「またね」あの言葉、あの言い方、あの声。
別れの挨拶としていう「またね」には、次も会うという意味が大体ついている。でも、彼は次会うことはないだろうと、括っていたのか、どうでもよさげに言った。そっけない声でニヒルな笑みを浮かべていた。
それが彼について真っ先に思い出すことだった。今でも目を閉じれば聞こえてくる。「またね」その言葉を言ってみると、私の記憶は何年も前の東京に戻る。
二〇〇七年の夏、東京都立呪術高等専門学校にひょんなことから保護された。ひょんなことと言っても、たいそうなことをやらかした自覚はある。とにかく多分、そのときから私の運命は違う方向に突っ走っていったのだと思う。
瞼を開ける。車の運転席に深く体を沈める。
雨が車にポツポツと当たっている。雨は単調に降り続いていた。時々、止んでしまったのかな、と錯覚するほどひそやかな振り方だった。でも目を凝らすと、やはり雨は降っていた。腕時計をみる。約束の時間はとうに過ぎている。
「___あの人のことだから、仕方がないか」
まだ時間があると思った私はもう一度目を閉じ、思い出に浸ることにした。
強い一陣の風が吹き抜け、目の前にいた男子生徒は橋から落ちた。私がそう肩で息をしながら言うと、大抵の人はそんなことはあるもんか、と肩を竦めた。偶然だ、と後ろ指をさしてきた。
しかし、私の周りで風に飛ばされて重症を負ったという人が増えていくとそれは現実を帯び、そんなこともあるもんだね、と呑気に感心した。それは二〇〇七年の五月初め、私がちょうど十八歳になった頃だ。
当時、私はなんとも思っていなかった。はっきりと覚えているわけではないけど、少なくとも自分のせいでだとか、私がいるからだとかネガティブなことを考えてはいなかったはずだ。当時の私の携帯電話には、外に出かけている写真がアルバムに溜まっていた。
学校からの下校している時、淡紅色の天人花が咲きほこる近所を曲がると、電話がかかってきた。夕方六時ごろだったと思う。夕日が映る海はオレンジ色に燃えていたのを覚えている。
「君が
私は携帯電話を耳から離した。画面を見る。電話の相手は母のはずだ。父でもない低い男の声に私は頬を掻く。
「えっと……どちら様ですか」
「失礼、私は東京都立呪術高等専門学校の教師をしている夜蛾正道です。君を保護しにきました」
そこで一瞬とまどい、訝り、声を絞り出す。「保護?」
「カオル、大丈夫よ。混乱しているかもしれないけど、とにかく家に帰ってきて」電話を変わったようで、電話口から穏やかな母の声が聞こえてきた。軽やかな口調だったが、声が引き締まっている。「事態は少し大変みたいなの」
「———わかったけど……」
混乱しながらも電話を切って、坂を駆け出す。その時、突如暴力的な音量で、設置されたスピーカーが鳴る。
「皆さま、こんにちは」その声は知り合いの声だ。
私が住むこの町は小さな町だけに、大抵の人たちは知り合い、あるいは知り合いの親戚だ。
「夕方のお知らせです」
スピーカーから流れる言葉は、気持ちよく文節を区切って、ゆっくりと読み上げられる。スピーカーは町のいたるところに設置されているので、山々に反響して輪唱のように重なり合っていく。
毎日朝と夕方に一回ずつ流される防災無線放送。山々に囲まれ、海もあるこの町は防災意識が高く、また住民の中でも結託する力が強い。そのこともあって、防災無線放送で流される情報は明日の天気だとか、そういう陳腐なものだけではなくて町内清掃の日程だとか、小学校の運動会の日程とか、誰の誕生日だとかどこかの家庭で子供が生まれたとか、そういうこともアナウンスする。
ばん。
家の扉を開けて閉める。遠くのスピーカーが沈黙する。玄関を抜けて、居間にいた母と夜蛾正道と名乗った男を一瞥した。
「ただいま、それでなんかあったの?」怪訝そうに眉を寄せる。
席についていた夜蛾さんは私を見るや否や席を立った。ガタイのいい坊主の人で、剣呑とした表情をして一礼をした。
「いきなり押しかけてすみません」
意外にも礼儀がいい人で、私は慌てて小さな声で『どうも』と一礼した。
「だって急がなきゃいけなかったから」
母の言葉の次に夜蛾さんはしっかりと私の目を見据えて口を開いた。
「混乱していると思いますが、話を聞いていただけますか? 呪術について———」