20世紀初頭、世界は緊張が走っていた。
ドイツ帝国の台頭や、列強同士の植民地拡大競争。
軍拡競争など様々な要因が有ったが、ぎりぎりの奇跡的バランスによって国際秩序は保たれていた。
その均衡は、一人のセルビア人青年が二人の皇太子妃を暗殺したことによって、一気に崩壊した。
1878年に、オスマン帝国領であったボスニア州とヘルツェゴビナ州の二つの州をベルリン条約によってオーストリア=ハンガリー帝国側に行政権が渡され、皇帝直轄の共同大蔵省の管理下の共同統治国ボスニア・ヘルツェゴビナとなり、更に、1908年10月5日に青年トルコ人革命の混乱に乗じてボスニア・ヘルツェゴビナ併合の宣言をして、オーストリア帝国とハンガリー王国のコンドミニアム(共同主権地域)として、オーストリア=ハンガリー帝国に組み込まれました。そのボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに軍を視察しに訪問していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、オープンカーでパレードをしてそこから帰路についたところに、ボスニア系セルビア人のガブリロ・プリンツィプによって射殺されたのである。
暗殺を実行したプリンツィプは、大セルビア主義テロ組織「黒手組」に所属しており、更にその後ろにはセルビア軍関係者がついており、当初フランツ・ヨーゼフ1世は、余り好戦的ではなかったが、帝国議会や市民、ドイツ帝国からの密かな圧力によって、ドイツ帝国の支援を受けられることを確認して、セルビアへ厳しい内容の最後通牒を突きつけ、セルビアは一部を拒否して、ロシア帝国に支援を求めた。
1914年7月28日オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告をして、ペオグラードへの砲撃を開始した。それに対し、ロシア帝国が兵員動員を開始させ、それを待ってましたとばかりに、ドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告し動員を開始。更に、これに危機感を覚え、イギリス帝国動員開始。フランス軍、ドイツ帝国のルクセンブルク大公国への侵攻を対して動員開始。8月3日にドイツ帝国はベルギー王国に侵攻、フランス共和国に宣戦布告。4日にイギリス帝国がドイツ帝国に宣戦布告。5月にオーストリア=ハンガリー帝国はロシア帝国に宣戦布告。10,11日にオーストリア=ハンガリー帝国に対して英仏が宣戦布告。
こうして、『大戦争』が始まったのである。
当初、オーストリア=ハンガリー帝国はドイツ帝国が北側でロシア帝国軍の対処に当たると考えられたが、ドイツ帝国側はオーストリア=ハンガリー帝国軍が対ロシア帝国戦に動員し、ドイツ帝国軍はフランス共和国戦に対処に当たると考えていた。このため、オーストリア=ハンガリー帝国軍は、ロシア、セルビアの2つに戦力を分けることになり、ドイツ帝国軍は、ロシア、フランスの2つに戦力を配置するなど、戦線の混乱が12月のウィーン戦争会議での戦線整理まで続いた。
セルビア戦線では、8月21日から攻勢をかけ、ツェルの戦いでは勝利したが、コルバラの戦いでは、セルビア軍の全兵力と兵器を動員した対決であったため、オーストリア=ハンガリー帝国軍は撃退され、損害も軽微とはいえない状態に陥った。しかし、11月16日からの第二次攻勢では、コルバラで損耗したセルビア軍の抵抗の力は少なく、12月のセルビアにおける疫病の蔓延やオーストリア=ハンガリー帝国軍による一般市民の虐殺とそれに伴う難民への対応によって、力を使い切り。
1915年1月3日に、セルビア政府が4日にモンテネグロ政府が降伏した。しかし、降伏拒否した旅団やギリシャ王国などが抵抗を続けた。
東部戦線では、ドイツ帝国軍の予想に反し8月までに動員を完了させ、8月3日には、ロシア西北正面軍の第1軍はスワルスキ地方から攻勢をかけ、グンビンネンの戦いでドイツ帝国軍を撃破。同第2軍は8月19日ナレウ河谷から侵攻した。ドイツ帝国軍はこの敗戦によって新しくドイツ第8軍司令官に老将ヒンデンブルクを据え、防衛体制を構築させた。ドイツ側はタンネンベルクに陣を取り、そこへロシア帝国第2軍が攻勢をかけた。しかし、ドイツ側の作戦によって30日に、湖沼森林地域に追い込まれた。そこへロシア帝国第1軍が到着し、タンネンベルクの戦いが勃発した。最終的には、両軍に大きな損害が発生し、ロシア帝国軍が撤退。9月23日から、ドイツ帝国軍は、第一次マズーリ湖攻勢をかけてロシア帝国第1軍を全戦線にて押し返し、ロシア帝国第10軍による攻勢を遅らせた。オーストリア=ハンガリー帝国方面では、ロシア帝国軍が第3軍や第8軍などの総勢65万以上の大兵力でガリツィア・ロドメリア王国の首都レンベルクを占領。オーストリア=ハンガリー帝国軍とドイツ帝国軍の南方を脅かした。この後、セルビア戦線が一段落した12月25日に、レンベルク奪還作戦を開始し、攻勢にでた。多大な損害を出しながら、ロシア帝国軍を退けガリツィア地方を奪還した。ドイツ帝国軍は、少し遡って10月に攻勢をかけようとしたもののロシア帝国軍に察知され失敗し、ロシア帝国軍も攻勢を察知され失敗するという。両軍とも決定的な一撃を与えられない膠着状態に陥った。
1915年1月5日にポーランドにいるロシア帝国軍を大包囲しようと東プロイセン攻勢及び第二次マズーリ湖攻勢、ゴルリッツ=タルヌフ攻勢を開始させた。しかし、一時的には大包囲を完成させたが、ロシア帝国軍による損害を考えない強行脱出とあらゆる交通機関を使用した大撤退を断行したため、大量の軍を逃がしてしまいロシア帝国の継戦能力を残す結果となった。ロシア帝国側は、戦線を縮小し包囲からの大規模殲滅をまのがれた、しかし、戦略的撤退とはいえ兵士の士気は大いに低下した。この時点で、ドイツ帝国軍の大攻勢が終了したのは1915年6月23日であった。
カルパティア方面では1月中旬にブコビナ方面でロシア帝国軍は約3個歩兵師団と4個騎兵師団でトランシルヴァニア方面からハンガリー王国へ攻勢をかけたが、オーストリア第7軍に撃退され、カルパティア方面でも2個歩兵師団と1個砲兵師団がドイツ=オーストリア連合軍に撃滅された。2月上旬カルパティア主山脈をオーストリア第2軍を奪取し、同月北方に進出した。これに対し、ロシア帝国軍は、頑強に抵抗したがドイツ帝国軍の大攻勢とそれに対応するための大撤退のため、ロシア帝国軍は撤退を余儀なくされ、撤退に遅れた1個歩兵師団が殲滅された。
1916年3月12日に連合軍軍事会議によって、西部戦線の兵力を東部戦線へ引きつけるため一大攻勢が行われることが決定した。5月21日にロシア帝国西南方面軍の大攻勢作戦、後にブルシーロフ攻勢と呼ばれる攻勢が開始された。当初、西方方面軍のアレクセイ・エーベヴェルト司令官が反対するなど足並みが揃わなかったが1915年からロシア帝国陸軍は皇帝ニコライ2世の強力な指導の元に置かれており、そのニコライ2世が攻勢計画を承認し賞賛したことによりこの攻勢は会議で決まっていた日時より5日遅れて開始された。5月21日、ロシア帝国軍は精密かつ大規模な砲撃を短期間行い、すぐにオーストリア=ハンガリー帝国軍の防衛陣地に攻勢をかけた。これまでの防衛側に余裕を与え防衛の準備を許していた戦い方と違い早い攻勢によって防衛側に守備の準備をさせないためオーストリア=ハンガリー帝国軍及びドイツ帝国軍の東部戦線は崩壊し、また大量の捕虜をだしてしまった。対するロシア側は早すぎる前線のため補給が続かず8月3日頃には攻勢限界に到達した。北ではドイツ帝国東端、中央ではガリツィア・ロドメリア王国のシュターニスラウに到達した時点で攻勢は停止した。中央同盟国側は死傷者3,238,000人以上を出し中央同盟国にとって最悪の結果となった。ロシア帝国軍も損害は決して少なくなく死傷者3,900,000人の被害を出し、主な原因は補給不足と兵力不足や圧倒的不利な状態での攻勢である。
1917年1月3日から第二次ブルシーロフ攻勢が計画されていたが、1916年10月30日に中央同盟国側でルーマニア王国が参戦したため中止し、これからはロシア帝国軍は守勢にまわった。ルーマニア王国参戦により戦線が広がったが肝心のルーマニア王国軍は脆弱で有り参戦から3カ月間でルーマニア王国は降伏し、ドイツ帝国軍やオーストリア=ハンガリー帝国軍が体制を整えるまで一方的に蹂躙された。増援にきた中央同盟国軍はブルガリア王国方面とトランシルヴァニア方面から挟み撃ちにし、2月中旬ごろにはモルダヴィアまで戦線をあげた。またロシア帝国軍とイギリス海外派遣軍との共同で行われたオデッサ攻勢が失敗に終わると戦線は停滞した。また同時期にオリエント連合軍の最後の大陸側の拠点であるカラマタとイタリア派遣軍の拠点ヴロラ港が陥落したためバルカン戦線も消滅した。
しかし、中央同盟国軍もロシア帝国軍も防衛のため塹壕と要塞を建設したため再び停滞した。
西部戦線では、シュリーフェンプランとは別に小モルトケによって作成されたフランス蹂躙作戦、小モルトケプランに沿って攻勢が行われることとなった。1914年8月2日にルクセンブルク大公国とベルギー王国に侵攻した。ベルギー王国は、断固とした態度で抗戦を宣言したがいくつかの要塞が陥落したのち戦線が崩壊し、首都ブリュッセルも占領され、ベルギー政府はフランス共和国のル・アーヴルに亡命した。ここまで僅か7日である。
フランス共和国軍は対ドイツ戦を予想したプラン17と称された作戦をもってアルザス・ロレーヌを奪還する予定であったがフロンティアの戦いやシャルルロワの戦い及びモンスの戦いでドイツ帝国軍に敗北したためフランス共和国軍とイギリス海外派遣軍は撤退を余儀なくされた。そのままの勢いで諸戦に勝利し、パリまで70キロの地点まで進撃したが、ここで第一次マルヌの戦いが発生し5日間の激戦の末ドイツ帝国軍は進撃を停止させた。また、12日から突如フランス共和国軍がエーヌ攻勢をかけ、ドイツ帝国軍をエーヌ川まで後退させた。
両軍は敵の攻勢を耐えるため塹壕を構築し、敵の背後を突くため北へ戦線を拡大させスイス連邦からドーバー海峡までの総延長4900キロ以上の塹壕線が形成され、戦線が膠着した。
1915年は両軍ともに新兵器を投入し攻勢をかけたが状況は変わらず膠着していた。
それが動いたのは、ヴェルダンの戦いとソンムの戦いであり両戦場では両軍大量の損害を出しながらもドイツ帝国軍が英仏連合軍を突破し1916年8月からのパリ攻防戦にてフランス共和国軍が敗走したことによりパリを占領した。敗走したフランス共和国軍はパリ奪還のためニヴェル攻勢と呼ばれるフランス共和国軍の総力をかけた攻勢を開始した。しかし、余りにも無謀で短絡的な攻勢によって、2日で15万の死傷者が発生し、これに反発した師団が命令拒否や脱走をした。これにより、攻勢が僅か3週間で頓挫しなし崩しに西部戦線が崩壊した。
10月27日にフランス共和国は降伏し、フランス全土はドイツ帝国と対独フランス協力政府の占領下となった。
なお、イギリス帝国軍は降伏しておらず孤立したイギリス海外派遣軍は沿岸近くにおりすぐに脱出できた部隊、イタリア近くにおりイタリアへ撤退できた部隊以外は捕虜となった。イギリス帝国海軍はヘルゴランド海戦での痛み分けコロネル沖海戦の大敗北、ユトラント沖海戦での大敗北によって壊滅的打撃と士気の崩壊が起きており、とても戦える状態ではなかった。具体的な数字で言うと大西洋及び地中海にて即時戦闘可能な弩級戦艦と巡洋戦艦はイギリス帝国海軍が20隻、ドイツ帝国海軍が25隻とドイツ帝国に接収されたフランス共和国海軍が5隻とイギリスの劣勢は明らかであった。ドイツ帝国海軍も現存艦隊主義と東部戦線とイタリア戦線の対応によって英本土上陸は停戦までなされなかった。
後に大幅な加筆があると思います
また、前史はもう少し続くとおもいますが先に本編を投稿します
違う時間軸上なのでオーストリア=ハンガリー帝国軍が強かったり暦が違ったりします
基本ご都合主義的展開です