吹き荒ぶ嵐の中、砂浜を踏みしめる音がする。
アーツの濁流に逆らって、前に進む男がいた。
テレシスが一歩、また一歩と。重い足を引き摺り前に出す。
向かい風が天災の嵐よりも猛烈に肌を打つ。重力が何倍にも感じられ、膝をつけと体を圧しつけている。
全開となったイグナスのアーツ。感情の波動が肌を打つたび、心が激しく揺さぶられ平衡感覚を失っていく。流れ込んでくる感情や記憶が脳をかき回し、現実との境が曖昧になっていく。
思い起こされるのは、これまでの長い日々だ。
ロンディニウムを支配下に置くため、精神をすり減らした日々。日を追うごとに強まっていくサルカズの亡霊の怨嗟を聞いた。内戦に手を貸したあの日、首謀者であったヴィクトリア貴族が自分達をどのような目で見ていたかをテレシスはよく覚えている。
サルカズは忌むべき存在だった。この大地に祝福されぬ、棄児だった。
それを変えようと、長い時をかけた。多くの同胞を手にかけた。そこには、自分と対極にいながらも同じ未来を追う血を分けた妹もいた。
そして今、タルラの業火に気力を焼かれ、魂を揺さぶる波動に足元すら覚束なくなって。
―ザッ!!
それでもなお、足音は止まない。
テレシスは折れない。
その歩みは止まらない。
彼の信念は曲がらない。
心に刺さった一振りの剣が、折れることを許さない。
これまで積み上げた屍が、心を揺さぶる声に耳を塞ぐ。
彼の目の前にはただ1つの道がある。サルカズがアナンナを手にし、己の運命を掌握するまでの道筋が。
振り返れば、途方もない長い距離を歩いてきた。背後では道半ばで倒れた者達がこちらに手を伸ばしている。
だが、それももうすぐ終わる。
あと少し、あと一歩。彼らに報いる光に辿り着くまで、テレシスは歩みを止めなかった。
そして短くも途方もない道を乗り越え、テレシスは遂に至った。
イグナスに刃を届かせる距離に。
イグナスはもう目と鼻の先にいる。こちらも今にも倒れそうなほど厳しい表情をしている。それを見るテレシスも砂漠の漂流者のようにやつれていた。
衝突は避けられないことを悟った両者が、互いに振りかぶる。テレシスは剣を、イグナスは旗竿を。
もはや余力はない。この一撃で、全てが決まる。
「「うおおおぉぉ!!!」」
同時に放たれた渾身の一撃が、両者の間で火花を散らした。
鈍い金属音ののち、何かが断ち切られた切断音がした。少し離れた場所に何かが落ちる。
それは支柱を斬られたレユニオンの旗。アーツで光り輝いて見えたそれは、ゆっくりと金色の海に沈んでいった。
結果は明白だった。
テレシスの剣はイグナスの旗竿を断ち切り、その胸を袈裟切りにしていた。
焼かれるような痛みがイグナスを襲う。だが彼は仰け反りそうになる体を前傾させ、むしろテレシスに掴みかかった。
「テレシスー!」
「!」
まだ終わりではない。テレシスは悟った。
振り切った剣を引き戻し、体重を乗せ刃先を真っ直ぐに突き出す。
それはイグナスの腹を貫き、背後に抜けた剣先を鮮血に濡らした。
「がっ!」
イグナスが吐血する。体が硬直し、震える手でテレシスに寄りかかる。
荒くなっていく呼吸の音が、懐に潜り込んだテレシスにはよく聞こえた。手に伝わってきた肉を断つ感触が、それが致命の一撃だったと告げていた。
刀身がカタカタと震えている。それは疲労困憊の肉体が漏らす悲鳴だったのか、それとも痛みに喘ぐイグナスの震えが伝わって来たのか。そう考えて、テレシスはそれだけではないと分かった。
その心に立つさざ波に、テレシスの瞳が揺れる。
立ちはだかる敵を誅しただけ。にも関わらず、何故こうも柄を握る手が震えるのか。
(絆されたとでもいうのか? 我が?)
それは、彼にとって考えられないことだった。だがテレシスは今まで相対する男のアーツを真正面から受け止めていた。何かしらの影響を受けていたとしてもおかしくはない。
初めて、
差し出された手を、取りそうになった。
それを自覚し、柄を握る手に力が籠もる。
だがもう、その背を引き留める糸は自ら斬ったのだ。これでもう、惑わされることはない。
束の間に感じた未練を気の迷いと断じ、テレシスは差し込んだ剣をゆっくりと引き抜く。すっかり力の抜けた敵はそのまま刃が引かれるまま前のめりに倒れ込む。
それを流し見ながら、テレシスは周囲を伺う。探しているのは、テレジアが自分に託した物。
(急ぎ、アナンナを手にしなくては…)
―ガシッ!!!
辺りを見渡していたテレシス。その手首を何かが掴んだ。
万力のような力に、剣ごと左手が縫い付けられる。
「なっ」
動揺に動きが止まるテレシスの眼前で、倒れかけていた男が踏みとどまっていた。
俯いていたイグナスが顔を上げる。
その瞳に宿る執念の光に、彼はその生の中で初めて気圧された。
「つか、まえたぁあああああ!!」
「!?」
大口を開け、獣のような唸り声が轟く。イグナスは口内に溜まった血を吐き出しながら、刺し貫かれた剣をあろうことか体に押しとどめた。それに思わずテレシスが硬直する。
平時であればあり得ぬ動揺。だがイグナスのアーツを何度も間近で受けた事でテレシスの精神は揺らぎ続けていた。
生じた僅かな隙を突き、イグナスは半分となった旗竿を捨て、もう一方の手でテレシスの胸倉を鷲掴む。
引き寄せられたテレシスは、目の前に迫った男の視線に貫かれた。
「歯ぁ食いしばれテレシス!!!」
前後不覚の中、今度は後ろに押し出され頭が揺れる。
一方イグナスは大きく仰け反り顎を引く。
この後に何が起こるか、気付いた時にはもう遅かった。
振り絞った力を解き放ち、振り子のようにイグナスの頭蓋が戻ってくる。
胸倉を引き寄せられたテレシスに、逃げ場はなかった。
「俺の頭は、ちっとばっか響くぞ!!!」
体ごと激突する勢いでイグナスが突っ込み、渾身の頭突きが放たれる。互いの額が激突し、ひどく生々しい鈍い音がした。
疲労困憊の中意識を飛ばしかねない衝撃に両者の頭で火花が散る。
そしてその空隙を縫うように、イグナスのアーツが解放された。
痛みと脳への衝撃で抵抗力を失ったその瞬間を狙った、ゼロ距離からの全力の精神干渉。
感情の波動が爆発し、一際大きく大気を揺らした。
春を告げる風のような、大きな風が吹き、静寂が辺りを包む。
暫くの間、彼らに言葉はなく、膝を屈することを拒んだ2人は互いにもたれ合うように立っていた。
「初めから…狙って、いたのか?」
「んなわけねえだろ。くそ…もうちょい、上手くやれるはず、だったんだがな…」
テレシスの手がようやく柄を離し、だらりと垂れ下がった。
支えを失った剣がイグナスの肉体から自然と抜け落ちた。
遠くでバベルの塔が崩壊していく。テレジアがアーミヤ達に敗れ、アナンナの制御が疎かになったことで内なる宇宙は次第に秩序を失っていた。
呪縛から解き放たれたサルカズの亡霊が金色の海を渡っていく。彼らは源石に囚われることなく、本当の終末を迎えるのだろう。
誰も彼らを見ていない。孤独な情報の海で、テレシスとイグナスだけが取り残されていた。
そしてその頭上では、掌に収まりそうな小さな菱形が彼らを見下ろしていた。
テレジアが命を懸けて奪い取り、テレシスへと託した物。
テレシスが源石の創造主を討つ為の片道切符。
艶やかな紅に染まった拳大の源石。
アナンナの本体とも呼ぶべき代物がそこにあった。
だが、それに手を伸ばそうとは思えない。抱えていたはずの信念は、何かに押し流されてしまっていた。
代わりにテレシスは、呆然とした声で目の前の男に尋ねた。
「何故…」
「皆んなが笑える、未来のためだ」
テレシスの疑問にイグナスは笑った。まるで死を目の前にしていっそ清々しくなったような、力の抜けた笑みだった。
「俺は、あいつらに賭けた……アーミヤやドクター達なら、きっと、俺達が目指した未来に辿りつける……なら、お前だって、あの船に乗ったっていいじゃねえか……」
「……その資格など、我にはない……」
テレシスは拒む。テレジアを謀殺して、この戦争を引き起こした。だがおそらくこの戦争はサルカズがロンディニウムから追放される形で終わるだろう。サルカズが新たな故郷を得る事は叶わなかった。戦に負けた指揮官に彼らは従わない。もはやカズデル軍事委員会にすら居場所はない。
だがその過程でロドスの敬愛する妹の亡骸すら辱め、大勢を死に追いやったのだ。今更どの面を下げて仲間になろうというのか。
「なら、俺が許す。だからもう、1人で死のうとすんな……」
「……貴様が、それを言うのだな……」
それはどこまでも欲張りで、傲慢な物言いだった。
先程の一撃は、イグナスの鳩尾から背中にかけて貫通した。間違いなく致命傷だろう。
加えて貫かれたはずのイグナスからは今や血の一滴も零れなかった。その代わり、結晶を砕くような乾いた音が患部から頻りに聞こえていた。
傷口を源石が覆い始めている。それは極めて高い血中源石濃度の鉱石病患者に見られる現象である。その末路もまた、テレシスはよく知っていた。
「ここが、貴様の終わりか?」
「そう、かもな」
掠れるような声に、ひび割れるような音が混ざる。
内なる宇宙が崩壊し、仮初の世界が綻んでいた。
このままでは源石の内部に閉じ込められる。だがその間際、頭上に浮かぶアナンナが一際大きく明滅し、気付けば2人は見知らぬ地下の大広間に出ていた。アナンナの制御権によって何とか脱出した形だ。
転移した先は、どこかの大広間だった。
薄暗いそこには何もない。あの地下王墓のような大理石の装飾も、荘厳な柱もない。ただ洞穴の延長のような空洞に、苔むした玉座が1つだけ置かれている。
そこはかつてヴィクトリアが建造した最初の玉座であり、移動都市建設に伴い移されたもの。
聖王会西部広間の地下に広がる、ヴィクトリア原初の王権の象徴だった。
地上では未だに戦いが続いているのだろうか。頻りに岩盤が揺れ土埃が降ってくる。
このまま、仲間の誰にも看取られず、生を終えるのだろうか。
そう考えた時、イグナスは空気が酷く寒々しく感じられた。それを察したテレシスが問う。
「……言い残すことはあるか? 悔いがあるのならば、我が心に留めよう」
トドメを刺したのは自分にも関わらず、律儀に問うテレシスはやはり真面目なのだろう。
悔い。そう聞かれれば、イグナスは当然あると答えた。
「…まだ、あいつらを見ていたい。見守ってやりたい。俺達の希望は、未来に繋がったのか、確かめたい…」
これまでの、テラで過ごした日々は鮮明に思い出せる。そこにあるのは、どれもこれも笑顔ばかりだ。
前世の知識を使って。時には体を張って。そうして勝ち取ってきた、前世で見られなかった景色だ。
その先は、どうなっていくのだろうか。人類は、鉱石病に打ち克ったのか。知りたいことはまだまだあった。
そして、一番はやはり。
「あいつらを、悲しませたくない」
きっと、置いていかれた彼らは深く悲しむだろう。一生残るような深い傷になってしまうかもしれない。
それは嫌だった。彼らの笑顔が見たくてこれまで戦って来たのに、それを想像するだけで心臓が鷲掴みにされたみたいに締め付けられる。
これから先、まだまだ困難は続く。海の脅威に北の悪魔。ロドスとレユニオンが手を取り合っても、依然としてそれは辛い旅になるはずだ。
その力になれない事が、イグナスにはどうしようもなく悔しい。
「だから、1つ頼まれちゃくれねえか?」
「……よかろう」
テレシスは、その言葉に耳を傾けた。
自らの命を懸けてまで、敵1人すら取りこぼすまいと信念を貫き通した、どこまでも愚直な男の最期の願いを聞き逃すまいと。
「 」
一際大きく天井が揺れ、音が掻き消される。しかしすぐ傍にいた彼には確かにその願いは届いた。
「……」
「だめか?」
「……よい。貴様は我を下したのだ。敗者の務めを、果たそう」
「わりいな」
2人の話が終わったところで慌ただしい足音が大広間に響いてくる。
雪崩れ込むようなそれは広間に通じる通路から聞こえて来た。
「ここです! ここにイグナスさんが……!」
そうして入ってきたのはテレジアとの戦いを終え、急ぎイグナスの気配を頼りに進んできたアーミヤ達。
その目の前では、イグナスとテレシスの2人が息も絶え絶えに掴み合っていた。
それを見て、真っ先に飛び出した影があった。
暁色の瞳を爛々と輝かせ、ナイフを手にした彼女は躊躇なくそれを振り下ろした。
「そいつから離れろ、このクソテレシス!!」
「!」
咄嗟にテレシスが飛び退き躱す。支えを失ったイグナスをW、もといウィシャデルが抱える。
「アーミヤ、こいつ頼んだわ!」
後に続いたアーミヤ達に崩れ落ちるイグナスを託し、ウィシャデルは仇を追う。
「イグナスさん! 大丈夫で…っ!」
駆け寄ってきたアーミヤは、思わず言葉を失った。
傷から見るに、おそらくその腹を剣で刺し貫かれたのだろう。内臓はずたずたで今すぐに止血が必要なはずだった。
だが、その足元を濡らす血液があまりにも少なすぎる。
アーミヤの視線がイグナスの傷口に釘付けになる。
イグナスの傷口は殆ど出血していなかった。
その代わり、空いた穴を黒い結晶が埋めていた。
肉体から源石が析出してきている。顔の右半分を覆っていた体表源石も拡大し左半分にまで侵食してきている。それは、今までに何度も目にしてきた光景だ。
鉱石病の末期症状。血液中源石密度と源石融合率が急激に上昇し、体表源石がその体を覆い尽くしていく。
その存在そのものが源石へと変異していき、最後には弾け、その肉体すら残らなくなる。
この症状が出た感染者に対してできることは1つ。
被害が拡散しないよう、専用の遺体処理袋で隔離することだけだ。
「そん、な…」
動きが止まるアーミヤ達。だがウィシャデルだけはイグナスから飛び退いたテレシスにナイフを突き立てようと躍起になっていた。
その目は瀕死のイグナスを映さず、ただ憎き仇への憎悪で染められていた。
「W、まて」
震える声でイグナスが止める。
それに対する彼女の声は、どこまでも冷え切っていた。
「わるいけど後にして、逃げられるわ」
「だから、だよ」
一瞬、何を言っているのか分からずウィシャデルが足を止める。
そして、彼の言わんとする所を理解した彼女は怒声に近い叫びをあげた。
「はあ?! ふざけんじゃないわよ!」
「た、のむ……」
ウィシャデルの瞳孔が開く。それは理解不能なものを見る目だった。
何故、自分をそんな目に遭わせた人間を庇うのか。そんなぼろ雑巾みたいになって、どうして笑っていられるのか。
自分はこんなにも、腸が煮えくり返っているというのに。
動揺してウィシャデルは数秒、イグナスから目が離せなかった。生じた一瞬の隙をつき、テレシスがその場から逃走する。
「くそ、逃がさない!」
「ウィシャデルさん!」
アーミヤの静止の声も聴かず、彼女は逃げるテレシスを追って行った。
それを追おうとして、アーミヤは支えていなければ今にも地に伏してしまうイグナスの重みを思い出し踏みとどまった。
急ぎアーミヤは源石で形作られた杖を掲げ、イグナスの治療を試みる。Logosが時の進行を僅かに阻む結界を張り、ケルシーが唯一無事な左腕の静脈に抑制剤を打ち込んだ。
だがどれだけ手を尽くしても、彼の鉱石病の進行を止める事はできなかった。
イグナスは泣きじゃくりながら必死にアーツを使うアーミヤの杖を押しとどめた。これ以上はもう、彼女の負担になってしまうから。
その腕はもう手首付近にまで結晶化が進んでしまっていて、満足に動かす事すらできないようだった。
だから代わりに、アーミヤに手を止めるよう言い聞かせた。
「アーミヤ」
「喋らないでください! 安静にして、まだ、どうにかなるはずですから!」
これまでイグナスの言う事には素直に従っていた彼女が初めて見せた激情だった。
それだけ大切に思われていたのだと知って、イグナスの口元が緩む。
「あまり、気負い過ぎるなよ? 辛くなったら、ちゃんと周りを頼れ。どんな小さなことでもいい。溜め込まない事が大事だ…」
アーミヤが目を見開く。それは今まで、耳にたこができる程聞かされた注意だった。何故今更、そんなことを言うのか。
だってそれでは、まるでこれが最期の言葉のようではないか。
「ケルシー」
「!」
時間が無い事が分かるのだろう。イグナスは端的に告げるべき事を告げた。
「プリースティスが、目覚める。備えておくんだ」
「! 何故彼女の名を!」
それに答える事はなく、今度はLogosの方を向き、目を伏せた。
「わりい師匠。あれだけ忠告してくれたのに、この様だ」
「…よい。うぬは志を貫いたのであろう。エリートオペレーターとして、師として、誇りに思う」
「へへ、やっぱ、あんたが師匠でよかったよ」
その次はドクターだ。ドクターはどうしていいか分からず、ただイグナスを見下ろしている。
イグナスはバイザー越しでも彼の表情が酷く歪んでいるのが分かった。
「ドクター。この先は、俺でも分からない。だけどあんた達なら、出来るって信じてる」
だからこそ、イグナスはいつも通りに笑いかけた。
例えどれだけ不格好でも、別れの顔が泣き顔だなんてかっこ悪い。少しでも、彼らが前を向けるまでの時間が短くなるように。
「俺の言う事は変わらない。あの日、チェルノボーグで大勢を救ったのは、紛れもなくあんた自身だ。背負った願いに恥じない事を、あんたはやり遂げてる。だから、ちゃんと、自分を誇れ…」
「イグナス…」
途切れ途切れながらも、力強くそう伝えてくる彼にドクターは頷くことしかできなかった。
だが、イグナスにはそれで十分だった。彼らが強い事は、一番よく知っている。
「アーミヤ、1つ、頼んでもいいか?」
申し訳なさそうに、イグナスが懇願する。その声は弱々しくて、口元に耳を寄せなければ聞こえそうもない。
彼にそんな顔をして欲しくなくて、アーミヤは咄嗟にその手を取り耳を寄せる。
「 」
告げられた言葉に、アーミヤはまたしても何も言えなかった。
その願いを受け止める事も、拒否する事も、目の前の絶望の大きさに心が囚われていた。
「たのん、だぜ?」
自分の最期の願いを聞き届けた少女がどんな表情をしているのかすら、もはや気にする余裕はなかった。
あともう1人。言葉を遺すべき人がいる。
視界は既に霞み始めている。アーツの暴走で視界は物質の輪郭を映さなくなりつつあった。残された時間は、そう長くない。
イグナスは探した。いつもその視界にあった、輝く太陽のような魂を。
彼女の生き様を写し取った、温かな光を。
魂しか映さない視界は、まるで宇宙のようだ。漆黒の暗闇の中、星の輝きが点在している。
明るさも、大きさも、色も。その全てが違って見える。
そして少し先に、探していた星があった。
「イグ、ナス…?」
(ああ…そこにいたのか)
彼女の声を、聞き間違うはずもない。遅れてやって来たのだろう。少し離れたところにタルラはいた。
テレシスとの戦闘に加え、アーミヤ達と合流するために我武者羅にアーツを使い、道を阻むサルカズの亡霊を退けてきた彼女は息も絶え絶えだった。
「タル、ラ…」
彼女の傍に行こうと、イグナスがアーミヤの支えから離れゆっくりと歩き出す。
だが途中で力尽き倒れ込む。タルラは無我夢中で駆け出し彼を正面から抱くように受け止めた。
「イグナス…? どうしたんだ、これは、一体…?」
タルラは酷く動揺していた。抱きしめてくる指先が震えているのが分かって、イグナスはその背を優しくさすった。
「すまねえ、タルラ。意地張って、欲張っちまった」
「…そ、れは…」
「だから、これから話すことを、よく聞いて欲しい」
話したいことは山ほどあった。だがどれだけの時間があっても、それを余すことなく伝える事は不可能だった。
源石が体を侵食していく音が頭蓋に響く。
その中で、彼女の未来の為に遺せるものを。
「…この先、色々あるだろう。人を、恨みたくなる時だって、きっとある」
「よせ、やめてくれ。そんな話…」
思い浮かぶのは、前世で見た彼女の過去。
人の醜さに絶望し、守ろうとしていた人々すらその炎で焼いてしまった惨劇。
どうか、あんな未来を辿らぬように。
「憎んでいい。恨んでいい。それでも、最後には赦してやってくれ。憎しみに、囚われないでくれ。お前なら、できるから…」
情に厚いタルラのことだ。きっと誰よりも自分の事を引き摺るだろう。
テレシスをこの世で一番憎むだろう。
死んだ自分の後を追おうとするかもしれない。
それでも、彼女はタルラなのだ。
レユニオンのリーダーで。
誰よりも感染者の為に戦える人で。
イグナスが愛した、希望の星なのだ。
「お前の命はもう、お前だけのもんじゃ、ない。そうだろ?」
だから、これからも生きてくれ。
この理不尽だらけの大地で、戦い抜いてくれ。
その魂の輝きが、地平の果てまで届いて、道標となれるように。
『人は皆、いつか自分だけの星と巡り合うんだ』
かつて、父が語ってくれたことを思い出す。
空に浮かぶ綺羅星の中から、それを探すのが人生なのだと言っていた。
千差万別、どれ1つとっても違う星海から、いつ見上げても見つけられる、そんな星を。
目の前に、その星がある。太陽のように煌めく、温かな星が。
いつも傍で戦ってくれた。
理不尽に屈せず、誰よりも誇り高いまま、優しさを失わずにいてくれた。
自分にとっての憧れで、戦友で、最愛の人。
「タルラ。お前に会えて、よかった」
ピシッと何かが割れる音がした。
源石が砕ける音だ。何とか保っていたものがとうとう決壊し、連鎖的に崩壊は進んでいく。
タルラは抱きかかえる男の体が軽くなったのが分かった。源石と化し崩壊していく肉体は鳩尾の傷を中心に広がっていた。
そして今、その重みに耐えきれなくなった下半身が上半身と分かたれ、砕けた。
「ああ、あああ」
何も考えられない。ただ自分の心臓の音と荒れた呼吸音が鮮明になっていく。
彼に触れればいつでも温かかったのに、指先がひどく冷たい。
イグナスが、遠くに行ってしまう。ただそれだけは本能が理解した。理解してしまった。
ただの源石となっていく伴侶を逃すまいと、強く抱きしめる。
だが抱きしめる程に、薄い硝子へ力を籠めたように軋む音が強くなった。
「行かないでくれ、イグナス……」
「大丈夫だ……見えなくても、ちゃんとお前の傍にいる……だから」
タルラの幼子のような懇願に、イグナスは安心させようと口を開いた。
だが、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
拡大した源石が顔の全体を覆った。もう、彼の声は聞くことはできない。彼の体温を感じることはできない。
完全に源石と化した肉体が、綻んでいく。
大半が崩れて粉々になり、末端から粉塵となって風に流されていく。
タルラの喉奥から声にすらならない音が漏れ出た。腕の中で掌よりも小さくなっていく伴侶の残滓が飛ばされぬように、どうにか手でかき集めた。
それでも残ったのは、タルラが掴んだ、拳よりも小さな源石の欠片。
それが唯一残った、彼だったもの。
大気に舞った源石粉塵は、何故か未活性のまま風に流されていった。
それが皆を想う彼の優しさのおかげだったのか。それを確かめる暇すら与えられず、イグナスはテラの大地から姿を消した。
呆気ない。この大地に石ころのように転がっていた、感染者の末路だった。
タルラは、その手に握りしめた物を抱えたまま地に伏せていた。
隙間風のような嗚咽が聞こえてくる。泣き叫ぶには、あまりに現実感が無かった。
それは、この場の全員がそうだった。誰1人として、それを受け止めきれる人間なんていなかった。
やがてタルラが緩慢な動作で起き上がる。足をぺたりと地につけ、背骨が抜かれたような不安定さで天を仰ぎ見た。
その胸には、唯一彼女に残された、彼の残滓が握られている。
それがあまりに痛ましくて、かける言葉など見つけようもなかった。
かけた言葉ですら、彼女を折ってしまうのではないか。そう不安になった。
だが。
「大丈夫だイグナス。私は、憎しみに囚われなどしない」
タルラが虚空に呟く。その顔はやけに穏やかで、いっそ儚かった。
アーミヤにはそれが、全ての重荷を捨て去った幽鬼のように見えた。
タルラは腰元の剣を抜き、逆手で持つ。
そしてその剣先を自分の喉元にあてた。
「逝くときは、一緒だ」
そして、その剣先が押し込まれる。
あの日立てた誓い。
死が2人を別つまで、その片翼として彼に寄り添うのだと。
片翼を失った鳥は、もう飛べはしない。
ならばもう。彼とともに―
―ガキン!
タルラの喉を貫く前に、その手から剣が弾き飛ばされた。
床を転がっていく剣は数度硬い音を鳴らして止まる。
「……何故、邪魔をする?」
タルラは裏切られたという深い悲しみに瞳を澱ませ、間延びした仕草で振り返る。
その先には、杖を構えるアーミヤがいた。
「イグナスさんに、頼まれたからです。貴女を守って欲しいと」
助けると語るその表情は、とても救いの手を差し伸べる者ではなかった。
身を裂かれるような痛みを感じ、それでもどうにか堪える幼子の表情だった。
本当は、アーミヤも叫び出したかった。取り返しのつかない喪失に、全てを投げ出してしまいたかった。
彼との日々は鮮明に思い出せる。その手を引き、導いてくれた回数は数知れない。肉親を失い、大好きだったテレジアや自分を救い出してくれた過去のドクターすら失った彼女にとって、イグナスは年の離れた兄のような存在だった。
家族を、愛した人を失う辛さを、アーミヤは誰よりも知っている。
だからこそ。
『タルラのこと、守ってやってくれねえか? 身勝手だけど、やっぱあいつには死んで欲しくねえんだわ』
「彼の守りたかったものは…っ…何1つ、取りこぼしはしません!」
喪失の痛みに涙を零しながら、それでもアーミヤは俯かずに前を向いた。
「彼は、全ての人を救おうと、戦い抜いたんです!」
タルラの瞳から、涙が一筋零れた。ギリギリまで溜まっていた何かが、決壊した合図だった。
それが切っ掛けとなった。
一瞬にして、タルラの業火が膨れ上がった。
その場の全員が思わず後退る。
彼らの目の前で、タルラは憎しみを燃え上らせた。
タルラにアーツを使っている自覚はなかった。ただ、次から次に溢れ出す激情が暴走したアーツに注がれていた。
後を追えぬ悲しみ。
テレシスへの抑え難い殺意。
彼を守れなかった自身への失望。
それらがごちゃ混ぜになり、自分自身を引き裂きながら炉にくべられる。
「タルラさん! 止まってください!」
「アーミヤ、ドクター、離れろ!」
静止の声すら届かず、タルラは業火に包まれる。
燃えろ。
灰になれ。
この身など焼け爛れてしまえ。
だがその願いは叶わない。竜の体は己の炎では焼かれなかった。
それすら恨めしくて、業火にさらに憎悪がくべられる。
世界が、自分とイグナスを引き剥がそうとしている。
それを自覚した時、タルラは視界を業火で焼き尽くされた。
もはやその瞳は何も映さない。いつも彼女を照らしていた光は、もうどこにもいない。
「タルラさんを止めます! ケルシー先生、Logosさん、援護を!」
悲鳴染みた合図の声に、3人はタルラに向き合った。
自分を止めようと限界を振り絞る彼らに対し、タルラに浮かぶのは憎悪だけ。
溢れ続ける悲しみの涙すら、業火が干上がらせていく。
「私から、イグナスを、奪うのかぁああああああああああああ!」
戦局が覆され、勝利の兆しに湧き立つロンディニウムの地下で。
タルラの慟哭が反響した。
ヴィクトリア編 完
これにてヴィクトリア編はお終いになります。
今まで百話を超えて、イグナス君の物語を追って下さった全ての方に感謝を申し上げます。
そしてこれにて、メインストーリーに係る部分についてもお終いになります。
ええ、皆さん分かっております。
「これで終わりかよ! やっぱアークナイツじゃねえか!」
そんな声が聞こえてくるようであります。
ですが皆さんに、もう少しだけお願いがあります。
メインストーリーに係る部分についてはこれでお終いと申し上げましたが。
実はこの後にエピローグ的なお話を何話か書く予定でございます。
この二次創作の作者として、その最後まで書き切ることを誓いますので。
どうか、最後まで、この物語を見届けて欲しいのです。