【第一巻発売中】弱小世界の英雄叙事詩(オラトリオ) 作:銀髪卿
——《
これは、かつての滅亡惨禍を上回る常軌を逸した速度である。
これにはふたつの理由がある。
ひとつは、此度の
しかし、今回はここに消息不明の《融和竜》イルルネメアを除く六頭の竜——《脈竜》フルバール、《界竜》ヨルムンガンド、《灰鳴竜》イグルヴェイン、《雲竜》キルシュトル、《天鳥》ガルダ、《竜星》オクト・リラ——これらが一つの目標の下に動いている。
ただでさえ魔物の平均危険度が10を超える
もうひとつは、《
〈異界侵蝕〉に及ばずとも単身で、あるいはパーティーで有力視される金級以上の冒険者たちを、この老爺が先手を取ってことごとく
冒険者ギルドの総本山がある『悠久世界』エヴァーグリーンに所属していたことで、男はそういった戦力の所在を事細かに記録してきた。情報という圧倒的なディスアドバンテージと、単純に〈異界侵蝕〉を相手取る困難を前に、抵抗し得る冒険者たちは成す術なく鏖殺された。
以上のことから、第二大陸はなす術なく新たな滅亡惨禍の荒波に飲み込まれ、残る世界の命もまた風前の灯となっていた。
そして、以上の惨劇を止める術が第二大陸に存在しないことから、これらの被害を真っ向から受け止めなければならない世界がひとつ、ある。
七強世界がひとつ——『海淵世界』アトランティスである。
◆◆◆
「
「第二大陸冒険者ギルドの応答停止間隔、27分24秒から23分49秒に低下!」
「全回遊都市、予定軌道を破棄! ノアへの一斉帰還を進めます!」
「北部から東部、および南東部の固着都市を一斉放棄!」
「第四、第五、第六、第七回遊都市は固着都市の全市民の回収を!」
「
「アトランティス東部、世界外縁への接触予想時刻、明朝4時46分06秒!」
その日、『海淵世界』アトランティス全域に特級の緊急事態警報が発令された。
二年前に『悠久世界』エヴァーグリーンによる宣戦布告が為された以来のアラート。しかし、緊急性は前回のそれとはもはや全くの別物であった。
開戦の合図は唐突に。《
唯一その可能性を予測できていたのは、リステル王ハイレインから【救世の徒】を巻き込んだ先制攻撃を知らされていた源老ノルドレイのみ。
エトラヴァルトの死を悼む暇もなく、アトランティスは騒乱に巻き込まれた。
淵源城ノアのとある一室……ラルフの私室として設けられた、一人部屋としてはやや過剰に広い部屋の端に、“虚構の扉”が開かれた。
「……っ!」
一時的に協力関係を結んだ紅蓮の転移門から、部屋主のラルフが姿を現す。
暗い表情のまま、視線は先んじて部屋で待っていた彼の兄、リントルーデに向けられた。
「いたのか、兄貴」
「戻ったか、ライラック!」
不安と安堵を半々にしたような表情でリントルーデが駆け寄る。無事を確かめるようにラルフの両肩を掴み、ようやく安堵の割合が大きくなった。
「…………どうだった」
「エトは、死んでた」
「————ッ! そう、だったか」
その声には、隠しきれない落胆があった。
男は、かつてエトが死の淵から生還した姿を目の当たりにした。心臓を破られた、必然だったはずの死を乗り越えた英雄をその目に焼き付けていた。
だからあるいは、ラルフたちを除く、ほかの誰よりもその死を認めきれていなかったのだ。
「ほかのみんなも結構、メンタル……やられてたよ」
「ライラック、お前…………」
ほかのみんな、ではない。そこには間違いなく自分自身も含まれていた。
唇には噛み締め、血が滲んだ跡がある。服の側面にも——手のひらが破けるほど拳を握ったのだろう——流血の痕跡が残されている。
冒険を共にした無二の友が命を落としたのだ。それが、大丈夫であるはずがない。
「……………………」
かける言葉が見つからなかった。
リントルーデも、過去に別れを経験したことは一度や二度とではない。遺体を持ち帰れなかったこともある。だが……彼は常に戦場にいた。
その最期を全て見届けたとは言わない。だが、男は
弱さを呪い、泣き叫び、想いを発散することができた。
ラルフには、何もできない。彼は、その場に居合わせることができなかった。戦う機会を与えられなかった。死というひとつの事実だけを、受け入れろと強制されたのだ。
(俺は、なんと情けないのだ……っ!)
目の前で血の繋がった弟が苦しみを抱えているのに、その重荷を減らすことも、分かち合うことも……癒すこともできない。
リントルーデにはせめて、この身勝手な憤りが弟に伝わらないように、体を律することしかできなかった。
「……エトが着いた時には、もう、戦いが終わってたらしい」
「…………?」
リントルーデの腕の中で、目を伏せたラルフが訥々と語る。
「第二王子はまともに体が残ってなかったって。アルスさんは、エトが着いた時にはもう、手遅れだったって」
「ライラック——」
「こんな気持ち、だったのかな………………」
「やめろライラック! それ以上自分を……!」
——
つい、身勝手で独善的な要求を口にしかける。それが、どれほど残酷かを頭ではわかっていたはずなのに。
リントルーデが己の発言を後悔する、その直前。
「————それでも、エトは立ち上がったんだよな」
……パチパチと、ラルフの目元で火花が散った。
「兄貴、親父のところに行く。着いてきてくれ」
「…………っ!」
顔を上げた時、ラルフの表情は戦士のそれに変わっていた。
◆◆◆
玉座の間は、壮絶な静けさに包まれていた。
それは悲嘆や哀悼によるものではなく、たった一人の王子の、あまりにも度が過ぎた発言から来るものだった。
防衛大臣を務める小太りの男が、『そんなまさか』と聞き返す。
「…………ライラック王子? 今、なんと?」
「——全軍を」
源老ノルドレイの前で片膝をつくライラック・ルイーゼ・フォン・アトランティスは、政治に明るい者であれば誰もが泡を吹いて倒れるような爆弾発言をかました。
「アトランティスが保有する全軍の指揮権を俺にお貸しください」
「——できるわけないでしょうっ、そんなことがっっ!」
極度の緊張に脂汗を吹き出す顔面を真っ赤に染めた防衛大臣が怒鳴り散らす。
怒号に続き、その場にいる者たちも騒めき立つ。列席するリントルーデ以外の〈異界侵蝕〉たちの間にも驚きが走っていた。
「世界が滅ぶかもしれないこんな時に、なぜそんな要求をなされるのですかっ⁉︎」
「《
怒声も、周囲の喧騒も意に介さないまま首を垂れるラルフは明朗に話す。
「〈黎明記〉エトラヴァルトの仇を討つために」
「——ふざけないでいただきたいっ! そんな子供じみた要求を、王子である貴方がよくできたものですね⁉︎」
防衛大臣の怒りは尤もだ。
「世界を、民を! 危険に晒してまで! 貴方は個人の復讐に走るのですか⁉︎ それが、アトランティスの王子の正しい姿なのですか⁉︎」
「王子としては多分……いや、絶対に正しくない。それはわかってる」
ラルフは自分の行動が我儘であることを認めた。
「けど、これだけは譲れない。譲っちゃいけないことなんだ」
「だからっ、そんな子供じみた論理を——ッ!」
「——待て、ルイネラ」
防衛大臣の発言を遮ったのは、他でもない源老ノルドレイだった。
「源老閣下! しかし——」
「其方の民を想う気概はわかっている。ここは儂に任せよ」
「…………仰せのままに」
防衛大臣ルイネラは渋々だったが源老の言葉に従い一歩下がる。忠臣を見送ったノルドレイの視線は、真っ直ぐに。息子、ライラックに向いた。
真っ直ぐな視線を、息子もまた真摯に見つめ返した。
「申してみよ、ライラック。お前の心の内を、嘘偽りなく」
「…………エトは、使命感の強いやつだ。強すぎるやつだった」
ラルフは、『海淵世界』を支える忠臣たちの前で友への想いを口にする。
「正義感じゃない。エトは、自分の使命と信念に従って、たったひとつの願いのために突き進めるやつだった」
その眩しさに焦がれて、その背中を追いかけた。
「俺は……俺たちは、そんなアイツの使命感に救われた。その恩を、俺たちは返せていない」
握った拳が震える。
沸々と、腹の奥が燃えるように熱い。
「十分な褒賞を与えたら終わりなのか? 世界の庇護を約束したら終わりなのか?」
それは怒りではなく——使命感。
「——違うっ! その程度で終わっていいはずがねえ!」
ラルフは叫ぶ。それが道理の通らない子供じみた理屈だとわかった上で。
「俺は、俺たちはまだ! アイツの想いに、献身に! まだなにも応えちゃいない! まだなにひとつ返せちゃいない!」
目尻からバチバチと蒼い火花を散らす。感情のままに、内に秘めた想いの全てを吐き出す。
「アイツは使命だって言って、普通じゃ潰れちまうくらいのモノを背負ってきた。『リステルのためだ』、『自分のエゴだ』って言って、ずっとずっと多くを背負い続けてきた! エトがなんと言おうと、アイツはいくつもの世界を救ってきた英雄なんだよ!」
立ち上がり、胸を叩く。
「俺たちは誰だ⁉︎ 星の頂点、七強世界に名を連ねる『海淵世界』アトランティスの、母なる海の申し子たちだろ⁉︎」
かつて得た答え。
自分は冒険者ラルフである以前に、アトランティスの第七王子。源老ノルドレイの息子、ライラックであると。
それは事実であると同時に、彼の中に根付いた確かな誇り。
「なら今こそ背負うべきだ! たった一人の英雄が背負い続けてきた想いを! アイツに今日を守られた、アイツが繋いだ命の火を宿す俺たちが!」
流れ出る涙すら蒸発する海色の炎を弾けさせ、ラルフは他でもないエトラヴァルトの友人として希う。
「《
肩を大きく上下させる、息を切らしたラルフの呼吸音だけが響く。
第七王子ライラックの魂の叫びに誰もが黙し、沙汰を待つ。
「…………ライラック。お前に全軍を預けることはできない」
ノルドレイの回答は、要請の棄却。
「お前の想いも、意志も、よくわかった。だがその上で、アトランティスの源老として、儂はお前に軍を任せることはできない」
「……………………そう、か」
それは、やはり当然の判断だった。
そうだと理屈ではわかっていても、ラルフは落胆を隠しきれなかった。
「だが……閉じこもり守りに徹することが、我らの戦いか問うたな。それは——断じて否だ。ベラム、通信回線を開けよ」
「接続はどちらに?」
側に控える第一王子ベラムに、源老は告げる。
「アトランティス全域だ」
◆◆◆
『源老、ノルドレイ・ワグマ・フォン・アトランティスである』
その一言に、民は皆一斉にその場で首を垂れた。
『母なる海の子らよ、今しばし、儂の声に耳を傾けよ』
次の一言で、慌ただしく迎撃準備を進めていた軍人たちも手を止めて放送に聴き入った。
『今、アトランティスは未曾有の危機に立たされておる。すでに耳にした者も多いだろう、歴史に語られる
だからこそ市民は逃げ、軍人は武器を取った。
『だが——先んじて、ひとつの悲劇が起きた。二年前、『悠久世界』エヴァーグリーンの〈勇者〉アハトを退け、我らの海を守った一人の英雄……〈黎明記〉エトラヴァルトが、この災禍に抗った果てに命を落としたのだ』
——さざめきが巻き起こる。
〈勇者〉を退けたもっとも新しき英雄、銀の騎士、その姿を知る民は多い。
ただ功績を上げただけでなく、第七王子ライラックや第二王子リントルーデなど、源流血族との交友も彼の認知向上に一役買っていた。
加えて、『弱小世界』出身というバックボーンが彼を極めて特異な存在として突出させ、民の多くから勇気ある騎士として賞賛を浴びていたという事実もある。
そんな彼の訃報は、少なくない衝撃をアトランティスに与えた。
凱旋で彼の姿を見た者は口元を覆いショックに打ち震えた。
彼の勇姿を戦場で見た者は、帽子を目深に被り歪む表情を覆い隠した。
『しかし、
——ひと呼吸。
源老が大きく息を吸った音が放送に乗った。
『ここで問いたい。海の子らよ、我らはかの者に受けた大恩を返すことができただろうか?』
それは、ラルフが叫んだ問いかけ。
今度は源老が、アトランティスの民に問いかける。
『かの者の凱旋を見た者に問う。この惨劇を前に、彼は穏やかな眠りにつくことができるだろうか?』
その問いに、一人の少年が顔を上げた。
思い出すのは、照れ笑いを浮かべながらも、歓声に応えて手を振る青年の姿。
期待の声に拳を握り、想いのひとつひとつを受け取る騎士の顔。
『かの者と共に戦場で命を懸けた者に問う。その背を見た我らが為すべきは、真に防衛なのだろうか?』
その問いに、一人の衛士が槍を握った。
思い出すのは、一振りの剣と共に戦場を駆ける勇ましい姿。全身を泥と血に染めながらも、足掻き、吼え、絶対的な強者に挑む不屈の背中だった。
◆◆◆
「——その背を見た我らはが為すべきは、真に防衛なのだろうか?」
ノルドレイの声に込められた熱に気づかない者は、玉座の間には一人としていなかった。
大きく息を吸う源老の姿に、誰もが次なる言葉を直感する。あってはならないと理性が恐れ……進めと本能が願った。
「断じて…………………否であるッッ!」
握った拳を肘掛けに叩きつけ、海淵を統べる男が吼えた。
「我らは彼に世界を救われた! この大恩、容易く返せるものであるはずがない!」
リントルーデが今日も生きている。ライラックと、他愛のない会話で笑い合うことができた。今日もまた——美しい海と共に在れる。
無論、それがエトラヴァルトのみの功績であるなどと、ノルドレイは微塵も考えない。あの戦いに立った全ての者の意志の結晶が今日である。
——しかし、彼が一際強く今日を照らしていることもまた疑いようのない事実だと、ノルドレイは知っている。
「ならば、我らが為すべきはただひとつ——かの英雄の願いを真に叶えることにある!」
「親父……っ」
「襲い来る敵を悉く討ち滅ぼし、我らの手でこの悲劇に幕を下ろす! そうでなくては、我らは生涯、かの英雄に受けた恩を返すことは叶わぬのだから!」
その言葉に、源老の覚悟に。
側近たちもまた、防衛大臣ルイネラすらも意思を一つにした。
「かの英雄が願った穏やかな日々を、他ならぬ我らの手で、その魂が安らかに眠れる平穏と安寧を勝ち取るのだ!」
瞬間、人々の雄叫びが『海淵世界』を震撼させた。
◆◆◆
その熱は、各地で。
狼人が誓う。
「……見てろよ、グロンゾ。俺は、最期まで戦い抜くからさ」
魔法使いと剣士が決心する。
「——レゾナ全軍に告げますわ! 目標、第二大陸
「英雄が遺した火を、今度は俺たちが繋ぐ番だ!」
「——豊穣の民よ、拙と共に——魂の一切を燃やし尽くすのです。我らの全てを懸けて、彼が望んだ未来を切り拓きます」
◆◆◆
そして、源老が告げる。
「源老の名において、『海淵世界』アトランティスの全てに告げる! 目標アトランティス東部、世界外縁! 我らの敵を討ち倒す——!」