陽だまりの中にいる時、唐突にこれが夢だと悟る。
温かくて、時折眩しい。淡い桃色の誰かが、こちらを振り返って笑っている。
その人はきっと、自分が近づいてくれるのを待っている。だけど、この足を踏み出す事はない。透明なケースに仕舞われた宝石を前にしたように、手を伸ばす事はなく眺め続ける。
自分は、それで満足だった。
瞬きの間に景色が変わる。朧げな光景は輪郭を帯び、無機質な天井が視界全てを覆う。
起き上がり、先程見たものが夢だと再認識して顔を覆う。罪悪感と自罰の意識が背中に圧し掛かり、ため息が思わず漏れた。
最近は、いつもこんな夢を見ている。
ロドス本艦。
ロドス本艦が現在航行するのは、ヴィクトリア北部辺境付近。ヴィクトリアでの事後処理がようやく落ち着きを見せ、ウルサス、リターニア、カジミエーシュを経由しクルビアまで向かう遠大なルートの始まり。
北に向かって進むロドス本艦は冷たい空気を多分に含む風に晒され、外を眺めるガラス窓は内外の寒暖差により霜が降りてくる頃。
数多くのオペレーターが急遽冬用の服を棚から引っ張り出している。中にはわんぱくな子ども達が袖の無い服に身を包みはしゃいでいるが、それもまたご愛敬といったところだろう。
そんな季節に、態々風の当たるデッキで遠くを見つめる少女が1人。
「まだかな」
緊張した面持ちのスージーは、そわそわする心を抑えられない。彼女はこの空気を知っている。何せこの付近はスージーの故郷の辺境都市の近くで、鉱石病に罹患する前までずっと住んでいたのだから。父親を亡くし母が仕事に出ている間、下の3人の弟妹と一緒に1つの部屋で固まって過ごしていた冬を思い出す。
もっこりとした上着の僅かな隙間から入り込む冷気に耐え、待ち人の到来を前に浮足立つ彼女は、以前よりも大人びて見えた。カレドン市での事件から1年以上の時が流れ、ロドスでの仕事も軌道に乗り始めた。ロドス唯一の美容師として活動する彼女は、同じくクルビアの元トップメイクアップアーティストのロベルタとともに、ロドスの日常を支えるのに欠かせないオペレーターになっている。
スージーにも遂に専用の仕事部屋が与えられ、そこを訪れるオペレーターは多種多様。お洒落を追求する若い少女からトリートメントを使った事すらない野生児まで、そんな日々に揉まれていればスージーが同年代の少女より大人びた雰囲気を纏うのも納得のいく話だろう。
ふと、その後ろから彼女を呼ぶ声がした。
「スージーさん。寒くないかい?」
「レイドさん! 全然、これくらいへっちゃらです」
厚手のコートを羽織ったレイドはスージーの横に並んだ。そして、ここに来る前に自販機で買ったホットココアの缶を彼女に差し出す。彼女が今日何故こんなところにいるのか、その事情を知る彼はもしやと思い甲板に上がってきたら案の定だった。
受け取った缶を両手で包み込み、あったかいと漏らすスージーに目元を緩め、レイドは自分のコーヒー缶のプルタブを開いた。
「輸送隊が来るのはもう少し後だろう? 態々外で待つ必要はないんじゃないか?」
「今日は一日お休みをいただいてますし、艦の中にいても気になって何だか落ち着かなくて」
そうやって照れくさそうに笑う彼女が、レイドにはなんだか幼く思えた。それはきっと、彼女の待ち人がそうさせているのだろう。時折忘れそうになるが、彼女はまだ成人すらしていないのだ。
「スージーさんのご家族、元気にしているといいな」
「はい。かれこれ5年も顔を合わせていませんでしたから」
そのままレイドはスージーの隣を離れることなく、同じように地平線を眺め続けた。缶の中身が無くなって、スージーが家族の話を楽し気に話す中、ようやくそれらしき影が見える。
今日は、スージーの家族がロドスを訪れる日だった。
スージーの母、即ちグリッター夫人が来るに至った経緯は至ってシンプルだ。
カレドン市を離れロドスに就職する事になったスージーは、生活が安定してきたこともあり毎月欠かさず送っている家族への手紙に、僅かながら仕送りを添えることが出来るようになっていた。それは今まで迷惑をかけた母への感謝でもあったし、下の弟妹達の学費の足しにもなればと思ってのことだった。
ただ、それに対し母親は感謝と同時に不安を感じたようだった。目に入れても痛くない自慢の娘、だが世間からみればただの未成年の感染者。遠く離れた場所で暮らす彼女が急に懐に余裕が出来たのは、何か良からぬことに手を出しているからではないか、と。
返事の手紙で今の職場や人間関係について頻りに訪ねてくるようになり、それにスージーは正直に答えた。だが、母親はより懐疑的になってしまった。今時感染者に対しそこまで親身になる企業が果たして存在するのか。今回はロドスの理念の高潔さが却って不審がられてしまうことになったわけだ。
その不安を解消するため、スージーは仕送りしたお金で兄弟姉妹含め全員で一度ロドスを訪れて欲しいと提案した。相手もすぐにそれを了承したらしく、ヴィクトリアの各地に点在するロドス駐留事務所の定期便に相乗りする形でロドスに来る事が決まった。
スージーも今日は仕事を休み、グリッター夫人らが帰る明日の早朝便までの間、ロドスを訪れた家族の案内をする予定だ。今回の訪問の目的がロドスを見学してもらうことで家族に安心して大切な娘であるスージーを任せてもらえるようにするということもあり、ドクター含めロドスの各所にも話がいっている。
スージー主催のロドス見学ツアーは、多くのオペレーター達に見守られ滞りなく進んでいった。
その翌日。無事グリッター夫人の誤解は解かれ、スージーは引き続きロドスで働けることになった。早朝の便、地平線から昇ったばかりの太陽に見守られながら、スージーは家族と最後の抱擁を交わし別れを告げた。その別れが前向きなものであることは、彼女の清々しい顔を見れば一目瞭然だった。
見送りも終わりロドス本艦が朝の活気を取り戻す頃、レイドはスージーの部屋で後片付けを手伝っていた。何故かというと、一泊二日となったスージーの家族訪問の影響で、彼女の自室は母親と数人の姉妹が寝泊まりできるよう簡易ベッドを設置しており、女性1人でそれを解体するのは些か重労働だろうとレイドがすすんで手伝いを願い出たからだ。
といっても流石に女性の自室に入っていることには違いないわけで、レイドは極力部屋の様子を見ないようにしながら作業は順調に進んでいった。
「ありがとうございました。お陰で早く片付きました」
「これくらい大したことないよ。それじゃあ俺はこれで」
「あっ、待ってください。今お茶とお菓子を出しますから、少し休憩しましょう?」
あまり長居をするとよくない、そう思い早々に部屋を出ようとしたレイドだったが、テキパキと準備を始めてしまった彼女を見れば無下にはできなかった。
スペース確保のためどかしていた3人掛けのソファに座り、小さなテーブルに置かれたスコーンを口に運んだ。素朴な麦の甘味を温かい紅茶で喉奥に流し込めば、力仕事の疲労が溶けていく。
「ご家族も元気そうでよかった」
「はい。お母さん、前よりお給料が貰える仕事を見つけたみたいで、弟たちのことも心配するなって言ってました。幸い、家族の中で感染したのは私だけですから」
定期便が到着した時、会って早々グリッター夫人は娘に駆け寄り力強く抱きしめた。スージーはアーツの影響で唐突に触れると静電気で相手を傷付けてしまうことがある。だが制止する間もなく抱きしめられた彼女は、堪えきれず大泣きしてしまった。彼女達の後ろには荷下ろしをしようとロドスの職員が立っていたが、久しぶりの家族の再会を邪魔しまいとそれを見守っていた。レイドもまた、しっかり者として振る舞う彼女の年相応の姿を見てほっと息をついた。
『貴方は、もしかしてレイドさんでしょうか?』
娘との再会ののち、そうして歩み寄ってきたフェリーンの女性はどこかスージーの面影がありつつも歳以上の苦労をしてきたのか疲労と不安が滲み出ていた。
そんな彼女は、折り目正しく腰を折り頭を深々と下げた。
『娘がよくお世話になっているそうで。お礼申し上げます』
『そんな、俺自身に出来た事なんて大したことはありませんから』
他のロドス職員も周りにいる上に、グリッター夫人の後ろには彼女の子ども達がいたのだ。その時は頭を上げるように言っても中々聞き入れてもらえず、レイドは狼狽えてしまった。
それから、レイドも流れでスージーの案内に同行することになった。スージーが先頭でグリッター夫人や兄姉達に案内をする傍ら、後ろの方で長話に飽きた歳の若い弟妹達の相手をすることが彼の役目になった。
「すみません、あの時はうちの弟達が」
「いや、むしろ彼らに元気を貰えたよ。礼儀もちゃんとしてるし、よくできたお子さんだ」
当時の様子を思い出し、スージーは申し訳なさそうにする。まだまだ育ち盛りな3人の弟妹達、くわえて初めての家族揃っての遠出ということもありいつもはお利口な彼らもはしゃぐのは仕方ない。
問題はその在り余ったエネルギーの矛先が全てレイドに向いたことなのだが。
『ねえねえお腹空いた! お昼何?!』
『かっけえ! あれロボット? 触ってみた~い』
『ねえ、おじさんはお姉ちゃんの彼氏? スージー姉のこと泣かせたら許さないぞ!』
廊下を歩きながら、目に映る全てについてレイドを質問攻めにして困らせていた。
だがレイドも慣れたもの。ポラリスで子ども達と触れ合う事も多かったからか、わんぱくな幼子達の対処は心得ている。腕にしがみついた弟妹達をぐるぐると回した彼は瞬く間に人気な遊び相手になり、代わるがわるその腕にしがみついて遊んでいた。怒涛の質問にも、彼らが分かり易いようかみ砕いた説明で答え彼らの知識欲を大いに満たした。
だからスージーは列の後ろで飛び交う笑い声に安心して、家族の案内に専念することが出来たのだ。多くの人に支えられて、スージーはこの一泊二日の家族旅行を無事終わらせる事が出来た。
「皆んな、レイドさんのこと褒めてましたよ。頼りになる人だって」
スージーはそれを、まるで自分のことのように誇らしげに語る。そんな彼女のきらきらとした視線が眩しくて、レイドは目を逸らした。そんな彼の脳裏に、別れ際のグリッター夫人の姿が浮かぶ。
『娘を、どうかよろしくお願いします』
そうして、初めて会った時よりもさらに深く頭を下げる彼女。レイドはその言葉に命に替えても守ると答えた。自分がいる限り彼女に悪党の指一本触れさせるつもりはない。
だが親元を離れ暮らす娘を赤の他人に託す、そんな決断をした母親のそれには別の思惑もあったようで。
『ええ。
その頼みの裏に隠されたもう一つの意図に、レイドは気付かない振りをした。
スージーもまたレイドと同じ場面を思い描いたのだろう。ほんのり頬を染めた彼女を一瞥し、レイドは何もない正面を向く。
(さて、どうしたものか)
今レイドはスージーの自室で2人、ソファに並んで座っている。今の彼女は先程の会話が尾を引いているのか、やや体が強張っているように見える。人1人よりやや狭い間の空間が、妙に熱を持っているようだった。
気まずい沈黙を紛らわそうと、スージーは家族の話を矢継ぎ早に話し始める。それに相槌を打ちつつ、レイドの頭の中を埋め尽くすのはやはり、どうしたらいいのかという困惑だった。
スージーが話の区切りにスコーンを手に取った。そうしてその小さな口で小動物のように口に運ぶ。テーブルにあったそれを取ろうと腰を浮かせた彼女は、先程よりも僅かにレイドに近づいていた。その拳1つにも満たない距離で、彼女の頬はリンゴのように赤らみ髪の毛が僅かに浮き上がる。
もうここまでくれば嫌でも分かる。レイドは、横にいるこの可憐な少女が、自分に好意を寄せてくれていると自覚していた。自分1人では生涯辿り着けなかったかもしれないが、イグナスやクエルクスその他に散々仄めかされたのだ。まさかと思いつつも、それが疑念から確信に変わるのにそう時間はかからなかった。
正直、嬉しいと感じていた。歳の差はあれど彼女は極めて善良で優しくそれでいて現状を変えるために行動する勇気を持つ素晴らしい女性だ。それは昨日の一件でより深く感じられた。
備え付けられたもう1つの机の上、そこに大量の物が並んでいる。雑多なそれらは全て、昨日スージーの家族がお土産にと態々持ってきてくれたものだ。
兄姉からは可愛がられ、弟妹からは慕われる。ロドスの皆からも惜しみなく協力される。それは彼女の人柄あってこそだ。レイド自身も、カレドン市での潜入工作の時から彼女のそんな人並みの温かさに救われたのだ。
もし彼女と添い遂げることがあるならば、そんな雑念がふと頭を過った事もある。
―けれども。
そんな時は決まって、頭の奥深くから不快な金切声が劈く。
『あいつは、紅の刀だ!』
『よせ! 俺はまだ死にたくないっ!!!』
『帝国の犬め! 人の心はないのか!?』
温もりに手を伸ばそうとする度、思い出す声がある。
ウルサスで、地獄を見た。雪が赤く染まる様を、それがまた新たな白に覆い隠されていく様を見た。手を下す前の、絶望に染まった視線が忘れられない。まともな生活を送れていない者特有の生臭さが、鉄の匂いに塗りつぶされていく感覚が鼻腔にへばりついている。肉と骨を裂く感触に今更違和感なんて感じない。
ウルサスでは当たり前だった感染者の弾圧。レイドはウルサスの軍人として、それに加担していたことがあった。今なお残る、雪ぐことのできない人生の汚点。
当時はそれが仕方のない事なのだと、自分の慰めを頼りに自身を正当化した。それが何の意味の無い、それどころか唾棄すべき邪悪だと気付かされたのは、自分が戦場で鉱石爆弾の破片を受け感染者になった時だった。
軍医に見せることはできなかった。そうなれば自分が受けるのは治療ではなく非人間の烙印だ。自分で応急処置をして、公になる前に軍の兵舎を抜け出した。事情を察したのか追ってくる奴らを斬り捨てて、逃げ込むように感染者の寄り合いに身を寄せた。あの時ほど、罪悪感と惨めさで自分を殺してやりたくなった時はない。
ウルサスの冷たさが、再びこの四肢に浸透していくのを感じる。
「レイドさん?」
「! ああ、すまない。少し考え事を」
スージーが怪訝そうな目でレイドを見つめる。心配させないよう、何でもない風を装う。だが今回ばかりはそうもいかないらしい。彼女は引き下がらなかった。
「どうしたんですか? 何か悩みごとですか?」
「気にしないでくれ。大したことじゃないんだ」
「嘘です、よね?」
「……どうして、そう思うんだ?」
「何となく、です。これでも、レイドさんとは長い間一緒にいましたから」
彼女が見つめてくる。それにレイドは黙秘を選択した。だが伏せられた目と悲し気に歪んだ眉が、その決意を曇らせる。
「私のこと、信用できないですか?」
「! そんなはずない」
「じゃあ、話してください」
本当は信用している。だからこそ話せない。こうまで口を紡ぐ理由を自問自答して、レイドは気付いた。
(ああ、俺はこの期に及んで、彼女に
そんなこと、願うだけでも許されないのに。綺麗な彼女を汚すわけにはいかないと壁を作っておきながら、浅ましくも未だそうなる可能性を捨てきれずにいる。
「君は、いつもそうやって俺を気にかけてくれるね」
「それは、その……力に、なりたくて……」
躊躇いがちな声でも、しっかりと自分の思いを伝えてくれる。そんな彼女が眩しい。だから、目を覆って遠ざけたくなる。
いい加減、潮時だ。レイドはそれを自ら断ち切るため、口を開く。
「俺は、君にそう言ってもらえるような人じゃない」
「そんなことは」
「いや、そうなんだよ。それだけは俺が知っている。忘れてはいけない事実なんだ」
彼女の言葉を遮ってまで続きを口にしたのはきっと、この言葉が止まってしまいそうになるから。
「俺は昔、感染者をこの手で殺した」
「え?」
「最初は軍人になって数年の頃、感染者が寄り集まった小さな寒村だった」
源石鉱山から運よく逃げ出した者達が肩を寄せ合ってできた小さな村。感染者監視隊に運悪く見つかり、武装もしているということで近くに駐屯していた守備軍にも要請が来た。
当時から白兵戦能力を買われていたレイドは、反抗した時の突撃兵として控えていた。村を包囲しつつ、遠くから上官が降伏を呼びかけるもそれに応じる事はなかった。
『まあ、これくらいでいいだろう。楽に終わるな』
『へ?』
上官のその言葉は、今でも耳に残っている。直後、予定調和のように始まる殲滅戦。そもそも武力差は明らかで、確かに作戦終了までに時間はかからなかった。
斬り倒した村の住人の前でレイドは呆然としていた。刀を持つ手が震え、それが全身に広がっていく。
レイドとて軍人だ。カジミエーシュや極東との小競り合いも経験している。だが、それはあくまでも軍人相手だった。彼らは敵国の人間で、それが職務だった。国の為に命を散らす、そういう相手だった。
だがこれは違う。彼らは、ただ生きたいと願う市民だった。軍人である自分が、守りたいと願ったはずの命だった。
『おい、早く引き上げるぞ。感染者の死体の傍なんて長くいるもんじゃねえ』
唾でも吐き掛けそうな同僚の言葉に、レイドは異国に迷い込んだような心地になった。それでも、彼らと自分は同じ制服を纏っていた。
例え今はもうレユニオンの一員として多くの人を救っていたとしても、その事実は変えられない。
だからこそ、レユニオンに勧誘された時のタルラの演説。あれを聞いた時、レイドはこれこそが自分の命を賭すべき使命なのだと確信したのだ。
失った命は戻らない。過去の罪は消えない。
ならばこの生は、今救われぬ者の為に使おう。
助けを求める感染者を救うためなら、いくらでもこの刀を振るおう。それを以て、この拭いきれぬ罪過を雪ごう。
幸せなど望んではならない。もし自分に許されるとするならそれは、救われた人の笑顔に自分を慰めることだけ。
「俺は、人でなしだ。本来、君が触れていいような人間じゃないんだ」
レユニオンの隊長の1人になって、皆から尊敬されようと、自分だけは忘れてはいけない。
自分は、幸せを享受できる人間じゃないことを。
「……」
無言になってしまったスージー。部屋が重苦しい空気で満たされる。それにレイドは申し訳なく思う。
久しぶりの家族との再会の余韻を、こんな形で汚したくはなかった。だがこれで彼女も自分の正体を知り、距離を取るだろう。
「今日はこれで失礼するよ。今日も昨日と同じで寒くなるから、体に気を付けて」
レイドが立ち上がる。もう、自分から彼女に近づくつもりはなかった。
だが腰が浮く直前、その手が強く握られレイドは立ち上がれなかった。見れば俯いたスージーが彼を引き留めていた。触れた瞬間、彼女の纏う静電気がピリリと肌を走った。
「…が、う」
「え?」
「違う、違うんです!!!」
突然の大声に驚愕するレイド。だが、二重の衝撃が彼を襲う。
「スージーさん?」
俯いてしまった彼女の表情が分からない。ただソファを濡らす水滴で、彼女が泣いているということは分かる。
無言で、彼女のものとは思えない力でソファに縫い留められたまま時が過ぎる。
ただ自分を想って涙を流す彼女に、レイドはどうすればいいのか分からなかった。
どうして伝わらないんだろう。レイドさんはかっこよくて、優しくて、私も含めて多くの人を救ってくれたのに。だから、この人も幸せになるべき人なのに。
何で、そんな資格が無いって手放しちゃうんだろう?
レイドさんがこっちを見ている。言葉をうまく紡げない私を、心配そうに見つめている。
誰が見たってわかるのに。他人を気遣ってそんな顔を浮かべる貴方が、人でなしなわけがないのに。昨日だって、騒がしい弟達に嫌な顔一つしないで遊びに付き合って、ニコニコ笑うのを愛おしそうな瞳で見つめていた。お母さんと話をする時、私がロドスを離れなくてすむようにとても真剣に私の事を話してくれたのに。
分かっていた。レイドさんもきっと、辛い過去を背負っているんだって。私をいつも助けてくれるのに、時折自分を見る目が眩しそうで、遠い目をしていたから。
だからずっと、感謝を素直に伝えていた。私が困った時、事情も聴かず手を貸してくれる彼が、いつか自分を誇れるように。
なのにまだ、足りないんだ。
目の前でレイドさんが見つめている。それでも、レイドさんとの距離がもどかしい。
きっと、言葉が貴方の耳に届くまでに、籠めた想いがばらけて薄まってしまうんだ。アーミヤさんがこの時だけは羨ましい。彼女のアーツならきっと、自分がどれだけレイドさんがすごいと思ってるか、この心に抱える熱そのままに教えてあげられるのに。
(ああ、そうか)
唐突に理解した。
この前に友達と観たクルビアの映画。そのラストシーン。
悪者に拉致されたヒロインの女優さんが、助けに来た主人公と再会した感動の場面。彼女は涙を浮かべて走り出し、手を広げて待つ彼に激しいキスをした。
その時は何だか恥ずかしくて、思わず掌で目を覆ってしまったけれど。あれはきっと、無意識に誰もがそうしてしまうものなんだ。
伝えたい思いが、空気に溶けていかないように。相手にこの想いが、百パーセント伝わるように。
ゆっくりと顔を近づける。彼の赤い瞳が一瞬広がって、咄嗟に離れようとする。だから私は両手でその頬を包んで、彼を掴まえた。
そしてほんの少し首を傾けて、あと僅かにまで迫った距離を埋めれば、唇にかさついた何かが触れた気がした。
どれだけの時間、そうしていたかは分からない。ほんの一瞬のようだったし、永遠のようにも思う。
ただ思い出したように息を吸わないとと思って顔を離せば、呆然としたレイドさんの顔がよく見えた。
今だって、嫌だったら突き放してもよかったのに。その手は私の肩の数センチ先を彷徨ったまま、結局押し返す事はなかった。そんな彼の反応に胸が締め付けられた後、軽くなって飛んで行ってしまうような心地になった。
きっと、今の自分は熱がある。じゃなきゃきっと、こんな大胆な事はできない。それでもあまり気にはならなかった。ただ、今しかないって思ったから。
「好きです。レイドさん」
思うがままに口にした言葉を反芻して。
もう少し、ロマンチックにしたかったな。なんてのぼせた頭で反省した。
このあと? 言わせんなよ恥ずかしい。
スージー:やる時はやる乙女。
レイド:原作でも離れてしばらく経ったのち、開業した店の名前を「スージー雑貨店」にしちゃう男。