【第一巻発売中】弱小世界の英雄叙事詩(オラトリオ) 作:銀髪卿
隣の部屋で、一人の女性が奮い立った。
それを知ってか知らずか、少女もまた、ひとつ決める。
「……少し、顔洗ってくるね」
イノリは、一言だけ言い残して部屋を去った。
ストラとカルラは、彼女を追いかけることも見送ることもせず、ただ部屋の内で悲嘆に暮れる。
そんな鬱屈とした空間に背を向けた少女は、食堂兼エントランスの一階を通り外に出た。
「………………変わってないんだ、あの日から。おんなじ景色だ」
奥まった路地を出て大通りへ。
自分についてくる視線を感じながら、イノリは人気のない路地裏に足を運んだ。
「ねえ、紅蓮さん。お願い」
視線の主に希う。
「フォーラルに連れて行って」
『……………………』
迷いを感じさせる静寂が辺りを包む。
本来なら人員の分散は危険だ。だが——その願いを無碍にすることは、一人の吸血鬼にはどうしてもできなかった。
人知れず、二つの気配が世界から消えた。
◆◆◆
雲ひとつない夕暮れ。
赤焼けた空を追うように湖も夕陽を照り返し、キラキラと宝石のような輝きを湖面に湛えている。
——ぽちゃん、と。一匹の魚が水辺で飛び跳ねる。それを見た鳥が餌を求めて水中に嘴を突っ込んで、満足げに獲物を咥え込んだ。
「ここなの」
イノリは、湖のほとりで足を止めた。
そこは観光客で賑わう通りで、穏やかな水面を一望できる、一般的にはフォーラルの中でも人気の観光スポットとされる場所。
そして……イノリが一人の青年と約束を交わした場所でもある。
「ここで私は、エトくんと運命共同体になった」
白花の髪飾りに触れて、
「——孤独だったの」
喉の奥から絞り出すように、掠れた声で想いを綴る。
「血の繋がった家族はいない。大好きだった
暗闇の中を手探りで進むような、恐怖という言葉一つでは到底形容できない、心臓を内側から掻きむしられるような恐れと過ごす日々。
「転がり落ちるように冒険者になって、金級になるって目標は同じ銅の人たちから嗤われた」
一人で進む以外に道はなかった。
ギルドの職員は親切に接してくれたが、それだけだ。踏み込んだ話はしないし、時間魔法という手札を隠すという判断も、職員から仕入れた『一般常識』と比較して自分で決めたものだった。
冒険者イノリの道はどうしようもなく孤独で、先の見えない暗闇だったのだ。
「けど——エトくんがいた」
安直に形容するなら、彼は少女にとっての光だった。
「目標も、想いも、何ひとつ笑わなかった。真剣に向き合ってくれた」
有り体に言えばそれは『絆された』というやつなのだろう。だが、果てのない孤独の道を共に歩んでくれる、たったそれだけで……否、たったひとつそれだけが、イノリをどれほど救ったか。
「自分だって、私なんかよりずっとずっと重いものを背負っていたのに。…………それでも、一緒に背負ってくれるって約束した」
命を懸けていいと思えた。
この道の果てなら、死んでも悔いはないと信じられた。
「エトくんが好き」
ついぞ、言葉にして伝えることがなかった想い。
「一生懸命なところが好き。他人をほっとけないところが好き。約束を大事にするところが好き。勘が鋭いのに妙なところで鈍いところも好き。実は料理が上手なところも、 子供っぽい意地っ張りなところも、たまに情けないところも好き。…………一途なところが大好き」
イノリは知っている。
彼のことなら、きっとなんでも。
「…………私たちは、運命を共にした」
そっと髪飾りを外す。留め置かれていた前髪がはらりと落ちて、少女の目にかかった。
あの日から、髪の長さは変わっていない。
綺麗な造花を慈しむように撫でて、目尻には涙。
「ごめんね、紅蓮さん。冒険者イノリはもう戦えない」
イノリの手の中で、チクタクと時計が進む。
白花の髪飾りは崩れ去り、風に吹かれて散ってゆく。
それは、運命共同体への手向けの花。
「冒険者エトラヴァルトと一緒に、冒険者の私は死んじゃったの」
その横顔は笑っていた。だが、それが必死の作り笑いであることなど、誰が見ても明らかだった。
「私にはもう、何も残ってない」
声の震えを必死に我慢して、少女は日の沈む湖に手を伸ばす。
「一緒に、ボートに乗るって約束したのにね」
願いがこぼれるように、伸ばした手の先で太陽が水平線に隠れて落ちる。
残るのは、暗闇だけ。
月の光と星明かりは、道標にはあまりにも心細かった。
「また、ひとりぼっちになっちゃった」
日が没しても、イノリはそこに立ち尽くし続けた。
冷たい湖畔の夜風に体を叩かれても微動だにしないまま、静かに水平線の彼方を見ていた。
「………………ねえ、紅蓮さん」
やがて、イノリは胸ポケットの中から何かを取り出し、かつて紅蓮から譲り受けた虚空ポケットの中にしまい込んだ。
紅蓮がエトラヴァルトに手渡した、“虚構の概念”を用いて作成した魔道具。概念を宿したそれを紅蓮はどこにいようと感知することができて、その中身も自由自在。
それは、彼がエトの旅路を監視するために与えたものだ。
「今、私が
『……………………』
そしてイノリは、とっくにその事に気づいていた。
「答えて」
『……ああ、知ってる』
闇の中から溶け出るように、イノリの右半歩後ろで紅蓮が人の形を取った。
直後、気配を察したイノリが男の喉元に短剣を突きつける。時間魔法を用いた行動の圧縮。いかに〈天穹〉を冠する紅蓮とて避ける術はない。
「時間魔法を使えば、私は紅蓮さんの体でも
そして、躊躇いなく脅した。
「その上で答えて。
「…………………………………………………」
「答えろ、紅蓮・ヴァンデイル」
「………………っ」
押し付けられる魔剣の感触と情の入り込む余地のない少女の声に、紅蓮は観念したように息を吐いた。
「………………………知ってた」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
この瞬間、紅蓮は自分の首が飛ぶことを覚悟していた。しかしその瞬間は訪れず、魔剣は喉元に触れたままカタカタと痙攣を繰り返すだけだった。
……やがて、握力を失ったイノリの右手から魔剣が滑り落ちる。切れ味鋭い刃はさくりと石畳の舗装路を貫いて、チン、と鞘に収まるような音を立てた。
「…………エトくんが、最後に言ったの。兄ぃを見つけろって」
「………………」
「いるんだね、兄ぃが」
紅蓮は、その問いに答えない。
ただ静かに、おそらくは自分でも無意識なまま右目から涙を流し続ける少女の安全だけを保障するように夜風に身を晒し続ける。
「兄ぃのところに案内して」
「そいつは無理だ」
「…………」
「だが……代わりに、お前が欲しがってる情報をやるよ」
紅蓮は虚空からメモ帳を引っ張り出し、魔剣を取り落としたままのイノリの右手にそれを握らせた。
受け取ったイノリは、一瞥を紅蓮に向ける。
「私がすること、わかるの?」
「ああ、よくわかる。これまでに何度も見てきた目だ。まあ、アンタのそれは比較にならねえほど
ぽつ、ぽつ、と。
湖面を、雨粒が乱す。
いつのまにか夜空は雲に覆われていて、月光すら届かない夜の闇が辺りを包み込んでいる。
嵐がやってくる前兆に、人々はますます屋内に身を委ね、残るは、一人の少女と吸血鬼。
「これから、俺たちは《
「……これ、泳がせてたんだよね。いいの?」
「いいんだよ。許可は得てる」
イノリはメモにざっと目を通し、雨に濡れる前に手早く仕舞う。
「わかった。なら——取れるだけ取ってくる」
「………………死なねえように、な」
蹴り上げて回収した魔剣を使って、自分の冒険者のライセンスを木っ端微塵に斬り捨てた。
「もう、死人みたいなものだよ」
遠雷が響く。
強まる風雨に晒される木々が悲鳴を上げるように軋み、水辺に咲く花々がその花弁を散らす。
訪れた嵐の中、体を濡らす紅蓮とはまるで対照的にイノリの体は僅かばかりも濡れない。
時間を止めた肉体と衣服は世の理から隔絶し、あらゆる変化を否定する。
その有り様は、我が身に訪れた受け入れ難い変化から逃げるようで——否。少女は初めから、世の理を逸脱していた。
「紅蓮さん、みんなにはよろしく伝えておいて」
できたばかりの水たまりを踏み超えて、イノリは緩慢に歩き出す。
その背中を、紅蓮は静かに見送った。
かつて昇級を祝った時とは異なり、赤色の双眸は暗く、どこか落胆を思わせる色で濁っていた。
「ごめんねエトくん。私はきっと、貴方をゆっくり休ませることもできない」
守れなかった。それどころか、守られた。
最後の最後まで、彼はどうしようもなく英雄だったのだ。
その生涯のうち、最後の数年を共に過ごせたことをイノリは誇りに思っている。その生き様に、心の底から尊敬の念を抱いている。
自分も、彼のように生きられたらと強く焦がれる。そうすることで愛する人を守れたのならと、今になって哀願する。
「けど、私にはできない」
それは、心の有り様ではなく。
イノリという少女の願いを叶えるために通らなくてはならない道のりの過酷ゆえに。
それでもせめて、せめて、この人生の果てに。
彼の墓標の前で、やり切ったと……願いを果たせたよと伝えるために。
「私は——みんなの敵にならなくちゃ」
◆◆◆
《
冒険者の名はイノリ。
少女に縁のある複数の世界が限られた時間で捜索を試みるも、その足取りは掴めず。
世界はこの日、四年前に突如として頭角を現した“期待の新星”を、二人同時に失った。