静寂が辺りを包み込んでいる。
一定間隔で並ぶ棚。その間をすれ違う人々は、それがこの場ではあるべき姿である事を認識している。故に談笑に立ち止まるような素振りを見せることはない。
空調を担うエアコンの音に、紙を捲る音が時折混ざる。
ロドス艦には様々な施設が存在する。食堂や事務室、企業であるならば有って然るべきものは勿論、購買やトレーニング施設、宿舎や療養のための庭園まで。多様な人材を抱えながら日々困難な課題へ立ち向かう彼らを支える為、ロドスはそういった福祉方面には特に力を入れていると自負している。
ロドスの医療関係の施設が固まる区画に程近い、そんな場所に設けられた図書室なる部屋もそういった福祉事業の一環だった。
この場所を利用する人は比較的多い。調べ物には端末1つあれば足りる世になりつつあるが、未だ紙媒体というものの価値は衰えていない。ロドス屈指の機械オンチであるメテオといったハイテク機器に慣れない者にとっては慣れ親しんだそれは手放しがたいものであるし、データ化するに難しい書籍等も存在する。そういった調べ物をする層がこのロドスにも一定数存在していた。
また、それらとは別にここは憩いの場としての側面もあった。ロドスは身寄りのない幼い感染者を保護するといった事も行っている。当然彼らが健やかに育つことのできる環境を整える事にも余念がなく、彼らの情操教育のためにも定期的に本の読み聞かせ会を開催していた。そのおかげか、書庫の部分から少し離れた談話室は度々子ども達の声で賑わっている。
そしてそんな図書室に並べられた椅子の1つ、そこに静かに腰かける少女がいた。
その額からは黒い双角が天を衝き、鱗を纏った尻尾の先は炎のように揺らめいている。
先日のヒロック郡での事件を経てロドスに保護されたドラコの少女、ラフシニー。
苛烈なダブリンの「リーダー」として過ごしてきた彼女は、それとは遠くかけ離れた一時の平穏に身を委ねていた。今はその名を伏せ、新しく自ら決めたオペレーター名、リードとして生きている。
ロドスの一員になってしばらく経った。今まででは考えられなかったような暮らしをしながらも、ラフシニーは何かが欠けているような感覚が離れない。幸い、ドラコの肉体は非常に高性能でオペレーターとしても申し分ない働きをする事ができる。だが彼女はそもそも争いを好まず、今この時のように誰に邪魔されることも無く本の世界に没頭できることの方が嬉しかった。
ヒロック郡でのダブリンの蜂起。1人の少女が自らの過ちを自覚し、そして生まれ変わった日。
あの時、その身に重たい十字架を背負ってでも生を望んだ。その代償としてその身に刻まれた不治の病、鉱石病。その治療を受けながら、オペレーターとして任務にも参加し余った時間に図書室で読書をする。それが今の彼女のルーティーンだった。
何が欠けているのか、その答えは未だ不鮮明で指先にかかることも無く靄となって消えていく。その正体がかつて読み損ねた本の内容ではないか、そう疑った事もあった。
死の間際に思い出した記憶。両親にねだった蒸気騎士の武勇譚は初めてここを訪れた時は本棚のどこにもなく、司書に尋ねれば期間があれば要望を取り入れ入荷する事もあると言われ気長に待つことにした。その日、並ぶ背表紙を彷徨っていた指先は代わりに何となく選んだ龍門の昔話を手に取った。ロドスの図書室の蔵書はバラエティーに富んでおり、ラフシニーはこれまでに色々な話を読み世界の広さを知った。
だがそれでも、胸に空いた小さな穴は埋まる気配がない。
(まあ、本当に穴が空いてるんだけど)
胸に手を当てる。そこには親指大の源石結晶が露出しており仄かに赤く輝いていた。そんな自虐紛いの冗談も、声に出さなければ誰かに届くこともない。
口角をピクリとも動かさず、その口からはため息だけが零れた。
そしてまたある日、任務を終え時間を持て余した彼女は図書室へと足を運ぶ。今日はどの本を読もうか、並んだ本の背表紙に記されたタイトルを吟味していると、司書から声を掛けられた。
なんでも、以前自分が出した要望が採用されたらしく新入荷の棚にはまだ自分が幼い時本屋に並んでいた蒸気騎士の物語が記憶そのままに置かれていた。
待ち望んだそれに気分も浮き上がり、その本を両手で大切に抱え込みながらどこで読もうかと席を見渡す。ここしばらく通い詰めだった常連という事もあり、その足は足繫く通う間に見つけたお気に入りの席へと向かった。
そこは普段人が殆ど座っておらず、その後ろの棚の分野が悪いのか本を取りに来る者もいないと言っていい。どちらかと言えば内向的な彼女が周囲の視線を気にすることなく本に没頭できる場所。
だが着いて早々、その足が止まる。なんと先客がいたのだ。幸い自分がいつも座っている椅子は空席のまま。だがそこに向かい合うように座られているせいで、どうにもそこへ足が進まない。
いっそ自室に持って帰ろうか。そう思案したところでラフシニーはようやく対面に座る人物の顔を見た。
髪も服も白一色。そんな中で腕に巻いたオレンジ色のスカーフが目を惹く。自分より1周り小さいその少年は、机の前に突っ立っている自分の存在にも気づかない程本に集中しているようだった。
その純白の姿に、ラフシニーは見覚えがあった。
「キミは・・・」
「えっ?」
思わず呟いた声でようやく彼は顔を上げた。こちらを向いた彼はすぐに驚く。
幼いながらも、瞳の奥に強い意思を秘めた彼。
レユニオン・ムーブメントの治療師、イーノがそこにいた。
「貴女は、ラフシニーさん?」
「覚えててくれたんだ?」
「まさか、忘れるはずないじゃないですか」
開いていたページに栞を挟み席を立つ。差し出された手を握り返すと僅かに骨ばった感触が手に残った。
「その後、お変わりはないですか?」
「うん、お陰様で。後遺症も特にないよ」
良かったと安心した様子の彼の後ろ。ふと置いてある本に目がいった。
「勉強? 偉いね」
そこには本来は医者や看護師など医療に携わる人間が読むような難し気な医学書があった。自分がこの席を好んでいたのも、ここにはかなり専門的な学術書が並んでいて態々それを見に来ようとする人が少なかったからだ。
彼は恥ずかしいようで、仄かに赤く染まった頬を掻く。
「そんな、僕なんて全然。僕のアーツは医療分野の知識が無くても感覚的に使えますけど、知っておくに越したことはないと思って。せっかくロドスの外勤オペレーターになったので色々な方に教えていただきながら何とか」
自分の至らないところを恥じる彼を見て不思議に思う。何故謙遜する必要があるのだろうか。
彼はまだ成人すらしていない子どもだ。それでも、彼のアーツは実際にこの身に受けたからこそ非凡なものであると断言できる。いくらこの体が頑丈だからとはいえ、胸に穴が空いた人間を五体満足にする術など普通無い。そんな才を持ちながら、彼はまだ足りないと向上心を持ちこうして邁進し続けている。
その姿が、今の自分には何だか眩しく映る。
抱えた本の内容も、その在り方も。背丈は自分と比べれば大人と子どものようだが、それ以外は全てが逆に思える。
後ろめたくなった気持ちを隠すようにその場を後にしようとして、彼から待ったの声がかかった。
「せっかくですしここの席を使いますか? 静かで読みやすいですよ」
無垢な瞳に見つめられて、それを拒むことができるだろうか。
「・・・そうする」
結局彼の斜め前に座り、おずおずと本を開く。
文字を覚えたての児童でも飽きることが無いようにと作られたそれは、扉絵に堂々と黄金に輝く蒸気騎士の姿があしらってあった。その繊細さと迫力に、僅かに感じていたもやもやはすぐに消え去る。
やはり本というのはいい。文字と紙だけが自分を見つめているこの感覚。他人と正常な関係を築いてこなかった自分にとって、彼らこそが真に身を預けられる友だった。
文字の世界に引き込まれ時間の間隔すら曖昧になっていく。一区切りついたところで息を吐きふと顔を上げれば時計の針は既に夕食の時間を示していた。
受付の方では既に司書が片づけに取り掛かっていて、もうすぐここも閉まるだろう。いつも通り本を借りに受付に向かおうとして、自分はようやく斜め前の同席者の存在を思い出した。
彼は今もなお、目の前の本と睨み合いを続けているようだった。時折右手近くに置かれたノートに文字や図面を書き足していく。上下が逆さまで何が書いてあるかも分からないが、私は綺麗な字だと思った。綺麗に整列した文字の随所に、後から加えた数行の文字が混じっている。
よほど熱中しているのか少し腰を屈めていて、垂れ目気味な眦も伏せられたことで印象が変わる。
そんな彼から何故か目が離せなかった。声を掛ける事も、席を立つことすら出来ない。
懸命なその姿を邪魔するのも気が引ける。そう思って大人しく彼を待つことにした。
あれだけ気になっていた本の続きを読むことすら忘れていた。それに気づいたのは閉館となり自室に戻った後だった。
それ以来、彼とは度々出会い席を同じくした。
幸いどちらも沈黙が苦にならず、本に熱中していたので気にはならなかった。
時折詰まっていた息を吐き肺の空気を入れ替える最中、ほんの数分の遣り取りだけが私達の交流だった。
「蒸気騎士ってどんな人なんですか?」
ある日、2周目に差し掛かったそれを途中で閉じた時彼が訪ねてきた。それにどう答えようか考えて頤に手を当てる。
蒸気騎士。ヴィクトリアが誇る栄誉ある称号。かの大国の技術の結晶であり、最強の騎士。空を駆け、鉄を灼く。あらゆる敵を打ち倒す英雄達。
彼らを形容する言葉は多くあれど、自分の中での彼らは幼い頃に憧れた彼らのままだ。
「どんなところにもやってきて、必ず助けてくれるの」
「なんだか兄さんみたいです」
少し子どもっぽくなってしまった表現に、彼は頷いた。その様子がこれまでの彼と比べて少し幼く感じられたのはそれだけその兄さんという人が彼にとって大きなものだからだろう。
「大好きなんだね、その人が」
「はいっ! 僕の憧れの人です」
それからは一転して彼がいつになく饒舌にその人の事について話してくれた。
感染者になる前から、あの感染者差別の激しいウルサスでその支援を秘密裏に行っていたその人は彼の所属するレユニオン・ムーブメントの中でも初期から存在する重要人物らしかった。
熱弁するイーノの話を聞けば聞くほどその人の凄さが伝わってくる。自分と違って、最初から自分のやりたい事を見据えていて周りに流されない強い自分を持った人だったのだろう。
また自分を責めそうになるが、対面の彼を見て考えを改める。せっかく自分の好きな事について話してくれているのに、顰め面をしていては気に病んでしまうだろう。
イグナスというその人が為したことを連ねる彼に賛同すれば、まるで自分が褒められたように嬉しそうに笑う。そんな彼につい笑みがこぼれた。
そんな私を見て、イーノは驚いたような顔をする。
「あ、笑った」
「・・・ごめんなさい。馬鹿にした訳じゃない」
「いえっ、そうじゃないんです! やっと笑顔になったなって。ラフシニーさんいつも無表情だったから」
弁明しようとあたふたする彼。彼の指摘に、私はふと考える。
そうだろうか? いや、そうだったんだろう。
このロドスに来てから、あの日の事を思い出さない日はない。それまでの日々が消え去るわけじゃない。自分がこの手の槍で刺し貫き灰にしてきた人々の命はなおもこの身が背負っている。その重さを自覚した今、それがどれだけ取り返しのつかないものだったかを知った。
こんな自分が穏やかな時間を過ごしていていい筈がない。物語から醒めればいつだって罪悪感に苛まれた。その度に手に慣れない槍を取り、ロドスの任務に志願した。過去の亡霊から逃げるように槍を振るい、人の助けになる事で贖罪しようとした。そんな弱い自分に今更ながら気づく。今思えば、私の治療を担当したドクター達はそんな私の精神状態を慮ってくれていたのだろう。任務に志願する時も必ず前回の任務からはある程度の日にちを空けられていたし、この図書室を紹介してくれたのも彼らだ。
それでも、そうやって多くの人に心配をかけてもまだ私は私を許せない。
胸の穴も埋まるはずがないだろう。それは埋まる度に自ら空けていたのだから。
「・・・強いな・・・」
改めて思う。このロドスにはそんな過去を持った人達も大勢いて、それでも前を向いて進んでいる。葦のように頼りない私と違い、彼らはしっかりと大地に根付き天へとその枝を伸ばし続ける大木のようだ。
『どんなに辛い事があっても、罪を背負っていても、それを背負って歩けるのが人の強さ』
彼が語ったその言葉が、どれだけの重みを持っていたのか。それに気づいてしまった。
呟いたまま、黙りこくってしまった私をイーノが見つめる。やがて、その口からはある提案が出た。
「ジェーンさんがお茶会に誘いたいのに避けられると仰ってましたよ? 行かないんですか?」
彼の突然な提案に戸惑う。確かにそういう気配はあった、ここにも時折様子を伺いに来る。けれど、それに応えるつもりはなかった。
「・・・いいのかな? それに、何を話せばいいのか分からない」
最後に命を救ったとはいえ、彼女らが故郷を離れなければいけなくなったそもそもの原因が私だ。そんな自分が、彼女らに混ざってもいい訳がない。そう思っていた。
でも、そんな私にイーノはだからこそ行くべきだと言う。
「僕、言いましたよね。誰にだって好きなものも嫌いなものもあるって。ラフシニーさんはその本お好きですか?」
「うん、好きだよ」
「ならそのお話をしてみたらどうでしょう? 共通の話題になりますし、それからは最近何をしているかとか他に読んだ本のことでもいいんです。重要なのはお互いを知る事ですから」
「互いを、知る・・・」
「何が好きで、何を嫌って、どんな思いを秘めていて、何を成したのか。それはもう今のラフシニーさんなら自分で分かるはずです。だからそれを語って、逆に聞いて、それこそが交流というものです。過去がどうとか関係ありません。少なくともジェーンさん達は、貴女の事を知りたがっていますよ」
こんな私でも知ろうとしてくれる人がいる。「リーダー」でもない、ただのラフシニーを。そう思うと少し肩が軽くなった気がする。
イーノはずっと私を見つめていて、私がどうするのかを見守っていた。だから私は本に栞を挟んで席を立つ。思い立ったが吉日。弱気な自分が顔を覗かせないうちに行動すべきだ。
「頑張ってくださいね」
一度席を立った彼が笑顔で手を振る。それに小さく振り返してお礼を言った。
「ありがとう。君も頑張って。きっと凄い医者になれるよ」
背中を押されるがまま、私の足は外へと向かう。
そんな私の後ろで彼がボソリとなにかを言った。
「僕も頑張らないとな」
そんな彼の呟きを聞き逃した事。それを後悔するとも知らずに。
それから色々な人と話をした。
まず私があの日殺しかけた女性の友人、ジェーンのお茶会に参加した。
緊張で縮こまる私を笑顔で招き、彼女は自分の趣味を語り始めた。彼女はどうやら美容については詳しいらしく、私の肌色にあった化粧の仕方を教えてもらった。
あちらから歩み寄ってくれたのが分かって、こちらも相手に知ってもらえるようしなければと思った。イーノに言われた通り蒸気騎士の本を取り出すと彼女も幼い頃に読んだことがあるらしく懐かしいと目を輝かせて喜んでいた。
彼女から聞いた話だが、今は淑女に相応しい振る舞いをしているが昔は相当やんちゃだったらしい。それを彼女の祖父がなんとか矯正したそうだ。
―ヴィクトリアにはヴィクトリアの法と文化がある。ましてやヴイーヴルである自分達がそれを蔑ろにしてはやがてそこを追われることになるだろうと。
彼女を形成するに至ったその話を聞いて、やっと私は彼女を謝罪すべき被害者としてでなく1人の人間として見ることができたと思った。
社交的な彼女のおかげで話も弾みティーカップの中身も尽きてきた頃、ようやく私は彼女に謝罪をすることができた。罪悪感で俯きがちになる顔を何とか跳ね上げ、拙い言葉で自分の悪行を羅列しその全てを詫びた。
目の前に座る彼女は一度目を瞑った後、全てを許すと簡単に言ってのけた。
「どうして? 私は許されない事をした」
「私達はされてないわ」
彼女はなんてことの無いように言うがそれは違う。
「しようとした、それだけでも許されない事。それに犠牲者がいなかった訳じゃない。あのターラー地区もめちゃくちゃにした」
自分の両手を見る。その手は茶会に際し綺麗に拭かれているが、時折その手が赤黒く染まっているように見える事がある。
「確かに貴女は多くの命を奪ってここにいる。それは変えられない」
唐突に突きつけられた事実に穿いたスカートの裾をギュッと掴む。
そうだ、過去は変えられない。
「そして貴女がシアーシャを助けてくれた事実も変わらない。そうでしょう?」
俯いていた私はハッとなり顔を上げた。
目の前には、包み込むような、それでいて少し儚い笑顔を浮かべる彼女がいた。
「本当はね、貴女を抱えて逃げてる時点でとっくに許していたのよ。あの騒動の全ては貴女の意思によるものじゃなかった。祀り上げられただけの人を糾弾するのはおかしいでしょ?」
「それは、でも・・・」
彼女から差し出された赦しを、私は受け入れることができない。
私はそんな風に許されるべき人間じゃない。私の意思が弱かったから、何人もの人が命を落とした。抗うチャンスなんていくらでもあったのに、姉の輝きに怯えて無責任に自分を彼女の影にした。
熱かっただろう。痛かっただろう。さぞ無念だっただろう。ターラーの為という何の価値も無い免罪符を突き付けられこの手の槍に貫かれた彼らの嘆きに、私は耳を塞いでいた。
そんな人間が、どうして赦しを乞えようか。
首を振り続ける私に、彼女は笑みを浮かべて言った。
「あたしね、ターラー地区駐屯軍の儀仗兵だったの。あの時は偶々Outcastさん達と一緒にいたけど、そうじゃなかったら駐屯軍の兵士として事態の鎮圧に動いていたかもしれない。軍務として命じられるままに」
「!」
明るかった彼女に初めて陰が差した。そしてようやく、先程彼女が浮かべた笑みは私ではなく自分自身へと向けた嘲笑だったのだと気づく。
先程までの、朗らかで可憐な女性からは考えられないようなそれに衝撃を受ける。だが私をもう一度見据えた時にはそれも元の温かさを取り戻していた。
「だから貴女が自分が死ぬ事を報いだって言った時、とても悲しくなった。ただ旗を振って軍の花になっていただけのあたしに比べて、なんて重い物を背負ってるんだろうって思ったの。もしあたしが貴女と同じ状況、例えば駐屯軍の隊長にターラー人を取り押さえろって言われてたら、どうしてただろうね?」
そんなもの、助けていたに決まってる。彼女はこんな私にも優しくて、あの事件でも民間人に被害が出ないよう動いていたと聞いている。その所為で軍と袂を分かったとも。
そう言いたいけど、きっと彼女は言葉を望んでいなかったから、私は黙ってその続きを待った。
「だからね、あたしは貴女の事を尊敬してるの。それにあの事があったから、あたしはヴィクトリアを離れてロドスにいる。ヴィクトリアとターラーだけじゃなくて、色々な壁がこの大地にはあって、そしてそれに抗ってる人がいる事を知れた。だからあたしは貴女を許すよ」
やがて顔を上げた彼女は、晴れ晴れしい笑顔でとんでもない事を言った。
「そして自分で選んで誰かを救おうとしたそんな貴女と、今は友達になりたいって思ってる。詩や小説について話せるの、とても楽しかったから」
開いた口が塞がらない。友達、何とも聞き馴染みのない言葉だ。
そんな存在が自分にできるなんて、想像したことも無かった。思わず聞き返す。
「いいの?」
「逆にダメな理由がある?」
「私、ドラコだけど」
「あたしもヴイーヴルだから似たようなものでしょう?」
「・・・そうかな?」
「そうよ。きっとそう」
「・・・こういう時、どうすればいいのか分からない」
何せこんな経験は一度もない。こんな、対等に話せる関係なんて知らない。
上か下か。出来損ないと蔑む目と、「リーダー」の虚像を崇める目。それしか知らない私にとって、こんなにも真っ直ぐ見つめてくれる人なんて。
「とりあえず嫌じゃないって事で。お友達としてよろしくね」
「よ、よろしくお願いします・・・」
多少強引に彼女、ジェーンが話を切り上げる。とりあえず返事は返さないと。そう思って答えた私を見て、彼女は突然吹き出した。困惑する私を置いて、彼女はしばらく笑っていた。
紅茶と砂糖菓子の匂いが漂うその部屋で、金のかんばせが咲いていた。
それ以降はヒロック郡での作戦に参加していたオペレーターにも謝罪に行った。どうやら私の素性については緘口令が敷かれているようで、会うたびにギョッとした顔を見ることができた。それでも皆最後には元気になってよかったと言ってくれた。やっぱりこのロドスという組織はとても温かい人達に溢れている。Outcastも頭を撫でてくれた。
私は多くに支えられてきてここにいる。なら、私がするべき事は何だろう?
日々の任務を遂行する傍らでそんな問いが浮かび続ける。
そんな私に、ロドスがヴィクトリアのロンディニウムに潜入する計画が告げられた。
政変により不安定になりつつある首都で、サルカズ達が暗躍している。その動きを中心にヴィクトリア各所でも騒動が起こっていた。そしてその中に、自分がかつて所属していたダブリンの影があった。
あのヒロック郡事件以来、ターラーに対するヴィクトリアの態度は二分したと言ってもいい。対立か擁護か。ウェリントン公爵が治めるオークグローブ郡ではターラー人を積極的に受け入れておりそれ以外の場所では排斥の声が多数上がっている。それは良くも悪くもダブリンという存在をより際立たせる結果となった。ここらへんも含めて恐らく姉とアルモニの計画通りだろう。
それでも、未だ何らかの理由で土地を離れる事が出来ないターラー人は存在して、そんな彼らはダブリンと内通している疑惑を掛けられて苦しい立場を取らされているらしい。
そんな噂を聞いて、私は窓に映る自分を見つめた。
私は今まで姉の、エブラナの炎が生み出す影に過ぎなかった。
でも、そんな私でもあの日誰かを救う事を選ぶことができた。なら今度こそ、私は本当に為すべき事を見つけ出せるだろう。私は確かな自信を持って反射する自分を見た。
そこにはもう、影である事に怯える少女はいなかった。
私はロドスを離れる決心をした。
準備には然程かからなかった。元より身1つでロドスに来たのだ。服と武器をかつての自分から正体がバレないよう一新し、本を多少片づければ割り当てられた部屋はすっかり何もなくなってしまった。あとに残ったのは旅行用の手提げ鞄に入るくらいの荷物だけ。
出発の前日、私は今まで仲良くしてくれた人達に別れを告げに回った。
夜が明ければこの艦を発つ。そんな私が最後に向かったのは、今までずっと通い続けた図書室だった。
自分が変わる切っ掛けをくれた彼に、せめて最後に会いたい。そう思って最後にここを訪れた。昨日も同じようにいつもの席で座って話をしたのだ。自分が今日ロドスを離れる事は伝えてあって、別れの挨拶をするために彼は今日もここにいるだろう。
だがいつも私より先に席についていた彼は、珍しくそこにはいなかった。席について適当な本を読みつつ彼を待つが、どれだけ待っても彼はやってこない。
流石におかしいと思い席を立つ。妙に胸がざわついているのを抑え歩き出す。
だが図書室を出る直前、角から1人のフェリーンが現れた。
「貴女はケルシー?」
翡翠色の彼女が、行く道を塞いでいる。何か用だろうか。
「君はメフィストに用があるのだろう?」
「!」
メフィストとはイーノのオペレーター名だ。驚く私を置いて、ケルシーは話を進める。
「残念だが彼はしばらく会う事ができない。代わりに彼から言伝を預かっている。貴女の旅が良いものになることを願っているとのことだ」
唐突に、一方的に告げられた別れの言葉に思わず疑念が浮かぶ。昨日会った時は用事があるだなんて言っていなかった。
「彼は何故私に会えないの?」
「急な任務が入った。既に朝にここを発っている」
何を考えているか分からない平坦な眼差しのまま、彼女はそう告げる。有無を言わせないその態度にいつかの自分だったら何も言えなくなっていたのだろう。
だけど、それに立ち向かうだけの勇気が私にはあった。ここで過ごして大切なものが増えた私はもう、それが失われるのをただ黙っているだなんて事はできない。
「嘘だよね?」
ピクリとケルシーの眉が上がった。意外とでも言いたげだ。それは私がそれを偽りだと見抜いたことか。それともそれに自ら踏み込んできたことか。
「何故そう思う?」
「彼はそれでも手紙を残すくらいはする。私の事を気にかけててくれたから」
私は彼を知っている。彼は自分が救った人を誰よりも大切に想っている。自分の気持ちがきちんと伝わるよう、可能な限り直接会いそれが無理なら手紙を送るのだと。読書の合間に交わされた遣り取りの中でそう言っていた。
そんな彼が、今生の別れになるかもしれないのにこんな誰かに伝言を頼むようなやり方は不自然だ。ましてや彼女は医療部の総責任者だ。そんな人に伝言を依頼するのもどこかおかしい。
何かを隠している、その確信があった。
「教えて。彼はどこ?」
「・・・・・・」
彼女は無言で私を見つめ返す。その眼差しはまるで冷たい刃物のように、私に突きつけられた。
それでも引くつもりはない。私は真っ直ぐに相手を見つめる。彼女に口で勝てるとは思っていないが、こちらには意地がある。
「・・・はあ」
やがて無言の抗議に耐えかねたのかケルシーは折れた。席を立ち、図書室を去る最中振り返る。
「ついてこい。彼の元へ案内しよう」
それっきりカツカツとヒールを鳴らして廊下を行く彼女。それに黙ってついていく。
向かう道中、医療部の区画へと向かっている事に気付きやはり嘘をつかれていたと分かった。やはり彼はまだロドスにいる。だがその憤りも道を進むにつれ萎んでいった。
彼女は医療部の中でも重要な人物しか入れない区画へと迷いなく進んでいく。何度もIDチェックが行われ、その度に幾重にも重なった防壁が物々しい音をたてて開いた。
彼がどうしてこんな場所にいるのだろうか。進むごとに何かが胸に圧し掛かってくるような気持ちになる。そしてそんな問いは次の防壁が開かれた瞬間に解かれた。
それは、目と耳を覆いたくなるような光景だった。
「出せよ! ここから出せよぉおお!!」
開いた瞬間、耳を劈く叫び声が私を拒む。壁を激しく叩く音が響く。それらを聞くだけで胸がキュウと締め付けられた。
触れてはいけない何かに触れてしまった、そんな途方もない不安が私を追い立てる。
目の前の空虚な広い空間、その中央に彼はいた。だがその姿を目にしたとき、私は彼がイーノだと信じられなかった。
人を包み込むような歌を紡いでいたその喉から、信じられない程の怒声が発せられている。穏やかだった目元は吊り上がり、血走った目が大きく見開かれている。
中の人物はよほど興奮しているようで、誰に言うでもなく周囲にまくし立てる。
「ふざけるなっ! 何が非感染者も救われるべきだ! あいつらがこんな目に遭わせたんだろうが!! やり返して何が悪いんだよ! 僕のアーツがあれば、あんな奴ら化け物に変えてやれるんだぞ!!」
彼が拳を血が出そうなくらい握りしめると、白い粉塵が勢いよく舞いあがった。迫るそれに恐怖を感じつい足が退く。
だけどそれらは寸前で透明なガラスの壁に阻まれ、上空に取り付けられた排気口にみるみる吸い上げられていった。
アーツの効果が無い事に苛立ったのか、イーノは頻りにその壁に拳を叩きつけていた。
その打撃音が鈍く響く空間で、ケルシーは彼を見つめながら口を開いた。
「彼の操るアーツは非常に危険性が高い。感染者が吸い込めば鉱石病の進行を急激に速めるだけでなく、心を失った操り人形にすることも可能だ。そして万が一源石が近くに会った場合、その全てが活性化し周囲を死の空間へと塗りつぶしてしまう」
言葉を失った私にケルシーが解説する。曰く、この区画はそういった危険人物を収容するための場所らしい。この場所の存在を知っているのはエリートオペレーター含む戦闘オペレーターの一部と、各部門の総責任者のみ。これまでの厳重な体制も納得がいった。
だが、納得と許容は別の問題だ。
「何で、こんな事を・・・」
そんな私の非難すら彼女には予想出来ていたのだろう。そして私が黙らざるを得ない事実が突きつけられた。
「
言葉の出ない私を見ないまま、彼女はガラス越しの彼を見据えている。
「鉱石病は体を蝕むだけでなく、様々な合併症を齎すことがある。聴覚障害に記憶障害、異常な体温低下、アーツ能力の暴走。さらには人格に影響を及ぼす例もある」
彼が、そうだというのだろうか。
ケルシーは私に彼の鉱石病の状態について簡潔に説明した。彼もまた鉱石病による合併症を抱えており、時折今のような非常に攻撃的な性格に豹変するそうだ。
「今まではどうやって対処していたの? まさか今までずっとこんな事を!」
「イグナスという彼の兄貴分がいてな。彼の特殊なアーツで精神に直接干渉し治めていた。だが彼がいない場合は薬で強制的に鎮圧する以外に手立てがない」
憤る私の言葉を遮ってケルシーが話す。
「じゃあ、彼のお兄さんを呼べば」
「それは不可能だ。今彼はウルサスにいる。彼の到着を待っているよりも薬で昏倒させた方が早い」
「ならそうして!」
「しない。それは彼の意思に反するからだ。彼は他人に危害を加えないよう自ら望んでここに入った。そして自分が暴走を制御するまで見守っていて欲しいと言った。君は困難に立ち向かおうとする少年に対しどのような言葉を掛ける? 止めろと言うべきか、はたまたその背中を押すか。それに明確な正解など無いが少なくとも本人の意思を尊重するというのは賢明な選択だと言える」
そういう事じゃない。そうじゃないのだ。
ガラスを叩く鈍い音を聞きながら、私は傍らの彼女をどう説得すればいいか必死に考えていた。
彼は鉱石病になってからずっとこんな自分を抱えて生きてきたのだろう。それでも彼は折れることなく努力してきた。優しく、強くあろうと邁進してきた。私は彼に救われた。あの時の苦しみを背負いながらも生きることを誓った彼の言葉は、今でも私の心の奥底にある。
そんな彼の、こんな姿をこれ以上見たくない。
だってこれは、今まで善良であろうとした彼への冒涜だ。彼が必死に抑えようとしていた物を曝け出し、心臓に突きつけるが如き所業。
止めたいのに、それに足る言葉が出ない。言葉を探し俯く私。
少し下がった視線の先、ケルシーが胸の前で組んだ両手が目に入る。その指先は、何かを堪えるように白衣の裾を握りしめていた。
この時私は知らなかったが彼は既に何度かここで自身の症状を抑えようと彼女に協力を要請していたらしい。そしてその度、これ以上は生命の危機に達すると彼女は薬で彼の意識を奪った。
彼女もまた、彼の身を案じている。それが分かってしまって、もうどうすればいいか分からなくなった。
ただ胸を締め付けてくるあの怒声に、耳を塞ぎかけた時。
「違う!!」
そんな私の顔を上げさせたのは、またしても彼の言葉だった。今までの喚き散らすようなそれとは違う、芯の通った
「くっ・・・何が違うんだ!? 僕達の邪魔をする奴らは全員、化け物に変えてやればいい。兄さん達を邪魔する奴らを全員排除すれば、兄さん達の夢を叶える手助けになるじゃないか!! 後ろで縮こまってるだけの僕だって、役に立てるんだぞ?! ・・・そうじゃないっ、彼らに、だって、生きたいって思う、権利が、ある!!」
イーノは今、必死に自分と戦っていた。
頭を抑えながら、暴虐に狂う自分に必死に打ち克とうとしていた。
「兄さんの、本当の望みを、知ってる。なら、そんなやり方じゃダメだ! 僕は、救う事で、レユニオンを支えるんだぁ!!」
彼の体が淡く光る。それは全身を優しく包み込んでいるようだった。
彼の呼吸が徐々に深くなり、血走っていた目も穏やかになっていく。力の抜けた体を支えていられず、ガラスの壁に身を預け横になる。
「副交感神経を活性化したのか」
ケルシーが呟いた。彼女にしては珍しく、つい驚きのあまり漏れてしまったような独り言だ。
やがてイーノを中心に渦巻いていた粉塵もすっかり治まり、部屋には環境の正常化を告げるアラームが鳴り響く。
隔離が終了しガラス壁が開放されるとともに、私は彼の元へ走り寄った。
「イーノ!!」
「ラフシニーさん・・・何で」
「喋らなくていい」
イーノは起き上がる事もできないようで、いくらか焦点の合っていない目で私を見上げた。
多分ケルシーの言っていた通りなら、興奮した状態を抑えようと無理に副交感神経を活性化させた影響だろう。体を十全に機能させられていない。呼吸も浅く、指先が冷たくなっていた。
「見られたく、なかったな」
介抱する私を見上げ、彼は気まずそうに目を逸らす。力の入っていない左手で、私から隠すように右手を覆った。その下にはガラスを何度も殴りつけたせいで血が滲んで皮が剥けた箇所があった。
「どうして、こんな事を?」
「・・・兄さんに、いつまでも頼ってられないから。今、とても大変な事をしてるんです。それなのに、僕のことで、心配かけたくなくて。でも・・・」
悔しさと惨めさで、イーノが弱気な顔をした。まだ痛いだろうに、ぼろぼろの手を壊れんばかりに握りしめる。
それは彼が私の前で初めて見せた年相応の弱さだった。
「いつも、醜い自分に負けそうになるんです。心のどこかで、あんな風に全てを投げ出して憎しみのままに腕を振るってしまいたいと思っている。そんな自分が嫌で、捨ててしまいたいのに・・・」
今までずっと、彼を大人びた少年だと思っていた。自分より遥かに優秀で、未来に向けて歩を進める人だと上に見ていた。
だけど、弱弱しい手を握りしめ悔しそうに涙を浮かべるその姿は。どこにでもいる、道に迷う子どもに過ぎなかった。
「ごめんなさい、ラフシニーさん。僕、偉そうに言っておいて、自分の事もままならないっ・・・」
鉱石病の症状で精神が不安定になりかける彼。
そんな彼を、私は優しく抱き締めた。彼の白く染まった頭を胸に迎え入れる。
「えっ、ラフシニーさん?!」
「大丈夫。深呼吸して、耳を澄ませて」
裏返った声でイーノが私の名前を呼んだけど、安心してほしい。
彼を強く抱きしめる。この体温が、鼓動が、彼に漏れなく届くように。
やがて落ち着いた彼の体の強張りが解ける。
冷えた体に熱を与え、心臓の正しいリズムを彼に伝える。時間とともにその境が無くなっていくような感覚。それは次第に熱や鼓動に留まらず、密着する互いが次第に溶けて混ざり合うような心地になる。
イーノの痛み、苦しみ、憎しみ、憧れ。その全てが流れ込んでくるように感じる。
こんな小さな体で、とても大きなものと戦おうとしている。そんな彼に、報いたい。
「聞こえる?」
「・・・はい」
「寒くない?」
「その、むしろ熱いくらいで・・・」
胸の内でこちらを見上げる顔は、すっかり血の気を取り戻している。むしろ熱でもあるのかというくらいに赤みを帯びていた。
「キミが私を救ってくれた。この鼓動が、キミの優しさの証明」
「!」
「だから、大丈夫。イーノは将来、すごい医者になる」
「っ! ・・・グスン」
励ますつもりが、どうやら私は彼を泣かせてしまったらしい。何が悪かったんだろう。
「気にしないでください。さっきの言葉が、嬉しくて」
「嬉しくても、涙が流れるの?」
「そうなんですよ。それより、汚れちゃいますから放してください」
「気にしないのに」
「僕が気にしますから」
渋々、抱きしめていた彼を放す。泣き止んだ彼は顔をハンカチで拭く。血が滲んだ手の甲が痛々しい。
どうにかしてあげたいと思って、つい手を伸ばした。ハンカチを握る彼の手を両手で優しく包み込む。持っていた手提げ鞄の中には応急処置の道具も入っていて、簡単な被覆くらいはできるだろう。
傍らの鞄を引き寄せようとして、私はふと他のオペレーター達が言っていた事を思い出した。
『いいですか? 貴女のアーツの本質は炎ではありません。どちらかと言えば生命力とでも言うべき概念への干渉ですの。この違いはとても重要ですわ』
自分のアーツを解析するにあたって協力してくれたヴィクトリアのオペレーター、スカイフレアはそう言っていた。
生命力への干渉。そう聞いて自分は一瞬姉の事を思い出した。
彼女の操る紫炎は死者の遺志を増幅させ、仮初の生を与える。伝説にある紅き竜の炎の特性に似たそれを宿すあの人は、やはりドラコの王になるべくして生まれたのだろう。
私はずっと、姉の影でいいと思っていた。それでも、今の私には望みがある。今まで私が傷つけ騙し続けたターラーの人達の助けになりたい。
そして、そう思えるようにしてくれた人達に報いたい。
彼の手を握ったまま、アーツを発動する。何かを燃やすためじゃない。その炎の熱で、誰かを優しく温めるために。
「っ!」
身の内を焦がされるような感覚が這い上がる。幼い頃から病弱なこの体は、アーツを使う度にその負荷に耐えられず焼けるような痛みを伴う。
それでも、私はそれを喜んで受け入れた。かつては強制された使命に耐える為、心を無にして扱ったそれを、私は今度こそ自分の意思で操るのだから。
ほんの一瞬、アーツの感触が変わった。より滑らかに手に馴染む。
自分のものであったはずのこの炎が、この時初めて私を認めてくれた気がした。
「これは・・・!」
イーノが驚きに目を見開く。見れば私の手の中でぼろぼろだった彼の皮膚がどんどんと塞がっていく。閉め切った冷たい部屋の中で、そこだけが暖かな日差しに包まれているようだった。
やがて傷が完全に塞がり、座り込んだ私達は互いに見つめ合う。
「ラフシニーさんも医療アーツを?」
「ううん。これが初めて」
ただ、できると思ったからやった。そんな答えにイーノが頭を悩ましているところ、私はようやくここに来た理由を思い出した。
「私、明日にはここを出るよ」
「そうでした! ごめんなさい、直接お別れを言おうと思ってたのに」
「気にしないで。こうしてちゃんと会えたから」
それに彼も自分の症状を制御する術を手に入れたのだ。何の憂いもなく、私は故郷に戻ることができる。姉との因縁を清算し、動乱に惑う人々のため、進む事ができる。
そう思っていたのだが、イーノはどうも落ち着かない様子だ。何か言いたげで、でもそれを口にするのを躊躇っている。
どうしたのかと尋ねれば、彼は蚊の鳴くような声でその心の内を曝け出した。
「また、会えますよね?」
「・・・」
背の高い私を見上げながら発せられた、何とも可愛らしい確認。
(・・・何だろう、この感覚)
どこか不安げに聞いてくる、目の前の男の子。
その姿がいじらしくて、胸に湧く衝動のまま顔を寄せた。
―チュッ。
短いリップ音がした。
「・・・・・・へ?」
「大丈夫、全部終わったらちゃんとここに帰ってくるから」
源石を通じて人を化け物に変えうるアーツを命を救う為に使う彼。そして全てを焼き尽くす炎を、誰かの傷を癒すものに変えられた私。
似た者同士の私達。そんな彼と一緒に過ごした時間は私に進むための勇気をくれた。
それだけじゃない。ここに来てたくさんの人と出会った。数は少ないが、友達もできた。私をダブリンではなくラフシニーとして見てくれる人が、ここにはいっぱいいる。
だからダブリンを取り巻く全てに決着がついて、私のこの炎が必要じゃなくなったら。私はまた
そう誓った私の目の前で。
額を抑えたイーノは、今までに見た事が無いくらい顔を赤くしていた。
2人と同じ部屋で事の成り行きを見守っていたケルシー
ケルシー(・・・後でコーヒーでも飲むか・・・)
一方そのころ、ポラリスでアーツ修行に励むイグナス
イグナス「! 今弟分に何か尊い出来事があった気がする!」
マドロック&LOGOS「?」
ナイン「放っておけ。いつものことだ」