「やっ。禪院瀬津那、はじめまして。君さ、ちょっと時間あるかい?」
唐突に声をかけてきた彼女は、一見すると花畑の中で健気に咲く一輪の花のような、素朴な美人だった。
呪力量はそこそこ。術式は常時発動型のようで、縛りはおそらく
瀬津那には全くの面識が無い相手だ。声をかけて来た彼女は見た目からして主婦なのだろう。無職にしては、血色も良く至って健康的で、清潔感を感じさせる身だしなみだったから。
平日の真昼間に大した手荷物もなく
「うーん、そうですね……1、2時間ほどでしたら。ワタクシに擬態させた『式』の顕現時間もそのくらいでしょうし。目敏いですね、今しがた『式』と交代して散歩を始めたばかりだというのに……クスクス、そこまで警戒なさらないでくださいな」
脳天気な瀬津那の返しへと、声をかけた女性は微かに目を細めた。気取られるような失態は無かったはず。面識どころか
けれど瀬津那の感知は、彼女の想像を遥かに超えていた。今ならば天元の結界術にすら比肩すると自負している、今の自分をだ。警戒するなと言われても土台無理な話である。
目撃したのは、瀬津那が市販の付箋を
彼女は、その式神の行使すら瀬津那の術式の本懐ではないと知っている。そして、その身に宿る天与呪縛についても。だから今更、自らが警戒をしたところで瀬津那の在り方が変わるわけでもない……そう納得した。
「おや……なら、あの分身は君の式神か。いいね、噂通りだ。君に会うため、わざわざ悠仁を預ける手間をかけた甲斐があった。じゃあ行こうか、何が食べたい? 出来れば、落ち着いて話せる場所で」
「その噂とやらを是非お聞かせくださいな。でしたら『───亭』というカフェは如何ですか? ファミリーレストランよりは
「いいね。
二人は親子か、あるいは歳の離れた姉妹のような距離感で歩き始めた。
「そう言えば、まだ貴女のお名前をお尋ねしておりませんでしたね」
瀬津那が気軽に訊ねる。ソレは自分の実力への絶対的な自負だとか、情報をより多く引き出そうとか、そんな殊勝な考えから繰り出されたセリフではない。何気ない日常的な、
「ああ失敬、忘れていたよ。私は
◆◇◆
「こちらをどうぞ。飴ちゃんです」
「……あ、ありがとう」
不意に瀬津那から渡された飴玉は、やたら高級そうな手触りの良い包装紙に包まれていた。
虚を突かれた夏油は、抵抗も疑問も抱かず受け取ってしまったが、飴玉とか何とか戯言を抜かして
天然なのか、はたまた真性の気狂いなのか。夏油と瀬津那を除けば、非術師だらけのバスの車内で呪霊玉の受け渡しをするなど、正気の沙汰ではない。
かつて2年生の頃、瀬津那から推薦状を受け取ってから1年が経ち、1級への昇格に関してとんと音沙汰が無いまま、今はもう中学3年の修学旅行の時期に突入している。
一応は、この1年の間に瀬津那と一緒に近所の2級未満の呪霊を根こそぎ祓い尽くしてきた結果、準1級にまでは到達した……したはいいのだが、その実態は2級術師と大した違いはない。要は、推薦されて1級としての見込みがあるという内定を貰っただけであり、呪術師としての市場価値は2級と変わりやしないのだ。
普段の任務ではエイの呪霊の背に乗って空を移動する夏油にとって、高速道路を走るバスさえも緩慢なことこの上なかった。
それでも、浮きたつ非術師の同級生たちに囲まれて、バスの揺れに身体を預ける余韻は悪くない。大義だと信じて呪いを祓い続けてきた夏油には、守り続けてきた日常を再認識できるからだ。自らの行いを肯定できるし、身に沁みてこれまでの苦労が報われる気がする。だからこれからも呪術師として大義を全うしていくつもりだし、担任や校長からの熱い指定校推薦を頑なに固辞して、呪術高専東京校へと進路を定めていた。
ただ……相変わらず、マイペースな瀬津那の目的というか、1級術師への推薦の意味は判明しないままだった。
彼女の術式が特殊であること。そして呪力特性と天与呪縛については、ともに任務を果たしてきた間柄で教えてもらっていた。この手渡しされた飴玉サイズの呪霊玉も、『術式を構築する構築術式』……などという不条理極まりない術式によって構築された呪霊操術によるものだと、夏油は理解していた。
「口にしないのですか? せっかくお高い包み紙をご用意して差し上げましたのに」
「……君ね。失礼を承知で言わせてもらうが、視覚だけじゃなくて味覚にも異常があるのかい? 呪霊玉を好んで呑み込む奴なんているわけ無いだろう。まあ、私以外に呪霊操術の使い手がいるかは知らないが」
「クスクス。傑さんは飴玉を飲み込むのですか? 普通、飴とは口の中で転がして味を楽しむものではなくて?」
「吐瀉物を反芻しろとでも? まあ、飴玉サイズの呪霊玉は初めて見るが……」
すると、瀬津那は不思議そうに小首を傾げた。相変わらず瞼を閉ざしたまま、心外そうな表情をして。
「傑さんの呪霊玉はそのような味なのですか? ……何か縛りでも?」
「いいや。最初から
「ワタクシは傑さん以外に呪霊操術の使い手を知りませんし、今となっては実家の文献も漁れないのでなんとも……ですが安心してくださいな。ワタクシ、これでも人並みには自炊をしていますから。飴ちゃんのお味も、傑さんなら気に入ってくださるかと思います。さあさあ────」
急かすように、有無を言わさず口に含むよう瀬津那が促してくる。閉ざしていた彼女の瞼は薄く開き、光を灯さないはずの紅玉の瞳には期待の色を孕んでいた。
普段の彼女が纏っている無気味な雰囲気とは、毛色の違う剣幕である。押しに押された夏油は、呪霊玉を取り込むことに抵抗はあれど、手数が増えることにデメリットはないと判断し、シュールな絵面で決意めいた相好のまま飴玉サイズの呪霊玉を口に含んだ。
コロコロ、コロコロ……舌先から伝わってくるのは仄かな苦みと奥深い豆のコク。口全体に広がるマイルドな味わいは、成長期を迎えて大人になりつつある夏油にとって、吟味するほど旨味が湧いて出てくるようだった。
「……珈琲味? まさか、『呪霊玉に味付けをする術式』なんて構築してないだろうね?」
コーヒーキャンディーである。それも、無糖の。
口の中で呪霊玉が飴のように溶け始めていくのはどういう理屈なのか、呪霊を組成するのは呪力のはずだが……果たして、この溶けた成分が呪力を帯びているわけでもない。もはや、瀬津那の理不尽な術式を考察したところで不毛だろう。
「お気に召しましたか? ワタクシは無糖派なので、その点だけ気がかりだったのですが……」
「まさか、君から
「クスクス。ではワタクシと傑さん、そして由基さんも加えて無糖派閥を結成しましょうか。コーヒーや紅茶にフレッシュはおろか、角砂糖を幾つも投入する愚か者と面識がありまして……いつか
「
「ええ。ワタクシや傑さんと同い年です。
その
夏油が呪術師に対して偏見があるわけではない。今まで任務のサポートをしてくれた『窓』や補助監督は比較的まともな人物ばかり*1だし、推薦こそしてくれたが未だに一度も顔合わせをしていない九十九由基という特級術師も、瀬津那によれば良識のある人物だと聞いている。
瀬津那は変わり者ではあるが、その価値観や倫理観は人間的な、あまりに人間的なものだ。
ではどうして瀬津那が変人なのかと言えば、自身の行いが道徳的、社会的な道義から外れていることを理解しながらも、彼女はその理不尽かつ不条理な言動を貫き通すからである。
例えば、今まさに紡ごうとしている言葉もまた、刹那が変人である証左だ。
「ちなみに、そちらの飴ちゃんは昨年に製造されたものです。具体的には……ああ、確か傑さんに推薦状を渡す1週間前でしたね。賞味期限ギリギリです」
どこか底しれない悪意と愛嬌が綯い交ぜとなった微笑みを浮かべながら、瀬津那はなんとはなしに言ってのける。
一瞬、呪霊の飴玉を転がす夏油の舌は動きを停止したが、すぐさま吐瀉物よりはマシだと割り切って、残りの飴玉を一息に飲み込んだ。
この女にはどこまでも悪意しか感じない。そこらの呪霊などより余程醜悪に違いないと夏油は断定した。けれど表情には出さずに皮肉で返してみせる。ここで直接的な嫌味を言ったとて、それは瀬津那を喜ばせるだけだと、夏油は不本意ながら1年間の付き合いでよく解っていた。
「……それはどうも。私もコンビニでは手前取りするタイプだからね。食べ物を無駄にせずに済んで感激の至りだよ」
バスが目的地に辿り着くまでの間、夏油の毒を吐く舌には、コーヒーキャンディーの味が染み付いて離れることはなかった。