金色の海で、2人の男が対峙していた。
1人は膝をつき、息も絶え絶えだ。無数の刀傷が走り黒い装束を赤く染め始めている。
一方の男はそれを冷たく見下ろし、そして遠くに見える白い巨大な塔を見上げた。
テレシスは、テレジアがそこにいる事を知っていた。元よりそういう計画だった。
2人の間には埋めがたい距離がある。サルカズの亡霊が漂う金色の海に、虚無の空間。運命を分かち合った双子はもはや出会う事はないだろう。
だがそれでいいとテレシスは思っていた。既に別れはザ・シャードの頂上であの日の内に済ませた。
後はテレシスが源石の創造主をこの空間から叩き出し、その支配から大地を解放することを以て手向けとする。
だというのに。
「諦めよ。あのドラコがいるならばいざ知らず、貴様1人に止められるほどこの刃は軽くないぞ」
ここまで来て、まだこの男は自分を止めようと立ち向かってくる。もはや理解不能だった。
鳩尾を蹴り、致命傷ではないが決して浅くもない斬撃で血を流し、盾にしたアーツユニットごとその体を弾き飛ばした。既にその意識は三度を超えて断ち切られているはずだ。
地に伏せ動かなくなった彼を見限り、あの塔の元へ向かおうとする。
だがその足が何かに縫い留められた。後ろを振り返れば、イグナスの右手がその足首を掴んでいた。
「っ」
初めて、テレシスは彼を煩わしいと思った。
鋼のような心に立ったさざ波が次第に大きくなっていく。その手を離そうと掌を剣先で貫いた。だが足首を掴む力は増すばかりで、その頑なな反抗がより一層テレシスを苛立たせる。
「ぐっ!」
気付けばテレシスはイグナスを蹴り飛ばしていた。痛みに思わず呻き声が出る。湿った土を詰めたボールでも蹴ったかのような感触だった。
イグナスは内なる宇宙に設定された金色の砂浜を2,3度跳ね、また地に転がった。
その息は弱々しい。
今度こそ。そう確信してテレシスは背を向けた。
だがその背を掴んで離さない声があった。
「ま、て……」
「っ! 何なのだ、貴様は!」
テレシスが声を荒げた。その一生で一度も出した事の無いような、剥き出しの怒りが滲んだ声だった。
これが王庭に並ぶ者ならば、テレシスは毅然とした態度のまま理を説いただろう。
魔王の継承者であれば、テレシスはその覚悟の是非を問いただしただろう。
バベルの亡霊、かつて敵ながら誰よりもテレシスを理解した過去のドクターならば、約定に従ってその首を刎ねただろう。
だが、力及ばず、何度も挫け、それでも立ち上がることを止めないこの男は。
何の関係もないのだ。サルカズの宿命にも、バベルにも。
感染者を救うのであれば、逃げればよい。テレシスはアナンナを取り込み、源石の創造主を斬りその生を終えるだろう。その後はアナンナをカズデルの後継者に託せばサルカズは再び報復によって滅ぶことはない。その際争いを調停すれば数多くの感染者が救われる。そうすればいい。誰もそれを咎めはしない、むしろそう望まれているはずだ。
何故ここまで、テレシスを救う事に固執する? そのために命を懸ける?
その瞳に、消えない篝火を灯しているのは一体何か。
「……」
応える余裕もないイグナス。だがその腕がピクリと動く。
(おれ、は……)
頭に浮かぶのはこれまでの日々。タルラと、レユニオンやロドスと駆け抜け勝ち取ってきた幸福。
その原動力となったものは何か? その心を燃やす思いは何か?
脳裏を過ぎる思い出は遠く過去のものへと移り変わっていき。
そしてこのテラに生まれた瞬間を、飛び越えた。
■■■■は、ごく普通の一般家庭に生まれた長男だった。
名前はどこか朧気で、ただ信念を貫けるように、そんな思いを籠めた名を貰った覚えがあった。
優しい両親と友人、そして少し生意気ながらも可愛い弟妹に恵まれていたことは幸運だったと言えるだろうか。誰かを愛し、また愛された。そんな人生は彼の指針となった。
誰かの笑顔を見るのが好きだった。それだけで、自分も笑顔になれるから。
努力が報われる瞬間が好きだった。その努力の熱を知っているから。
彼は理不尽に心を歪まされることもなく、多少の分別はつきつつもその優しい性根そのままに大人となった。就職先も、人の役に立ちたいと自ら進んで警察官になった。
だが夢だったその職業は、奇しくも少年の理想を少なからず裏切った。
彼は大人となってようやく気付いたのだ。
世界は物語に語られるほど残酷ではなく、かと言って綺麗でもなかった。
世界を滅ぼすような巨悪はない。だがじわじわと心の奥に澱みが募っていく。守るべき住民から罵声を浴びせられ、明らかな悪人が法に守られ裁きを免れた。理不尽に嘆く遺族にかける言葉は終ぞ見つからず、惨劇の大抵は既に取り返しがつかなかった。
英雄はいない。1人の意志など、国家どころか組織1つ変える事も叶わない。
変わらぬ現状のまま、ニュースで見ていた被害者の数は彼の目の前に数字以上の現実として広がっていた。
彼は暫くして自ら退職届を上司に出した。
きっかけは特にない。ただ、現実というものに打ちのめされた。土に埋まっていた岩をひっくり返した時のような、顔を顰めたくなるような現実の、惨さとも呼べない仄暗さに嫌気が差してしまったのだ。
仕事を辞めた彼を、家族は否定しなかった。ただ温かく受け入れ、見守ってくれた。それがまた彼には辛かった。
名に込められた想いを踏み躙ってしまったように思えて、情けなくて、惨めだった。
何をするにも無気力で、瞳は黒く澱んでいた。どれだけ明るく過ごそうとしても陰にばかり目が行く。街の至る所に自分を失望させるものがあるとその時は信じて疑わなかった。
これまで人生を歩む支えになっていた信念を、彼は失ってしまっていた。
そんな時。彼はとあるゲームに出会った。
きっかけはもう覚えていない。ネットサーフィンをしていた時に出た広告が面白そうだったとか、あるいはゲーム好きな弟妹に勧められたのだったか。ともかくそういった理由だろう。
気晴らしになればと軽い気持ちでユーザー名を登録し、画面に触れた。
だが彼はその日、食い入るようにその画面を見つめ続けた。
そこには、人の生き様が焼き付いていた。
大切な何かを失った絶望。
親しい友人を殺され殺意と善意に揺れる様。
信念と現実に板挟みになる苦悩。
そしてそれでもなお、進む事を諦めない人の輝き。
地獄のような行き止まりの世界で、彼らはその心を燃やしていた。
それを、彼は美しいと思った。そして報われて欲しいと思った。
その生き様を見届けなければ。そう思った。
昼夜を忘れて没頭し、気付けば顔は涙でぐちゃぐちゃで偶然目にした家族にひどく心配されたほどだ。
おかしな話だろう。彼らは現実ではない。脚本家によって創られた、ただの物語だ。
それでも彼には、そこに彼らが生きているように感じられた。その悲嘆も喜びも覚悟も、画面を超えてその熱を感じられた。
そして、彼は振り返って自分はどうだと思い直した。
自分以上の理不尽に、彼らは挫けなかった。
例え一度絶望したとしても、その歩みを止める事はなかった。
恥ずかしいと、そう思った。晴らされた心にまた別の嫌悪感が一滴垂らされた。絶望に打ちひしがれ立ち止まったままの自分がそのゲームの主人公を名乗るのは冒涜だとすら思った。
それから彼は再就職を決意し努力した。何度目を背けたくなる出来事に出会っても、自分に再び前に進む勇気をくれた彼らに恥じぬようにと歯を食いしばって耐えた。
そのおかげか今まで仄暗い陰ばかり目についた視界は次第に広がっていき、それと同じだけ光が差す場所もあるのだと気付くことができた。
こうして彼は、アークナイツに救われた。
だから同じくらい、救われて欲しいと願った。
例えそれが敵だろうと味方だろうと関係ない。
救われるべきだと思ったのならば救う。救ってみせる。
拳を握りしめる。イグナスは自分の胸に灯る炎を見つめ直した。
原点が鮮明となり、四肢の先に力が入る。
「テレシス、お前の気持ちも分かる」
イグナスが再び立ち上がる。レユニオンの旗を支えにして寄りかかりながらも、ゆっくりと。
幻想的な金の奔流の中、硝煙と煤に飾られた暁の証が立てられる。
レユニオンここにあり、と。
「故郷を蹂躙されて、憎悪と戦いの中でしか生きられなくされたお前達が懸命に抗った結果がこれだ。お前はもう、積み上げた犠牲で舗装された道を行くしかない。そう信じてる」
ヴィクトリアを巻き込んで。大勢のサルカズを集って。
この戦争で沢山の死傷者が出た。互いへの怨恨も深まっただろう。ヴィクトリアという大帝国をあわや転覆しかけたのだ、サルカズは今後も周辺国から危険視されるだろう。
そうしてでも為すべきと考え実行した計画だ。それ以外の道を選ぶにはもはや犠牲が多すぎる。
鋼のような心を持つこの男は、既に覚悟を決めている。
だが、それでも。
「俺という存在全てをかけて、お前の信念を否定する」
「何故、貴様が命を賭ける?」
風前の灯。テレシスには目の前の男がそう見えた。
旗を支えに立つ姿は満身創痍。腕に巻かれた暁のスカーフは既に赤黒く染まっている。震える体からは血と生気が零れ落ちている。いくらウルサス人が頑強といえども、このままではもってあと1時間もないだろう。例えここが源石の内部だとしても、ここで死ねば現実世界でも死ぬのだ。
「何故立ち上がる? 待てばよかろう。その身を翻し、あの者らとともに我と再び対峙すればよい」
「それじゃあ、手遅れになるだろうが……」
「既にこの大地は間違っている。サルカズは魔族と蔑まれ、鉱石病は世界を覆いつくしつつある。ラテラーノの言う神とやらがいるならば、その悪辣さは筆舌に尽くしがたい。サルカズを縛る創造主を誅する役目を、我が肉親を2度の死に至らしめてまで掴んだ好機を、我から簒奪する貴様の信念とは何だ?」
「外でまだ皆んなが戦ってる。天災雲の真下で、活性源石の粉塵に晒されながらだ……!」
ザ・シャードが起動してしまった以上、この戦争は多くの感染者を生んでしまうだろう。
ザ・シャードにイグナス達を送り届けてくれた仲間達はどうしているだろうか。源石に取り込まれた自分達を必死に助け出そうとしてくれているだろうか。想像する事しかできないが少なくとも逃げ出したりなんてしてないのは分かる。
それに、バベルの塔の頂上で先程から爆発音が聞こえる。
イグナスにとっては聞き慣れた音だ。Wも、そしてアーミヤ達もそこにいるんだろう。なら相対しているのはおそらくテレジアだ。
彼女達も戦っている。大切な人を前に、それでも譲るわけにはいかない信念を貫き通すために。
イグナスが憧れた人々は皆、戦っている。
大気の源石粉塵にも怯えず、強大なアーツの使い手にも挫けず。
「だってのに。ここで俺が命惜しさに理想を曲げちまったら、レユニオンの幹部なんてやれるかよ!」
理想。
言葉にすれば簡単で、それでも最も現実から遠い願い。
感染者と非感染者が、互いに手を取り合い生きていける未来。
この大地が、安らかに眠りにつけるような未来。
テレシスの脳裏に浮かぶのは、バベルの活動を広げていきたいと語ったテレジアの姿。
彼女を正面から見つめ、その身に背負うにはあまりに大きすぎる野望を語る彼女にテレシスはかつて警告した。
彼女の愛は、理想であるがゆえに文明の許容を超えたそれは、誰にも理解されることはない。
そう思っていた。
だが、ぼろぼろで血反吐を吐きながらも叫ぶ目の前の男が語るそれは。
「誰にも理解されない? そんなわけあるか!」
彼女が信じ、託したものだった。
「テレジアの最期の願いを俺は知っている。あのちっぽけな祈りを、俺は信じる! ドクターやアーミヤが切り拓く未来は、俺達の希望に辿り着くって信じてる! だからお前1人、行かせはしない!!」
その細く浮かんだだけの糸にも似た、頼りない希望だとしても。
ロドスとレユニオンが手を取り合えたように。それらを束ねて紡ぎ、次へと託す。
そんな数多の命に支えられた結末こそ、イグナスが望んだ人間賛歌。
イグナスは既に地を踏みしめ、その2本の足で堂々と立っていた。
無風のはずの源石内部で、レユニオンの旗がはためき始める。
「足りないって言うなら俺がかき集める。この世界に生きる全ての人に、ここに集まれと示す星導に!」
イグナスのアーツが炸裂する。それはこれまでにないほどに強くテレシスの肌を打つ。
「『輝く暁の旗、明日へと走る鬨の声』!」
「それは、通じぬ!」
テレシスは鋼の意思でイグナスの精神干渉を跳ねのけ足を繰り出す。
距離にしてみれば10メートルもない。数歩進めば間合いに届く。
剣を振り上げ、袈裟切りにする。それだけで事は済む。
だが。
「『この理想が河川を赤く染めるとしても 正義という名の旗を掲げ 我らに寄り添う愛を謳う』!」
「!」
続く言葉にイグナスから感じる波動がより一層強くなった。
思わずテレシスも腕を翳し仰け反る程のアーツの出力。
アーツの拡張詠唱。
フロストノヴァが歌う子守唄のように、アーツの詠唱は連ねる事でその効果を増す。
Logosの元で修業をしていたイグナスもまたその理論について学んでいた。
音は呪術を乗せるのに最良の媒体である。とあるサルカズの残した言葉だが、それは正しい。
言霊が理を捻じ曲げるように。リターニアの楽譜がアーツに変換されるように。
言葉には、確かな力があった。
「『隣人を信じる、真なる勇気を持ち 希望の船を、見送ろう』」
テレシスの動きが鈍る。まるで粘ついた液体の中を進んでいるようだ。
だがそれは錯覚。イグナスのアーツによって精神が進む事を拒絶し始めているからだ。
それでも着実に一歩、また一歩とテレシスはイグナスに向かっていく。
アナンナを降臨させるために犠牲になった者の顔が次々と浮かび上がり、止まりそうになる足を前へと踏み込ませた。
「『別れの言葉はいらない どうか再会の約束を』」
心の内より湧き出る想いが、言葉となって音を為す。
今までにないアーツの出力とその規模に、イグナスの体の内ははち切れそうだった。
『その力、多用するでないぞ』
一瞬、師の言葉が頭を過る。
師に、仲間達に、タルラに、心の中で謝罪する。
きっと、取り返しのつかない事になるだろう。彼らを泣かせる事になるかもしれない。
(それでも、俺はレユニオンの幹部、イグナスだ)
なら、命くらいいくらだって賭けられる。
かつて画面の前で憧れた彼らに、理想に向けてひた走る彼らと肩を並べるという事は、そういう事だと思うから。
「『希望はここに 未来はこの果てに 誰かの悲しみなくとも楽園は築かれると その旅路は証明する』」
結晶が弾ける。肥大を繰り返し、成長していく源石結晶。その感覚は西北凍原で感じたものと同じだった。
体が徐々に侵食されていくのを感じながら、それでもイグナスは躊躇わない。
「『さあ、旅立つ彼らに祝福を』」
これはかつてこの物語に救われた男が、恩返しをしたいと決意しただけのもう1つの結末。
希望を乗せた彼らとともに、よりよい未来を掴み取ろうと足掻いたただそれだけの旅路。
アーツの詠唱は祈りに似ていると師は言った。
ならばきっと、彼の結びの言葉はこうだろう。
内なる宇宙に、1人の男の祈りが伝播する。
「『明日の方舟よ、良い旅を』!」