君のセカイに、手向けの花を。   作:八鈴ワカナ

1 / 1
まだ知らぬ君へ、手を伸ばして

━━━━聞こえるのは、少年の声だけだった。

薄暗い部屋、誰もいない中で独り、少年が泣いている。

本来であれば今夜も家族の団欒を映すはずだった机に、ぽつぽつと落ちる涙を止められずに、彼はただ泣いていた。窓の外はとうに闇に沈み、一片の暖かみさえも彼に与えることは無い。冷たい檻と化した家の中、少年は、天馬司は泣いていた。

そう、これは俺の記憶。暗く冷たい、俺の記憶だ。

俺は、何故、泣いて━━━━

 

 

「──お兄ちゃん、お兄ちゃん?聞いてる?」

聞き慣れた声に目を開ける。

そこには妹の顔があった。

「…ああ、すまん咲希。少しぼうっとしていた。」

「もう、お兄ちゃんったら!ちゃんと話聞いてよね。」

どうやら話を聴いている最中だというのに、うたた寝してしまったらしい。ぷくっと頬を膨らませた妹、天馬咲希の顔を見ながら、先ほどまでの会話を思い出す。

「それで、どうだったんだ。はじめてのアルバイトは。」

「そうそう、それでね───」

 

咲希は生まれつき病弱な体だった。幼いころをよく熱を出し、病院に担ぎ込まれたことも一度や二度ではない。そんな妹がアルバイトに精を出している姿は、兄ながら感慨深いものがあった。あの『フェニックスワンダーランド』で働くと聞いたときは耳を疑ったが、楽しくやれているようで何よりだ。だがアルバイトだけに傾倒するのが学生の本文では無い。

 

「ところで咲希、バイトに精を出すのはいいが、勉強のほうは大丈夫なのか?」

「うっ…だ、大丈夫…かな…?」

 

あまり芳しくないらしい。入院生活の遅れを取り戻すのは簡単ではないようだ。

「ち、ちゃんと勉強はしてるよ!先生も気にかけてくれてるし、いっちゃんもほなちゃんも勉強見てくれるし、だから大丈夫!」

「そうか。確か穂波は勉強ができると聞いたな。」

「うん!ほなちゃん、この前のテストもほとんど満点だったんだよ。すごいよね!」

「ほとんど満点か、それはすごいな。」

咲希の通う宮益坂女子学園は進学校であり、テストのレベルも相当高いはずだ。ほぼ満点というのは大したものだろう。

「あ、でもほなちゃんと同じクラスにもっとすごい子がいてね、なんと全教科満点!堂々の学年1位!」

「満点、しかも全教科で?」

「うん。その子、鳳えむって子なんだけれど......お兄ちゃん?」

 

━━突如、強烈な目眩に襲われる。世界が揺れる。

頭の奥、誰かが叫んでいるような感覚。

その声は次第に遠くなり、とおく━━━━

 

「お兄ちゃん!大丈夫?」

「......ああ、すまない。もう大丈夫だ。」

心配そうに見つめる妹に、俺はいつもの笑顔を向ける。

優しい妹の不安を払拭するには、これが最上の方法だと俺は知っていた。

「すまない、咲希。そろそろ部屋に戻ってもいいか?明日の用意をしなくてはいけないんだ。学校の話はまた今度聴かせてくれ。」

 

「.........うん。おやすみなさい。」

「おやすみ、咲希。」

 

 

自室に戻り、横になる。いつもはベッドに入った途端、すぐに意識が遠くなるのだが、今日は何故かうまく寝付けなかった。

「鳳えむ、か。」

頭の中でぐるぐると回るその名前を口に出してみるが、しっくりこない。

その夜は言いようのない、小さな違和感だけが頭の隅にこびりついていた。

 

_______________________________________________________________________

 

「..........?」

ふと、風が吹いたような気がして、少女は窓の方を見た。

部屋の両開きの窓は固く閉ざされ、隙間風ひとつない。

透明なガラス戸の向こう、反射した自分と目が合う。

「風邪ひいちゃったかなぁ。」

今日は早く休むことに決め、少女は、鳳えむは寝室に向かった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。