明日の方舟よ、良い旅を   作:アルパカ戦士

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第百話 大団円

 甲板の源石が、綻び消えていく。

 

「終わった、のか?」

 

 ドクターがつい零す。凄惨な戦いに訪れた突然の静けさに安心など出来ず、しばらく緊張が辺りを漂う。

 ケルシーも、アーミヤも、臨戦態勢を解かず周囲を伺うこと数十秒。しかしどれだけ待とうとも源石の崩壊は止まず、ロドス本艦は平穏を取り戻しつつあった。

 

 宙を舞う源石粉塵の中で、テレシスは空を見上げていた。分かたれた雲の隙間から日差しが周囲を照らし始めている。

 テレシスが放った歴代の魔王全ての怒りを乗せた一撃。蒼き怒火はプリースティスの残滓を残らず飲み干し焼き払った。

 

 そこにはもう、復活した旧人類の痕跡はない。

 

「……」

 

 暗雲が消え去っていく様を言葉なく見上げる彼は、何を思っているのか。それを聞く者は、その場にはいなかった。

 代わりに、プリースティスの気配が完全に消えたのを確認したアーミヤは、彼に一歩踏み出し問いかけた。

 

「何故、ですか?」

 

 具体性に欠ける問い。しかし真意は伝わった。

 彼が居なければ、あの時迫り来る源石にケルシーは呑み込まれ消滅していただろう。だが、理由がない。

 かつて、テレジアを謀殺しバベルを終わらせた男。そしてあの日、ヴィクトリアの地下でロドスとレユニオンにとって最も大切な人を刺し貫いた彼が、この場に駆けつけた理由。

 

 この期に及んで、テレシスがロドスに味方したのは、一体何故なのか。

 

 テレシスは即答はしなかった。そもそも、答える気すらなかったように思えた。

 だが、役目を終えた影霄の剣が塵となって消え、空いた右手をしばらく見下ろしたのち、ポツリと零す。

 

「あの男の、最期の言葉であった」

「!」

 

 それが誰の言葉なのか、アーミヤにはすぐ分かった。

 サルカズの宿命と真正面から向き合い、何を犠牲にしてでも抗うと固く定めた彼に、心変わりをさせられる人などアーミヤは1人しか知らない。

 

 アーミヤは、久しく流していなかった涙が目尻に溜まるのを感じた。過去を振り返るには聳え立つ壁が大きく多すぎて、前を向いていなければ歩みを止めてしまうのではないか怖くて。そうやって進んできた彼女の背に、懐かしい手が触れた気がした。

 

 

 テレシスは振り返る。その瞳は、凪いだ水面のように穏やかだった。

 

「テレジアの後継者よ。そなたは我を憎むがよい。我は二度、そなたの恩人を手にかけた」

 

 もはやその手に剣はない。丸腰のまま、テレシスはアーミヤに全てを委ねる。

 サルカズの宿命は、テレジアが先祖の霊とともに遠くに追いやった。テラに理不尽を強いる旧文明の意思も、彼が魔王の剣で焼き払った。

 

 テレシスは揺るがぬ意志を持つ男だ。だがだからこそ、その誓いを果たした後の事など、考えたことも無かった。

 同じサルカズの平穏を夢見た妹はもういない。彼に付き従い、そして散って行った兵士も。遂に我らの苦難の元凶を打倒したのだと、勝鬨を挙げようが誰もそれに続かない。

 

 ならば、これ以上生きる事に、何の意味があるというのか。

 

 これからのテラは、イグナスが言った通り妹の後継者とドクター、そして彼らに続く者が形作っていくだろう。その確信がテレシスにはあった。ウィシャデルに協力を求めようとカズデルを訪れた折、廃墟そのものだった故郷が変わっていく姿を目にした。それを為したのは間違いなく、ロドスとレユニオンの人々だ。

 これからのテラに、鋭いだけの刃など不要。次代が役目を継いだ今、自分にできる事は過去の清算のみ。その対象は、目の前にいる。

 

 テレジアの理想のよき理解者であり友だった不滅の識者、ケルシー。

 テレジアから魔王の王冠を託された異種族の魔王、アーミヤ。

 記憶を失った今、テラとともに生きる事を決めた旧人類、ドクター。

 

 ケルシーは、動く事を躊躇った。当然恨みはある。しかしそれでも、テレシスを悪と断じるには多くを知り過ぎている。彼らが背負わされた苦難を思えば、そしてその原因の一端が自身を生み出した旧文明にあることを思えば、自分に手を下す資格などない。

 ドクターもまた、目覚めた時からの友人であるイグナスを殺された。プリースティスとの戦いを終えた今、あの時に感じた怒りが沸々と蘇ってくる。それでも、ドクターは覚えていた。イグナスが、彼を生かすことを望んだことを。テレシスもまた、彼が繋いだ命の1つ。過去を失った自分に資格はない。

 

 もし、その資格があるとすればそれは―

 

「テレシス」

 

 アーミヤが声を挙げる。身を引いた2人には、その表情は伺えない。

 

「私は、貴方を恨んでいます」

「そうか。ならばその黒雷を以てこの身を刺し貫くがよい」

 

 テレシスが正中を晒す。ただそこに立ち動かぬ的になった彼を、アーミヤは制した。

 

「いいえ。私は貴方を殺しません」

「何故だ?」

 

 アーミヤが、さらに一歩歩み寄る。ケルシーとドクターはそれを止めず、背後で静観する。

 

「今なら貴方が何を思い、その手を血と怨嗟に染めたのか理解できます」

 

 タルラから聞かされたテレシスの本当の狙い。そして魔王の力が伝えてくる彼の慙愧の念。アーミヤはそれを否定せず、受け入れた。

 ロドスと道は交わらなかったけれど、彼もまた、誰かを救おうと走り抜けたのだと、そう信じることが出来る。

 

「あの人は、タルラさんに言っていました。憎むのは、人として当たり前なのだと。それでも、きっといつか、赦すことができるとも」

 

 テレジアが死んだ時、敵味方問わず、その生き様と在り方を惜しみ、その喪失を悼んだ。アーミヤもまた、心の中にすっぽりと埋まらない穴が空いたような心地に泣きじゃくったことを覚えている。

 それでももう、その中にはテレシス自身もいた事を知っている。そして取り返しのつかない選択の果てに、彼は地獄までの歩みを決心したのだと、そう知っている。

 

 彼が影霄の剣を手にした時、アーミヤは王冠を通じてテレシスの思いを感じ取った。

 そこにあったのは、身を引き裂くような悲しみと敬意。そして、それを薪に燃え上る、不退転の覚悟。

 

『人を見る目はあるんだぜ、俺』

 

 不意に、脳裏に彼の笑顔が蘇る。そう言って時に朗らかに、時に熱く、どんな人とも繋がりを断とうとはしなかった、篝火のような人。

 

 テレシスの在り方はきっと、この大地に生きる全ての人を愛し救うと誓った彼が、美しいと言うものだと思うから。

 彼が愛したものならば。

 

「だから、私も赦せると思います」

 

 未だ遺恨は消えず。それでもなお、その可能性を否定しなかった。憎しみと優しさが綯交ぜとなりながら、アーミヤはそんな日がいつか来ると信じ抜いた。

 

「……甘いな」

 

 身を反らしたテレシスはそう言いながらも、どこか納得している様子だった。なにせ、今目の前にいる魔王は、テレジアとイグナスに未来を託された娘なのだ。壮大な理想を抱えたまま歩く覚悟を備えた、次代を担う者。決して相容れる事は無いが、それでも理解できるところはある。

 

 もっとも、イグナスの存在が無ければそんな機会すら訪れなかったのだろうが。

 

 

 ふと、いくつもの気配が甲板に上がってきたのを感じた。雑多な足音はドクター達を目指していて、澄み切った空気の先には、Abyssに分断されていたエリートオペレーター達が遠目によく見えた。

 

「お~い、皆んな無事!?」

 

 ブレイズの声音はいつもと変わらず溌剌としていてアーミヤは微笑んだ。その様子ならエリートオペレーターの皆も上手くやったのだろうと。

 彼らを労おうと、アーミヤは声を挙げようとして。

 

「……え……?」

 

 視界に捉えた1人の姿に、全てが遠くに飛んで行ってしまった。

 

 モノクロの軍服に、澄み渡った青空の色をした髪。それは、間違えようもなくイグナスの姿で。

 そんな彼は笑顔で手を振り、口を開いた。

 

「よう! どうやら決着ついたみたいだな」

 

 その声に、アーミヤも、ドクターも、ケルシーでさえ心を奪われた。

 いなくなっていたはずの彼が、記憶通りの姿で手を振っている。突然に過ぎる事態に幻覚を見ているのかと自身を疑う。

 

 彼の救出計画は未だ具体的な方法も見つけられず、手掛かりを模索する段階だった。そのためにカズデルを中心に情報収集のため人を割いていたのだ。ドクターとケルシーは源石の謎を解明し、アーミヤは魔王の力への理解をさらに深めていた。そんな、大変な苦労をしていたというのに。

 目の前のこの男は、彼らの前に唐突に現れて、呑気に、そして心底嬉しそうに笑うのだ。

 

 

「久しぶりだな、お前ら!」

 

 

 自然とアーミヤの足は動いていた。一直線に、彼目掛けて走っていく。

 

「お、アーミヤか! 背伸びた―」

「イグナスさんっ!」

 

 勢いそのままに、その胸に飛び込んだ。イグナスは突然のことにふらついたものの、彼女をしっかりと受け止める。

 その胸元を涙で濡らしながら、アーミヤは服が皺になるほど強く握りしめていた。

 

「よかった。よかったです。もう一度、ほんとうに会えた!」

「……ああ。待たせちまったな」

「そうですよ! とても、とても大変だったんです! 悲しかったんです! 皆んなが、辛そうな顔をしていて、私がどうにかしなきゃって、ずっとずっと不安だったんです! どうしてあんなことしたんですか! 私も、ドクターも、タルラさんも、レユニオンの皆さんだって、貴方は悲しむと気付いていたはずです! なのに、どうしてぇ……」

「……ごめんな」

 

 絞り出される非難の全てに弁解の余地もなく、イグナスは代わりにアーミヤの頭頂を撫でる。しっかりと重みを感じるその感触に、アーミヤは懐かしさでまた涙が出た。

 いつもならやきもちで周囲の温度を上げるタルラも、これくらいは許してやるかと静観の構えだ。アーミヤが泣き止むまでの数分間、イグナスは彼女を宥め続けた。

 

「……すみません、こんな、子どもみたいに」

「俺に取っちゃ、アーミヤはいつまで経っても子どもみたいなもんだけどな」

 

 ようやく落ち着いたアーミヤは先程までの醜態を恥じて頭を下げるが、イグナスは気にしていないと笑い飛ばす。そんな子ども扱いが嫌で反論するアーミヤを聞き流して、イグナスはテレシスに声を掛けた。

 

「ありがとな。約束、守ってくれて」

「敗者の務めだ。これでもう、道が交わることはない」

「おい、もう行くのかよ?」

 

 ぶっきらぼうに返すテレシス。用は済んだとその身を翻し去ろうとする背を引き留めるも、彼は足を止めただけ。

 

「我は身を隠す。テレシスの名は、テラの大地に混乱を招いた暴君として永遠に語られるだろう。此度ロドスを訪れたのは、この手で源石の創造主を討つため。これ以上は互いの為にならぬ」

 

 テレシスの眼はイグナスの背後に控えるエリートオペレーター達に向けられた。ScoutやLogosといったバベル時代からの仲間は、テレジア暗殺の首謀者である彼を前に表情が固くなる。アスカロンに至っては腰の古いナイフの柄に手を添え、僅かに殺気が漏れ出ていた。先程アーミヤはテレシスを赦すと言ったが、普通はこの場で全員に囲まれ殺されても仕方がない。それ程までに両者の遺恨は深く、くわえて問題はロドスとテレシス間に収まらない。

 

 ヴィクトリアの事件はシージ達主導のもと収束し、復興を経て新たな体制へと変わりつつある。だが依然として戦争の爪痕は残されていて、犠牲となった人達もいる。

 テレシスの存在を知れば、ヴィクトリアの貴族や軍は総出でその身柄を寄越せと迫るだろう。そうなれば友好関係を築いたロドスであっても庇い建てできない。その先にあるのは、担い手が違うだけのもう1つのヴィクトリア戦争だ。

 かといってカズデルに戻ることもできない。あそこは既にウィシャデル率いる新生バベルが新たな統治者として機能している。そこにカズデル軍事委員会の長が戻れば要らぬ混乱を招くだろう。もはやその存在そのものが新たな戦禍の火種となってしまった今、テレシスは世間の目から逃れる他に道はない。

 

「この先、お前はどうするんだよ?」

「我はテラを漂流する。振るうべき敵の居ぬ間は、刃は鞘に収まるべきだ。貴様らの理念だけでは取りこぼす者を、見つけに行く」

 

 自死を選ぶには宿命に巻き込んだ命が多すぎる。復讐の糧となり罪を清算しようにも、一番資格を持っていたはずの少女はいつか赦すと言ってのけた。ならばこの命は、再び何かの為に使わなければならない。

 サルカズに対する世間の認識は、レユニオンによる助けがあったとはいえ依然として悪いままだ。時には不条理に晒される者もいるだろう。時には言葉よりも、明確な力が有効な時もある。そんな弱き者のために、これからの生を捧ぐ。

 それはイグナスに生きろと願われた彼の、最大限の譲歩だった。

 

 テレシスの意思は固い。それが伝わってきてイグナスはため息をついた。本懐を遂げたのだから、もう少し気楽に生きればいいのに。クソ真面目で頑固だから、結局茨の道を歩こうとするのだろう。

 

 だから、イグナスはしょうがないな、なんて分かったような顔で手を振った。

 

「じゃあ、たまには手紙でも寄越せ。困ってたら、少しくらいは手を貸してやるよ」

「……余計な気遣いだ」

 

 

 イグナスの背後に控える皆んなも、彼の意志を尊重して手は出さずにいる。バベル時代から長く続いたロドスの因縁も、ここで一区切りを迎えた。

 

 といっても、まだまだテラの大地には課題が山積みだ。北の悪魔、海の怪物、宙の脅威。鉱石病問題が霞んで見える程のそれらは、イグナスの原作知識にすら解決方法はない。

 

(それでもこいつらとなら、どうにかできる。そう信じられる)

 

 大した力もない自分だが、仲間には恵まれている。自分の愛した世界で、憧れた人達が共に戦ってくれる。そんな贅沢があるだろうか。

 だからこそ、同じくらい幸せにしなきゃ釣り合ってない。このアークナイツの世界に、テラの大地に転生した理由はそれだと思うから。

 

 決意新たにイグナスは胸中の空気を吐き出し、吸い込んだ。空を見上げれば幸先の良い蒼穹が広がっている。まるで、この新たな門出を祝福しているかのようだ。

 

「俺も復活できたし、プリースティスも倒した。正にハッピーエンドって奴だな!」

 

 少なくとも今は、大きな戦いを終えた余韻に浸っても許されるだろう。一時は死を覚悟したが、最終的には元に戻れた。終わりよければすべて良しとは言わないが、帳尻を見れば十分に採算は取れているだろう。

 ガハハハ! と大口を開けて笑えば、澄み切った空に笑い声が沁み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっと、何いい話みたいに終わらせようとしてんの?」

「へ?」

 

 W、改めウィシャデルの言葉が空気を変える。

 間抜けな声を漏らしたイグナス。だが、辺りを見渡してその顔が強張る。

 

 いつの間にか、その周囲をウィシャデルの砲塔が囲んでいた。その銃口は中心、つまりイグナスの方を向いている。

 

「えっとウィ、ウィシャデル。これは一体……?」

 

 和やかに大団円で終わりかけていたというのに、一転して命の危機に瀕し冷や汗を垂らすイグナス。一方で、それを眺めるウィシャデルはそれはもういい笑顔をしていた。

 

(怖い。なんかもう相手を馬鹿にしてるとかじゃなくてマジで優しそうな笑顔なのが逆に怖い)

 

「私ね、誰かさんが生かす価値もないクソ男のためにぽっくり逝っちゃってから、色々苦労させられたのよ。したくもない腹の探り合いさせられて、頭の固いサルカズの軍人を言いくるめて、そりゃあもう散々な目に遭ったわ」

 

 その誰かさんの正体など知れた事である。

 テレジアに託されたとはいえ、慣れない為政者の真似事に、分裂しかけたレユニオンのとりまとめ。それらに鬱憤が溜まっていたのも事実。これまでは周囲の人間が上手くガス抜きをしていたからどうにかなっていた。だがここに丁度いい矛先、張本人(サンドバッグ)が来てしまった。

 

「だからもし、その元凶がもう一度私の前に顔を見せたら、その仕返しをしてやるって決めてたの」

 

 砲塔の口が熱を帯び始める。明らかな戦闘態勢、しかも逃げ場がないこの状況。

 イグナスは助けを求め周囲に目を遣る。

 しかし。

 

(あれ、俺って結構大切な仲間って思われてるんじゃなかったっけ???)

 

 周りを見るも、何故か全員が目を逸らす。タルラはウィシャデルと似た笑顔で微笑むだけだし、あのアーミヤですら思うところがあるのかぎこちない笑みを浮かべるだけ。最愛の伴侶とロドス最後の良心に見放された今、イグナスは孤立無援のまま。

 最後のあがきを見せようと、イグナスはウィシャデルを諭す。

 

「あの、これさっきロドスの外壁ぶち抜いてた奴だよな? そんなもの人に撃っちゃいけないと思うんです」

「安心しなさい。加減は知ってるから、傷が残るようなヘマはしないわ」

「あれ、意外と優しい?」

 

 彼の知るウィシャデルならば、「さあ? そんな上品なルール教えてもらった事無いわ。試してみればいいんじゃない?」くらいは言いそうなものだ。とても仲間に向けたセリフとは思えないが、怪我の心配をするだなんて随分成長したんだなとズレた感動をするイグナス。

 だが、にっこりといい笑顔を見せるウィシャデルを見てイグナスは違うと確信する。そして、その予感は正しかった。

 

「あんたの弟分がそりゃあもう頑張ってアーツの修行してたから、半殺し程度なら後遺症無しよね?」

「つまり今から半殺しにするつもりなんですね分かります!」

 

 これは、逃げるが勝ち! 身を翻して走るイグナスを、ウィシャデルは鬼の形相で追い詰める。

 

「逃がすか!!!」

 

 

 静寂に包まれていた甲板は一転、プリースティスとの戦いにも負けず劣らずの騒がしさに戻っていた。

 それでも、誰の顔にも(ただ1人、迫る命の危機に必死に逃げるイグナスを除いて)笑みが浮かんでいるのをテレシスは見た。

 

「ふ」

 

 意図せず息が漏れて、テレシスは口元を手で覆った。ほんの僅かだが、口角が上がっている。

 

(笑ったのか、我が?)

 

 もう最後に笑ったのがいつだったかなど、思い出せない程遠い出来事だ。それでも、この顔は笑顔というものを覚えていたらしい。

 自分を救った男の醜態が、あまりにも馬鹿馬鹿しくて。それでもその光景が眩しかったからか。愕然とすること数秒後、視線を上げた先に、彼は懐かしい人を見た。

 

 ()()は、笑うアーミヤの肩にそっと手を添え、続いてドクターのもとにふわりと浮かび上がりその横に寄り添った。蜃気楼のように朧げな姿にも関わらず、テレシスは彼女を見て目が覚める思いをさせられた。

 

 直感する。彼女は、妹ではない。どれだけ姿形が似ていようと、テレシスにはそれが分かった。

 彼女は彼らとともに騒がしくも温かな光景を眺め、最後に一度だけこちらを振り返った。母性と慈しみに満ちた、妹と瓜二つで、それでも少しだけ機械的な微笑みのまま、風に溶けるように消えた。

 

 

『ありがとう、テレシス』

 

 

 音はなかった。ただ、そう言っていた気がした。

 きっと、彼女は妹が後継のために遺した力の一端だ。

 

 例えテレジアはもうこの世にいなくとも、その意思は、想いは、なおもこの大地に継がれていく。彼女の生きた証は決して消える事はない。

 

 テレシスは最後に、ドクターの背を見つめた。

 かつて、バベルの亡霊と言われた男。戦場の全てを見通し、生存者と犠牲者を分け、最適の手段を以て戦果を上げた指揮官。そして内戦終結のため、テレシスに共犯を持ち掛けたたった1人の理解者。

 

 彼の視線はもはや自分にはなく、逃げ惑いながら助けを求めるイグナスに向けられていた。

 記憶を失ったとは聞いていた。そしてそれを為したのは、他ならぬテレジア自身だということも。彼女がそんな事をした真意を、テレシスはようやく理解できた。

 

「……もはや、亡霊は存在せぬ。故に我が古き約定も意味を為さぬ。ドクター、今の貴様のまま、歩むがいい」

 

 それだけを言い残して、テレシスは遂にその場を後にした。

 




これにて、「明日の方舟よ、良い旅を」完!!!

これまでこの二次小説を追ってくださった方々、ありがとうございました。
小説ド素人の私がかれこれ2年半も書き続けることが出来たのは、皆さんの感想や評価が背中を押し続けてくれたからだと思っています。

私が望む、アークナイツのハッピーエンド。皆さんも「こうなっていたら」そう妄想する事は多々あると思いますが、これは数あるifの1つに過ぎません。何が言いたいかというと、是非皆さんも二次小説書いてみてください。私が読むので。できればハッピーエンドで、それでもほんの僅か香る程度の曇らせがあると大好物です。

今後の予定ですが、今までのエピソード系列と同様に気が向けばいくつか話を投稿しようと思っています。偶に見かけたら覗いてみてください。
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