権藤寮。
陰鬱な雰囲気の中、平手打ちの乾いた音がオフィスに響き渡った。
「このっ……!このっ……!」
しかし微動だにしないバロンイースト。権藤の怒りは全く届いていないようだ。当然である。人間の力が、ウマ娘に通じるわけもない。
「……」
平手打ちの音が消えると、権藤が口火を切った。バロンは沈黙を貫き、ただ立ち尽くしている。
「このアホが……わしに恥をかかせおって……!」
オーナーである権藤に叱責を浴びせられるが、それでもバロンは動じず、ただじっとその場に佇んでいる。
「……」
その光景に、権藤寮のトレーナーである石川がバロンへ助け舟をだした。
「権藤のだんな!もうそれくらいで……相手のウマ娘もバロンも大したケガは無かったんですから」
石川がバロンを庇う言葉をかけるが、権藤は一瞥もせず、バロンに激しい視線を注いでいる。
「うるさい!わしの寮のウマ娘だ。口出しするな……!」
権藤の言葉は冷徹で、石川も口を閉ざすしかなかった。しかし、彼はなおも心の中で抗議を強く抱えていた。
「……し、しかし次のレースもありますし」
石川の言葉に権藤は顔をしかめ、彼を睨みつける。
「……アホッ!このダバに次なんてないわ……」
権藤は情け容赦ない言葉で宣告する。権藤の冷たい視線が石川に向けられた。
「だいいち今回とその前の反則騒ぎで、専属トレーナーが下りた言うやないか」
「……はあ……でも……」
言葉に詰まる石川。悔しさと無念さが胸を締めつける。バロンはなおもじっと、彼の前に佇んでいる。
「こんなゲンの悪いウマ娘いらん。登録抹消じゃ」
権藤の言葉が冷たく、石川は言葉に詰まる。バロンはまるで置き去りにされたように、ただただ静かに立っている。一瞬、その長い耳がピクリと動いたかに見えた。
「と、登録抹消って……?そんな……バロンはみなしごですよ。帰る場所はここしか……!」
石川の抵抗も虚しく、権藤は捨て台詞を残して去っていく。石川はその後姿を見送りながら、バロンとの未来に暗い影を感じていた。
「──知るか!施設でもなんでもブチ込んだらええ!2、3日中には寮から叩き出す!手続きしとけ!」
権藤の声が遠ざかり、残された石川とバロン。石川はうなだれ、バロンはなおも静寂の中に佇む。
権藤寮のオフィスから立ち去った後、石川とバロンの間には凍りついた沈黙が広がった。
「……」
権藤の言葉がまだ耳に残る中、石川は何も言えないままだった。バロンは淡々とした表情で、言葉を発する気配もない。
オフィスの窓から差し込む陽光が、その静寂を更に際立たせているかのようだった。
「バロン……すまん……」
石川の精一杯の呟きが静かな部屋に響き渡る。しかし、バロンは相変わらず何も答えず、ただ石川の前に静かに佇んでいる。
「……」
バロンの無言がますます石川の心に重くのしかかり、その場は重苦しい雰囲気に包まれたままだった。
次第にオフィスの外からはウマ娘たちの蹄鉄の音や、遠くから聞こえてくる人々の会話が耳に入ってくる。
しかし、それもこの閉ざされた空間にあっては遠い出来事に過ぎなかった。
権藤寮トレーナー棟。
薄暗い部屋の中、石川は空の酒瓶を見つめていた。部屋にはテーブルもなく、畳に新聞紙を敷き、その上につまみの柿ピーとイカゲソをのせた紙皿を置いていた。その横で、見習いトレーナー山中が新しい瓶を開ける音が静かに響く。
「くそっ……!」
石川の声は、部屋の静寂を切り裂くようだった。その言葉には、怒りと悲しみが混じり合っていた。
「先生、元気を出してください」
山中の声はやさしく、しかし彼の内心は石川の苦悩を思うと痛みと悲しみでいっぱいだった。石川のコップに日本酒をそそぐ山中。その手はわずかに震えていた。
「しかたないですよ……バロンがあそこまでタチが悪いんじゃ、オーナーがサジを投げても……」
山中の言葉は諦めに満ちていたが、彼自身もこの状況をどうにかしたいという強い願いを持っていた。
「……」
黙って酒を飲んでいる石川。彼の心は葛藤でいっぱいで、言葉にできないほどの感情が渦巻いていた。
「うちにはまだいいウマ娘が何人もいるじゃないですか。スーパーハヤテやダイリンキング……!」
山中の声には希望が込められていたが、それは石川にとっては遠い話のようだった。
「バロンイーストだけが特別なんじゃありません。またいいウマ娘は出てきますよ」
石川を元気づけようと明るく振る舞う山中。石川はそれに気づきつつも、バロンへの思いに胸を痛めていた。
「……わかってねぇな……」
石川の返答は、深い失望とともに彼の内面から溢れ出たものだった。
「バロンはな……あがりが3ハロン《600m》36秒切っちまうんだよ。それも度々な……」
石川が語るバロンの能力には、彼のプライドとも言える尊敬が込められていた。
「……あんな奴が、そうそう出てきてたまるか!」
石川の声は怒りと悔しさで震えていた。続ける石川。
「ハヤテもダイキンもいいウマ娘に違いはねぇが……しょせんモノが違うんだよ。
二人を車に例えれば、排気量がいいとこ2000どまりの車……でもバロンは3000は下らねえだろうよ。
ただ、その3000のエンジンが生きてねえだけだ……わしらが無能なせいでなっ!!
──いわば、エンジンのセッティングで失敗してる。トレーナーの指導力がバロンに追いついてねえんだ」
石川の分析には、彼なりの深い反省が含まれていた。普段物静かな師匠が見せたトレーナーとしての熱い一面に言葉を詰まらせる山中。
「もしあいつが本当に底力を出したら……今ごろ中央で全戦全勝さ」
石川の声には、有り得たかも知れない未来への希望と同時に、現実への絶望が入り混じっていた。
「そうさ“怪物”だろうが“皇帝”だろうが──あの無敗の“帝王”にすら勝てるかも知れねえ」
「そ、そんなに……!」
山中の声には驚きと戦慄が混ざり合っていた。言うまでもない。石川が口にしたその二つ名は“怪物”ナリタブライアン。“皇帝”シンボリルドルフ。いずれも皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制した生きる伝説とも言うべき三冠ウマ娘たちである。
そして無敗の十冠ウマ娘──“帝王”トウカイテイオー。
エスポワールシリーズ、ブレイブメンロードカップ《G1》にてシンボリルドルフを下し、中央トレセン学園生徒会長の座に新たに君臨した名実ともに最強の絶対王者である。
「先生……そこまでバロンのことを……!」
石川の熱い想いとバロンイーストへの信頼が、山中にも伝わってきた瞬間だった。
「それが……こんな形で終わっちまうなんて……一度でいいから、最高の状態で走らせてやりたかったよ」
石川の声は震え、その目からは涙がこぼれ落ちた。彼の言葉には、バロンイーストへの深い愛情と、彼女の真の可能性を世に示せなかったことへの無念が込められていた。
──男泣きを見せる石川。
その姿は、ウマ娘たちへの愛と、トレーナーとしての重圧を日々背負っている彼の強さと脆さを同時に表していた。
「つぼにはまれば、あいつに勝てるウマ娘なんていやしねえんだよ……!」
石川の言葉の中には、バロンイーストが持つ可能性への確信があり、それは彼のトレーナーとしての見識を物語っていた。
その夜、権藤寮トレーナー棟の小さな部屋で交わされた二人の会話は、夢への挫折という人生を語る上では避けては通れない、重いものだった。
バロンイースト。
高校生。身長195cm、体重成長中、スリーサイズはB101 W66 H90の大柄なウマ娘。顔つきは大人びていて、眼がするどい三白眼。腰まで届くロングヘアの栗毛と、ギザギザ模様の大きな流星が特徴。走行スタイルは追込型。芝、ダート問わず走り、マイル、中距離、長距離に高い適正がある。
無口で感情を表に出さないが、非常に気性が荒い。湧き上がる力を制御できず問題行動ばかり起こし、地方レース場を転々としていた。みなしごで両親は所在不明。
好きなものは角砂糖。趣味は麻雀、チンチロ、ポーカー。
望みはG1レース10勝。