デルフィーンにとって母であるアンフェリス・ウィンダミアは尊敬すべき先人であり故郷であるリンカルダンそのもの、そして娘である自分に立場上の形式はあれど普遍的な愛情を注いでくれる良き母であった。
ロンディニウムを脱出し、近郊にまで近づいていたウィンダミアの紋章を掲げる移動戦艦に助け出されたグラスゴーとロンディニウム市民達。
搭乗の為に引き下ろされたランプウェイを渡る最中、彼女に気付いた兵士が甲板へと案内した。
事態の説明や顔合わせのためシージも連れてその案内に従ったデルフィーンは広い甲板の上で風にコートを靡かせ遠くを見つめる母の姿を見た。
その堂々とした立ち振る舞いを見て、彼女に追いつくのはまだ当分先だなと思い知らされた。
実直な性格の2人の会話は淀みなく端的に終わり、積もる話もあるだろうとシージが避難民用に開放された倉庫区画へと降りていく。
その後ろ姿が階段の奥へと消えていくのを見送って、ようやくウィンダミア公爵はデルフィーンと向き合った。
戦場の雰囲気を引きずっているのか、その表情はまだ硬い。だがデルフィーンはその奥に自身への親子の愛情がある事を知っていた。
現に今も、ウィンダミアの家の者であるにも関わらずロンディニウムで殆ど何もできなかった自分を慰めてくれている。彼女が口にした以前からのサプライズプレゼント、ウィンダミアの紋章が刻まれたミリタリーコートと軍帽の存在は沈みかけていたデルフィーンの心を僅かばかり上向かせた。
だがその言葉に安堵しかける自分に気付き、すぐに戒める。
本来、あの先陣を切るべきはデルフィーンだったのだ。ウィンダミアの後継者として不当な扱いを受ける市民達を保護し、思惑がバラバラだった他の公爵を結束させヴィクトリアを救う。それを為すべきは、その責があるのはヴィクトリアの貴族として特権とそれに伴う義務を背負う彼女自身であった。
だが実際は人1人救う事はできず、偶々知り合った縁でグラスゴーの根城であるスロバーノッカーというボクシングジムへと立てこもり機を伺う事しかできなかった。
そして何もできない焦燥感に身を焼かれそうになった頃、あのパーシヴァルというピンク髪のフェリーンがやってきて気付けば事態はほぼ完結に向かっていた。
あの時、あの場の状況を把握しハッタリをかけられたのは運が良かったと言わざるを得ない。
いや、あるいはそう誘導されていたのかもしれない。それくらい、あの場は出来過ぎていた。
終始掌の上で踊らされただけの自覚がある。それでよくやったなどと賞賛されるのは居心地が悪い。
ましてや態々自分の為にウィンダミア現当主をこの場に呼び寄せてしまった。本来、そんな必要はないのに。
自責の念に駆られるデルフィーン。その頭に大きな手が乗せられる。
黙らせようと抑え込むのではない。むしろ撫でるのを堪えているのような、それでも労わろうという思いが伝わってくるような不器用な掌だ。
母のそれを感じる度、デルフィーンは何も言えなくなった。
「焦る必要はない。君は私の娘だ」
そんな風に言ってくれる母に追いつきたい。
彼女に誇れるような娘でいたい。
いつかその荷を引き継げるような、ウィンダミアの人間でいたい。
その思いを口にするには、デルフィーンはまだ未熟だった。
だからせめて、与えられた愛とかけられた期待に背きたくはない。
「おかあ」
お母さま。そう続けようとして、デルフィーンは頭上の手が強張った事に気付いた。
視線を上げれば、先程とは打って変わって敵を見据えるような眼差しが一点をじっと見つめている。
「・・・空気が変わった」
ぼそりとウィンダミア公爵が呟く。だがどれだけ目を凝らしてもそこには人1人見当たらない甲板と資材の詰まったコンテナしか見つけられない。耳は進む移動戦艦の逆風とウィンダミア公爵の持つ通信機からひっきりなしに届く状況報告の無線しか拾わない。
母は、いつも正しい。
貴族としては珍しく自ら戦場を駆けいくつも窮地を潜り抜けた彼女だからこそわかる何かがあるのだろう。デルフィーンはそう納得した。
実際、ウィンダミア公爵は長く生活を共にし数多の戦場を駆け抜けたこの旗艦だからこそその些細な変化に気付くことができた。
だとすれば、その異変とは何か。
それを口にするより早く、突如移動戦艦が大きく揺れる。
「何ですかこれは?!」
「!」
慌てふためくデルフィーンの目の前で。
甲板が内側からめくり上げられ、移動戦艦から血が噴き出た。
「くそっ! 話には聞いていたがデタラメすぎる!!」
血の間欠泉に押し流されるようにシージは宙を舞う。移動戦艦の分厚い装甲を突き破りながらも無事だったのは彼女が屈強かつ身体能力に優れたアスランだったからだ。でなければ早々に潰され彼の操る血液の一部となっていただろう。
違和感を感じたのは偶然だった。
デルフィーンを残しダグザ達の元へ戻ったシージは再会して早々に辺りを見渡した。
公爵が来てくれた。もう安心だと安堵の息を零す彼らを見て一先ず危機は去ったと安心していたところに彼はいた。
フードを深く被り、僅かに覗く顔は包帯で覆われている。重傷を負った市民かと心配し近づく傍ら、その挙動に彼女の本能が警鐘を鳴らしていた。
「・・・」
肩を触れる距離に来ても彼はシージに気付かない。ただボソボソとうわごとのように何かを呟くだけで様子がおかしい。
大丈夫か? そう問いかけ肩に手を置きながらももう一方の手が背中のハンマーの柄に伸びていた。
そしてそれが彼女を救う事になった。
彼が勢いよく振り向く。それにシージは思わず気圧された。
雑に巻かれた包帯、その隙間から見える肌は乾ききっていない血がべっとりと張り付いていた。そして何よりも、大きく見開かれた目は血走り焦点すらあやふやな様子だ。
そんな彼が呟く。
「ブラッド、ブルードに、サルカ、ズに、栄光、あれ」
「!」
シージの全身が粟立つ。すぐさま手にしたハンマーを彼に叩きつけようと振りかぶる。
だが遅かった。彼の輪郭が突如波のようにうねり膨張し始めたのを見てシージは全力で叫び後ろに飛んだ。
「逃げろ!!」
直後、彼の体が弾けた。広いとはいえ密集した市民達と資材で埋まったその倉庫に粘着質な血の匂いが充満する。
突然の異変、そしてかつての惨劇を想起させる匂いと色。密集していたことも相まって市民達がパニックを起こすのも必然だった。
叫び逃げ惑う彼らを統率する事も叶わず、シージはその爆発の中心を睨む。
不自然な血霧の残留は、やがて凝縮され1つの肉体を為した。その埒外な光景を眺めながら、シージは彼の正体を確信する。そしてそれは現状において最悪に近い相手だった。
市民達に危害を加えさせるわけにはいかないと果敢に攻め込むも強大なアーツを使う彼には押すどころか致命傷を喰らわないようにするのが精一杯だった。
そして何度目かの血の濁流を避けた後、追撃を躱しきれず盾にした鉄のスクラップごと天井に叩きつけられ今に至る。
体勢を制御しなんとか受け身を取る。気付けば甲板にまで飛ばされたようでシージの金髪が強風にたなびく。
艦体にぽっかりと空いた穴。そこから目を離さない。
やがて噴き上がった血の濁流が重力に従い雨となって甲板を汚し始めた。
その中心からゆっくりと上がってくる大君の白い装束はやけに目立った。
「テレシスの弟子の要請、気が進みませんでしたが少しは愉しめそうです」
このテラの大地において稀少な王族のアスラン。血を遡れば広大なサルゴンの全てを手中に治めた
血は薄まれど、かの強く猛き者を彷彿とさせる芳醇な香りに彼は高揚していた。
「その腰の剣。かのパーディシャーの伝説の鍵でしょう。下らぬ鉄屑に縋りますか?」
その視線がシージの腰元を見遣る。シージは喉元にナイフを突きつけられた気分だった。
このテラで唯一の、天災に対抗しうる手段。その全容を知っているのだとすれば、彼の狙いは間違いなくシージと諸王の息だろう。
加えて、シージを暗殺するのではなく態々ウィンダミアの艦内で民衆にパニックを起こさせた事からウィンダミアの戦力を削ることも目的かもしれない。
どちらにせよ、この場で彼を退けなければシージ達は終わる。
「いいでしょう。その剣をこの身に突き刺してみなさい。私から噴き出る鮮血はすぐさま全てを飲み込むでしょう」
両手を広げ、迎え入れるように一歩、一歩と近づく。
シージは荒れる心臓を鎮めようと息を吐いた。
「いや、貴様を貫くのはウィンダミアの刃だ」
風を裂き、刃が迫る。それを大君はアーツで防いだ。
剣閃に削られたそれが血の滴へと戻り床を汚す。
追撃を警戒し目にも止まらぬ速さで距離を取るその人影。
白銀の髪がその尾を引いた。
「殿下」
「! ウィンダミア公爵」
「奴は?」
視線を一切逸らさぬまま、彼女はシージに問うた。
「ブラッドブルードの大君。サルカズの十王庭の1人で、血とその眷属を操るアーツの使い手だ」
ウィンダミア公爵の眉がピクリと動く。だが表情は変えずただそうか、とこぼした。
「それだけではない。避難民の中に
「無理だ」
下で交戦した際、民衆を襲ったのは何も大君だけではなかった。
黒い襤褸と仮面を纏った剣士達。どこか同僚のシャイニングを思わせる彼らも同時に艦を襲撃していた。
彼らもまたサルカズの中でも上位に位置する実力の持ち主だ。同行していたレユニオンやウィンダミアの兵士が対処してくれているがそれも拮抗している。一刻も早く増援を呼ぶべきだ。
だがシージの提案をウィンダミア公爵は一蹴した。それにシージは何故と、そう問いかける事はできなかった。
2人の目の前には、それらよりも遥かな脅威が迫っている。
「奴を野放しにはしておけん」
「お母様!」
先程まで一緒に居たデルフィーンが遅れてやって来る。
その彼女にウィンダミア公爵は平坦な口調で言った。
「周囲の護送艦に応援を要請している。避難民はそちらに任せる。デルフィーン」
「! はい!?」
「君は護送艦への引き渡しを先導するんだ。できるな?」
デルフィーンはそれが言葉通りの意味ではない事を悟った。
尊敬する母の部下ならばそれくらいは自力でやってのけるだろう。なら母の真意はそこにはなく、この危険極まりない戦場から遠ざける事が目的なのだ。
・・・またしても、自身の力不足の所為で。
自覚し、だがそれを口に出す程子どもではない。現にあの怪物と相対するだけの力が無い事は承知している。
奥歯を強く噛みしめて、デルフィーンは背を向けた。
「お母様、ご武運を!」
そうして指揮系統の上位者がいるだろうブリッジに向かって走り出した。
「殿下、貴女も」
「いや、おそらく奴の狙いの1つは私もしくはこの剣だ。無暗に離れるわけにはいかない」
断固として退く様子の無い彼女に、ウィンダミア公爵は食い下がる事はせずただ淡々と確認した。
「囮はこなせますか?」
「任せろ。敵を煽る汚い挨拶はよく知っている」
その返答が意外だったのかウィンダミア公爵は少し目を丸くした。
だがすぐに視線を切り2人揃って大君を見上げる。
「行くぞ!」
裂帛の気合とともにウィンダミア公爵の持つ軍刀が青い光を纏う。
「・・・リターニアの高塔を切り裂いたと言う光の利刃ですか」
いつの間にか、彼女の後ろには軍服を纏ったフェリーンが控えていた。
彼女らはソードガード。ウィンダミア軍の精鋭であり、彼女と同じく光の刃を継承する正に剣そのもの。
「強いですね。それが例え他者から奪いとったものであるにせよ」
「ふっ、ヒルめ。貪りつくすだけの貴様が被害者を気取るか?」
これ以上の問答は不要と、光の跡を残し彼女らが視界から消えた。
目にも止まらぬ速さと殺傷力に特化したアーツ。そしてそれらを十全に活かす緻密な連携こそソードガードの真骨頂。
次々と剣閃を振るう彼女らに大君のアーツが初めて僅かばかりに押される。
彼女らのアーツが宙に光の残像を残し、それは彼女らの速度に従ってみるみると空間を飽和させていく。
大君の纏う血のヴェールが焼け焦げる匂いがした。
そして綻んだ僅かな隙を、ウィンダミア公爵は正確に狙いうつ。
青く透き通るような輝き。敵に向かって一直線に走る光芒は、真紅の巫術と激突した。
間近に迫った両者は、しかし再び引き離された。
警戒の色が強まった大君の頬に、一筋の赤い線が刻まれていた。
「・・・不快です。このような些末な傷を刻まれるとは」
顔を顰め、認めがたき事実を目の当たりにして大君はそう口にした。
すぐに傷は彼のアーツによって塞がり、血の気の失った頬は純白を取り戻す。
「我々と対峙して五体満足に帰られるとでも? 随分な傲慢さだ」
「これでも感心しているのですよ。たかが数十年でその域にまで辿り着いたことは称賛しましょう。だからこそ惜しい。貴女の中には未だその身を縛る脆弱性がある。孤高となり、自らをより高みへと至らしめる覚悟がない」
「・・・ならば今度はその首を斬り落としてやろう」
一糸乱れぬ動きでウィンダミア公爵とソードガードが構えた。
「であればよろしい。貴女が真に戦士であると証明しなさい」
大君が再び巫術を行使した。これまでと違い僅かにタメが存在したのを見逃さず、生まれた隙をソードガードとともに突こうと間合いに入る。
四方から追い立てるような陣形はウィンダミアでも必殺に近い。
例えどの剣が綻びようと、残った刃が必ず敵を切り裂く。
油断はない。敵を真っ直ぐ見据え迎撃にも意識を割いた。
この一撃は間違いなくこの男を討ち取る。
ウィンダミア公爵は確信した。
「避けろデルフィーン!」
だからこそ。
意識外からの叫びを理解した時、ウィンダミア公爵は少なからず動揺してしまった。
そしてその隙を、彼は見逃さなかった。
ウィンダミア公爵の懐に真紅のアーツが迫る。
(やはり気が逸れますか。予想通りとはいえ興醒めです)
ブラッドブルードの大君。ドゥカレはもはやその致命の一撃が届くことに深く失望してさえいた。
一瞬の綻びが未来を削り勝敗を決するという戦場の中で、相対する敵はよもや情に流された。自分より戦力的に遥かに劣る駒を相手に、たかが
やはり甘い。昔、同じ血を分けたにも関わらず脆弱な器へとなり果てた兄と同じように。
有限の命を持つ者だからこそ次代に託す。生命の連鎖と賛辞されるそのような下らない戯言はもう聞き飽きていた。
無価値なもののため血迷う哀れな姿は、もはやその目に映す必要すらない。
既に彼のアーツはウィンダミア公爵の懐に迫っていた。
瞬きすら叶わぬ猶予ののち、愚行を犯した戦士の命を刈り取る。
それはもはや避けられぬ運命だった。
ブラッドブルードの大君ドゥカレは周囲のソードガードを迎撃しながら呆れるように目を瞑る。
「ようやく隙を見せたな?」
――そんな彼の左胸を、一発の銃弾が撃ち抜いた。
「ぐ、なっ!?」
「「「「!!!!」」」」
予想だにしない一撃にその場の全員の思考が止まる。そして彼女ら同様、ほんの一瞬ドゥカレの意識が削がれた。心臓を正確に撃ち抜かれ、アーツの制御に乱れが生じたのだ。
そしてそれは自らに迫った死の運命から彼女を辛うじて救い出した。
「! ぬあああああ!!!」
どうにか自分との間に滑り込ませた刃が、僅かにその切っ先を逸らす。
赤く濡れぼそった鋭い棘がウィンダミア公爵の脇腹を貫通した。
「がっ! フーフー!」
すぐさまアーツを焼き切り後方へ跳ぶ。
決して傷は浅くない。それはウィンダミア公爵の体を貫きこれ以上の戦闘を続ける事は不可能となった。彼女は荒い息を吐きながら剣を握らぬ手で傷口を抑え止血に専念する。
軍人としてあり得ぬ一生の不覚。つい先程まで死神の鎌が首に添えられていた事を自覚しながらも、彼女がそれに恐怖する事はありえない。その眼光は依然として眼前の敵に向けられていた。
一方のドゥカレも、その身に突如降りかかった奇襲に動揺を隠せないでいた。
(何故? この周囲に敵は存在しないはず!)
この甲板上にこれ以上の脅威は存在しない事は確認済みだ。ブラッドブルードの頂点である彼が生命を嗅ぎ逃すなどありえない。
アーツで自身から流れ出る血を操り止血しながら、大君は吹き荒ぶ風に従って後ろを振り返る。
大空の下に晒された甲板には依然として人影は見当たらない。自分とヴィクトリアの剣の応酬に巻き込まれ無事で済むような人間はいないはずだった。
だが僅かに雲から差し込んだ日の光が旗艦の最上部、司令塔の屋上に光る何かの存在を教える。
もはや肉眼で捉えることすら出来ないほど彼我の距離は離れている。
だがその狙撃手は当ててくる。戦場において誰よりも忠実に役目を果たすその男は、難攻不落に思えた大君に生じるほんの僅かな綻びを正確に撃ち抜いた。
「お前が聞いていた通りの悪趣味な人間でよかった。この場面、必ず囮を使うと思った」
その狙撃手、Scoutはスコープを覗いたまま独りごちる。
彼はスコープから目を離さない。意識は常に標的に向けられ、ただ一瞬の隙すら見逃さないよう全てが注がれていた。
そのまま流れるような手さばきでボルトアクションが完了する。
僅かに煙を上げる空の排莢が床に落ちカランと音を立てた。