━━━━聞こえるのは、少年の声だけだった。
薄暗い部屋、誰もいない中で独り、少年が泣いている。
本来であれば今夜も家族の団欒を映すはずだった机に、ぽつぽつと落ちる涙を止められずに、彼はただ泣いていた。窓の外はとうに闇に沈み、一片の暖かみさえも彼に与えることは無い。冷たい檻と化した家の中、少年は、天馬司は泣いていた。
そう、これは俺の記憶。暗く冷たい、俺の記憶だ。
俺は、何故、泣いて━━━━
「──お兄ちゃん、お兄ちゃん?聞いてる?」
聞き慣れた声に目を開ける。
そこには妹の顔があった。
「…ああ、すまん咲希。少しぼうっとしていた。」
「もう、お兄ちゃんったら!ちゃんと話聞いてよね。」
どうやら話を聴いている最中だというのに、うたた寝してしまったらしい。ぷくっと頬を膨らませた妹、天馬咲希の顔を見ながら、先ほどまでの会話を思い出す。
「それで、どうだったんだ。はじめてのアルバイトは。」
「そうそう、それでね───」
咲希は生まれつき病弱な体だった。幼いころをよく熱を出し、病院に担ぎ込まれたことも一度や二度ではない。そんな妹がアルバイトに精を出している姿は、兄ながら感慨深いものがあった。あの『フェニックスワンダーランド』で働くと聞いたときは耳を疑ったが、楽しくやれているようで何よりだ。だがアルバイトだけに傾倒するのが学生の本文では無い。
「ところで咲希、バイトに精を出すのはいいが、勉強のほうは大丈夫なのか?」
「うっ…だ、大丈夫…かな…?」
あまり芳しくないらしい。入院生活の遅れを取り戻すのは簡単ではないようだ。
「ち、ちゃんと勉強はしてるよ!先生も気にかけてくれてるし、いっちゃんもほなちゃんも勉強見てくれるし、だから大丈夫!」
「そうか。確か穂波は勉強ができると聞いたな。」
「うん!ほなちゃん、この前のテストもほとんど満点だったんだよ。すごいよね!」
「ほとんど満点か、それはすごいな。」
咲希の通う宮益坂女子学園は進学校であり、テストのレベルも相当高いはずだ。ほぼ満点というのは大したものだろう。
「あ、でもほなちゃんと同じクラスにもっとすごい子がいてね、なんと全教科満点!堂々の学年1位!」
「満点、しかも全教科で?」
「うん。その子、鳳えむって子なんだけれど......お兄ちゃん?」
━━突如、強烈な目眩に襲われる。世界が揺れる。
頭の奥、誰かが叫んでいるような感覚。
その声は次第に遠くなり、とおく━━━━
「お兄ちゃん!大丈夫?」
「......ああ、すまない。もう大丈夫だ。」
心配そうに見つめる妹に、俺はいつもの笑顔を向ける。
優しい妹の不安を払拭するには、これが最上の方法だと俺は知っていた。
「すまない、咲希。そろそろ部屋に戻ってもいいか?明日の用意をしなくてはいけないんだ。学校の話はまた今度聴かせてくれ。」
「.........うん。おやすみなさい。」
「おやすみ、咲希。」
自室に戻り、横になる。いつもはベッドに入った途端、すぐに意識が遠くなるのだが、今日は何故かうまく寝付けなかった。
「鳳えむ、か。」
頭の中でぐるぐると回るその名前を口に出してみるが、しっくりこない。
その夜は言いようのない、小さな違和感だけが頭の隅にこびりついていた。
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「..........?」
ふと、風が吹いたような気がして、少女は窓の方を見た。
部屋の両開きの窓は固く閉ざされ、隙間風ひとつない。
透明なガラス戸の向こう、反射した自分と目が合う。
「風邪ひいちゃったかなぁ。」
今日は早く休むことに決め、少女は、鳳えむは寝室に向かった。