『……ラさん……てください!……もう……』
『アーミヤ……なければ……これ……むをえない……』
『……任せ…がよい……』
(ああ、またか……)
くぐもった声が頭の中で繰り返される。だがそれらはどれも不明瞭で、自分の考えを煩わせる苛立ちだけが募っていく。
いつの記憶なのかも思い出すことができない。ただ漠然と、それらに対する忌避感は残っていた。
地面から浮き上がったような、現実感を失ったまま、私は時の流れに身を任せ、漂っている。
ふらふらと歩く私の胸で、シャランと小さなチェーンが音を奏でた。
見覚えのない金属製のペンダントはその中心に黒い鉱石を嵌めていた。
時折、無意識にそれを手に取っていることがある。その間だけ、私はこの不安定さから解放されていた。
それでも、この身には少し重く感じるそれを、手放そうとは思えなかった。
いつからか、私は日常に不便を感じる事が多くなってきた。
『 』
『?』
誰かが話しかけてきても、その相手が誰なのか、顔を見ても思い出せない。頭の中は常に霧がかっているようで、手探りで進むことすら億劫に感じる。
反応の乏しい私に見切りをつけたのか、私に構う人間は日に日に減っていった。
『タルラ、せめてこれくらいは食べてくれ』
『ゆっくりでいいの、そうよ』
『大丈夫だ。私はここにいる』
『タルラちゃんが好きって言ってくれたシチュー、用意して待ってるわ』
だが、まだ何人かは辛うじて判別することはできた。チェン、アリーナ、エレーナ、それと義母様は時折顔を見せに来てくれる。彼女らの顔を見ると、強張った顔もいくらかは和らいだ。
それでも私を見る表情は、なんだかいつもより暗い気がした。
『……?……』
そんなある日。立ち上がる事すら覚束なくなった。
立ち上がることすら出来ず、電源が切れたみたいに目の前が真っ暗になった。気が付けば私はベッドに寝かされていて、目の前に誰かが匙を差し出していたので反射的に口にした。あんなに味のない粥は、初めてだった。
どうやら、私は何日も食事を口にしていなかったらしい。食べなければ、力が出ないのは当然だ。
相変わらず食欲は失せる一方で、体だけは生きようと藻掻いている。沈んでいく意思とは相反するそれがもはや他人のものではないかと疑った。
今の私が、生きたいと望んでいるだと? 可笑しくてつい呆れともつかない息が漏れた。
だがそれ以来、きちんと食堂には時間を決めて通うようになった。それも毎日のように湯気の立つ温かな食事を盆に乗せて運んできてくれる義母様を悲しませたくないからだ。
どうにも私には量が多いようで、いつも残してしまうのは申し訳なく思っている。だから私はいつも頑張って無味のスープやパンを無理矢理喉に流し込んだ。
そんな生活を続けていたある日。ふと体が妙に重くなったと感じた。体の重心が日に日にズレていき、何をするにも気怠くて、寝台の上で一日中過ごす時もあったと思う。一歩も歩けないような日が続いていき、ついには病室のベッドに移された。
ぼんやりと眺める目の前では、私の腕にチューブや針が繋がれていた。
だが、それに対し特に何を感じるでもなかった。リズミカルに鳴る計器の音が気にはなったが、煩わしく感じる程ではない。何もできないのだから、私はただじっとして眠気に身を委ねた。
それからどれくらいの時が経ったのかは、覚えていない。だがいつの間にか体は軽くなっていて、しばらく過ごしたあの部屋とも別れた。
重なる出不精で筋肉が衰えたのだろう。最初は歩くのもやっとだったが、最近は何かに寄りかかる事もなく一人で歩けている。以前感じた重心のズレも、気が付けば治っていた。
おそらくその時に自分から何かが抜け落ちたのだろう。いっそ風に乗ってどこかに飛べてしまうのではないか、そう思うほどに私の体は軽くなっていた。
だが私はその正体を知ろうとも思えなかった。その代わり、ずっと何かを探し続けた。
ずっと大切な何かが、あるいは誰かが、私の傍からいなくなってしまった気がしていた。
何を失ったのか、それを思い出そうとする度、胸が騒めき頭が割れるような痛みが生じるけれど。それも首からかけた鉱石を握れば治まった。
そんなだから、私はその正体を朧げにさせたまま、霧の中の日常を漂っている。
いつからだろう? この瞳が色を捉えられなくなったのは。
白と黒、その2つだけで構成された世界はなんだか寂しく感じる。
この耳に届く音も、どこかから反響しているかのような心地だった。
まるで自分が薄い膜で覆われているかのような、地に足がついていない奇妙な感覚。
そんな浮世離れした状態を、おそらく何年も続けてしまっている。
そのことについて、思うところはない。心の内に、何かを生じさせる事すらできない。
ただ1つ。私の心を捕えて離さないもの。いつも傍にいた、
今日は甲板にまでやって来た。
そうだった。いつも空を見上げれば、それがすぐ傍にいるような心地がしていたんだったか。誰の傍にもあって、だけど誰のものでもない。正に青空のような人だった気がする。
手を伸ばす。届かないと分かっているのに、欠けたものがすぐそこにある気がしてつい手を伸ばす。
もう少し。一歩を踏み出す。それだけ空が近づいた気がした。空っぽの胸に、微かな残滓が入り込むようだ。
これを続ければ、いつか
久しく会っていない。その声も聴いていない。それでも、朧げながら覚えている。柔らかい、太陽のような笑顔だったはずだ。
一歩、一歩と。思い出にだけ残されたその姿を求めて、足を踏み出していく。
そうすれば、いつか、きっと―
「タルラさん!」
背後から、誰かが私の名を呼んだ。
浮きかけた足を戻して、緩慢に後ろを振り返る。
そこにはアーミヤが立っていた。以前見ていた装いではなく、白いドレスを纏った彼女は大人びて見える。白と黒のみに彩られたこの瞳には、彼女は眩しく映る。
彼女は幾ばくか緊張した面持ちで私を見ていた。
「どう、した?」
「あなたにお話したいことがあります」
「……そうか」
「だから、こちらに来てください」
どうしてか、彼女は恐る恐ると言った風に慎重に声を掛けた。
正直、手を伸ばす彼女の元に行こうか迷う。あと少しで、
それが少し不満に感じられて、眉を顰める。
だがそんな私の態度を咎めるでもなく、彼女は真摯に私に語り掛けた。
その面持ちに以前の幼さはなく、戦士と呼ぶに相応しい顔つきになっていた。
「タルラさん。行きましょう」
「……」
彼女はこれまで同じ理想の元戦った戦友だ。そんな彼女があそこまで神妙な様子で乞うているのだ。何か理由があるのだろう。
なら、少し時間を割くくらいは良いだろう。
そうして私は、
アーミヤは一瞬顔を強張らせたものの、すぐにエンジニア部の職員に話をつけておいてくれるそうだ。
先導する彼女の背を追う。
私はまた、
アーミヤに連れられ、ロドスの中を行く。
人気の無い廊下は私達2人分の足音をよく響かせる。こうも他の音がしないと、少し薄気味悪い。
ロドス本艦の道は往々にして迷う事が多い。だが今までの経験から、ここは特殊な施設が集中している区画であったはずだ。一般的なオペレーターが立ち寄る事はまずないだろう。
そんな場所へ私を連れて行って、アーミヤは何をするつもりなのか。多分、数か月前も健診を受けたはずだ。あるいはその時の結果が悪かったのだろうか。
それに対して浮かぶのは、僅かな罪悪感だけ。
ここ最近は不摂生な生活をしていると自分でも自覚している。だが改めようという気力すら湧いてこないんだ。
私は、何の為に生きている?
夢現のまま、時間だけを浪費して。立ち上がる事もできず彷徨う自分は一体何だ?
落ちていく視界は一寸先の廊下と交互に入れ替わるつま先だけを映す。
無機質で単調なそれらが、自分には相応しい。
そこには何もない。まるで、今の私そのもののように。
アーミヤの足音が止む。僅かに遅れて、私も立ち止まった。
背後で自動扉が閉まり、唐突に視界が晴れた。四方を囲む照明が私達を照らし出していた。
そこは、白以外の全てが排除された広大な部屋だった。壁も天井も床も、無機質で金属質な素材に覆われている。
そこに佇む、1人の龍人。
「フェイ、ゼ?」
呆然とした私の声に、チェンは振り向いた。いつも通りの龍門近衛局の制服に、腰には2振りの剣が吊るされている。
フェイゼとアーミヤ、2人は並んで私を見つめている。
空気が張り詰めたのを肌が感じ取った。私の中で意識がスムーズに移り変わり、警戒を一段階上げる。
アーミヤがチェンの前に出て口を開く。
力強く踏み出したその一歩が、タンと響いた。
「タルラさん。いつまで、逃げるつもりですか?」
逃げる? 私が? 何から?
何のことか分からない。だが彼女達は鋭い目で私を掴んで離さない。
心当たりはない。ない筈だ。だが自然と、足が一歩退いた。
それを逃がさぬよう、アーミヤはさらに一歩こちらに踏み込む。
「大切な人を失った絶望に、貴女は目を覆ってしまった。あの温かな日々に蓋をして、彼のいない世界と自分とを隔てた」
私達以外に何もないこの部屋で、アーミヤの声は凛と通る。木霊する彼女の追及が、四方から私を問い詰めていた。
何か、嫌な予感がする。この先を彼女に口にさせてはいけない。
決定的なものに触れたが最後。もう、取り返しのつかないことになる。
私は淀みなく問いかけるアーミヤを遮ろうと口を開いた。
だが遅かった。ロドスの支柱として力強い表情を崩さなかった彼女が、僅かに寂寥と憐憫を浮かべ、その言葉を口にした。
「
その名を聞いただけで、呼吸が荒くなっていくのが聞こえる。手は自然と胸元に圧しつけられていた。
掌に硬い感触が伝わってくる。無意識に、ペンダントを握りしめていた。
抑えていたものが、目を逸らしていたものが、暴かれ、封を解かれ、溢れ出そうとしている。
熱を感じていなかった体に、どす黒い炎が再び灯されていく。
堪えられず、つい怒りが喉を震わせた。慣れぬ酷使に喉奥から血の味がした。
「お前に、何が分かる……っ!」
それは、ずっと胸の中で燻っていた。だがそれでも、火を点けるわけにはいかなかった。
だって、イグナスがいないのだ。
どれだけ無茶をして、間違おうと、もう彼は私を叱ってはくれないのだ。
この憎しみに向き合ってしまえば、彼が私に託したものすら焼き尽くしてしまうと分かっていた。
なのに最期の瞬間。
彼は、イグナスは。
私なら大丈夫と、そう信じて逝ったのだ。
それが、私が愛した人の信じた
せめてそれに背くことが無いように。そう思う度に、背負った想いが私の心をグサリと刺し貫いた。
だからもう、それらを見ない振りするしかなかったんだ。
だってそうだろう?
私を救ってくれた。ともに歩んでくれた。
一緒ならば、何だってできると思わせてくれた。
そんな君を失って。
「赦せるわけないだろうっ!!! お前を奪ったこの世界を、私がっ!!!」
業火が膨らみ、大気を焦がす。
憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
彼を奪ったあの男が。
守り切れなかった自分自身が。
彼が殉じた理想が。
こんな悲劇を齎した戦争が。
燐光を反射する瞳の先で、アーミヤとフェイゼはそれぞれの武器を構えていた。だがどれだけ覗こうとも、その心奥に憎しみは燻ってはいない。
そして憎い。
彼亡きこの大地で、もう前を向ける
憎悪は薪となって、炉にくべられる。
床が赤熱し、大気は揺らぎ、業火が空間を埋め尽くしていく。
こんな醜い私を、暴かれたくなかった。君の願いに応えられない、弱い私を。
「やめろ」
「やめません」
だが、憎しみは彼女らに届かない。
慈愛の炎が業火をせき止め、紅蓮に光る剣閃が拒む私への道を拓く。
「これ以上、彼の守りたかった人を傷つけさせるわけにはいきません!」
決意の籠った眼差しで、彼女が私を見る。
やめろ、やめてくれ。
これ以上、私の心に土足で踏み入らないでくれ。
私は所詮、この程度の人間なんだ。
傷つけるべきでないお前達に、この炎を向けるような弱い人間なんだ。
遺された願いにも応えられない、蹲って自分の殻に引きこもるだけの哀れな女だ。
だからもう、構わないでくれ。
「勘違いしないでください。これは憐みでも、慰めでもありません」
ならば何だ? 何故、私に杖を向ける?
業火がアーミヤを拒絶する。それは本能的なものだった。
あれを食らえば、自分はこのままではいられない。
「だまれええええええ!」
絶叫とともに、炎の息吹がアーミヤに迫る。
―キィン。
鈴の音のような高音が響いた。
炎の壁が、真っ二つに割かれる。その先で身を躍らせるのは、赤く輝く剣を手にしたチェン・フェイゼ。
彼女の姿が眩しく映る。
険しい表情を浮かべながら、それでも立ち向かう姿が、私を苛む。
フェイゼが返す刀で再びアーツを切り裂き、吼えた。
「己と向き合え、タルラ!!!」
「!」
そんな妹の言葉が、全身を大きく揺さぶった。
目を見開く。フェイゼの後ろで、こちらに手を翳すアーミヤが見えた。
目と目が合う。瞳の奥、心の奥底にまで彼女の手が伸びた気がした。
どこか怖ろしさすら感じるアーミヤの様子。それでも最後に、彼女は薄く、本当に薄くだが、笑みを浮かべていた気がした。
「貴女ならば立ち直れる。そう信じて、私は貴女に、試練を課します」
彼が信じた、貴女を信じます。
その声を最後に、私の意識は途切れた。
「……ん……」
冷たい感触が、頬を伝うのを感じた。
どこか懐かしいそれに、意識が浮上していく。
「ここ、は……?」
目を開く。だが眩しすぎて、視界が一瞬で白塗りとなってしまった。
光に慣れるのを待ちながら私は周囲を伺う。足を動かせば、靴底が雪を踏みしめる音がした。
「ウルサス、なのか……?」
どうやら私は、雪が降り積もる森林にいるらしい。少し上を見上げれば、まだ少し葉を付けたままの針葉樹が揃って私を見降ろしていた。
凍えそうな風が時折吹き、地面を覆う雪のカーペットが空から降り注ぐ僅かな日光を反射する。あの凍原で何度も目にした光景だ。小動物すら巣穴に引きこもってしまえば、辺りは完全な静寂に包まれる。
おかしい。確か、さっきまで私は誰かといたはず。
「なんだ? この感覚は……」
頭を抑える。もう少しで、何かを思い出せそうな気がする。
記憶にかけられた鍵が、外れかかっている。その先に何があったのかを探ろうと、思考の海に沈む。
「タルラ」
だが、その声を聞いた瞬間。全てが遠く彼方に押し流された。
その声を、忘れるはずがない。
ゆっくりと振り返る。そこにいたのは、空色の髪をした、ウルサス人。
どこを探しても見つからなかった、愛しい人。
私を置いていった、薄情者。
「イグ、ナス…?」
「おう。久しぶりだな」
なんて事の無いように。彼は屈託のない笑顔でそこにいた。
その時浮かんだ衝動に、私は名前を付けることができなかった。