美浦寮。
中央トレセン学園の生徒たちが生活する栗東寮の隣の寮である。
早朝、その一室にブライアンはいた。洗面台で水を流し、顔を洗っている。
「……」
(なぜだ……私も、捨てたはずじゃ無かったのか)
(帝王を倒す為に……全てを)
水を張った洗面器の栓を抜く。静寂な部屋の中に水の流れる音が響く。
(姉貴の、あの目を見た途端……己の行いを恥じてしまった……何をしているんだ。私は……)
目をつむったまま手ぬぐいを手探りで探す。
「はいよ」
「……アマさん」
同室のウマ娘“女傑”ヒシアマゾン。いつの間にか、起きていたようだ。
アマゾンは、母性に満ちた優しい表情でブライアンに手ぬぐいを渡した。
「あんまり無茶するもんじゃないよ」
「無茶など……してない」
アマゾンはブライアンの背中を優しくポンと叩くと再びベッドの中へと入っていった。
(時間は……5:30)
「明朝6時、グラウンドで待つ……か」
バロンイーストが言い残していった言葉が気にかかる。
「……」
ブライアンは簡単に身支度を済ませると部屋を出ていった。
グラウンド。
バロンは芝の上に静かに座禅していた。朝日がまだ低く、空気は新鮮だ。
「──来たか」
バロンが口を開く。背後にはブライアンが姿を現した。
「こんな朝っぱらに呼び出して、何の用だ?」
「──ウマ娘同士の用事といえば、決まっているだろう」
「……いい度胸だ」
「──いざ」
二人は心の中に秘めた思いを足跡に託し、走り始めた。遠くには朝露がきらきらと光っていた。
──どれほど走っただろうか。バロンとブライアンは互いに芝の上に横になり、息を切らしていた。
「──オレの勝ちだ」
「私の勝ちだ」
ほぼ同時に口をついた。思わず笑うブライアン。無言のバロン。
「……不思議だ。お前と走っていると、昔を思い出す」
ブライアンの目にはかつての記憶が宿り、それと同時に無念がうっすらと浮かんでいた。
「バロンイースト、お前は強くなる為に何を捨てて来た?」
「──捨てる?」
ブライアンの問いかけに、バロンの瞳はふと冷たくなり、しかし微かな寂しさを感じさせた。
「そうだ……帝王は全てを捨てて無敵となった。私も……」
「──オレは、何も捨てちゃいない」
「……そうか」
期待から外れた答えにブライアンは不満げな表情をみせた。
「──お前たちには分かるまい。持たざる者の嘆きが」
上体をあげたバロンは、遠い先の何かを見つめていた。その声には普段のバロンには無い哀愁が漂っている。
「持たざる者?お前が言えたことか?その体躯は……まぎれもなく天から授かった才能だろうが」
ブライアンの言葉にはやや苦笑が交じり、一方のバロンは深く深呼吸をしている。
「──この身体は……厄介だ。自分の意思に反して動く。抑えられん」
「何を馬鹿な……」
ブライアンは雲を見上げ、馬鹿馬鹿しいというような表情を浮かべた。
「──お前たちは恵まれている。幸せ過ぎて、大切なことが分からなくなっている」
「……中央のウマ娘はぬるいと言いたいのか」
やや苛立ちを隠せない表情を見せるブライアン、一方のバロンは自身の身体に対する複雑な本音を抱えている。
「──そうとも言う」
「では、お前には分かるのか?その大切なこととやらが」
バロンの瞳は、決意に満ちた光を宿した。
「──わかってきた。徐々にな」
ブライアンは起き上がると、興味深そうに訊ねる。
「だから、なんだそれは」
「──教えん。オレはお前のトレーナーではない」
「言い逃れに聞こえるぞ」
ブライアンの追及の中、バロンはどこか満足げに答えた。
「──少なくとも……捨てるものなど一つもない。オレの中にあるもの。全てがチカラだ」
「……」
捨てるものなどない。その言葉に、ブライアンは黙って、何かを考え込んでいた。
「──またいずれ」
それだけ言うと、バロンは去っていった。その後、芝の上に一人寝転がるブライアンは、深くため息をついた。
その後、ブライアンは芝の上でしばらく寝たあと再び立ち上がると、グラウンドを走り出した。
(捨てるものなどない……か)
走れば走るほど、思考は明瞭となっていった。
するとグラウンドに一人、ジャージを着たウマ娘が現れた。
「!」
そのウマ娘に気づくと、ブライアンはスピードを落とした。ブライアンに近づくその影は、ビワハヤヒデだった。
「日曜だというのに、トレーニングか?ブライアン」
「……あぁ、姉貴もか」
「!……そうだ」
ハヤヒデは歓喜の表情を見せた。どれほど経つだろうか、妹と会話をしなくなってから。今、その妹と会話ができている。
アグネスタキオンの策略から始まったことではある。ハヤヒデもそれは承知の上だったが、それでも、もう一度愛する妹と話がしたかった。
ハヤヒデは、ただただ嬉しかった。
「姉貴……」
申し訳なさそうに、目を伏せるブライアン。
「一緒に走らないか……ブライアン」
「姉貴……私は……悪いことをした」
妹の肩に、そっと手を添えるハヤヒデ。
「……過ぎたことだ。結果を悔やみ、繰り返さなければそれでいい。止めてくれた友人たちに感謝しよう」
「あぁ……」
「バロン君に会ったか?」
「……会った。走った」
「そうか……バロン君にも感謝しなければな。彼女が追い風となって、帝王一強の時代は終わるかも知れない」
「気に食わないところもあるが……ふふ」
「……走ろう、ブライアン」
「わかった……」
姉妹の足取りは軽やかだった。こどもの時のように、姉妹は無邪気に走った。