明日の方舟よ、良い旅を   作:アルパカ戦士

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16章君、もうちょっと待っててね。
今いいところだから! あとちょっとで工場の製造ルートが最適解になるはずなんだ。

今の俺はドクターでもなく管理人でもなく工場長なんだ。
バッテリーとソーダを納品するだけの工場長なんだ!

俺が、工場長だっ!!!(錯乱)


第九十五話 ディアマイラブ

 タルラは目の前にいる男を目にした瞬間、吸い寄せられるように足が動いた。

 

 無意識にゆっくりと、真っ新な新雪を引き摺りながら近づいていく。

 そしてその手がイグナスの頬に添う。冷たい外気の中で、暖炉の傍のような温かさがそこにあった。

 

 自然と両の掌は背中に回り、2人の間の距離が無くなる。

 

「イグナス」

 

 思わず呟く。

 温かい。柔らかい。それでもそこに、しっかりと立っている。

 触れた肌の分だけ、彼の温かさが伝わってきた。

 

 そこに、いる。

 自分の腕の中に、彼がいる。

 

 

 静寂で時の流れが曖昧なこの空間で、それを呑み込むのに随分時間をかけてしまった。

 

 

「おう。どうした?」

 

 呼ばれたイグナスは、相も変わらず普段通りの笑顔だった。

 それにタルラは、空っぽだった胸の内に熱が灯るのを感じた。

 

 タルラはイグナスを押し倒した。

 雪のカーペットに2人して倒れ込む。踏みしめる者のいない処女雪が下敷きとなったイグナスを柔らかく包み込んだ。

 

「タルラ?」

「……何故、私を置いていった……?」

 

 静寂が再び訪れる。

 胸に縋りつくタルラにイグナスの表情は見えなかった。だが、頭上を見なくても困り顔を浮かべているのは感じられた。

 

 あの日、その生涯に連れ添うと誓ったタルラに、イグナスは生きて欲しいと願った。

 

 タルラはその背を追うつもりだった。理想に殉じた彼を独りにはしないと、そう思って。あるいは、彼のいない世界に耐えられない己の弱さからか。

 だがイグナスは、置いて行かれる者の苦しみを理解した上で、それでも生きて欲しいと。

 片翼を捥がれた鳥に、それでも空を征けと。

 

「……悪かった」

「ばかもの!」

 

 飾り気のない、短い謝罪だった。堪らず怒声をあげる。

 そんな言葉で残された自分の気持ちが治まるものかと、怒りのまま胸に拳を叩きつける。ドンと確かな感触が返ってきた。タルラにはそれが嬉しくて、憎らしくて、どうにかなってしまいそうだ。

 

「すまなかった」

 

 言葉を変えた謝罪に耳も貸さず、ただひたすらに衝動のまま叩き続けた。イグナスもそれを甘んじて受け入れた。

 それから暫く。腕に力が入らなくなり、形だけの抗議も止んだ頃。タルラは声を震わせた。

 

「分かっているんだ。イグナスは死んだ。もういない」

「!」

「これはおそらく、アーミヤが私に見せた幻なのだろう?」

 

 タルラは誰よりもイグナスの事を理解していた。

 イグナスが語った本来の結末も、それに付随する多くの人々の背景についても知っていた。

 

 ロドス・アイランドのCEO、アーミヤが背負う魔王という宿命。

 魔王はその能力を用いて、褒美として臣下に望む幻を見せたという。

 一頻り暴れて、胸の奥に募った激情を吐き出して、ふと我に返る瞬間があったからこそ気付くことができた。

 

 タルラがイグナスを見下ろす。口を開けたまま呆然とする顔すら愛おしい。

 そんなことを考えれば、小さく弧を描いた口元を涙が通り過ぎた。

 

(本当に、あいつそのものだ)

 

 その声も、表情も、作り物とは思えない。誰よりも彼を理解していると自負する自身ですら、その違いを見抜けない。

 ただ、頭の中の知識と、忘れることを許さぬあの日の記憶が、タルラにこの状況を冷静に俯瞰させた。

 

 今ではその首元の重みもはっきりと感じられる。金属製のペンダントの中央には、彼の欠片が黒く煌めいている。

 守り切れなかった自分の罪を、それが突きつけてくれる。

 

(これから、どうすればいい?)

 

 イグナスは死んだ。もういない。この幻が齎す問答も、所詮は後付けに過ぎない。

 その事実だけで、タルラの持つあらゆる種火は静かに消えて行ってしまうのだ。

 

 曇天を見上げるタルラは、道を見失った迷い子のようだった。

 もはやその足元に横たわる彼との会話にすら、意味を見いだせない。

 

 それを見上げたイグナスは自分に跨ったタルラの肩を優しく押し、起き上がった。服に付いた雪を払いながら、タルラに問う。

 

「タルラ。お前には俺がどう見える?」

「?」

 

 質問の意図が分からず、タルラは首を傾げるにとどまった。

 

「アーミヤのアーツも万能じゃない。幻の全てをあの娘が作り上げたわけじゃないんだ」

 

 いかに魔王とて、その者の記憶全てを正確に把握できているわけではない。

 だからといって、それを再現するのに一から記憶を形成する必要はないのだ。

 

「俺はお前の中にいる、お前が思うイグナスだ」

 

 誰しも他者を理解する時、自然とその人物ならこういう言動をするだろうという架空の人格をトレースする。

 アーミヤ含め、精神干渉系統のアーツは制御が複雑で、そういった所謂無意識下での情報の助けを借りることが多い。

 

 そしてタルラの持つそれは、誰よりも彼を知り尽くしたが故に、限りなく本人に近い言動をするはずだった。

 

「俺の事一番よく知ってるのがお前だろ? なら俺が何を言いたいか、分かるか?」

 

 そう言って、アーミヤが見せる幻に過ぎない筈の彼はタルラの目の前で立ち上がった。

 

 イグナスの腕が上がっていき、頭上で止まる。タルラはそれを呆然と目で追っていた。

 そしてその掌はピンと張られ、辿った軌道をなぞる様に振り下ろされ。

 

 

―パシィィィン!!

 

 

 フルスイングがタルラの頭頂を捉え、小気味いい音を響かせた。

 

「痛っ!? な、何をする?!」

 

 唐突な痛みに涙を零しながら、頭を抑える。

 非難する視線に対し、イグナスは堪えた様子のないまま、むしろ仁王立ちをしタルラに説教をする構えだった。

 

「言っただろ。次無茶なことしたら、頭しばいてやるって。まさか忘れてたのか?」

 

 そんなことを、言っていた気がする。タルラは記憶を遡り遠い日の思い出に辿り着いた。

 

 それはエレーナ達スノーデビルを勧誘しようと2人で交渉に赴いた時の事。

 ありのままのタルラを見つめてくれた、そんな彼の事。

 

「確かに、俺はお前を置いて行った。それに関しては本当に悪かった、土下座でも何でもする。でもな、俺がお前に生きていて欲しいと思ったのは、お前の事を信じたからだ」

 

 そんなことを言われても。タルラは既に自分を信じる事など出来なかった。

 

「私は、君が思う程強い人間ではない。結局、君がいなくなった事実から目を逸らし続けて来た」

「それでも、俺の願いを果たしてくれただろう?」

 

 こんな自分が、一体何を果たせたと言うのか?

 思いつかないタルラは、イグナスの言葉を待った。

 

「お前はずっと、生き続けてくれた。憎しみに囚われないよう、抗ってくれた」

 

 ヴィクトリアから帰還した日、怒りのまま再び全てを焼き尽くす選択肢もあった。

 剣を取り戻した時、そのまま鞘から抜き放ち自死を選ぶこともできた。

 

 だがやらなかった。

 台無しにだけはするまいと。最後の意地が彼女に一線を超えるのを躊躇わせた。

 

 

()()()()()、タルラ。お前を信じて、良かったよ」

(ああ、なんて…)

 

 それは砂漠に垂らされた水滴であり、暗闇に差す日の光だった。

 彼を喪ってからこれまでの長い時間、求めてやまなかった言葉だった。

 

「俺の惚れた女はな、情に厚くて、正義感が強くて、腕っぷしがあって、大雑把で、掌は剣ダコで硬いけど肌はすべすべで、瞳が朝焼けみたいにキラキラしていて、教養があって、勇気もある、愛情表現がストレートで、身内には甘くて、人の心を奮い立たせる力があって、レユニオンのリーダーをやってる超スゲー奴だ」

 

 彼は私を、タルラをよく見ている。

 自分の知らないタルラ、自ら見捨ててしまった自分すらイグナスは容易く見つけてしまう。

 

 タルラはいつだって、その光に魅せられてきたのだ。

 

「いいか? 何回だって言ってやる。俺が惚れたのは、そんなくそかっこいいタルラだ」

 

 そんな人にこうまで言われて、何も思わない程枯れていない。

 

「ところでお嬢さん、お名前は?」

「わ、たしは……タルラだ」

「おお、俺の愛しの奥さんと同じ名前だ。顔もよく似てる」

 

 白々しく惚けるイグナス。

 だが率直に言えば、彼が嬉しそうに語るのを、タルラは羨ましいと思った。そして渡したくないと、そう思った。

 

「だが、ちょいとはぐれちまってな…あんた、どこにいるか知ってるか?」

 

 まったく、なんて茶番だ。

 まさか、自分自身に嫉妬する日がこようとは。

 

 だが、そう思われても仕方のないことも事実。タルラが今鏡を覗けば、イグナスの語る人とは似ても似つかない姿が映るだろう。

 

 だから、タルラは胸を張った。俯いていた骨格が小枝を踏んだような音を鳴らした。顔を上げて、目に力を籠めて、口元には余裕の笑みを忘れずに。

 それは私なのだと。彼の信じた愛すべき伴侶は、ここにいるのだと宣言する。

 

「ああ、ここだ。私が、君の探している、タルラだ」

 

 自分の口から出たその言葉が、背中を押してくれた気がした。足りなかった何かが胸の奥にストンと落ち、隙間が埋まったのを感じた。

 

 イグナスが安心したように笑う。

 

「もう、大丈夫だな?」

「ああ。失くしたものは見つかった」

 

 ようやく、タルラはこの試練の意味を悟った。

 それは、自分自身を取り戻す事。イグナスを愛し、イグナスが愛した自分を、彼を喪った自分を、赦す事。

 

 認めてしまえば、圧し掛かっていた重圧が一気に降りたような気分だった。

 だからこそ、これまで散々紡いできた愛の言葉も、するりと口に出た。

 

「愛してる」

「俺もだ。だが俺の方がもっと愛してるな! こちとら生まれる前からお前にぞっこんなんだからな」

 

 はっはっは! と意味もなく張り合って豪快に笑うイグナスを見て、タルラは何だか笑えてしまった。

 こうも自然に笑えたのはいつぶりだろうか。

 

「ふん。どうせそれは私だけではないのだろう? 浮気者め」

「……いや、それは、その……」

「そこで黙るところがお前の悪いところだ」

 

 だって皆んなかっこいいし、なんて気まずそうにするイグナスに若干白い眼を向けるタルラ。

 だがそれも、示し合わせたように互いに笑い出せば吹き飛んだ。

 

「さて、いいかげん戻らなくてはな」

 

 いつの間にか腰にぶら下がっていた剣を抜く。それを振るえばたちまち雪は溶け、凍原の景色は写真が燃えるように消し去られた。

 偽りの世界が剥がされ、意識が浮上するのを感じる。この甘い一時ともお別れだ。

 

 タルラは最後、もう一度彼をその目に映した。

 イグナスはこちらに手を振るでもなく、拳を突き出すでもなく、ただ満足そうに笑みを浮かべていた。

 

 それが自分への信頼からくるものと理解して。

 タルラは満たされた心地のまま、目を閉じた。

 

 

 

 タルラがイグナスの幻と対面している一方。

 アーミヤとチェンは、倒れて意識を失っているタルラを見守っていた。

 

「大丈夫でしょうか?」

「さあな。だが立ち直るまで、私は何度でもタルラの炎を切り裂いて見せる」

 

 力強い言葉に、アーミヤはありがとうございますと微笑んだ。

 一瞬和やかな空気が流れるも、終始2人は緊張を途切らせる事はなかった。

 

 彼女達がいるのは特殊環境想定戦闘訓練室という名の場所だった。ケルシーやクロージャら監修の元設計されたここは、あらゆる事態に対応できるよう特殊な加工がされている。摂氏2000度に耐え、30トンの重みでも歪まない特殊合金が惜しみなく配置され、その上から耐腐食、絶縁性の高いコーティング加工がされている。

 その頑丈さは2人のお墨付きで、かつてロスモンティスのアーツ制御訓練のために使われていたほどだ。

 

 アーミヤが顔を俯かせる。

 決心して臨んだことだ。だが先程のタルラの慟哭が固めたはずの決意を揺らがした。

 

 イグナスの死から立ち直れないまま、ゆっくりと死へと近づいていく姿を見ていられなかった。それにこれ以上、現実から目を背けさせるのは誰にとっても良くなかった。

 結果としてこのような荒療治になってしまったが。タルラにかけてしまった負担を思うと、アーミヤは作戦の成功を素直に喜ぶことはできなかった。

 

 そんな憂いを察したのか、チェンはアーミヤの肩にそっと手を添えた。

 

「義兄殿を失ってからのタルラは酷いものだった。どちらにしろ、区切りをつけさせなければいけなかったんだ」

 

 鋭い眼差しをタルラに向けたままぶっきらぼうにそう言うチェンが、本当は誰よりも自身の姉のことを心配していたのをアーミヤは知っていた。

 事実、この作戦の協力者を募った時真っ先に手を挙げたのが彼女だった。タルラがもし暴走した時、この密閉された空間内でオーブンのように蒸し焼きになる可能性も十分あったというのに。

 

 

「ん」

 

 タルラの体が身じろぎ、警戒を引き上げた2人が構える中、タルラはゆっくりと体を起こした。

 

「タルラさん、戻ったんですね」

「……ああ……」

 

 その瞳には先程までの激情は感じられず、凪いだ海のような感情をアーミヤは感じ取った。

 それに一先ずアーミヤは安堵の息を漏らす。

 

「本当に、申し訳ありません。あなたの心に土足で踏み入るような真似をしてしまって」

「いや、おかげであいつの声を思い出せた」

 

 タルラは、憑き物が落ちたように笑う。

 

「いい加減、前を向けと叱られた」

 

 そう言ってタルラは頭を抑えた。

 喝を入れられた時の感触がまだそこに残っているかのようだった。それが嬉しかった。

 

 そこにはもう、虚ろなまま死へと向かっていく亡霊はいない。

 瞳は微かに光を帯び、溜まった雫が宝石のように反射していた。

 

 アーミヤは肩の力を抜いた。

 これでようやく、()()()()()()()()()

 

「今の貴女なら、大丈夫でしょう」

 

 

 扉の開く音が室内に轟いた。

 

 何重にも重なったロックの解除音と重々しい金属音を奏で終え、廊下の照明を背にした人物がゆっくりとこちらに歩いてくる。

 

 その人物もまた、今のタルラが認識できる数少ない人物の1人だった。

 

「アリーナ? 一体……?」

 

 どうしてここに? そう問う前に彼女が何かを抱えているのに気付いた。

 彼女が抱えているのは布。いや、布に包まれた何かだ。

 近づくにつれ、アリーナの胸に抱えられたそれを見下ろすような形になる。

 

 

 その正体に、タルラの思考が真っ白に塗りつぶされる。

 染み1つない純白の中に、タルラは久しく見なかった()を見た。

 

 

 布が独りでに動く。それに包まれた体躯がバタバタと忙しなく動き始め、アリーナは愛おしそうな目で見守りながらその手から落とさないよう抱え直す。

 

 顔を見れば、生まれたばかりの、おそらく生後数か月にも満たない赤子だ。

 

 だが、産毛のような細く柔らかな髪は先程目に焼き付けたばかりの空色をしていて。

 その隙間から、龍人特有の小ぶりな角が覗いていた。

 

「ああ…ああっ…このこは……!!」

 

 確認するまでもなく分かった。たとえ記憶が不鮮明だとしても、実感が無くても、未だ言葉を発せずとも。

 本能が、この子を知っていた。

 

 

「私と、イグナスの子だっ!!!」

 

 

 駆け寄り、抱きしめかけ、自分がアーツのせいで灰まみれな事を思い出しぐっと堪える。

 いきなり大声を出してしまった事も良くない。自分が衝動的に起こしてしまった事を悔いながら、絞り出すような声で語り掛けた。

 

「すまないっ、今まで、放ってしまって・・・薄情な母で、ごめんな・・・っ」

 

 この子がこの世に生を受けてから数か月、目を向ける事すらせず彷徨っていた罪悪感が胸を締め付ける。

 

 タルラが手を伸ばすが、視界の隅に移るその指はこれまでの不摂生が祟り荒れてささくれ立っている。

 我が子を傷つけるわけにはいかないと咄嗟に引きかけたその指の先を、しかし赤ん坊は手をぐっと伸ばし掴んだ。

 

 驚くタルラを、不思議な顔で見つめるその赤子。

 

 そして何かに気付いたのか、頬を緩め笑った。

 

「!! こんな私を、母と思ってくれるのか?」

 

 返事の代わりに、赤子はより一層幸せそうに笑った。

 その姿にタルラは鼻の奥がツンとなり、口はわなないた。

 嗚咽を堪え、涙を流すタルラ。

 

「タルラさん。名前を呼んであげてください」

 

 アーミヤが丸まった背中を優しく撫でる。

 

 タルラが呆然自失となっていた期間に妊娠は発覚した。

 だがイグナスは亡くなり、タルラは心神喪失。そんな中生まれたこの子どもは、未だ名づけられていないままだった。

 この赤子の面倒を見ていたアーミヤとアリーナとイグナスの母は、名を呼んでやれない事を歯がゆく思っていたものだ。何より、実の母に会わせてやれない事があまりにも不憫だった。

 

 タルラはどうにか呼吸を整え、涙を拭う。

 揺らめく視界の先に、自分の子の姿を確と捉え思い出す。

 

 

『子どもに名づけるとしたら、何がいい?』

 

 それはとある日、ポラリスの子ども達を2人並んで眺めていた時だ。

 

『気が早くないか?』

『いつかは決めることになるんだ。それに君の名付けのセンスはムラがあるからな。どうなんだ?』

 

 少し顔を赤くしたイグナスに、微笑みながらタルラは問う。

 突然の事にイグナスは頭を悩ませた。

 

『あんまり長いと呼びにくいし、奇をてらったりするのは子どもに良くねえよな?』

『そうだな』

『う~ん、なるべく前向きで、かといって重くなく、呼びやすい、けど良い願いを込めて・・・』

 

 そうやって頭を抱える伴侶の姿を、タルラはにこやかに見ていた。

 こうした不確定で幸せな未来を語れる時間、その素晴らしさを噛みしめているとイグナスが顔をガバリと上げる。

 

『そうだ! これがいい!』

 

 

 その晴れやかな顔が、鮮明に蘇ってくる。

 色を失くしていた光景が彩られ、感じていた肌寒さが引いて体の芯に熱が灯る。

 

 いつだって前を向いて笑っていたイグナスの温かさが、伝わってくるように。

 

『込めるべきは願い、不確定な未来を前にしても明日へと向かう意思。そんな強さを持てる子に育ってくれたらいい』

 

 

 そして、その口から零れた名は。

 

 

()()()・・・名前で呼んでやるのが、遅くなってすまない」

 

 このテラの大地に生まれ落ちて、ようやく親から初めての贈り物を受け取ったその赤子は。

 

「キャハ!」

 

 自分の名前に満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 遂に対面した親子の一幕に、見守っていた面々は目を細めた。

 

「よかったです、本当に……」

 

 特にこの件に関して誰よりも責任を感じていたアーミヤは溢れてくる涙を拭いながら目の前の光景を祝福していた。

 

 これで、イグナスさんも報われる。

 

 目を閉じて祈るように手を握ったアーミヤは、亡き彼の事を想う。

 どうか、安らかな眠りについていますように。

 彼の愛した人々が、これからも健やかにあれますように。

 

 真摯に願うその姿は、どこかテレジアを彷彿とさせた。

 

『さ…がだな……りがと………ミヤ』

 

 どこか、懐かしい声が聞こえた気がする。

 記憶の中に生きる彼が、よくやったと褒めてくれた気がしてアーミヤは嬉しかった。

 だが。

 

『タ……ようやく………んしん…だぜ』

 

 その声は止まない。どこか遠くの声が木霊しているような、不明瞭な声ではあったけれど。幻聴と言うには、どこか違和感が残るそれ。

 アーミヤの閉じていた目が、ゆっくりと開かれていく。

 

「アーミヤ?」

 

 祈るような仕草で俯いたまま動かないのを不思議に思ったチェンが声を掛ける。

 だがその声すら聞こえていないようで、アーミヤは「そんな、これは……」と呟き、一人呆然としている。

 

 尋常ではないその様子に、チェンが再び問う。

 

「どうした? 何か」

「やっぱり! 気のせいなんかじゃない!」

 

 チェンの言葉を遮って、アーミヤは手を握り集中する。

 彼女の背後で黒雷が菱形を象り、アーミヤの持つ魔王の資質が最大限に発揮される。

 

 その場の誰も突然の事に事態を正しく把握できていなかった。だがアーミヤの只ならぬ雰囲気に皆が息を呑んで見守っていた。

 

 

 そして数秒後、何かを掴んだアーミヤが顔をガバリと上げる。

 見開かれた瞳の先に、タルラがいた。

 

「何だ、どうしたんだアーミヤ?」

「そこです!」

 

 その指先がタルラを射抜く。

 

 

「そこに、イグナスさんの感情を感じます!!」

 

 指差す先には、タルラの胸で光る源石があった。

 

 

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