【第一巻発売中】弱小世界の英雄叙事詩(オラトリオ) 作:銀髪卿
——息が苦しい。
深く
もがけばもがくほど、下へ、下へと…………下?
(ここ……どこだ?)
視線の先に光が見える。無数の気泡が俺の体とは逆方向へ流れていく。それを掴もうと手を伸ばして身じろぐと、泡は遠ざかって手の中をすり抜けた。
(綺麗なのに、ぐちゃぐちゃしてる)
いつくもの声が聞こえる気がする。
何人もの、誰かの姿が見えた気がする。
目の前にいる気がするし、遥か遠くにもいるように感じる。背中か、正面か。無数に重なって景色に溶け込む数多の影に呼びかけるけど、返事はない。
上か、下か。自分がどこにいるのかわからない。
——そもそも、自分ってなんだっけ?
服がほつれるように、糸のように漏れ出していく。記憶が、思い出が。自分の、大切だったものたちが。
取り戻そうと手を伸ばして、もがいて。けれど、足掻くほどに糸はどんどんほつれていって、離れていって、俺は深く沈んでいく。
(ダメだ……行かないでくれ!)
大事なものだ。無くしちゃいけない。それだけはわかる。
だから俺は必死に手を伸ばして、もがいて、足掻いて、それでも、届かない。
そのうち、意思や気力も溶け消えて、自分という存在が分解されていく恐怖も無くなって。
どこにいるかもわからないまま、俺はずっとずっと沈んでいく。
意識と呼べるものはごくわずか。か細く頼りなくなった『思い出』の糸を、せめて繋ぎ止めようと抗うちっぽけな意志。
けれども、それもやがて分解されるように薄れて、消えて。
——俺の意識は、完全に溟い海の底に潰えてしまう。
『どーんと安心して! アルトくんのことは、この私が絶対に守ってあげるからさ!』
——姦しくも懐かしい、そんな声が聞こえた鼓膜を揺らした。
◆◆◆
窓から差し込む光に目を覚ます。
図書館の屋根裏の中にある、長年使われずに放置された一画。溜まりに溜まった埃をなんとかはき出してかろうじて人が生存できるようになった場所が、俺の仮住まいである。
屋根裏に窓なんて、一体なんの意味があってつけたのか——イルルが『見栄え重視の設計士の無駄』とバッサリ切り捨てた窓を開き、活気付き始めるポーラの街を見下ろした。
「なんか、変な夢だったな……」
汗を吸って重くなった寝巻きを脱ぎ捨て、乾いたタオルで体を拭く。司書の制服に着替える間も、脳裏によぎるのは夢のこと。
「俺、溺れてたのか?」
記憶を失う前の……忘れてしまう前の出来事なのか。
「けど、それじゃあ火傷はいつ……?」
火事に巻き込まれて、逃げる中で川に飛び込んだのだろうか。いや、そもそもあそこは川なのか?
「海っていう可能性も……いや、そうじゃないか」
あれが記憶を失う過程なのか、それとも、記憶を失う『恐怖』を追体験する夢なのか。どっちでもいいことだ。
「どのみち、記憶を取り戻せばわかること……………」
そこまで口にして、俺は、ふと自分の望みに気づいた。
「俺、取り戻したいと思ってるのか」
◆◆◆
時間というのはあっという間に過ぎるもので、俺がイルルと出会ってから——小都市ポーラが異変に見舞われてから——三ヶ月という時間が過ぎた。
つまり、俺が司書見習いになってから二ヶ月も経ったということになる。
流石に二ヶ月も経つと、最初の方はメモがないとおぼつかなかった書架の整理もスムーズにできるようになった。
任せられる仕事も増えて、館内の見回りや、少しずつだが受付仕事の勉強も始めている。
〈アルトおはよー〉
一階のフロアに降りると、普段より動きが緩慢なネメアと目が合った。
「おはよ。ネメアは今起きたのか?」
〈そうだよー。アルト、今日もお仕事?〉
「だな。残念そうな顔すんなって、明日から2日休みだからまた出かけるか?」
〈うん! 楽しみだなあ、僕の尻尾流剣術のお披露目!〉
最近、子供たちと一緒に剣術にお熱な白蛇は、知らん間に独自の流派を開いていた。それ尻尾振り回すのじゃダメなのか、とは言うまい。
「楽しみにしてるよ。それじゃあな」
〈うん、バイバーイ!〉
最近またひとまわり大きくなった白蛇のご機嫌そうな
◆◆◆
「あれ……」
それは、いつもの書架整理をしている時に生まれたふとした違和感だった。
「なんか……本、増えてないか?」
棚が増えたというわけではない。ただいつもより、視界に入る本の密度が少し——そう、ほんの少し多い気がした。
「表紙で展示してる数も減ってる。というか、減らしてる?」
「あら、アルトくんも気づきました? ここ最近、“幽書”を解禁しているそうなの」
「ユウショ……?」
どうやら気のせいではなかったらしい。いつのまにか隣に立っていた先輩の女性司書の口から出た聞き覚えのない単語に、オウムのように繰り返す。
「正式名称は『危機指定封印書史』よ。普通の蔵書とも、禁書とも違う。
「えっ」
つらつらと語られる割とヤバめなモノの存在に頬が引き攣った。
「そんなもの解禁して……いや、それ以前になんでそんなもの残してるんだ?」
「危ないものだからよ。だからわざと残して、同じ過ちを繰り返さないようにするの。まあ、幽書の中身は私たち司書も知らないから残すだけ無駄じゃない?って私は思ってたけどね」
「なるほど」
言わんとすることはわかるし、言わんとすること
「今になって役に立つかもしれない……だから危険を承知で衆目の目に留まるように公開に踏み切ったってところか」
「そうね。まさか私もこんなことになるとは思いもしなかったわ」
とはいえ、流石に数が多くはないだろうか。
ぱっと見回すだけで密度の変化を感じられる量の本が追加されたということは、過去に一体どれほどの検閲が行われてきたのか……。
「また覚え直しかあ……」
「ふふふ……。これが司書って仕事よアルトくん」
揃って本棚に虚な目を向ける。
本の危険性とかどうでもいい。頼むから余計な仕事を増やさないでくれ……という俺と先輩司書の見解が一致した瞬間だった。
「——ごちゃごちゃ言ってねえで、さっさと仕事しやがれってんですよ」
「……うす」
そして、俺を司書の仕事に引き摺り込んだイルルは今日も今日とて
(これ絶対定時で終わらねえだろ。コイツ加減を知らなさ過ぎだろ)
容赦なく書架整理(ほとんど幽書)を荷台三つ分、パンパンに積んできやがった鬼畜ロリっ子に心の中で恨み節を並べる。
イルルはアレだ。優秀すぎるがゆえに周りにもできて当然だよね?とえげつない仕事量を振り分けるタイプだ。
俺が来るまで彼女の下に人員がいなかったのは……お察しというやつである。
今なら初日に先輩たちに向けられた憐れむような目線の意味がわかる。
「あれって記憶喪失に対するものじゃなかったんだな」
憐憫の情を多分に含んだあの視線の数々は、『記憶喪失だなんて大変だね』ではなく『え、イルルの下?それは御愁傷様……』というやつだったのだ
「人使いが荒すぎる……いや最初からわかってたけどさ」
出自不明の記憶喪失者ともなれば、奴にとってはカモも同然だったのだろう。待て、露悪的に言ってはいるけど感謝はしている。だが感謝こそすれどその後の仕打ちが許されるとなるとまた話は別で——
「ダメだ。思考が変になってる」
幽書の中身は本当にさまざまあるらしく、該当する本棚を見つけるだけでも一苦労だ。
一億冊に迫る蔵書の全て、歴代の司書たちが一冊一冊手作業でラベリングして並べてきた。そこに突然、凄まじい数の本を追加するというのだから、そりゃあ激務になるというもの。
最近は誰もが死んだような目で勤務しているのを見るに、黙々と、平然と作業に没頭するイルルがいかに優秀かつ壊れているのかがよくわかる。
「まあ、平然って意味ならもう一人いるか……」
「笑顔が胡散臭いんだよなあ……ん?」
ふと視界の端に受付が目に入る。街の外に気軽に出れられなくなったことで、最近はより一層来館者が増えて忙しくなったカウンター。
「ありゃ」
その横をふらりと、新緑色の髪の少女が素通りしてしまった。
中央図書館は禁書や幽書が納められていることからわかるように、国にとって非常に重要な場所だ。だから常に入館者は厳しく管理されている。
たとえ年頃の少女一人とて、見逃すことはできないのだ。
目を輝かせる少女に、俺は申し訳なく思いいつも声をかけた。
「——すまん、そこの君」
「うん、なんだい……ってうわあ!?」
後ろから肩を叩くと、振り返った少女がガチの悲鳴を上げた。
「楽しんでるところ悪い、入館手続きは済んだか?」
「ふ、不審者!?」
「違う違う! ああいや、この見た目じゃ確かにそうなんだが!」
顔をすっぽり布で覆った制服姿の人間……うーん紛れもなく不審者だ。目の前で顔を青くする少女の反応も当然だ。……それはそれとして傷つくけども。
「驚かせてすまない。俺はえ……と、あれだ、司書だ。名前はアルト」
「役職を言い淀むのは部外者の私からしても怪しさしかないのだが……」
「そういうわけじゃないんだが……いや、そう聞こえるよな」
定期的に物申したくなるが、それはそれとして今の俺はアルトだ。名札と違う名前を言ったらそれこそ混乱させてしまうという話もあるし……。やっぱりイルルって碌でもないな?
心の中で元凶への評価を下げながら、俺はなるべく優しい声音を心がけて怯える少女に説明する。
「まあ、とりあえずだ。入館には手続きが必要だから、ちょっと受付まで来てくれ」
「…………………………(全力で首を横に振る)」
「ダメだ、完全に信用失ってる……」
後ろから声をかけたのがダメだったのか、それとも名前を言い淀んだことか、顔を隠していることか……全部な気がするな。
さて、なるべく穏便に済ませたいところだ。見たところ少女はただ図書館に不慣れなだけのようだし、ことを荒立てて連行……なんて強行は避けたいのだが。
「——オイ、どこで油を売ってやがるんですか」
「痛ぁっ!?」
俺がそうして対応を悩んでいると、聞き慣れた声と鋭いチョップが頭上から降ってきた。
いい角度に入って悶絶する俺の横に、スタッと華麗にイルルが着地した。
「今、2階から落ちてきてなかったかい……?」
イルルは少女の疑問に一切答えず、ギュインと効果音がつきそうな勢いで俺を振り向いてガンを飛ばす。
「頼んだ仕事放り出してナンパとはいい度胸してやがりますね」
「ちがっ、違うってイルル! そこの子が受付すり抜けちゃってんだよ!」
「……ああ、そういうことでいやがりましたか。で? だったらなんで立ち尽くしてやがったんです?」
「不審者扱いされて信用失ったんだよ」
「その風貌から考えられる妥当な末路じゃねえですか。通報されなかっただけマシだと考えやがれください」
お前のせいだよな???
お前がこの風貌で働けって言ったんだよな???
凄まじい形相で睨みつけるも、残念ながら顔面簀巻き状態では伝わるはずもなく。
俺が理不尽に呻いている間に、イルルは硬直する少女に意識を向けていた。
「で、そこの家出少女。名前は?」
「私? クラインだけど……って、え!? 私家出したなんて言ったかい!?」
「図書館司書はなんでもお見通し」
「いや限度があるだあいたたたたたたたた!?」
どうせ当てずっぽうだろ、というニュアンスを汲み取りやがったイルルに連続で脛を蹴られた。こいつ、魔力で強化までしてやがる……!
「ったく余計な仕事を増やしやがって……。ああ、いやがりました。おーいグレイ、ちょっとこっち来やがれくださーい!」
俺たちのコントみたいな会話にオーロラ色の目をぱちくりとさせるクラインを他所に、イルルは偶然近くを通りかかったグレイを呼び寄せる。
「——僕を呼んだ?」
相変わらず胡散臭い表情だが、グレイは嫌な顔ひとつせずに呼びかけに応えた。
「呼びやがりました。アルトが女引っ掛けたから後処理しやがれください」
「言い方ァ! 入館手続き済んでないんだよこの子!」
「ああ、そういうこと。お嬢さん、受付はこっちだ」
「あ、はい」
なぜだろう。グレイと俺、胡散臭い表情と覆面とでは怪しさはそう変わらないはずなのに……なんだこの警戒心の差は。
俺が不服そうな視線を向けていると、ピタリとグレイの足が止まった。
「ああ、それと——」
振り向いた彼の表情に、俺とイルルは揃って身震いした。
「二人とも、図書館ではお静かに」
「「はい、すみませんでした」」
ようやくここまで。
八章幕間、家出少女の出会いの時系列はここでございます。