後日。
中央トレーナー寮。
窓から差し込む朝日が、鉄の部屋に穏やかな光と温もりをもたらす。しかし、その穏やかな朝も少しばかり騒がしくなった。
「……」
眠り続ける鉄を、バロンが揺すっている。鉄は寝ぼけまなこで応えるも、まだ夢の中。
「……ふがっ」
バロンは鉄を揺するのをやめると、ベッドの前に両膝を付き、内股の形をとった。いわゆる女の子座り。これでようやく座高が寝ている鉄と並んだ。
「──鉄……起きろ」
耳元で聞こえるバロンのささやきに、やっと鉄が目を覚ます。しかし、まだ状況は把握できていない。
「……おお、バロンか。おはよう」
「──おはよう、鉄」
朝の挨拶を交わす二人。その穏やかな挨拶の中で、鉄は異変に気づく。
「って……バロン!ここはウマ娘立ち入り禁止だぞ!?」
トレーナー寮の厳格な規則に反して、侵入していたバロン。鍵はドアノブごと綺麗に引き抜かれている。本人はそれを気にする様子もなく。
「──オレは……そんなもの気にしない。朝練の、約束だぞ」
バロンの堂々とした立ち振る舞いが、静かな朝の部屋に柔らかな緊張感を与える。
「寝坊したのは悪かった、すまん。だが、俺は気にするんだよ……バレたら処罰の対象にもなるんだから。次からはスマホに連絡してくれ。お前にも渡しただろ?スマホ」
鉄はスマホを手に取り、画面をバロンに見せた。待ち受け画面には芦毛のウマ娘が写っていた。鉄の元担当ウマ娘“キングシルバー”である。
それを見て耳をひくつかせ、尻尾を逆立たせるバロン。
「──誰だそれは」
「ん?ああ、この子は俺の元担当だ。キングシルバーって言ってな。この子もかけがえのな……」
するとバロンは鉄の目視できない速度で、かつ壊れぬようにスマホを奪い取った。
「……」
「お、おい!?」
「──ぶい」
バロンはぎこちない笑顔で自撮りをすると、待ち受け画面を自分の写真に上書きしてしまった。
「あ……ぁ」
その様子に唖然としている鉄。
「──余所見は……許さん」
バロンは鉄の頬を尻尾で軽く叩くと、窓を開けた。鉄の部屋は三階である。
「うぶっ!おいバロン、俺は別に……」
「──バレなきゃいいんだろう」
そしてバロンは──窓から飛び降りた。
「バっ──!?」
顔面蒼白になる鉄。すぐさまバロンの手を掴もうとするが、もう遅い。
「バロン……!」
必死の形相でバロンを見る鉄。その様子を、バロンは落ちながら楽しそうに見ていた。
「──ふふ」
そして、見事な五点着地を見せたバロン。まるで猫のような軽やかさだ。当然のように無傷。
「あのバカ……!クソ……後でたっぷり絞ってやる……!」
驚きを感じながらも、鉄は迅速に支度を始めた。
バロンは、ベンチに座りながら鉄が来るのを悠々と待っていた。
グラウンド。
芝の上に正座するバロン。向かい合う鉄も正座している。日差しは頭上で輝き、鉄の言葉が響く。空気が緊張に満ち、周囲の芝生が微風に揺れている。
くどくどくどくど──。
「……」
くどくどくどくど──。
「……」
鉄の言葉は、厳しさと共にバロンへの真剣な思いやりが感じられた。
「──わかった。もうしない」
「……わかりゃいいんだ。足くずしていいぞ。時間使っちまったな。正座もさせたから少し足のストレッチして、今朝はスピードを重視したトレーニングをするぞ」
体育座りをしているバロンの後ろにまわると鉄はその背中を押してストレッチの手助けをした。素直にストレッチをするバロン。
「──鉄」
「ん……?」
「……」
振り向いたバロンの目は潤んでいた。そして鉄の裾を掴むバロン。
「ちょっと言い過ぎたか……だが、あればかりは許せねえ。お前の為なんだバロン」
こういう時、鉄は折れない。それがトレーナーとしての鉄の在り方なのだ。何よりも、ウマ娘優先。
「──違う」
バロンが鉄の裾から手を離した。
「何が……?」
「──叱って……くれて……」
「あ……?……なんだって?」
とてつもなく小さな声で話した後、黙ってしまったバロン。そしてストレッチを終えると、立ち上がった。
「……」
するとバロンはいつも通りのバロンに戻っていた。
「よし、まずは2000mだ。行ってこいバロン!はじめぃっ!!」
ホイッスルを力強く吹く鉄。それに呼応するかのように、バロンは走った。
トレーニング後。
「いいぞーバロン!これなら直ぐにでもレースに出られそうだ!」
「……」
また鉄に汗を拭いて貰っているバロン。この瞬間が、バロンの楽しみだった。タオル越しにムニムニと顔をマッサージされるのがじゃれているようで、鉄の愛情を感じるようで、とても好きなのだ。
孤独なバロン。バロンは、愛情に飢えていた。
「今日はここまでにしとくか。今日から授業も始まるし、真面目に勉強しろよバロン。数学とか国語とか……俺の専門外だからさ、ははは……」
乾いた笑いを上げる鉄。レースに詳しい鉄だが、普通の勉強は苦手なようだ。
「……」
バロンはこくりとうなずくと口を開いた。
「わかってるって……はいよ」
そこへ角砂糖を3つ放り込む鉄。バロンは嬉しそうにガリガリと角砂糖を食べていた。
「そうだバロン。これ渡しとくわ。もしまたつえーウマ娘を見てガン飛ばしそうになったら、これ食って落ち着け。絶対にガン飛ばすんじゃないぞ」
「……」
角砂糖の入った小袋を受け取るバロン。バロンは、眉をハの字にしていた。困っているようだ。
「頑張れよ、バロン。じゃあまた放課後な。中庭で落ち合おうぜ」
「……」
ゆっくりうなずいたバロン。去っていく鉄の背中を、不安そうに見つめていた。
高等部教室。
教室内はウマ娘たちのざわめきで溢れていた。“皇帝”シンボリルドルフからスカウトされてきたという噂の転入生、バロンイーストの話でもちきりだった。
「はい、静かに」
先生の一言でウマ娘たちはしんとなり、期待と興奮が空気を支配していた。
「今日は皆さんに新しい学友を紹介します。地方カワサキトレセン学園からやってきた、バロンイーストさんです。バロンイーストさん、どうぞ」
教室の引き戸が開き、バロンがぬっ……と姿を現した。身長195cmの彼女は中央トレセン学園でも類を見ない存在だった。超高身長ウマ娘。教室のそこかしこから驚嘆の声が上がる。
「バロンイーストさん、自己紹介をお願いします」
先生の言葉に、クラスメイトたちの視線が一斉にバロンに注がれた。
「──バロンイーストだ。オレは……中央を破壊しに来た」
バロンの言葉に、教室のワクワクとしていた雰囲気が一瞬で凍りつく。
「──帝王を倒し、皇帝と決着を着ける。それが、オレの望みだ」
「……ぁ」
バロンの宣言に呆然としている先生。
「──以上だ」
クラスメイトたちの反応は様々だった。
先生と同じく呆然としている者、怒号を飛ばす者、物を投げる者、運命の出会いに心打たれた者、強者との出逢いに喜ぶ者、興味深い研究対象を見つけた者、十人十色。
バロンの宣言に、クラスメイトたちが一斉に様々な化学反応を引き起こした。
物を投げつけられてもビクともしないバロン。逆に視線を飛ばしただけで、そのウマ娘を震え上がらせた。
「いいねえ、実にいい。素敵だ……これは運命だよ」
教室の隅の席から、一人のウマ娘が怪しげな表情でバロンを見つめていた。
「で……では、この席に……」
先生は冷静さを取り戻すとバロンを席へと案内しようとした。
「ふん!嫌ですよ!こんなバケモノみたいなやつが隣なんて、アタシ嫌です!」
「そんな……あなたね、学校は感情で物事を決める場所では……」
隣の席のウマ娘が、激しく拒否した。先生が諌めようとする。
「君ィ〜ココが空いてるよ〜ココに座りたまえよ」
そのウマ娘はバロンを手招きした。
「先生ぇ〜構いませんよね?」
「そ、そうね。ではバロンイーストさん。あちらの席へ……」
「……」
バロンは黙って席についた。
「ふふふふふ……」
そのウマ娘はニヤニヤとバロンを見つめていた。
「……」
睨み返すバロン。
「いい……いいねえ……まるで獣のようじゃないか。ゾクゾクするねえ」
「……」
流石のバロンもそのウマ娘の常軌を逸した様子に少し引いた。
「私は“全知全能”アグネスタキオン。君とはいい友人になれそうだ……」
タキオンは、ぬるりと手を差し出してきた。
「……」
「どうしたのかね、まさか……怖いのかい?」
「……」
すると、二人は熱い握手を交わした。
「はははははは!いい!いいよ!君ィ!」
「アグネスタキオンさん、静かにしなさい」
転入初日、バロンの中央トレセン学園生活が始まった。
アグネスタキオン。
皐月賞ウマ娘。タキオンとは、超光速の粒子という意味を持つ。
その後の二冠も間違い無しと期待されていたが皐月賞優勝後に、ウマ娘の不治の病と言われる怪我、屈腱炎を発症。
“皇帝”は愚か“帝王”すら超える才能を持ちながら、その才能に脚の頑強さが追いつかなかったといわれる悲劇のウマ娘である。
怪我が原因で三冠を逃した事から、フジキセキと同じく“幻の三冠ウマ娘”とも呼ばれている。
しかし、本人は全く悲観的にはなっておらず、自らの置かれた運命に抗うべく『ウマ娘の肉体強化と故障からの復帰』をテーマに中央トレセン学園で研究に没頭している。ついたあだ名は“マッドサイエンティスト”。
ただ、彼女の実験に耐えうる強靭な肉体を持ったモルモットがおらず、研究は思うように進んでいないようだったが……。