権藤寮トレーナー棟。
昼の陽射しが静かに応接間へ差し込んでいた。権藤寮を訪れて来た鉄。石川はひとしきりの沈黙の後、酒の入ったコップを手に取って言葉を紡いだ。
「──バロンを担当したいだって?」
鉄は真剣なまなざしで石川を見つめている。石川は微笑みながら、コップの口元を少しだけ傾けた。
「ええ……」
鉄の返事に石川の視線はどこか遠くを見つめているようだった。
「フフフ……」
空になったコップが再びテーブルに戻る。静かな部屋に、石川の微笑みは深い寂しさを秘めていた。
「お願いします」
鉄が深く頭を下げる。しかし部屋には重苦しい空気が漂っていた。
「……あんたも間が悪い男だな」
石川の声はやや寂しさを帯びている。その言葉は、部屋の中に染み渡るように響いた。
「え……?」
「……一歩、遅かったよ。バロンは登録を抹消された。もうレースには出られねえんだよ」
「登録抹消だと……?」
鉄の問いに、石川は寂しげにうなずきながら続けた。
「ああ……さっき、トレセン学園から電話がきて、バロンを車に乗せていっちまったとさ」
「ど……どうしてだ!反則を数回したくらいで、トレセン学園が登録抹消までするわけねえだろうが!」
怒りに震える鉄。窓の外の木漏れ日の中で怒りの波が葉を揺らすようだった。
「バロンはみなしごで身寄りもないんだ。今まで、色んな学園を転々としてて……ここのオーナーが後見人として学費と生活費を出していたんだが……そのオーナーがサジを投げたのさ」
石川の言葉が、鉄に生々しい現実をもたらした。静かに広がる喪失感が、部屋全体に満ちていた。
「……バロンはどうなるんだ?」
鉄の問いに対して、石川はため息をついた。
「ナントカ保護団体に囲われて、普通高校に編入されるとか……」
石川の言葉は、昼の光とは裏腹に部屋に静かな哀愁をもたらした。
「……」
言葉を失った鉄。部屋に時折聞こえる小鳥のさえずりが、寂しさを一層深めていた。
「あいつは角砂糖が好きでさ……転居先の保母さんにも伝えておいたんだが……バロンはこいつを口に含むと、落ち着くんだ……少しだけな」
ポケットから角砂糖の入った袋を取り出し、それを見つめながら石川は寂しそうにつぶやいた。
怒りと驚きが重なり、鉄の心臓は激しく鼓動していた。一方の石川は、酒杯を傾け、その動作からは何かを忘れようとしているように見えた。
「くっ……!」
唐突に立ち上がり、鉄は石川の胸元を掴む。窓から差し込む陽光は、この一瞬の激しさを暖かな色彩で照らしていた。
「なに寝ぼけたことぬかしてんだっ……!」
鉄の怒りは静寂を裂くような勢いで部屋に響く。
「バロンが普通高校だとーっ!」
「あたたっ!」
石川を激しく揺さぶる鉄。テーブルの酒瓶やコップは倒れ、部屋の雰囲気は一瞬にして混沌となった。
「てめえ!それでもトレーナーかっ!」
「うわあーっ!」
鉄の勢いに圧倒され、石川は情けなく床に座り込んだ。部屋には怒りと無念さの空気が満ち満ちている。
「!……あの〜〜」
その時、山中が現れた。手には電話の子機を持っている。
「……なんや?ひっこんでろ!」
鉄の怒りに当惑しつつも、山中は静かに話す。
「いや、先生に電話でその……」
「あ……?」
突如生じた状況に驚く石川。
「バロンが逃げたそうです……」
山中の言葉によって、部屋は再び静寂に包まれた。それはまるで時が止まったように。
「え……?」
鉄と石川が同時に声を上げ、驚きと共に部屋には再び不穏な空気が漂い始めた。
「は、走ってる車のドアを突然開けて……そのままどこかへ走り去っていったそうですっ──!」
突然の出来事に一瞬思考が止まった鉄。しかし、すぐさま鉄は動き出し、部屋を出ようとした。
「あ、あんた、どこに行くんだ!?」
「決まってんだろっ……!探しに行くっ……バロンをっ!!」
怒りと不安が交錯する中、石川もまた動き出した。山中も迷わず鉄の後に続く。
「……わしも行く!」
「ぼ、僕も……!」
(俺がバロンならどうする──決まってる。トレセン学園だ……!もっと走らせてくれと、まだやれると……直訴するはずだ!あいつなら、そう考えるはずだっ……!)
三人は急いで寮を出ると、駐車場に停めてあった鉄の車に乗り込んだ。
カワサキトレセン学園グラウンド。
「──こんな程度なのか」
ルドルフの唇からこぼれたつぶやきは、風にそっと奪われるように、立ち尽くすルドルフに漂った。
雲の切れ間から差し込む太陽の光が、まるで後光のようにルドルフの背後に輝いていた。
カワサキトレセン学園の選ばれたウマ娘たちは、ルドルフの影すら踏むことを許されず、無残にも全員が敗北していた。
「さ、流石だ……!凄いっ……凄すぎるっ……!」
感激と驚きが学園長の声に混ざり、言葉が抜け出す。
「お疲れ様です。会長」
さも当然というように、タオルとドリンクを手渡すエアグルーヴ。
「ありがとう……どうだった?」
「悪くはありませんが、なんとも。響いてくるものがありません」
「そうか」
ルドルフは手を振りながら、健闘したウマ娘たちに微笑む。しかし、その微笑みには何か物悲しいものが漂っていた。
「ハァ……ハァ……!ダートでもあんなに速いなんて……これが中央レベルっ……!」
「強さとか……そういう次元じゃない……」
「無理ぃ〜っ……!」
カワサキのウマ娘たちは地面に伏せながら、疲弊の中で心の内を漏らしていた。
「皆、よくがんばった。これからもトレーニングに励んでくれ。君たちの走り、素晴らしかったぞ」
しかし、ルドルフの言葉はどこか空虚に響いていた。
「会長、もう時間です。行きましょう」
「わかった」
ルドルフは汗を拭うためにタオルを手に取った。
──その時、ルドルフに電流走る。
(なんだ、この感じは……?)
身体に電流が駆け巡るような何かを感じ、思わず身体を硬直させるルドルフ。
(うっ……この威圧感は……スズカ……!?違う、誰だ……?)
エアグルーヴも同様に、何か異質な気配を感じていた。
ざわ……ざわ……と、どよめくウマ娘たち。
ルドルフが振り返ると、そこには一人のウマ娘が立っていた。
「……」
そのウマ娘は、ルドルフに向かってじっと目を合わせ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
学園長は驚きの声を上げる。
「き、君は……バロンイースト!?」
「バロンイースト?」
ルドルフは初めて聞くその名前に、少しだけ驚きを見せる。
そのウマ娘は──制服越しでも分かるほどの、はち切れんばかりの筋肉と、丸太のような太ももを誇示していた。身長も通常のウマ娘よりはるかに高く、異様な雰囲気を放っていた。
「ふふ、これは……ヒシアケボノ以上かな」
思わず笑みがこぼれるルドルフ。
「待ちなさい!君はもうこの学園の生徒ではないはず……何をしにきたのですか!」
学園長がなんとか言おうとしたが、ルドルフは鋭い視線を向け、手で制止する。
「え……!」
「ウマ娘同士の用事といえば──決まっている」
ルドルフが言葉を添え、エアグルーヴは二人の意図を感じ取ったようだった。
二人の視線がぶつかる。バロンがスタートラインの外側、本来不利であるアウトコース側に立った。
「……」
ルドルフがさらに外側に移動しようとすると、バロンが口を開いた。
「──言い訳が……欲しいのか?」
その言葉に、ルドルフはピタリと動きを止めた。そして黙って先程の位置につきスタートの姿勢をとった。バロンは既に臨戦態勢だ。
二人の放つオーラが、ぐにゃあ──と周囲の空間をねじ曲げているように見えた。
「ルールは先程と同じ、コース一周《1200m》だ。位置について……」
スタートラインに手を伸ばし、審判役を勤めるエアグルーヴ。
シンボリルドルフとバロンイースト。その場に立ち込める緊迫感に、エアグルーヴ以外の者たちは圧倒され、息を飲んで見守るしかなかった。
「用意……スタートッ!!」
エアグルーヴ。
中央トレセン学園生徒会副会長。二つ名は“女帝”エアグルーヴ。チーム“リギル”のメンバーであり、シンボリルドルフの腹心にして親友。
新生徒会長となったトウカイテイオーに振り回されつつ、相変わらずシンボリルドルフのダジャレにも悩まされている苦労人。
シンボリルドルフが生徒会長の座を明け渡したことに関しては未だ納得しておらず、トウカイテイオーのことを素直に認められないでいる。