明日の方舟よ、良い旅を   作:アルパカ戦士

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遂にアークナイツアニメ3期のpv来ましたね。
見て早々涙出そうでしたよ。

最後らへん、チェンがタルラに語り掛けるシーンを見て改めてこの二次小説書いてよかったと思いました。


第六十二話 セピア色の心

ロンディニウム オークタリッグ区

聖マルソー学校

 

 

 そこは古びた建物だった。建築からもうすぐ100年を超える年代物。至る所は老朽化の影響か壁紙はひび割れ点かなくなった電球がそのままになっている。

 冬になると隙間風が通り過ぎるので、子ども達は外で目一杯体を動かすか暖炉の前から動かなくなる。それが風物詩とでも言えるような、歴史ある学校。

 

 孤児院としても機能してきたそこは、今まで多くの卒業生を見送ってきた。

 その小さな教室でつい先程、子ども達による演劇が幕を下ろした。

 

 演題はヴィクトリアの栄枯盛衰。国王の処刑に始まる動乱、それはヴィクトリアの国民の団結により終幕へと向かう。そして演劇の最後、逃げ惑うサルカズの残党を蒸気騎士が地の果てまで追いかけ苦難は去った。

 

 1年かけて稽古してきた教え子の集大成、見違えるほどのその演技にモリーという修道女が感激している横で、同じく彼らの教師であったゴールディングは物思いに耽っていた。

 

 蒸気騎士。この国の英雄である彼らは、彼女にとっては恐怖の象徴だった。それは彼女がかつて存在した大国家ガリアの遺民であり、ヴィクトリアの英雄が自らの街を蹂躙した張本人であったからだ。

 

 ガリアの遺民はその後、各地へと散らばった。ヴィクトリアとウルサス、ガリアを亡国としたそれらにも彼らは存在する。

 そのうちの1人であるゴールディングはヴィクトリアへと移り、この学校で育ち、そして今その母校で国語を含め教育に携わっている。

 

 この地で過ごした時間の方が人生の大半を占めるようになった今、ヴィクトリアに対する恨みはもはや消え去っていた。あるのは1人の聖職者として未来ある子ども達を教え導く事だけ。望郷の念はあれど、学び育つこの子ども達と天秤にかければどちらに傾くかは明らかだった。

 

 

 だが、そうでない人間も中にはいた。

 

 先日、ここに訪れた都市防衛軍のレト中佐。

 彼は未だにガリアの栄光を忘れられていないように思える。

 

 ヴィクトリアを守る立場にありながら早々にサルカズへと降伏した裏切り者。かつてともに文学やガリアの歴史について語り合った学友は、今や見る影も無かった。

 爛々としていた瞳はどこまでも冷たく周囲を映し、物を語る口は平坦で消極的。

 サルカズによる占領時の事も、まるでそうするしか道は残されていなかったとでもいうような口ぶりだった。

 

 

『分かるだろうゴールディング? 私はここを第二のリンゴネスにしたくないんだ』

 

 あの時、ゴールディングは彼を罵倒した。だが時が経つにつれ言いようのない不安が彼女を包み、今となってはそれが正しかったのか疑わしく思えていた。

 

 文明が暴力に屈したのだと。そう諦めたように語る彼の顔が頭から離れない。

 

 自分がこの学校でどれだけ高尚な思想や文化を子ども達に教えていようとも、一歩敷地の外に出れば巡回のサルカズ達が剣を片手に街を闊歩している。

 遠くから響く砲撃の音は日増しに増え、検閲と称して知り合いが何人も家から消えていっている。

 

 この即席の劇場は、光を漏らさないよう窓をカーテンで覆っていた。だがそれも終演とともに子ども達が片づけていく。薄く透明な窓の先、かつて見た暴力の嵐とを分け隔てていた境界も今はない。

 

 あそこに、自分は彼らを送り出そうというのか?

 文学や歴史という武器にもならないそれを手に持たせただけで?

 

 それは、レト中佐の行いよりも残酷なものではないか。そんな考えが頭を過る。

 

 結局、片付けも終わり生徒がそれぞれの部屋に戻ってからもゴールディングはその椅子から立ち上がることはできなかった。

 ピキリと罅が入る音がした。それが鳴ったのは脆くなったガラス窓か、はたまた自分が固く信じ続けてきた信念か。

 自分が自分で無くなるような、そんな漠然とした不安に抗おうと握りしめた拳を胸に押し付ける。

 

 長く俯いていた彼女の耳に、コンコンと扉を叩く音が届いた。

 教室の扉が叩かれ、建て付けの悪いそれが軋んだ音を鳴らす。

 

「お邪魔します」

「どなたですか?」

 

 扉の奥からやって来た人影が窓から差し込む街灯の光に照らされる。

 ゴールディングは警戒しながら来客の顔を見るも、それが誰かは見当もつかない。何故ならその顔の半分を源石結晶が覆っていて、残る相貌にも彼女は見覚えがなかったからだ。

 

「私はレユニオン・ムーブメントのイグナスと申します。会えて光栄ですよ、ミス・ゴールディング」

 

 彼は意外にも礼儀正しくお辞儀をした。そこに敵意というものは感じられず、ゴールディングは戸惑う。

 

「何故私の名を?」

「共通の友人がいるからですよ。文学において、彼女に匹敵する才女と伺っています」

「・・・ハイディの事ですか?!」

 

 その相手に思い至りつい興奮してまくし立ててしまう。だが無理もない。彼女はサルカズに虜囚とされて以降音沙汰が無かったのだから。

 

「ご安心ください。今は彼女も解放されています」

「そう、ですか」

 

 震えていた拳がゆっくりと下ろされる。信じられるものが次々と消えていく中、その朗報はゴールディングを襲っていた不安感を僅かではあるが取り除いた。

 

「・・・では、彼女はどこに?」

 

 逸る気持ちを押しとどめ、知るべき事を尋ねる。

 

 彼はハイディを友人だと言った。彼が感染者である事を考慮するとハイディがこの地へ援軍としてやって来ると言っていたロドス・アイランドという製薬会社の人間だろう。

 ならば遂に自救軍はサルカズに対し本格的な抵抗を行う段階に来ているという事だ。その為にもそのパイプとなっている彼女と連絡を取る必要がある。勿論個人的な感情で彼女の無事を確かめたいという思いもあったが。

 

「それは」

「ゴールディング? そろそろ夕食の支度を・・・」

 

 だがそこに再び人が来る。

 

 見れば入口にモリーが立っていた。

 何故か彼女は私に声を掛けるでもなく、来客者である彼をじっと見つめていた。警戒しているのかと思ったがどうも様子がおかしい。その目はひたすら彼に向けられていて、怖ろしく感じてしまうほどにそれ以外を映していなかった。

 

「モリー、私のお客様です。お茶を用意してもらえる?」

「お気遣いなく。そんな暇はないでしょうから」

 

 妙な緊張感を晴らそうとモリーに声を掛けるも、その言葉は彼によって止められた。

 彼もまた、モリーの事を凝視していた。フードを被る様子もなく感染者とバレる事を何とも思っていないようだった。

 

 2人の間に言いようのない緊迫した空気が流れる。

 

 自分だけがこの状況を把握できていない。いつもと様子のおかしい同僚に事情を聞こうと彼女の名を呼んだ。

 

「モリー?」

 

 だが返ってきたのは、理由も分からない謝罪だけだ。

 

「騙してごめんなさい、ゴールディング」

 

 それは普段のモリーと同じ声音で紡がれた。それでも何も変わらないはずのそれに、どうしようもない違和感のようなものを感じた。

 

 まるで、彼女の中身が何か別の何かに挿げ替えられてしまったかのように。

 

「いい加減変装を解いたらどうだ、()()()?」

 

 彼の、イグナスの言葉にゴールディングの思考が白く染まる。

 

 そんな、ありえない。だって今日の彼女はどう見てもモリーそのものだった。子ども達への振る舞いも、教え子の成長を見て泣き出してしまう涙もろいところも、過去との差異など感じられなかった。

 

 それでも、モリーはその言葉に今まで見た事が無いほど口角を持ち上げた。

 その口から漏れ出た声音は、もうモリーではなくなっていた。

 

「やっぱり、君には偽れないね」

 

 モリーの体が、溶けるように崩れていく。

 悍ましいそれから目を逸らす事もできず、気付けばそこには1人の小柄な男がいた。

 

 その気配を、ゴールディングは知っている。

 角も、耳も見えないが、その小さな体躯から滲み出る圧倒的な強者の気配が体の芯を震わせる。

 

 その時、ゴールディングは自分が奈落の一歩手前に立っていた事に気付き背筋が凍る。

 

 ハイディ同様、ゴールディングもまた自救軍の協力者だった。そのため彼らのセーフハウスと連絡を取ることもある。

 もしその情報をこの偽物に暴かれていれば、取り返しのつかない事態になっていた。自救軍のセーフハウスの位置は筒抜けとなり、壊滅的な被害を被っていたことだろう。

 

「本物のモリーさんはどこだ?」

「マンフレッドのところの勾留所。安心しなよ、あそこのサルカズはマンフレッド直属の部下だ。捕虜に許可なく手荒な真似はしない」

「・・・頼んだ」

 

 小さくイグナスが呟く。すると窓の外で小さな人影が動いた。その気配は瞬く間に離れていく。

 

「優秀な仲間がいるんだね」

 

 現れたサルカズの王庭、変形者はそれを追うでもなく些事と切り捨て再びイグナスと向き合う。

 

「ようやく会えたね、特異点。君は司令本部の方には行かなかったんだね?」

「お前に会うために態々別行動してやったよ。ありがたく思え」

「ああ、嬉しいとも。本当に、この日を心待ちにしていたんだから」

 

 変形者はその変装を解き、イグナスを迎えるように両手を広げた。薄暗い教室の闇の中、その目が爛々と薄緑に光る。

 

「さあ、あの日の答えを聞こうか?」

 

 

 変形者の声音が弾む。目の前に、万を超える年月追い求めてきた答えがある。無気力に、漫然と、しかし心の奥では渇望してきた自身の道。

 

 だがイグナスは本題に入る事はせず、世間話として前回出会った時の話をした。

 

「俺が言った事覚えてるか? 本はちゃんと書いてるんだろうな?」

「・・・お陰様でね。もうすぐ5冊目になるよ」

「随分筆まめじゃないか」

「暇だしね。それに書く手の数には困らないから。それよりも早く答えを教えてくれないかい?」

 

 そう笑いながら変形者は彼と相対する。

 

「まあ待て。物事には順序ってやつがあってな」

「悪いけど僕もあまり我慢ならないみたいなんだ。こんな事久しぶりで戸惑ってはいるけど」

 

 頑なにそれを口にしないイグナスに、痺れを切らした変形者。

 

「まあいいよ。こっちで勝手に読み取るから」

 

 そして変形者の輪郭が歪む。

 うねる泥のように流動するそれらが再び形を成した時。

 

 

 イグナスの対面に、もう1人のイグナスが現れた。尋常ならざるその御業に、ゴールディングが目を見開く。

 

 それは変形者にとって極めて自然な事だった。

 変形者の模倣は姿形だけに留まらない。その者の記憶すら、彼は自身に複写する事ができる。感情は読み取ることはできても理解できないが、それでもこれで大半の事は知ることができる。だからこそ彼は好んで他者の姿を写し取っていた。

 

 変形者は記憶の海を渡り、そしてイグナスの内にあるあり得ぬ知識を前にして驚愕した。

 

「そうか。だから君は・・・」

 

 鏡合わせの2人。そのうちの片方が頭を抑えながらもう一方を凝視する。それに対し本来のイグナスは知られることも想定済みだったのか動揺は無い。

 

「成程、君が特異点たる所以がわかったよ」

 

 これまでのイグナスの言動、そしてここまでこのテラに大きな影響を齎した理由に納得がいく。

 眉唾な話ではあるが、あり得たはずの未来を物語として知っていたというのならその結末への干渉も可能だろう。

 

 だが、そんなもの変形者にとってはどうでもいい。

 その口が、三日月のように曲がる。

 

「そして僕達の探し求めていた答えもね」

 

 変形者は読み取った原作知識の中に、自分の辿った末路を見た。

 それは確かに、今の自分には無かった選択だった。

 

「自死、か。確かに考えもしていなかった選択だ。それにここには都合よくバンシーの末裔もいる」

 

 既に場は整っていた。まるで運命とやらがそうあれと望んでいるかのようだ。

 バンシーはサルカズの死を告げる一族。死と再生、輪廻の循環を司る彼女らの骨笛が奏でる弔鐘は変形者が迎える1つの終末に必要不可欠のものだろう。

 

 変形者はここまでのお膳立てをしてくれたイグナスに礼を言おうと顔を上げた。

 だがイグナスの表情は険しく、とてもではないが祝おうなどという雰囲気ではなかった。

 

 

「どうしたの?」

「・・・俺はお前に、その選択をして欲しくない」

 

 その発言の意図が、変形者には理解できなかった。

 

「何故?」

「俺はお前の事を知識でしか知らない。そもそも生き方からして違うんだ。お前の選択にケチつける資格なんて、俺には無いのかもしれない」

 

 それでも。

 

「死が救いだなんて。生まれ変わることでしか新たな道が開けないだなんて思いたくない」

「・・・僕達を君の尺度で測らないでよ」

 

 変形者は目を細め反論する。その言葉に怒気が混じる。イグナスが口にしたそれは、悠久を生きた彼を阻む理由としてはあまりにも普通過ぎた。

 

「君達にとってはこれは死という終わりなのかもしれないけど、僕達にとっては進化に必要なプロセスさ。虫が蛹を経て蝶へと至るように、新たな自分へと生まれ変わるための一工程に過ぎない。バンシーも言っていただろう?」

 

 新生は滅びより生まれる。

 

 繰り返す輪廻を司るバンシーの言葉を、イグナスはよく覚えている。それは生きるもの全てが必ず向き合う事になる世の摂理だ。

 自分も、タルラも、アーミヤも、誰だっていつかは死へと辿り着く。

 

 イグナスの眼光が変形者を射貫く。

 その力強い眼差しは、それでもと叫んでいた。

 

「それは、最期まで生き抜いた奴のセリフだ。もうこれ以上思い残すことはないってくらい走り回って、世界を知って、納得の末に手を伸ばすべき選択肢だ」

「・・・これ以上何を知れって? 君達が言う激動の時代とやらも、僕達視点ではほんの僅かな起伏にしか見えない。人が文明と呼べるものを創り上げてから数千年、幾つもの国が興きては滅んでいった。その度に憎み合い、血で血を洗って、変わったのは地図の国境線と国の名前ぐらいだろう? 人の根底にあるものは、おそらく何も変わっていない」

「それでも俺は、永い時を過ごしながらも歴史の当事者である事から逃げなかった人を知ってる」

「ケルシー子爵の事かい?」

 

 ケルシーもまた、永遠に近い人生を歩んできた人だ。

 

 カズデル侵攻にウルサスでの黒棺研究、永い人生の中で幾つもの挫折やどうしようもない人の業に真正面からぶつかってきたはずだ。

 それでも、ケルシーは今もテレジアの遺志を継いで鉱石病の根絶のため奮闘し続けている。

 

 だから、イグナスはケルシーが好きだった。例え胡散臭いともの言いたげな目をしておきながら無言で自分を見つめてくるとしても、心の底から尊敬している。

 

 

 一方、変形者は探し続けていた。自分達が生きる意味を。

 だがいくらこの大地の果てまでその分身を向かわせても、どれも似たようなものだった。一時は輝かしく特別かと思われたそれも、時を経るにつれ風化していった。

 

 もはや、この大地に自分を導いてくれる未知は存在しない。

 ならば、自身が生まれ変わることでしか新たな知見は得られない。

 

 それが一万を超える年を積み重ねてきた変形者が、イグナスの記憶を読み取り辿り着いた結論だった。

 

「俺がいる」

 

 だが、それをイグナスは否定する。

 悠久の時を生きた傍観者に、傲慢にも自分こそがその未知であると。

 

「俺だけじゃない。レユニオンが、ロドスが、小さな波紋が重なって波を起こしてる。それが広がれば、いつか世界はほんの少しだけ優しくなれる」

「それに何の意味があると言うのかな? 仮に君の言う通りに世界が変わったとして、テレジアの二の舞にならないと誰が言える?」

「さあな。俺は別に未来が見えるわけじゃねえから分かんねえよ。それでも、これだけは確実に言える」

 

 

―レユニオンの旗はその理想の為にこの大地に突き立ち続ける。

 

 その意思は、変形者にすら負けない不変のものだと確信を以て告げる。

 

 それを聞いた変形者の胸が浮き立つ。だが変形者はそれを認めてすぐただの錯覚だと切り捨てる。今まで何度も期待し、それは裏切られていった。今回もその通りになる。そんな諦観が蓋をする。

 沸き立つ未知への僅かな期待の代わりに、変形者は純粋な疑問を投げかけた。

 

「何が君をそうまで突き動かすんだい? こう言うのも悪いけど、君は僕達と一度会っただけだ。君も、ただの物語の登場人物に同情して命まで懸ける必要はないだろう?」

「分かってねえな変形者」

 

 変形者にとって、それは理屈に合わないものだった。イグナスのその熱量がどこから来るのか。まだこの世界は捨てたものではないと、だから自死を選ばず走り抜けとそう諭す彼の思いを、変形者は理解できない。

 

 感情とは読み取れはすれど理解に苦しむものだ。人は時折理屈に合わない選択を取る。それを齎しているのが感情と理解しているが、そこに至るまでの道程を変形者は理解できない。

 

 そんな変形者に、イグナスは至極当たり前のように言う。

 

「俺はもうこの世界で20年以上生きてるんだぜ? それに少なくとも俺はもう、お前と言葉を交わした。例え次のお前も変わらず変形者なんだとしても、それはもう俺がこうして出会って話したお前じゃない。俺はそれを寂しいって思う」

 

 寂しい。親しい人を失くし心が満たされなくなる心理。

 言葉としては理解できても、変形者にはやはり分からない。ただ一度会っただけの、しかも敵に対してそのような心情を抱くなど。

 

 変形者は目の前の男を見る。その眉尻は下がり、口角は僅かに上向いている。細められた瞼の奥に凪いだ瞳が輝いていた。変形者は一瞬、それが自らと敵対する者だと認識できなかった。

 何故なら、イグナスが変形者に向ける視線には怖れも敵意すら込められていなかった。そこにあるのは変形者にとって馴染みのない、けれど確かに過去に見た胸を打つほどの感情。それが何かを探る度、脳裏に白桃の髪が揺れた。

 

(そうか。この感情は・・・)

 

 一瞬、イグナスにテレジアの姿が重なった。それに驚く変形者に、イグナスは打って変わって真剣な眼差しを向ける。

 

「だけどお前の歩んできた一万年は言葉で変えられるほど安くはない。そうだろ?」

「じゃあ、どうするんだい?」

 

 空気が変わる。まるで張り詰めた弓のようだ。ゴールディングは今までに感じた事の無い圧力につい足が震える。だが自分の踏み出した一歩が引き金になってしまう事を恐れ動けないでいた。

 

 机も整理された狭い教室の中、対する2人の距離は3歩分。

 悠々と構える変形者の前でイグナスは背に手を回し、問いに答える。

 

 

「俺の全身全霊、全てを懸けてでもお前を変える」

 

 

 イグナスが背負っていた袋を開け放ち、中の物を取り出す。

 

 長さ1m程のそれはイグナスの手に収まると同時に展開され天井に届く程の長さになる。イグナスが1年の修行を通して習得したアーツ、それを補助するためのアーツユニットが姿を現した。

 

 それに刃はない。槌も、銃口も、戦いに用いる事を前提としていない故にそれはあらゆる脅威を持たなかった。

 それでもそれはその場の全員の意識を引き寄せる。展開した柄の先に巻きつけられた布が解け、無風の屋内にオレンジの旗がたなびく。

 

 

 レユニオンの紋章が刻まれた、暁の旗。

 それを振るい、イグナスが腹の底から声を張り上げた。

 

「『輝く暁の旗、明日へと走る鬨の声』!」

 

 

 

 

 

 ずっと思っていたことがある。それこそ、俺がイグナスとして生きる前、前世の時から思っていた事だ。

 

 人が分かり合うには、どうすればいいのだろう?

 

 世界には様々な対立がある。戦争、宗教、人間関係、その多くが他者への不理解から生まれている。その人が何を大切にしているか。どんな想いを抱えて生きているのか。それを真に理解していれば争いは自然と無くなるのではないか。人の痛みを自分の事のように感じる事が出来れば、あらゆる他者は敵では無くなる。そう考えた事もあった。

 

 だがどれだけありのまま感情を伝えたいと願っても、俺達の間には色々な壁があって、どうしたってそれは歪み元の形を失っていく。

 

 人と人、他人と他人。体が、言葉が、音が、光景が、その形を歪め勢いを削いでいく。

 心の奥から生まれた感情が体を離れ誰かの心に響くまでの道のりは、あまりに遠く険しい。

 

 

 旧文明の遺産と推察されていたサンクタの共感能力を齎す例のあれも、今なら理解できる。

 あれは多分、そうやって平和を作ろうとしたんだろう。惜しむべきは光輪が浮かんだ者しかその恩恵を受け入れられなかった事。それがサンクタと他の種族、サルカズやリーベリとの言いようのない壁を生んでしまった事。

 

 

 だからこそ。俺はこの力を望んだ。

 

 この一年間、俺の精神干渉アーツを威力ではなく汎用性に特化させたのは。

 アーツユニットに剣ではなく、この旗を選んだのは。

 

(俺がハッピーエンドしか認められない、クソ頑固な欲張り野郎だからだ!)

 

 過去にレユニオン内で感染者と非感染者が衝突した時、俺は濃縮源石の注射を腕に押し当て覚悟を示した。

 人を変えることはどうしようもなく難しい。それでも認められないのなら、それだけの何かを懸けなければ。

 

 だから俺はこの旗を振るう。

 

 文字通り、()()()()を懸けて。

 

 

 

 

 気が付いた時には変形者は膝を折っていた。

 

 今までに感じた事の無い感覚。平衡感覚を失うほどの酩酊とでもいうのか。

 だがそこに不快感は全くなく、あるのはただ1つ。

 

 眩しく温かい穏やかな心地のみ。

 まるで春の風が体を包み込むような、久しい感覚が肌を撫でる。その度に見知らぬ誰かの記憶らしきものが脳裏を過ぎった。

 

 それは変形者を傷つけるでもなく、その戦意だけを瞬く間に拭い去っていく。

 

「これは・・・」

 

 変形者は正面を見る。

 アーツユニットを構えこちらを見下ろすイグナスは何をするでもなくそこに立っていた。だがその表情は何かを堪え強張っているように見える。右手に掲げた旗は強く握りしめられていた。

 

 変形者はそれを見てこのアーツの術理に思い至る。同時にいかにイグナスが規格外の存在であるかを悟った。

 

 イグナスのアーツは精神に干渉する類のものだ。

 だがそういった系統のアーツは極めて稀であり、相手の意思を操るほどのものとなればその効力は極めて限定的となる。

 

 例えば不死の黒蛇。あれは長期的な干渉が求められるうえ本人の精神的な抵抗が極めて弱まりその意思に同調しなければ継承は発生しない。

 他にもテレシスへ仕える聴罪師もいるが、あちらは血の繋がりが求められるうえおそらく術者が対象に直接手を下されるというトリガーが必要だ。

 

 ここまでの、対峙する相手であれば誰であろうと戦意を喪失させるなど魔王でもなければ不可能だ。

 

 だが彼は魔王ではない。なら如何にしてこんな芸当を成し遂げられるのか。

 答えは極めてシンプル。

 

 これがアーツのような理論立てた技術ではなく、もっと古代のサルカズ巫術にも似た原始的な理論の元に成り立っているからだろう。

 

 彼の師の存在。古いサルカズの系譜、笞心魔(ジャール)と呼ばれる種族の巫術。こちらに流れ込んでくる見知らぬ記憶。それらがこのアーツの本質を告げていた。

 

 変形者は、その答えを口にする。

 

「これが、君の心象とでも言うのかい?」

「そうだ」

 

 イグナスが旗を掲げ直す。屋内にも関わらず、その旗は揺らめき地に堕ちる事はない。

 

「このアーツの効力は極めてシンプル。相手と魂を触れ合わせ、()()()()()()()()()。要は魂と魂の真っ向勝負(タイマン)だ」

 

 このアーツを防げる者は殆ど存在しない。発動すれば互いの精神領域が干渉し合い、そこから生み出される感情の波がノーガード状態で相手を襲う。

 

 互いにとってリスクのある戦法を取りながら、それでもイグナスは歯を剝きだして不敵に笑う。

 

「受け取れよ変形者。俺の心は、ちっとやそっとじゃ折れねえぞ!」

 

 その笑みは、その覚悟が不動のものであると雄弁に語っていた。

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