【第一巻発売中】弱小世界の英雄叙事詩(オラトリオ) 作:銀髪卿
——小都市ポーラ。
『リンツ共和国』南東部に広がる平野に築かれた、人口4万2000人の都市。
歳の外観は縦に伸びる長方形。そして対角線の交点からやや上に位置する巨大なドーム状の建物こそ、ポーラのシンボルにして共和国最大の蔵書数を誇る『アインツリベル中央図書館』である。
そんな中央図書館の司書は共和国内でも人気の職業で、年にもよるが採用試験の倍率は天文学的な数字に達することもあるほどだ。
つまり、勤務する司書たちはすべからくエリート中のエリート。
勤務13年目のベテランに名を連ねるイルルもまた、その肩書きを保有していた。がしかし、世の中にはそんな者たちにおいても理解不能な事象というのが山ほど存在するのだと。
今日、司書イルルは身をもって思い知る。
◆◆◆
常識のすり合わせ程度に考えていた訳ではない。
イルルの心持ちは、未知の文化……いや、未知の法則に対する覚悟。12年前に受けた司書登用試験の時とは比較にならない緊張感でアルトの話を聞く用意をしていた。
——しかし、現実はそれを軽々と凌駕する。
「国境が……国がない? 統一国ってこと……でもない⁉︎ 世界が千個……千⁉︎ いやそれ以前に世界って何の話……は⁉︎ 膜の内と外で法則が違う⁉︎ 季節は? 土地の連続性は……そんなものない⁉︎ 隣近所でぐちゃぐちゃ⁉︎⁉︎」
『未知の〜』とか、『新しい〜』とか、そういう知的好奇心を刺激する程度の生温さであればどれほど楽だっただろう。
アルトの口から語られる『常識』はイルルの持つあらゆる知識——それどころか図書館のあらゆる蔵書を総動員しても及ばない——が通用しない破茶滅茶な、しっちゃかめっちゃかな、滅茶苦茶な——そういう単語ですら収めることができない『おふざけ』みたいな話ばかりだった。
「それで、『異界』っていう魔物を生み出す……えーっと、もう一つの世界みたいな? そういう場所があって……あれ、この世界にはないのか?」
「あるわけねぇですよそんな素っ頓狂な場所!」
「そうなのか? 珍しいな」
「いや、珍しいもなにも遠征先の外界にもそんな場所一個もねぇですが」
「え、そうなの?」
中には眉唾物というか、なにかしらの創作物に関する記憶が変な定着をしてしまったように見受けられる『
「概ね今の状況と一致してるのが恐ろしい……」
イルルとしては非常に認めたくない、しかし認めざるを得ない事実。今この異変下においては、自分たちより目の前の記憶喪失男の方が遥かに適応できている……彼の発言の多くが真実であるということ。
「つまり、前々からこういう法則は存在してて、私らは新しく巻き込まれた……あるいは呼ばれた? まあそんな感じの立ち位置って可能性がありやがりますね……」
依然として『リンツ共和国』の首都とは音信不通。同じく異変に巻き込まれた周辺の七つの村落以外の、『リンツ共和国』および他国の痕跡が見つかる気配もない。
問題なのは、この小都市ポーラが
謎の境界が存在するも、それは横断可能。元々あった空間とは切り離されてはいるが、決して孤立したわけではない。
(空間を丸ごと切り取られて、別の場所に運ばれた……どんな魔法を使えばそんな芸当ができるのか検討がつきやがらねぇですけど。なっちまったもんは『そういうもの』として認識しなきゃ始まらない……ああ、頭が痛くてしょうがねぇですね)
それが偶然なのか、第三者の介入による必然か、はたまた人間の尺度では測れない“神”のような存在による気まぐれか。
正解など今のイルルにはわかりっこないのだが、少なくとも、今の状況を『既知』の『常識』と捉えている者がいるというのは重要だ。
(もし仮に推測が当たってやがるなら最低限の自衛手段の確立は必至。兵士たちには上官にそれとなく伝えて緊張感を促すとして、問題は外界調査。打ち切ることは出来ねぇけど、対策を取らなきゃ詰み!)
自分たちよりもこの環境に順応している存在がいると考えるべきだ。幸いにもこれまで訪れた場所は同様に無知と思われる。が、無知を装って油断を誘っている可能性も否定できない。
(どこも食糧事情には厳しいものがありやがるはず。となると、仮に争いが起きた場合は土地確保と口減しを両立するための最適解は……
そうなれば穏便な解決策は存在しないだろうというのがイルルの推察だった。
「なんつうか……穏やかじゃねえ世界でいやがりますね」
「そうか? 異界の脅威がないならそのぶんマシだと思うけど」
「んなトンチキ設定と比較しやがるな」
「嘘は言ってないんだけどな……」
唯一露出している目元を掻くアルトの声音は、確かにイルルから見て嘘をついているようには見えない。が、本人が思っているだけでそれが真実とは限らないとイルルは疑り深く事を俯瞰していた。
「お前は一応記憶喪失じゃねえですか。自分でも気づいてない欠落とか誤解とかあるんじゃねえですか?」
「そう言われるとそんな気はするけど……うーん」
「なにか引っ掛かりやがるんです?」
イルルの疑問に、アルトは居心地悪そうに肩を揺らす。
自分の中に残っているわずかな記憶に肉体が違和を発するのか、青年は自分の胸元に残る、まるで抉られたような壮絶な傷跡に服の上から触れた。
「なんというかさ。俺の怪我の理由が
「…………………………それを言われちゃ、私らなにも言えないんだが」
「いや悪い。不確定な話なんだけども。なんというか、異界の話のときだけ体が……こう、ゾワゾワするんだよ。なんかさ、そこがすごい大切だったような気がして」
「…………」
——体と心には密接な繋がりがある、というのはイルルも聞いたことがある。実際にどの程度繋がりがあるのかはわからない。が、嫌なことがあった時には体が重くなるし、逆に嬉しい時は羽のように軽い。悲しければ涙が出る。
それはつまり、程度の差はあれど肉体は心から受け取る情報に反応を示している証拠になる。
(忘れたんじゃなくて、思い出せないって可能性は……ある)
無意識が発する、思い出せずとも刻まれた記憶に肉体が反応している。そういう可能性は捨てきれないのだ。
ならば、現状に対して多くの認識の一致を持つアルトの、この違和感を。頭ごなしに否定するのは悪手だと、イルルは考えた。
「……まあ、そんなヤバい代物があったらすぐにわかるもんでしょう。ひとまず、詰所には『外の生き物に気を配れ』とだけ言っときやがりますよ」
「ありがとう、イルル」
「感謝なら仕事で返しやがれってんですよ」
「善処する」
◆◆◆
俺の知識は、どうやらイルルたちにとってはかなり重要な位置付けにあるらしい。だから、俺の仕事は情報の整理から確認へ。イルルに呼ばれた時だけ、整理の終わった情報に対して知見を述べる立場に変化した。
——とはいえ、仕事がそれだけなんてことはもちろんなく。イルルに詰め寄られて洗いざらい話した翌日から二週間、俺は“司書見習い”として館内の書架整理を任されていた。
「アルトくん、次は返却本ワゴンをお願い」
「はーい」
「これが終わらなくても、時間が来たら中断してお昼休憩入っていいからね」
「あ、気遣いどうも」
メモを片手に、目を皿のようにして背表紙に視線を這わせる。半月経っても中々慣れないもので、まず正しい並びを覚えるのに一苦労だ。先輩司書たちのようにほぼ暗記する領域にはまだしばらくたどり着けないだろう。
「ビックリされることもだいぶ減ってきたな……」
イルルの紹介こそあったが、最初の一週間は会話の前に『うわっ』とか『きゃっ!』とか、ビクッと肩が震えたりとワンアクション挟まっていた。いや、曲がり角で不意に遭遇した時なんかはいまだに小さな悲鳴を上げられるけども。
見た目が見た目だし、全面的に俺が悪いので申し訳なさでいっぱいである。
「いや、この姿でもできるって無理やり連れてきたイルルが一番悪いんじゃないか?」
〈あー、アルトがイルルの悪口言ってる。告げ口しちゃうぞー?〉
「いたのかネメア。這う音が全然しなかったぞ」
本を棚に戻しながらぼやくと、いつのまに足下に這い寄ってきていた白蛇のネメアがご機嫌そうにテレパシーを飛ばしてきた。
〈音を立てないように動くのが最近のマイブームなんだー〉
「それ、来館者の前では絶対にやるなよ」
〈わかってるよー。それにしても、アルトは全然驚かないねー。他の司書はみんなビックリしてたのに〉
脅かして回ってたのかコイツ……。
もしかして、会う人みんな不意の遭遇に驚くのってコイツが警戒させてるからなのでは?
足下でとぐろを巻くネメアに熱い視線を送ると、ふいっと鎌首が持ち上がった。
〈どうしたのアルト? 鱗がくすぐったいよ?〉
「いや、世の中の理不尽に思いを馳せていただけだから」
〈? よくわかんないけど、人間って時々難しそうな考え事するよねー〉
「蛇はしないのか?」
〈するよー! どうやったらイルルの役に立てるかなーとか、みんなと楽しく過ごせるかなーとか!〉
なんとも優しい平和的思考だ。疑ってかかった過去の自分を思わず反省してしまう。
「そうか。ちなみに、なにかいい考えは浮かんだか?」
〈ふっふっふー。実はあるんだよね、せっかくだからアルトにだけ先に教えちゃうよ! みんなにはまだ内緒だからね!〉
昼休憩の時間まで、俺はネメアの微笑ましい願い事を聞きながら業務に励んだ。