えに行くわよ!」

 

 

 絶対零度の領域が、高熱の回転刃によって道を切り裂かれていく。先程まではそれもすぐに元通りとなってしまっていたが今は違う。ブレイズの後ろには縦列になった仲間達がそれぞれ役割を全うしていた。

 切り裂かれた側面をアーミヤとニアールのアーツが守り道を維持。ケルシーのMon3trの光線が時折吹雪を焼き極寒の冷気を中和し、Logosが事前にかけた守護の結界によって耐え忍ぶ。ロドスの実力者数名にエリートオペレーター2名の力を結集してどうにか突破口を維持していた。全てはWとともに彼女らの中央に立つドクターを送り届ける為。

 その歩みは亀のように遅い。だが着実に一歩一歩、中心部へと近づいていく。

 

 ブレイズはチェーンソーを前面に構えながらすり足で前進する。

 そのたびにブレイズの顔は酷く歪み、その体は死力を尽くしていた。

 

(ほんとどうなってんのよ彼女のアーツは!)

 

 口を開くなんて愚行はしない。そんな事をすれば正面から叩きつけられる極寒の冷気が気道に入り込み肺がやられるから。

 ブレイズのアーツは血を媒介に熱を生み出すものだ。あまり使い勝手の良くなかった彼女のアーツだが、弛まぬ鍛錬と工夫で補い彼女はエリートオペレーターにまで上り詰めた。その一撃は建物ですら一撃で粉砕する威力を内包し、アーツの熱量は小爆発すら生み出す程。

 

 だが、今の彼女のそれはあまりに頼りない。吹雪の中で揺れる蝋燭の火だった。無論手加減などしていない。むしろ後先考えず初っ端から全開でブレイズの奥の手ともいえるボイリングバーストを起動したのだ。

 それにもかかわらず、ブレイズ達を激しい冷気が襲う。ブレイズが生み出した膨大な熱量を全て飲み干してしまっているのだ。ブレイズが正面に立っていなければとっくにドクター達は動けなくなっていただろう。

 

 止まりかける足を懸命に動かし、ブレイズは着実にその中心へと足を進める。

 

 肌は凍傷によって赤みを帯び、激しい寒暖差によって表皮が裂ける。そこから飛び散った血すらブレイズはアーツの燃料にして消えかけの炎を灯し続ける。

 既に至る所が限界だった。元々このボイリングバーストは月に一度撃てるか撃てないかという奥の手。もちろんここまで連続して使った経験など無い。それでも保っているのはブレイズがフロストノヴァを意識し始めてから熟した鍛錬のお陰だ。彼女に負けない為に鍛えていたそれを彼女を助けるために使う事になるとはブレイズも思いもしなかったが。

 

 思考が逸れた一瞬、意識が飛びかけた。

 

「っ・・・! ぁんの、これしきぃ!」

 

 咄嗟に舌を噛み意識を取り戻す。

 流れ出る血液量はもはや無視できないまでになっている。視界は霞み頭が働かない。アーツとチェーンソーの負荷、そして出血過多により止まりかけた心拍をユニットに内蔵されたAEDで無理矢理再開させた。

 

 そしてようやく、見えた。

 

「フロストノヴァ!」

 

 吹雪に霞む視界の先、僅かに人影が見えた。雪に紛れる白の装束は彼女のものだ。

 彼女は地面に座り込み、俯いている。ドクターが必死に声を掛けるも届いていないのだろうか。もっと近づく必要がある。

 

「ドクター、後は任せた!」

 

 既に限界だった。もう10秒もしないうちにブレイズは血を使い果たし倒れるだろう。

 だからこそここで絞り切る。後ろを振り返れば準備万端のドクターが礼を言った。

 

「! ここまでありがとう、ブレイズ」

「じゃあ、行ってこいっ!」

 

 最後のトドメとばかりに、ブレイズがチェーンソーを地面に叩きつける。

 振り絞られた熱量が弾け、彼我の間にか細い道を作る。白一色の世界に焦げ付いた橋ができた。

 

 刻一刻と凍り付くそこを、ドクターが一行を抜け走る。慣れぬ全力疾走、足をもつれさせながらも懸命に彼女のもとへと駆ける。

 

 目と鼻の先、蹲るフロストノヴァの名を呼ぶ。だが彼女は振り向かない。

 意識が無いのか、はたまた凍り付いた大気が音を伝える事すら拒んでいるのか。

 

 彼我の距離は残り10メートル。だがそこに来て再び世界が白く染まり始めた。道が途絶え、強い冷気が予想よりも早く道を塞いでしまう。

 

 ここまで来て! 歯噛みするドクター。

 

「伏せなさい!」

 

 背後からの怒号に咄嗟に言うとおりにした彼の頭上を何かが飛んでいく。

 直後、爆発が起き生じた熱量で吹雪が晴れた。

 

「本当に最後のとっておきよ! ありがたく思いなさい!」

 

 背後から聞こえるWの上から目線の要求に心の中でだけ礼をして再び走り出す。

 

 声はまだ届かない。ならばもっと近づけばいい。一歩踏み出すたび布越しですら伝わる冷気が酷くなってくるが構わない。

 駆けつけた勢いのまま、ドクターはフロストノヴァに抱き着いた。冷たさのあまり逆に熱いとすら感じた。

 大気は変わらず音を伝えるのを拒んでいる。だがここまでくれば関係ない。大気ではなく、触れ合った体を通して骨伝導で言葉は伝わる。

 

「エレーナ!!」

 

 つい、ドクターはオペレーター名ではなく彼女に打ち明けられた本名を口にした。

 凍え切った彼女に熱を与えながら、ドクターは懐に仕舞っていた物を取り出し振りかぶった。

 

「迎えに来たぞ、エレーナ」

 

 そしてその首筋に、手に持った筒状の物を押し当てた。

 

 

 

 

 それは、とある日のロドス本艦での出来事だった。

 

 ドクターは珍しく、執務室ではなくとある研究室で1人机の前に立っていた。

 彼専用に割り当てられたそこはドクターが記憶をなくす前に使用していた場所であり記憶を取り戻した時鉱石病の治療方法の研究を再開するためのものとして保存されていた。ドクターが記憶を失くしてからはや3年。久方ぶりに照明をつけたその部屋はどこか当時の雰囲気を纏っているような気がした。

 

 机の上にはいくつかの資料と専用の機材が散らばっている。医療部から拝借した材料は既に半ば程使い切られ、研究がある程度進んでいることが分かった。

 

 閉じられたその空間は、ドクターにとって自分自身と向き合う場所でもあった。最後にここを使ったのであろう過去の自分がどういう思いでいたのか。机の端をなぞってみるも当時の残滓は彼には感じられない。

 

 この場に来るたび、ドクターは感傷的な気分になる。今行っている研究の内容がそうさせるのだろうか。読み取れないとわかっているのに、そこに何かがないかと片手は机の端に触れたままだった。

 そんな時、研究室の扉が唐突に開かれた。

 

『ドクター、何をしている?』

 

 思いもしない来客だった。ケルシーの問いが静まった研究室に響く。

 常に平坦な口調を崩さない彼女に似合わず、問いただすようなそれはひどく底冷えて聞こえた。ケルシーの感情を察するのは中々に難しい。だが誰が見ても今の彼女が激情を寸での所で抑えているのは明白だった。

 

 彼女の視線が机の上に広げられたいくつかの資料にいく。右上に赤字が印字されたそのどれもがこのロドスで最高に近いセキュリティ権限が必要な極秘情報である事を示している。ケルシーの顔がまた険しくなった。

 

 ケルシーはその以前から嫌な予感がしていた。彼女はロドスの医療部総責任者であると同時にその設立にも参加したロドス全体の最高責任者の1人だ。高いセキュリティコードへの閲覧ログを調べる事も可能だった。

 

 ケルシーがドクターの体を眺める。それに対しドクターが無意識に腕を庇った。机の上には医療部から拝借したのであろう機材も置いてあった。

 あるのは採血用の注射器と、鉱石病抑制剤に使用する各種薬剤。それだけで、ケルシーは彼が何をしようとしていたのかを悟った。

 

『まさか、君は自分の血を』

『そうだ』

 

 それを聞いたケルシーの顔を、どう表現すればいいかドクターには分からなかった。

 一度目にした悪夢を目の前で見せつけられているような、深い絶望。それを堪えようと歪んだ眦。

 

『以前、イグナスは魔王の力を解放したアーミヤに私の血を輸血しようと提案していた。その時は血液型の関係かとも思ったが、どうやらそうではなかったようだな』

 

 ドクターが資料を見下ろす。そこには過去の自分の試みの経過と結果が記されていた。

 それを読み込むうちに、ドクターは尚更自身がこの世界における異物なのだと自覚する他なかった。

 

 その資料が記していたのは、ドクターは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という特異性であった。

 

『何故私が鉱石病に罹患しないのかは分からない。だが過去の私は自分の血液を素材としてこれまでにない高性能の鉱石病抑制剤の作成に成功していた』

『・・めろ』

 

 小さい制止の声を遮ってドクターは自身の考えを口にする。

 

『別に私の血を全て抜けと言っているわけじゃない、だが重症度の高い患者に対して優先的に使う事で少しでも延命に繋がる』

『やめてくれ』

『ケルシー、私は』

『頼む』

 

 その声が、ケルシーから発せられたのだと理解するのに随分時間がかかった。

 それ程に今しがた発せられた懇願は悲痛で幼く聞こえた。

 

 それに言葉を失う。その間に、ケルシーはすっかりいつもの調子を取り戻していた。

 冷たくも温かい言葉が、ドクターの心をチクリと刺した。

 

『医療部総責任者として、それを使った鉱石病抑制剤の研究を全面凍結する』

『ケルシー』

『これは恒常的な決定だ』

 

 抗議の声もケルシーには届かない。言い募るドクターを一蹴しケルシーは部屋を後にする。

 まるで、それ以上ドクターの姿を見ていたくないかのように。

 

 

 それ以来、ドクターがその研究をする事はなくなった。ケルシーによって研究に使っていた資料については閲覧制限がかかり、機材等についても取り上げられた。

 だが唯一、ドクターの手には1本の注射器が残った。研究を中止させられる間際、完成していた試作段階の新型抑制剤が。

 

 何故か鉱石病に罹らない、そんな体質の自分の血液を材料にしたその抑制剤はこれまでの抑制剤よりも遥かに高い効果を持つだろう。

 

 自分だけが何故そんな体質なのだろうか。そんな疑問が鎌首をもたげる。

 

 勿論例外はある。ロドスに在中するアビサルハンター、シーボーンと呼ばれる外敵の因子を取り込んだ海の戦士である彼女らもまた源石に対し強い耐性を持つ。しかし当時研究データを見下ろしたドクターは、この結果がそれとはまったく別の要因によるものだと結論つけていた。

 

 おそらく、今後いかなる手段を用いても、ドクターが鉱石病に感染する事はない。資料に記されていた事実に間違いはなかった。

 その結論に至った時、ドクターは改めて自分がこの世界にとっての異物なのだと認識した。

 

 もしこれが覚醒を果たして間もないドクターであれば、その事実に孤独と罪悪感で押し潰されていたことだろう。

 だがドクターを襲ったのはほんの僅かな罪悪感だけであった。少なくとも、胸をチクリと刺したその小さな棘の中に孤独は無かった。

 

 

『俺達を救ったのはあんただぜドクター』

 

 自分が何者であるかなど大したことではない。重要なのは、今自分が何をするか。

 

 ならば、これをどう使うべきか。

 ドクターはそれを懐に大切に仕舞いこむ。ケルシーにすら気付かれていないそれの存在がバレたりしないように。

 

 いつか、自分が()()である事に感謝する日のために。

 

 

 

 

「戻ってこい、エレーナ!」

 

 注射器を押し込む。プシューと空気の抜ける音とともに抑制剤がフロストノヴァに投与された。

 途端、彼女を中心に展開されていた冬のドームは縮小されていき冷え切った大気とフロストノヴァだけが残された。

 

 傾く彼女の体をなんとか支える。ドクターの腕の中で力なく倒れていたフロストノヴァは、呼びかけの声にゆっくりと目を開く。

 ひび割れた唇が、震えながら声を発した。

 

「ドク、ター?」

「怪我は、無いか? 苦しかったりっ、ゴホゴホ」

 

 言い終わる前にドクターが咽る。いくらブレイズ達による支援があったとはいえ、肺が凍てつく程の外気の中を進んできたのだ。テラの人々に比べ遥かに脆弱なドクターにとって負担は相当にデカい。

 

 だがフロストノヴァをこれ以上心配させまいと気丈に振る舞うドクター。そんな様子がおかしくなって、強張った彼女の表情が綻んだ。

 

「無理をするな、ばかもの」

「そんなことはっ」

 

 反論の言葉は遮られた。フロストノヴァがドクターの背中に手を回し、人目も憚らず力強く抱きしめたからだ。

 さっきまで寒さで震えていたはずの体が硬直する。ドクターの体の内から熱が湧き上がって変な汗が出てきた。

 

「温かいな」

 

 一方、フロストノヴァは噛みしめるような声を漏らした。そう言われてしまえばドクターとしては離れろなどとは言えなかった。幸運だったのは彼女の体温がドクターの抑制剤の影響で触れられる範囲にまで戻っていたことだろう。でなければ凍傷を起こすどころか肌が張り付いて2人は離れられなくなっているところだった。

 

 しばらく迎えに来たドクターの温もりを堪能したのち、フロストノヴァは彼の後ろに控えこちらを呆れた様子で見守る一行に気付いた。

 

「ブレ、イズ・・・」

「あんたが死んだら、ドクターとか1号君が悲しむでしょ。それだけ」

「・・・そうか」

 

 初めて会った日の演習以来、妙に張り合って来た彼女のぶっきらぼうな口調に息を吐く。

 それ以外にも多くの仲間がこちらを温かく見守っていて、先程まで感じていた寒さはもうフロストノヴァにはなかった。

 

「まったくいつまで乳繰り合ってるのよ。大体助けてやったんだから少しは感謝の言葉とかね」

 

 微笑む彼女にWが何とも馬鹿にしたような口調で不満を垂れ流しそっと近づいた。

 

 だが今の彼女は夢から醒めたばかりのように意識が微睡んでいた。常ならば即座に離れ大人しく感謝の言葉を口にしていたところだが、逆にドクターの背中に回した手にギュッと力を籠めた。

 

「なんだ、嫉妬か? わるいがやらんぞ」

 

 あっ、という誰かの声がした。一度口に出した言葉はもう戻らない。

 そして。

 

 

「はあ~~!? 誰があんたらなんか見てうらやましがるってのよ! 大体あんたも龍女もイネスもどいつもこいつも戦場なのにイチャイチャイチャイチャと、時と場所考えろっての! というかそこのクソフードもいつまで固まってんのよ!」

 

 

 爆弾魔のサルカズはまだ爆弾を隠し持っていたようだった。

 色ボケどもへの不平不満と言う大きな爆弾はそれはもう盛大な音がしたとのちにLogosが語った。

 

 

 




「不満はある、だが憎んではいない」
「冬が齎すものは何も不幸ばかりではない。私はもう、その厳しさに見合うだけの幸福を手にした」
「それに、私は信じているんだ」
『何を?』


「いつか、私を抱きしめにやってくる男の事をな」

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