明日の方舟よ、良い旅を   作:アルパカ戦士

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運命とは、命を運ぶと書く。
脈々と繋がれたその軌跡を運命と呼ぶのなら、それを握るのは我らであるべきだ。


第八十六話 運命 グローリー

 マドロックとパトリオットの援軍によりヴィクトリア軍は何とか息を吹き返した。

 

 包囲を阻むマドロックの石像の軍勢。態勢を整える時間を得た彼らは負傷者に応急的な手当てを施し、壊れた武器を投げ捨てスペアのものに切り替えた。それすら持たない者は転がっている杖や剣を手に取り立ち上がった。

 

 だが依然として状況は悪い。息を整え遠くを見つめるシージ達。そこには未だサルカズによる襲撃を受けるカスター公爵旗艦の惨状が見えた。アーツの的にされ霊骸布にたかられたそれはもう保ちそうにない。

 一刻も早くあそこに辿り着かなければならない。それに既にこの戦場に漂う活性源石は無視できない濃度にまで引き上げられている。防護装置を付けていない者達はそう遠くないうちに鉱石病に感染するだろう。

 

 時間は、限られている。

 

「マドロック、あそこまでどれくらいかかる?」

 

 口の中に溜まった血を吐き捨てながらシージは尋ねた。先程まで虫の息であったはずなのにもう立ち上がっている。それを可能にしたのはアスランの屈強な肉体とシージ自身の折れない心。

 そんな彼女に面食らっていたマドロックも、今にも突っ込みかねない彼女の威勢には待ったをかけた。

 

「正直期待はしないで欲しい。壁としてならば十分だが、突撃の先鋒には足が遅い」

「…そううまくはいかないか」

 

 マドロックは言うや否やシージ達の後ろで巫術に全神経を集中する。彼女の周囲の土がボコボコと盛り上がり、形を成していく。ものの十秒ほどで生み出されたガーゴイルおよそ数十。それらはマドロックが何を言うでもなく自ら土を固めた翼を広げ空へと羽ばたいていく。

 シージ達の頭上には移動戦艦の無力化を終えた霊骸布が集まっていた。地上のシージ達に斬撃の嵐を浴びせようと刃を振りかぶるそれらに、ガーゴイルは突進していく。彼らが迎撃してくれているおかげで今のところシージ達は空の戦力に脅かされずに済んでいる。

 

(本当に、彼女が味方でよかった)

 

 十王庭の1つ、アンズーリシック。土石の仔と称えられた彼らは土に愛されたサルカズ。泥土や岩石に己の意志を介入させ四肢を操るが如く使役する。彼らはその力を用いてカズデルに白亜の城壁を築いたこともあった。

 物質操作にて一線を画す特殊性を備える王庭の血脈を、マドロックは遺憾なく発揮している。

 

 そのアーツの特異な点はアーツの規模と拡張性にある。

 土や砂を操るアーツの持ち主は少なくない。龍門でいえばリン・ユーシャやその父、鼠王リン・グレイ。ロドスで言えばアーススピリットやビーズワクスなどがいる。だが彼らとマドロックの間には、その規模に埋めようもない明確な差が存在する。

 

 普通、彼らはアーツによって土砂を思うがままに操る。対してマドロックはその間に“自らの意志を宿らせる”という工程を挟む。一見なんて事のない違いだが、マドロックは長くアーツを感覚的に操っていたせいか自らの意志を注ぎ動き出した彼らを“友人”と呼んでいる。そこ、土と泥だけが友達なんて言わない。

 重要なのは、彼女が自分で作り出した造物を“自分とは違う他人”と思い込むまでに自然と操れている事だ。その恩恵は計り知れない。

 

 想像してほしい。人形か、はたまたゲームのキャラクターでもいい。それを自在に動かす事に何ら不便はないだろう。だがそれが一度に複数、それこそ数十を超える操作対象を個別に動かすとなればその難易度は跳ね上がる。それぞれの見る景色を取捨選択し、場面に合った行動をとらせる。左右の掌で別々の絵を描くだけでも相当な修練がいるというのに、それが十を超えればもはや人間業ではない。

 

 マドロックの石像が腕を振り、足を踏み出し、硬い使徒を握りつぶす。陸に楕円を描く彼らの上空で、ガーゴイルは標的と見定めた霊骸布に追いすがりその翼を捥がれながらも道連れにして彼らを地に堕とす。

 

 だが、マドロックはそれができる。彼女にとって造り出した石像やガーゴイルは友であり、自らその手を貸してくれる素晴らしき仲間なのだから。

 そしてその能力はLogosによる修行によって飛躍的に高まった。

 

 彼女は土に愛されしマドロック。大地にある限り、彼女は単独で中隊規模の軍勢を操ることができる。

 しかも彼女の軍勢は、疲れを知らず痛みを感じずその足が地についている限り自らその傷を修復していく。人の身の丈を優に超える巨人から空を飛ぶガーゴイルまで、もはや陸空軍を兼ねていると言っていい。十王庭の血に見合う、圧倒的な個にして軍。にも関わらず。

 

「このままでは、厳しいな」

 

 そんなマドロックであっても、戦況をひっくり返すのは難しかった。

 先程からマドロックは造物の生成にのみ力を注いでいる。それに対しサルカズ軍、特にその戦力の大半を担っているナハツェーラーはこちらとカスター公爵軍に挟まれた状態で両面作戦を実行している。にも関わらず、そこまでしてようやく()()なのだ。

 

「あの御仁、凄まじい」

 

 マドロックが見上げるのは、先程パトリオットに話しかけていた空に浮かぶナハツェーラーの宗主。自らを戦神と名乗った老齢のサルカズだ。

 

 彼の杖から無限に思える白布が伸び、そのオーラが届く地上からは絶えず枯枝がその背を伸ばしている。

 白い布は霊骸布となり空を漂い、成長した枯枝は使徒となってその前線の厚みを増していく。削った分だけ、補填されていく。

 

 ネツァレムの援軍の生成速度はマドロックをすら優に上回っていた。

 

 マドロックは古きサルカズの血筋ゆえ、この戦場に漂う腐った死臭の気配を掴んでいた。おそらく先程ヴィクトリア全体を掴んだブラッドブルードの戦争法陣と似た大規模な呪術。それが彼らに追い風を吹かせている。それを破らない限りこの戦況はジリ貧。手をこまねいている間に自分達の目的であるカスター公爵旗艦が磨り潰され時間切れとなる。

 

 そうならないための、もう1人。

 

「パトリオット。あなたが頼りだ」

 

 その頭上で睨み合う2人こそが、この戦場を左右する鍵だった。

 

 

 

「ボジョカスティ。その方は随分変わったな」

「そうだろうか」

 

 お互いの距離はかなり離れている。パトリオットの乗る石の竜の羽ばたき、度重なる砲声と怒号。それらが混じりながらも互いの声は不思議とよく聞こえた。

 この冷たい戦場で、ネツァレムの声からはどこか親しみすら感じられる。パトリオットは彼が昔から敵には容赦のない惨劇を見せる一方、身内には好々爺然とした態度を取ることを思い出していた。

 だからこそ、続く言葉に込められた深い遺憾の意を汲んだ。

 

「我が愛弟子、我が義息。その方こそこの戦争にてサルカズを導く英雄に相応しかった。類稀なる才能、戦士としての資質。それは名だたるサルカズの英雄達、そして魔王にすら劣らなかったであろう」

 

 かつて、とある予言が彼の死を告げた。その予言に抗おうとパトリオットはカズデルを離れ遠いウルサスの地に流れ着きそこで国を守る盾となった。

 

 彼は十王庭、ウェンディゴの最後の純血。自身と同じく、彼の生には常に死が連れ立っていた。例え弟子とその道が分かたれようとも、彼がその生涯に定めた戦いを貫くというのであればそれでよかった。その終末はきっと、戦士として恥じるものではないと確信していたから。

 だが、自分に次いで最も戦場を居場所とした彼は今サルカズの運命を切り裂く障害となっている。戦場に愛された彼が、自らその幕を下ろそうとしていた。

 

 問いただす声に自然と怒りが滲む。枯木の杖が握りしめられミシリと音を鳴らす。

 

「何故、彼らについた?」

 

 ネツァレムは双子の魔王の覚悟を見届けた。サルカズを源石の楔から解き放つ決死の覚悟を。サルカズを救う、ただそれだけの為に、死後すら明け渡した弟子の姿を。

 

 それに匹敵するだけのものが無い限り、ネツァレムは彼を認めるつもりはなかった。

 

「…遠い北の国で、私は夢を見た」

 

 パトリオットは語り出す。

 

「その道を、我が足で踏みしめ、道を作らんと邁進した。はあ、だが、その夢の終わりに、私は背にした守るべき者達に、裏切られた」

 

 長い語りに時折掠れ声が混じる。源石に侵された喉、負傷した臓器、そしてそれらに劣らないだけの長く苦しみに満ちた歩み。

 

「友を失い、家族を失い、誇りすら、失いかけた。私は何1つ守れなかった、叶わぬ夢に固執した、愚かな軍人であると、そう蔑んだ」

「ならば、その道を悔やむか?」

 

 ウルサスで彼に降りかかった苦難。一時は英雄と称えられ、しかし時代の望むままに追いやられた無念。サルカズに課された呪いはこのテラの大地全てに満ちている。カズデルを去ろうと、それは変わらなかった。

 だが。

 

「いいや。断じてそれは違う」

「何故だ? お前程の男ならば、例えあの予言があれどもその才気を振るえたはずだ」

 

 ボジョカスティ。ネツァレムが知る最も優秀な戦士。彼がカズデル軍事委員会に加わっていればこの戦争ももっと様変わりしただろう。

 例え最期は魔王に討たれようとも、その生涯はこの大地に語り継がれるほど鮮烈で輝かしいものになったはずだ。

 

 愛国者(パトリオット)などではない。彼は戦士ボジョカスティとして、その生を終えられたはずなのだ。

 

 今もなお彼を苛む苦難を甘んじて受け入れ、国を追いやられてなお()()()を名乗る理由。

 輝かしい戦士としての姿すら捨てたその理由とは、何か。

 

 

 その問いに答えるパトリオットの声は、春の日差しのように温かく凪いでいた。

 

 

「愛を、知ったのだ」

「…愛、だと…?」

 

 微睡みの中にいるような、この戦場に似つかわしくない声にネツァレムが呆然とする。

 

 パトリオットは思い出す。今は亡き、その生涯唯一の伴侶の微笑み。自分の掌に比べあまりにも細く白く、しかし何故か温かかった手の温もり。2人の角が音をたててぶつかった時の静けさ。冬の国に訪れた春のような眦。暖炉の傍で薪が弾ける音に混じる、彼女の声。

 異邦の出自の自分を受け入れ、子を為し、最期に骸を差し出しその愛を証明しようとした彼女を。

 

 彼女が彼に遺した息子もまた、その優しさを受け継ぎ立派な男として育った。

 当時のウルサスで、感染者差別に苦しむ者達を見捨てられず手を差し伸べてしまうほどに。

 

 敵の血と怨嗟に塗れた自分にはなんと過分な贈り物だっただろう。失ってからの日々が重なる程に、それは取りこぼした自分の惨めさを突きつけてきた。

 

 だが、それもあの日に変わったのだ。

 

「そしてその愛に、報いなければならぬと諭された」

 

 背負った荷を降ろすでもなく、立ち止まるでもなく、全てを背負い未来へと届けろとしかりつけられた。掌をすり抜けていったものを嘆くのではなく、今手にし落とすまいと掴んでいるものをよく見ろと。

 

 そうして顔を上げて見れば、思いの外自分が抱えているものが多い事に気が付いた。呆然と歩いてきた道を振り返れば、怨嗟の声よりも気を付けてと優しく振られる見送りの手の数に驚かされた。

 

『貴方は愛を知っているのよ。もう一生1人でいいなんて、言わないで?』

『愛してる。未来の貴方も、未来の貴方の家族も、全て』

(ああ、ヘレン。その言葉を遺してくれた君に、感謝を)

 

 多くの想いが、言葉が、この背を押している。生きてくれと、どうか幸せでいてくれと。悲惨な宿命に抗う力を与えてくれる。200年積み上げたその重みさえ、今は心地よく感じられる。

 

「愛などと」

 

 ネツァレムが杖を振りそれを一蹴する。ナハツェーラーは戦場にしか生きられない。血塗られた生き方しか許されぬ自分達に、それは理解できない感情だった。

 

 かつて戦場の血の匂いに嫌気がさし、安寧を求めたナハツェーラーの部族がいた。だが彼らは日に日に弱り、その強大さからは考えようも無いほどあっけない末路を迎えた。

 

 ナハツェーラーは生と死の循環を司る。そしてそれは逆も然り。

 戦場無くしてナハツェーラーはありえない。それは生まれながらに定められた運命だ。故に、ネツァレムは自身を戦争そのものと定義した。戦を統べ、加速させる者。そこに愛など要らぬと。

 

 だが、それをパトリオットは真っ向から否定した。

 

「師よ。あなたの中にも愛はある。同胞に、弟子に、そして未来を担う若者に向けられたそれを否定する事は出来ぬ。その愛は、報われなければならない」

 

 言葉を1つ吐く度、傷ついた声帯が血を滲ませる。それすら構わず、パトリオットは師に言葉を連ねた。

 

 安らかに眠る道もあっただろう。

 あのテレジアの後継者に褒美を乞い幻に微睡みその生を終えられたかもしれぬ。

 それでも気付いてしまったのだ。だからパトリオットは止まらない。

 

 ネツァレムの指先にこれまでと異なる感覚が引っ掛かった。戦場を俯瞰する感覚の網に、新たな異物が混じっていく。

 

「何だ? 朽ちる屍の腐食が妨げられておる。いや、これは!」

 

 戦場に立つ巨大な石像。その内から妖しい光が漏れはじめた。その正体に、ネツァレムはようやく思い至る。

 

「あれは祭壇か!」

「そう、だ」

 

 瞬間、パトリオットを中心に赤黒いオーラが波紋のように広がる。オーラは祭壇たる源石結晶と共鳴しこの戦場に浸透していく。

 

 途端、ナハツェーラーの動きが目に見えて悪くなる。これまで彼らに注がれていたエネルギー。生と死の循環を廻す歯車に異物が挟まったのだ。

 

 それはウェンデイゴの巫術の奥義、人喰い。

 

 あらゆる生命を貪りつくす死の呪いが蔓延する。それは本来、防護装置ですら貫通する生者を襲う毒。だがヴィクトリア軍やサルカズの軍勢に影響は殆ど見られない。ナハツェーラーの加護を受けていた霊骸布や使徒だけが、どんどんと弱体化していた。

 

 何故? と困惑するネツァレム。師としてパトリオットに死の術法を授けたのは彼自身。だが、彼の知るウェンディゴの術法の中にそのようなものは存在しなかった。

 

 当然だ。これはパトリオットが自ら編み出した新たな呪法。生者に仇なすはずのその巫術を、パトリオットは死者の骸に対象を書き換えた。

 それはナハツェーラーの呪いとせめぎ合い、結果的に戦争の死の循環を押しとどめていた。

 

 腐敗が先か、喰らうが先か。死を司る呪いが両者に牙を剥く。

 これは盾も槍も失ったパトリオットにできる唯一にして最大の抵抗。そして、彼に出来る証明だった。

 戦の中に生きるしかないと諦めていた。そんな自分達にも、どう戦うかという選択肢はあるのだと。

 

「今だ! 押し込めええええええ!!!!!」

 

 先導するシージに続き、ヴィクトリア軍が弱体化した使徒の壁をようやく薙ぎ倒した。1つに束ねられた矢の先端は、追い風に乗って徐々にサルカズ軍に食い込んでいく。

 パトリオットは、その鬨の声に負けないほどの声で叫んだ。

 

「例え報われずとも、その轍は背に続く者に継がれていく。故に向かう先を誤ってはならない。我らの次代に示すべき景色は、少なくとも、戦火の先にはない!」

 

 

 

 石像が挟撃の手を阻んだ。

 ウェンディゴの呪いがナハツェーラーの加護を妨げた。

 全滅しかけたヴィクトリア軍は息を吹き返し、今一度決死の突撃に身を投じている。

 

 

 しかし足りない。

 

 人類最強の男と、土石の仔の末裔。王庭の2人の強大なアーツをもってしてもそれが限界。

 守りを崩せない。加護が失われてもその圧倒的な数的不利は健在。依然として厚い壁が目の前に立ち塞がっていてそれを崩しながらの歩みは遅々としている。

 

 加えて天秤が傾きつつあることを察したネツァレムは配下に時間稼ぎに徹するよう守りを固めさせた。それに手こずっている間にカスター公爵側を完全に攻略するつもりだろう。

 これを貫くだけの突破力が、シージ達には欠けていた。

 

 既に手は尽くした。全霊を尽くし、レユニオンの助力も得た。

 それでもあと一手、それを願わずにはいられない。

 

「押せ、押せえ!」「あと少しだ! 踏ん張れ!」「撃て! 少しでも殿下達の負担を減らせ!」「ロンディニウムを源石に埋もれさせなんてするもんか!」「立て! こんなとこで倒れてどうする?!」「俺達の故郷を取り戻すんだ!」「舐めんなサルカズ! 俺達は、ヴィクトリアなんだ!」

 

 ボウガンの矢も尽き、刃先は零れ、負傷していない者なんて1人も見当たらない。

 満身創痍のヴィクトリア軍。一度は絶望し、それでも立ち上がった彼らの心に浮かぶ言葉はただ1つ。

 

 

 ああ、ヴィクトリア。我らが祖国。どうか我らに勝利を。

 立ち上がる同胞に栄誉を。

 我らヴィクトリアに勝利を!

 

 血の滲む掌で武器を振るう。立ち昇る土煙を振り払って前に進む。

 今ここに、かつての栄光の帝国は再誕した。国を想い、同じ民を憂い、どんな障害も乗り越えて行けると信じさせた1つの希望。

 

 その先頭で戦う金の鬣は土に塗れてなお光り輝く。それは星のように、私はここだと告げていた。

 

 ヴィクトリアはここにいる!

 我らこそが、ヴィクトリアだ!

 

 その声は、遥か後方のロンディニウムすら震わせた。

 

 

 

 ()()()()()、だろう。

 

 

 

「おい、何だあれは?」

 

 1人のサルカズ兵の言葉に皆一斉に空を見上げた。

 戦闘中にも関わらず、視線が強引に引き寄せられる。

 

 

 遠く、高く、見上げる何人かは最初羽獣か何かと錯覚した。

 ロンディニウムの空を、何かが一直線に翔けていた。

 

 

 しかしそれは赤黒く淀むロンディニウムの空に、一筋の白線を刻み続ける。それは白紙のキャンバスに振るった大きな一筆を思わせた。どこまでも単調ゆえに豪快でいっそ美しい、そう思わせる綺麗な一本線。

 高温の水蒸気が急速に冷却され生じた人工の雲。テラの大地に地球のようなジェットエンジンの類は存在しない。地上から約7000mの阻隔層は空を夢見る者を阻み続けていて、飛行機雲など滅多に見る事はない。

 だからこそ、一部の者にその雲は深く刻みつけられていた。

 

 ある者には希望の象徴として。またある者には抗い様のない絶望として。

 不可侵の空に足跡を残した、その存在を。

 

 それは唐突に方向を変え、戦場の最前線へと落ちてくる。それに気付いたサルカズの指揮官が号令の声を張り上げる。

 

「怯むな! アーツで迎撃しろ!」

 

 しかし矢継ぎ早に放たれるアーツの嵐をものともせず、それは風切り音とともに大地に降り立った。

 荒野がひび割れ大地が波打つ。その圧倒的な質量は着地しただけで周囲の敵をなぎ倒した。

 

 新たな乱入者の正体を突き止めようにも巻き上がった砂埃で何も見えない。暗い茶色のヴェールに包まれたそこを、サルカズ軍は警戒の眼差しで見つめている。

 

「…はは」

 

 だがシージは、その正体を悟ってしまい思わず笑い声が漏れた。

 

 暗がりの中に光が灯っている。シージはそれが兜の奥に光る人工の瞳と知っていた。時折聞こえてくる、地を震わせる重低音。それは巨大な四肢を動かす音だ。

 その炉心は熱を生み機関部から配管を通して四肢の隅々まで行き渡らせる。轟く唸り声に似た音は、それを吐き出す前兆だった。

 

 確信を持つシージの目の前で、()()()()とともに砂煙が晴れる。

 その中心に膝を突いて佇む敵の正体に、サルカズの指揮官も動揺を隠せなかった。

 

 

「何故ここに()()()()が?! 全滅したはずでは!」

 

 動揺が伝播する。誰もが予想外の乱入者に目を奪われていた。

 シージの目に映っていたのはその大きな背中。それはあの地下王墓で戦った彼の面影はあるものの、意匠がやや異なっていた。そもそもあの蒸気甲冑はパトリオットの手によって無惨にもひしゃげてしまったのだ。再び動かす事は不可能だっただろう。

 

 ならこの蒸気甲冑は何なのか。

 

 謎の蒸気騎士が立ち上がる。所々から蒸気を漏らしながら大地を抉った右腕の装甲を持ち上げる。関節部分が動くのに合わせ圧力式のシリンダーが忙しなく駆動音を轟かせる。

 

 誰もが見上げるその体躯。機能美と芸術性を両立させた金の甲冑。

 

「ああ…」

 

 ヴィクトリア軍の全員が、思わず感嘆の声を漏らし口角が自然と持ち上がる。

 彼らにとって、蒸気騎士とは象徴だった。これまでに何度もヴィクトリアに勝利を齎したその雄姿が、蘇った。

 

 そうだ。蒸気騎士は全滅した。ヴィクトリアの下らない抗争に巻き込まれその命を散らした。それを知るのはシージ達と一部の公爵だけではあるが。生き残り最後まで忠義を貫き通した彼も、シージが手を下した。

 

 だがもし、彼らの遺志を継ぐ者がいたとすれば?

 

 運命とは、その歩みの途中で必ず相対するもの。だが同時に、打ち破られるべきものでもある。

 ヴィクトリアの明日を切り拓くこの局面。最後の鍵は、ヴィクトリアの希望そのものであるべきだ。

 

 シージは見た。自分に「諸王の息」を託してくれた彼の蒸気甲冑は胸に大きな穴が空いていた。だが今目の前にいる蒸気騎士にはそれが無い。

 記憶にあるそれよりも古い意匠。その胸当てに当たる甲冑の中央には、よく見知った家紋が堂々と刻まれている。

 

 

 ()()()()の、カンバーランドの誇りの紋が。

 

 

「来たか! アラデル!!」

 

 蒸気騎士が立ち上がる。その瞳が見据えるは眼前に並ぶ軍勢。背にするは多くのヴィクトリアの民。

 

―グォォォォオオオオオオオ!!!

 

 噴出する蒸気の音が、咆哮となって戦場に轟く。

 

 ロンディニウムを照らす最後の希望が、ここに揃った。

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