それはまるで伝説のような光景だった。
天に向かって眩い光が迸っている。
その中心で、金髪のアスランが国剣を台座に突き立てていた。
諸王の息が収められた台座。そこから漏れ出る金色の濁流は瞬く間に戦場を天から覆い、遥か上空まで伸びた光の柱はやがて重力に引かれ地上へと降り注いでいく。それらはまるで流星のようだった。
降り積もり荒野を埋め尽くしていく黄金色は一面に広がる麦の穂を思わせる。季節は冬にも関わらず辺りは春のような温かみに包まれていた。
その熱に触れた者は皆、心の底から活力が湧き出る。
上空に突き立った光の柱は赤黒い天災雲を引き裂き、数多の星が散りばめられた夜空が露となる。
澱んだ空気が澄んでいき、大気に漂う活性源石が急速に減少する。
かつてサルゴンの源石嵐を退け幾人もの探検家を救った宝剣。その力は本物だった。
敵も、味方も、全員が舳先に立つ彼女を見上げている。
その金の髪は光を受けて一層に輝き、もはやそれ自体が光を放つかのよう。同じ色の瞳が、眼下を睥睨していた。
「ヴィーナ……」
グラスゴーのメンバー、アラデル、デルフィーン、そして多くのヴィクトリア人にその姿が刻まれる。
それは紛れもなく王の威風を纏っていた。
「まだ終わらぬ」
だが彼女を見上げているのは何も味方だけではない。
胸に空いた風穴を白布が塞ぎながら、ネツァレムは杖を振るう。
天災雲を失いその出力は落ちたものの、ここは未だ戦場。ならばその全てが彼の手の上にある。むしろ前後から挟まれていた状況とは違い倒すべき最優先の敵は今やボロボロの甲板の上。
二分していた全ての戦力を、ネツァレムは台座に立つ彼女とそこに突き立つ剣に定めた。
空を新たに埋め尽くす無数の霊骸布がその背丈ほどもある大剣を振りかぶる。飛ぶ斬撃の嵐、そして腐食の霧がたった1人に降りかかろうとしていた。
それを正面から見据えるシージに怯えはない。堂々と、ひしゃげたハンマーをネツァレムに向ける。
「勇猛であるな」
それにネツァレムは感心した。蛮勇でも狂気でもない。彼女は真の勇気でもって自分に相対している。
ヴィーナは視線を落とした。そこには未だ傷つき倒れ、それでも自分を送り出すために戦った仲間がいた。
彼らが自分を見上げている。ならば、どうして敵に怯える姿を晒せようか。
「私はヴィクトリアの掲げる旗印としてここにいる。ならば誰よりも気高く地に突き立たねばならない」
「ではその旗を折ることこそ、戦争の務めよ」
枯木の杖を向ける。ネツァレムは今一度、自らの持つ全霊にて彼女達を殲滅すると決めた。
攻撃の準備は既に整っている。霊骸布はその号令を待ち望んでいた。目標は、天災雲を退けているあの剣の台座の破壊。
百を超える斬撃を受けるにはあまりに心許ない歪んだ鉄槌を握りしめ、シージは後ろに振りかぶる。増援は今期待できない。彼女の仲間達は彼女をここに送り届けるために地上でサルカズを足止めしている。
天災雲を晴らすこの台座を守れるのは、シージ1人だった。
(何としても、守り切る!)
全てを叩き落とす決意でシージは来たる襲撃を待ち構えた。
「攻撃、開始」
戦神の号令が無慈悲に空に響く。
一斉に剣が振り下ろされ、無数の斬撃と腐食の霧が放たれる。
「何っ!!」
ネツァレムが背後を振り返る。遅れてやって来た衝撃波が地上に圧しかかり遥か遠くで地面が炸裂する音が轟いた。
空に広がる霊骸布の群れは、横一直線に綺麗に削り取られている。
それは彼が戦場で幾度も耳にした音、砲弾が地上に突き刺さり炸裂した爆発音だった。
霊骸布の1人が無機質な声で報告する。
「宗主、新手です」
「何者だ?」
「あれは、あの艦隊は……」
地上のサルカズに動揺が広がっていく。彼らの視線の先の地平線に土煙が上がっていた。あれは移動戦艦が荒野を走る際生まれるものだ。それもあの量、大公爵の率いる艦隊と見るべきだろう。
その先頭を、少し古びた一隻の移動戦艦が疾走している。
幾度の戦場を越えて来たそれは古傷と勲章を山のように抱えていた。敵の屍を乗り越え、戦利品をその身に収め、戦争をその血肉としてきた鋼鉄の怪物。
テラで最も栄えた帝国、ガリアの首都リンゴネスすら蹂躙し、その技術を以て新生したヴィクトリアのもう1つの剣。
四皇戦争以来。その獲物となる相手には恵まれず、公爵自身も貴族の柵に絡めとられた。だが今、老いた軍人は公爵としてでなく、ヴィクトリアの国防を担う者としてここに立っている。
巨大な艦砲は全て正面に向けられその筒先からは既に煙が上がっていた。それはかつてリンゴネスの城壁を破ったこの艦の持つ最も古く鋭い牙だ。
それがこの距離で、今にも襲い掛かろうとしていた霊骸布のみを正確に撃ち抜いたのだ。
凄まじいまでの練度。そこまでの力量を持つ戦力はウィンダミアを除いて1つしかいない。
「『ガストレル』号。鉄公爵ウェリントンの艦か」
彼の推測通り。
先陣を切るガストレル号の甲板に、軍服を纏った老人が立っていた。
「あれが枯朽の王庭。戦の神とは、大きく出たものだな」
老いた白髪のフェリーンが鋭い眼光で正面を睨む。その胸にはもはや数えきれない程の勲章が吊るされていて、全速で進む艦が揺れる度に飾緒とともにじゃらじゃらと音を立てる。
大荒れの海を行く船のように上下する甲板で、しかしその軍人はふらつく事もなく背筋を張っていた。
彼こそヴィクトリア最強の軍人、ウェリントン鉄公爵。
血筋や政治力ではなく、ただ純粋な戦争の手腕によって大公爵へと押し上げられた生粋の戦人。
彼は地平線に留まる両軍を見比べ、小さくため息をついた。
「では諸君。手筈通りに」
「はっ!」
総指揮官たる彼の号令に、その部下達は迅速に艦砲を操作した。
その砲塔の先は未だ源石に突きあげられた
「真の戦というものを教えてやろう」
放ての合図とともに、再び艦砲が火を噴いた。
シージの足元が激しく揺れる。剣の台座のすぐ真下。『グロリアーナ』号の舳先付近に砲弾が着弾した。
それも1発だけではない。繰り返される砲撃は明確にそこを狙って攻撃していた。
血迷ったか。誰もがそう思った。
元よりダブリンの後援者である彼はカスター公爵達とは敵対する関係。だがよりにもよって今、身動きの取れないカスター公爵を潰しに来るなど正気の沙汰ではない。
戦争に溺れた狂人がカスター公爵諸共サルカズ軍を狙ってきているのかと慄いた。
時折流れてくる砲弾をアーツで防ぎながら、それでもネツァレムは違和感を覚えていた。
戦神と称えられる者として、その生粋の軍人の思考はある程度推し量れるものだ。例えカスター公爵の力添えが無くとも自分達を相手取れると慢心していたとしても、ここでカスターまで敵に回すのは愚策だと気づいているはず。
理屈に合わないそんな感情的な選択を取るはずが無いと、敵ながら同じ戦人としての信頼があった。
あのガリアの首筋に喰らいついた鉄の男は、どこまでも冷徹に勝利のみを追い求められる者だ。
ならば、その行動の理由は何か。
それを考察するネツァレムの耳に、何かが砕ける音が聞こえた。
「まさか……」
急ぎネツァレムは『グロリアーナ』号を見る。
何度も砲撃に晒されたにも関わらず、何故か戦艦自体に損傷は無かった。
むしろその舳先をかちあげ動きを封じていた巨大な源石クラスターが、その根元を削られ支えを失いかけている。
狙いはこれだったのだ。本来移動戦艦の装甲をぶち抜き爆発させるための砲弾を、彼らは障害物を撤去するために使った。数十メートル先には移動戦艦の艦体があるという条件下、針の糸を通すような繊細さで、しかもこちらに向けて全速前進中にも関わらず。
「たった数キロ先の、それも動かない的だ。うちじゃ外せば減給ものだ」
『ガストレル』号の砲撃手がそう笑って砲塔を操作する。
怪物の部下もまた怪物。鉄公爵とともに多くの戦場を渡り抜いた彼らは流れるような統率力で砲撃を重ねた。
そして遂に最後の1発が源石クラスターの根元を砕き、艦体を支えきれなくなった源石が崩壊していく。
『グロリアーナ』号の船底が地に叩きつけられる。天地がひっくり返ったような揺れをシージは剣にしがみつき耐えた。
『まったく、無茶してくれるわね』
艦内放送が甲板にまで響く。どうやら声の主は旗艦に乗っていたカスター公爵本人らしい。
『でもこれで航行可能よ。次はどうするのかしら、
策謀の手練である叔母の畏まった物言いに怖気立つやらむず痒いやらで変な心地だったが、シージは改めて前を見据えた。
ネツァレム、霊骸布、使徒、サルカズ軍。その遥か後方にはロンディニウムの城壁が見えた。その上空には光の奔流は届いておらず未だに赤黒い天災雲が渦巻いている。
既にマドロックからザ・シャードが今どんな状況か聞いている。アナンナという原初の源石の降臨は、きっとロンディニウムに多大な被害を与えるだろう。そしてそれは当然、今もなおあそこで戦っている多くの同胞の被害も意味する。
シージは再びハンマーの柄を強く握りしめ、前方を差した。
「
『……謹んで、承りましょう』
カスター公爵が誓った。ならばそれは必ず果たされる。
『グロリアーナ』号のエンジンが再び唸りを上げる。栄光の名を冠するその艦が、その雪辱を果たさんと前へ突き進む。そこから噴き出す浄化の光もまた空の天災雲を引き裂きながら進んでいく。
その眼前にネツァレムが身を躍らせた。彼は今も舳先に立つシージと剣の台座を見据え、極大のアーツを放つ。
「戦争の手から逃れることなどできぬ」
戦場から流れ込んだ膨大なエネルギーを籠めた一撃がシージの目の前を埋め尽くす。
だがそれも、『グロリアーナ』号の舳先数メートルを正確に狙い撃った砲撃に阻まれた。
「戦争を名乗るのであれば、我らから目を逸らさぬことだ」
後塵を巻き上げ、もはや互いが目視できる距離にまで近づいていた『ガストレル』号。
その先頭で、軍刀を引き抜いたフェリーンがその剣先をネツァレムに突きつけていた。
生まれた僅かな空隙を抜け走り去る『グロリアーナ』号は徐々に加速していきもはや追いつけそうもない。それに今彼らに背を向ければ厄介なことになるのは目に見えている。
ネツァレムは獅子王の遺児に替わり新たに戦場に躍り出た彼に相対した。
既に霊骸布が周囲を包囲している。移動戦艦の艦載砲は1発の威力は高くとも連射はできない。全方位から無秩序に襲撃すればいずれその砲塔は腐食し牙を捥がれるだろう。
だがそんな目論見すら、失敗に終わった。
突如、荒野の闇に妖しい光が灯される。その正体は、巨大な紫の龍。
それは『ガストレル』号を中心に円を描き、その軌道上にいた霊骸布を呑み込みとぐろを巻いた。
白い布が焼き尽くされ、灰塵が舞う。敵軍をものの見事に飲み干したそれは最後に宙に浮かぶネツァレムを睨み姿を消した。
その揺らめく輪郭は炎のはずだった。だが燃え盛るような温度は感じられず、いっそ氷のような冷たさを感じさせるものだった。
余燼漂う甲板の上、いつの間にかウェリントンに並ぶ影がある。
白い装束に白磁の肌。それと対になる双角と龍の尾。その先端には先程現れた龍と同じ紫の焔。
死を匂わせる冷たい気品を帯びた彼女もまた、王威を携える者。
「御身も前線に出られるのですか」
「なに、臣下が身命を賭して戦うと言うのだ。ドラコたる我が出ねば示しがつくまい」
そう言ってダブリンのリーダー。エブラナは懐からアーツユニットの符を取り出した。
赤き龍の炎。それは戦場を悉く焼き尽くす。
かつてドラコの王、ゲル王はその武器を炉に投げ捨てる際こう言い放った。
―私が戦士の栄誉を手放すのは、今後ターラーの土地を二度と血に染めぬようにするため。そしてドラコの同族が二度と剣を向け合わないようにするためである。
―赤き龍の炎が、死した戦士を溶炉の中から蘇らせるような日が来ない限り、私の選択は変わらない。
その誓いの通り。同胞の血が戦場に零れることを、その炎は強く拒絶する。
もしその誓いを踏み躙る者がいるならば、例え死であっても止める事は叶わない。
「目に焼き付けよサルカズ」
彼女の後ろには既にウェリントン直属の陸軍隊である赤鉄親衛隊とダブリンの黒装束が控えている。
妖しく夜空のような輝きを見せながら、その炎は戦場を這っていく。
古のドラコの炎は、敵を焼き尽くし、味方の屍に力を授ける。
その力は伝説に違わず全方位に浮かぶ敵を悉く焦がし地に堕とした。
「この紫炎こそが、汝らが信奉する死そのものである」
紫炎の中で、白いドラコは薄い笑みを浮かべた。
黒く染まった剣が縦横無尽に駆け巡る。
その刀身は時に剣のように真っ直ぐ、また時には蛇のようにゆらゆらと形を変えた。
その予測不可能な動きにテレシスは防戦一方に追い詰められている。
10メートルは離れた位置から放たれる横薙ぎを身を屈めてやり過ごし、返す刀が足元を狙うのを跳んで躱す。
その勢いを殺さぬままテレシスが距離を詰める。状況をひっくり返そうと肉薄するテレシスは、不死の黒蛇の顔に動揺が無い事に気付いた。
寸での所で前に繰り出していた足を止め、横に跳ぶ。直後、その足元から黒い蛇が飛び出した。回避行動をとっていなければ丸呑みにされていただろう位置だ。
イグナスのアーツは物質的な干渉を受けない。それを利用して黒蛇はその剣先を地面に潜らせていたのだ。
それを戦士の勘だけで凌いだテレシスに、黒蛇が感心する。
そして確信する。彼は必ずこの先も崩しがたい障害となる。
故に、テレシスはここで殺しておくべきだと。
アーツが一層激しくなる。
獲物を追い詰めるように執拗に、自在な剣の軌道にテレシスの魂が掠り始める。
チリチリと、魂を直接削られていく。それを何とか紙一重で躱していた。それに対し黒蛇は刀身をさらに伸ばし地を這うように暴れさせた。
足元を徹底的に狙われ、テレシスが宙に跳ぶ。そして無防備となったテレシスに黒蛇の顎が迫る。
テレシスはそれを、中空で体勢を整え体を捻り躱した。まるで空気を踏みしめたかのような、超人的な肉体操作の為せる技。
黒蛇はその一寸先を通り過ぎていく。
「だが、貰っていくぞ?」
黒蛇が手首を捻った。それは縄を撓らせるように柔軟性を取り戻した刀身を大きく揺らす。
刀身が波打ち、紙一重の場所にいたテレシスの左側面を打つ。疾走中の列車の側面に体を激突させたような衝撃がテレシスを襲い、着地後に体勢が崩れる。
そしてそれを見逃す黒蛇ではない。
突き出された剣先はそのまま天井へと昇る。伸びた蛇の胴体は鋭い刃に姿を変え、真下のテレシスを狙い定める。
「さらばだ、魔王」
大上段の一撃が振り下ろされる。もはやテレシスにこれを躱す事はできない。先程の一撃で左半身が思うように動かない。そして防ごうにも、実体を持たぬ刀身を弾く手段は彼にはない。
テレシスの中心に浮かぶ魂を、見事に左右に分かつ軌道。そうなればもうテレシスの精神は二度と元には戻らない。
無意識に腕を翳し体を庇う。意味がないと知りながら、戦士としての生存本能が急所を防いだ。
そして広場の端まで届く長大な黒刃はテレシスの正中を捉え。
届く直前に、僅かに左に逸れた。
「!」
軌道が変化したそれはテレシスのすぐ傍を掠め、地に叩きつけられるに終わった。
すぐさま無形の刃から距離を取る。
致命の斬撃が外れた。それは偶然ではない。
テレシスは遠くに立つイグナスを観察する。
イグナスは俯き、剣を持っていない方の手で頭を抱えて呻いていた。
明らかに様子がおかしい。そのまま様子を伺っていると、イグナスが口を開いた。
「おい。人の体で何してくれてんだ?」
「! イグナス! イグナスなのか!?」
タルラが名を呼ぶ。そちらを向いた彼は不格好ながらも笑みを浮かべた。
だが再び頭を抱える。
「ほう、私から意識を奪い返すか……! くっ、生きてやがったかクソモンペ……」
1つの肉体の中で意識が鬩ぎ合う。
苦悶の表情に歪みながらもイグナスは不死の黒蛇を精神力だけで押しのけていた。
「奴はお前の道に不要だろう? 何を躊躇う必要がある?」
不死の黒蛇はそうして唆す。
テレシスはイグナスが掲げる感染者と非感染者の融和を否定する者だ。それも強大な力を持ち決して折れぬ精神をも併せ持った男だ。
この、テラの行く末を決める瀬戸際で呑気に説得を試みている場合ではない。早急にその魂を割断し二度と立ち上がれぬようにしてアナンナ復活の阻止に動くべきだ。
それは紛う事無き正論ではあった。
不死の黒蛇、コシチェイはどこまでも合理的で目的の為に最善の手段を取ることができる。
ウルサスという国の繁栄のため。その土台となる富国強兵を推し進めようと戦争を仕掛けた。
国内の秩序安定と源石の安定供給のため、感染者に明確な被差別階級という地位を押し付けた。
その意思を滞りなく行き渡らせるため、それにそぐわない人間を何人も闇に葬ってきた。
どれも倫理の欠片もなく人として悍ましい在り方を貫いてきた。それも全ては目的を果たすため。
だからこそ、テレシスに拘ることに価値を見出せなかった。
それに対し、イグナスは言った。
「うるせえ。言っただろ、あいつごと救ってやるって」
敵だから何だ。強いから何だ。それが最善じゃないから何だ。
そんなもの、彼の目指す
「俺が寝てた間戦ってくれてたのは礼を言う。だがもうここからは俺の戦いだ。お前が切り捨てた全てを、俺は拾っていく」
黒く染まっていた刀身の色が抜けていく。広場を蹂躙していた黒蛇は綻び消え、その手には旗と短剣が残される。
霞み消えていく黒い残滓が、その心を理解できぬまま、それでも最後に一度だけ笑った。
「いいだろう。その結末を、見守っているとしよう」
そうして黒蛇の気配は完全に消えた。イグナスは体の支えを失い荒く呼吸を整える。これまでの消耗に加えて鉱石病の副作用もあり、その額には脂汗が浮かんでいる。
どうにか息をつきイグナスが見上げた先、そこには剣を振りかぶったテレシスがいた。
「危ない!」
寸での所でタルラが2人の間に挟まり剣を受ける。イグナスと2人して吹っ飛ばされた。
追撃はない。2人とも立ち上がるのもやっとの状況。しかしテレシスが差し向けたのは言葉の刃だった。
「貴様は己の信念を貫くと言うのであれば、先の一刀にて我を斬るべきだった」
その足は動かず、代わりに剣の柄が軋むほど握りしめられる。
「他者を踏み躙ってでも事を為す覚悟が貴様にはない。故に、我は折れぬ」
その時、ザ・シャード全体が激しく揺れた。
ザ・シャードの中にいたイグナス達は気付かなかった。その塔の頂上には既に、天災雲の源石粉塵を取り込み成長を続ける巨大な紅い結晶があったことを。
アナンナ再誕の儀式を遂行していた聴罪師の門弟サルーズ。彼女は遂にその肉体そのものを器とした。ドゥカレより託されたティカズの血を内に取り込み、アナンナが共鳴を起こす。
塔の上に結実する赤い果実。いや、巨大な源石結晶。
アナンナが、覚醒した。
その産声はザ・シャード上空に赤雷を降らせ、呼応するように枯枝がアナンナ目指して伸び大樹となる。テラの原初を司る存在に、大地と空が軋んでいるかのようだ。
全てが混沌とした地獄のような光景が、ロンディニウムを見下ろしている。
それだけではない。
重低音が大気を震わせた。ロンディニウムの上空でアナンナを巡って2つの巨大な影が激突する。
アナンナの元にテレジアを送り届けようとする飛空船。それを阻止しようと道を阻む空飛ぶ鯨の骨、ライフボーンの亡骸。そこにはアーミヤやドクター達もいた。
縺れ絡み合った両者は不協和音を奏でながら空で鬩ぎ合う。宿命の終わりを見届けんと奮うレヴァナントの怒声とライフボーンの鳴き声が空に木霊する。
だが、遅かった。レヴァナントの執念はライフボーンを押しのけ一直線にアナンナへと向かっていく。乗り込んだアーミヤ達とともに。
飛空船がアナンナに吸い寄せられていく。彼我の距離が近づくにつれその高すぎる源石の活性に飛空船の至る所は凄まじい速度で結晶化していった。
アナンナが全てをその結晶の内に呑み込んでいく。
テレジアも、ドクターやアーミヤ達も。全ての時が止まり、その中で成長を続ける源石だけが時間の歩みを許されていた。
そしてそれは、その足元にあったザ・シャードも同じこと。
激突を境に、瞬く間に空間そのものが黒く染め上げられていく。無秩序に反射する源石の表面、無数の鏡の中に閉じ込められたかに見えるそれ。体表を覆い尽くしていく夥しい源石。
突然の出来事にイグナスとタルラの思考は空白に沈んだ。
だがイグナスの眼は、孤独に立つその男を捉えていた。
テレシスは遥か空を見上げていた。
かつて謀殺し、生命の禁忌を犯して甦らせ、そして今再び死へと歩んでいく妹のことを。
その、今にも消えてしまいそうな背中を見てしまった。
「行かせるかよ!」
イグナスが飛び出した。ここが岐路だと直感した。
救われるべき者を救うため。その一念が結晶化までの僅かな猶予を縫う。
どうか届けと手を伸ばす。
振り返るテレシスが僅かに目を見開き。
そこで、イグナスの記憶は途絶えた。