暗く、何もない空間を落ちていく。いや、引っ張られているという表現が正しいのだろうか。
最近やたらと見る夢。沈むような、と思えば溶けていくような、奇妙な感覚。
職場の同僚曰く、夢占い的にはそのタイプの夢は「精神的に不安定な状態」を示すらしい。
嘘やろ…確かに職場と家を往復して書類とにらめっこする生活を続けて数年経つけど、没頭できる趣味はいくらか見つけているし、人間関係も良好だ。
最近は早起きしてホットサンドと珈琲を自分で作るという小さな趣味も見つけた。元気ピンピンなんだけどなぁ。
…まぁいいか。この変な夢も、いつかは時間が経ったら覚めるでしょ。
■
「…先生?●●先生?」
うぅーん…
高めの、女性の声が聞こえる。
おかしい、僕に同棲相手なんていなかったはずだ。だとしたら、この声の主は不審者一択である。
警察呼ばなきゃ…
いつも寝床の近くで充電している携帯電話をとるために、もぞもぞと腕を動かそうとしたが…ない。腕がないのだ。
「えぇっ!なんで!?僕の右手は!?安くないよ!利手がなくなるのは!」
思わず眼を開くが、そこに遅れてやってくる浮遊感。真っ白な空間に、体すら無く、漂っている。
まるで透明人間にでもなった気分だ。慌てて辺りを見渡すが、視界の中に確認出来たのは、地面に着くほど伸びきった青髪の女性だけだった。
「そう動揺しないで下さい。貴方は私の力で、外の世界から魂だけをここへ呼び寄せている状態です。どうしてもお願いしたいことがあって、お呼び出し致しました」
耳になじみのある声で、そう静かに呟く。
そうだ、おちつけ・・・僕はオタク歴が長い故、こういう展開は何度かシュミレーションしたことがある。大方、貴方はトラックに轢かれてーとかそういった流れだろう。
「いえ、●●先生は亡くなってなどいません。望むのならば、すぐにでも目覚めることが出来ます」
あっ、生きてるんだ。こーゆーのって、問答無用で転生させられちゃうものだと思ってた。結構穏健派なんだねこの女神っぽい人。
拍子抜けして冷静になってきた僕は、先ほどから語りかけてくる女神様的な人に目をやる。
月夜をそのまま落とし込んだような紺色のドレスを纏い、非常にスタイルの良い女性。よっぽど寒いのか、羽織っている黒のロングコートからは手を離さない。
どこか諦観を含んだ雰囲気を漂わせており、今にも消えて無くなってしまいそう。
そして、普通の女性と大きく異なる点と言えば、頭の上に天使の輪っかのようなものが浮いていることだ。
一般人がみたら光輪を拵えた天使か聖人のお出迎えだと考えることだろう。
だが、リリース当初から細々と続けている自分には分かる。あれは、「ブルーアーカイブ」という作品の「生徒」に現れるヘイローである。
ゲームの詳しい説明は省略するが、その高いストーリー性や魅力的なキャラクターで、度々界隈を賑わせていた。かく言う僕も、一人のオタクとして何度も狂わされた経験を持っている。
しかし、目の前の彼女のヘイローは作中で見たことがない。いや、よく似ているものは知っている。それはむしろ一番好きな生徒のものである。だが、その記憶のものより鋭利で黒く、少し傷ついていた。
正直なところ、この時点で僕は目の前の人物にある程度の検討はついていた。けれど、信じたくない。おそらく彼女は、「反転」してしまっているからだ。
作中で唯一反転した彼女に雰囲気が似ているし、あの欠けてしまったヘイローに説明がつかない。
そしてそれを認めると、決して離そうとしない、見覚えのあるロングコートの意味を確定させてしまう。
…だが、聞かなければ。
魂だけの今の僕に口なんてないみたいだけど、生きてきたどんな瞬間より、口を開くのに時間がかかった気がした。
「えっと、もしかしてアコ?」
ゲヘナ学園風紀委員会の行政官、天雨アコ。
ブルアカには数多くの生徒達がいるが、彼女は僕が最も好きな生徒、つまりは最推しである。
どれぐらい好きかというと、実装されたその日からガチャを引き、溜めていた贈り物を全て彼女に捧げた程である。
世の中にはお姫様をハンドクリームでベチャベチャにした先生も多いらしいが、僕はサプリメント漬けにした。こう言うとなんかえっちだなぁ…
とにかく、僕の彼女への愛はそれぐらい本物だ。多少姿形やヘイローが変わろうとも、この眼を欺けるわけがない。
「ッ、よ、よく分かりましたね。そうです、風紀…いえ、ただの天雨アコです」
一目で動揺したと分かる表情で彼女はそう言いながら、コートの端を強く握った。そのコートの内側をよく見ると、擦り切れた風紀委員のワッペンが、いくつもの安全ピンで留められていた。
……いや、辛い。こんな世界線があったかも知れないことは、公式がお出ししたPVで分かってはいたんだけど。
ふと見ると、先ほどまでは我慢していただけなのか、彼女の目には、涙が込み上げているような悲しみが宿っている。眉間には深いしわが寄り、唇は微かに震えている。
やっぱり、聞くの止めといた方がいいかな。今のアコには少しばかり酷なことかも知れない。
だが、僕の思考を読んだかのように、涙声になりながら話し始める。
「大丈夫です。涙なら、枯れ果てる度流しました。それに、この空間を維持している「生と死を司る」なんて力にも限界があるようですから。全てお話ししますね」
「…分かった、ありがとう。でも無理はしないでね」
■
…私達のキヴォトスは崩壊しました。
全ての始まりは、エデン条約です。歪んだ形で定まってしまった条約により、ゲヘナとトリニティを斃さんとする幽鬼が現れました。
――うん
委員長は条約の奪取を企てた集団と闘いましたが、途中で心が折れてしまいそのまま腹部に銃弾を…
――そっか。
訃報を聞いたとき、私は酷く動揺しましたし、テロの首謀者たちを心のそこから憎みました。ですが、貴方の選択をここから見ていると、真に彼女を追い詰めていたのは私達だったように思います。
――…?
私は委員長が欲しかった言葉を、終ぞ見つけることが出来なかった。本当は普通の少女だった彼女に「完璧」を押しつけ、その本質から目を背けた。彼女の参謀だと豪語したくせに、心の内すら見抜けなかった。
自らの苦い経験を辿りつつも、彼女は悔しさに耐えながら、涙を抑えようと必死に頑張っていた。
しかし、その努力もむなしく、涙は堰を切ったように溢れ出た。
彼女の目は悔しさで血走り、激しい感情が顔を歪ませていた。唇は固く噛みしめられ、頭をかきむしりながら息が荒くなっていく。その涙は、悔しさや無念さを象徴していた。
…心が痛い。この痛みと、彼女の痛みが比較しようのないものであることなど分かっている。
次第に僕の目にも涙が溜まっていく。抑えようとしても、伝播する感情の波が押し寄せてくるようで、結局私の目からも涙がこぼれ落ちた。
彼女の悲しみが、私の心を包み込み、僕の感情も彼女と共鳴した。二人の間には、言葉を超えた絆が生まれ、共に涙を流すことで、お互いの存在を支え合っている感覚。
とうとう膝から崩れ落ちた彼女に、精一杯の愛を込めて寄り添う。言葉では表現できないけど、どこよりも深い心の奥で繋がった気がした。
――そう卑下しないで。アコはヒナの為に、最後まで足掻いて、僕の魂をこうして運び込むまでたどり着いた。そこまで思ってくれるアコの事を、ヒナが恨むわけないよ。違う?
…え、ええ。そうですね。少々取り乱しました。委員長が、私にそのようなことを考えるはずがありません。彼女は、優しい方ですから。
しばらく時間が経った後、彼女に向き合いながら告げた。
アコという生徒は、本編でも少々精神的に不安定な言動をとることがあった。
容貌が変わったとは言え、本質は何一つ変わっていないところに若干の愛おしさを感じながらも、僕たちは言葉を続ける。
あれ、そういえば、アコの世界線の「先生」はどうなったんだろう。僕の知ってる「先生」ならば、例えどんな事があっても生徒のために諦めることはないはずだ。
「アコがいたキヴォトスでは先生っていなかったの?」
「いえ、確かに連邦捜査部と先生は存在していました。私も一度お目にかかっております。ですが、つねに一歩引いた場所で見守る理想の大人、といった方でしたね。間違っても、生徒の足を舐めるような人ではありませんでした」
「あ、あはは…」
いや、これは仕方ないと思う。仮にどんな生徒が推しであっても、イオリの足は舐める。それが「先生」というものだ。
「それで、その先生はどうしたの?」
「条約の調印式にて心臓を貫かれた、と伺いました。委員長はその光景を目の当たりにして…」
「…そっか」
頑丈な作中の登場人物とは異なり、キヴォトス外の人間である「先生」は弾丸一発で致命傷になりうる。それが心臓を貫こうなんて、それは即死して当然だ。
僕が知っている限りでは、撃たれた箇所は腹部だったはずだ。
しかし、
いくら高潔な精神をもつ先生とは言え、死んでしまえば誰も救えない。
エデン条約が破綻したまま進み、そして頼みの綱の先生すらいない状況。そんな物語が行き着く先なんて、
作中でプレイヤーが唯一観測できた終着点でさえ、存在が歪曲させられていたとは言え、「先生」は存在していた。
方法は少々強引だったが、その先生が文字通り命を懸けて導いたからこそ反転してしまった
だが、目の前のこの子は、そんな頼れる大人すらいなかった。
推測でしかないが、自らも理解できていないまま「神秘」が「恐怖」に反転し、モチーフとなった神や悪魔の力を引き出させられたのではないだろうか。
いや、マジで絶対に許さんぞ無名の司祭。
孤独な少女の弱みに漬け込むなんて、人として恥ずかしくないんか?なんかちょっとネタになったからっていい気になってんじゃないぞ。
「アコ、顔を上げて。アコのお願い、なんでも聞くよ」
「…だめですよ。内容すら聞かずなんでも、だなんて」
「ううん、大丈夫。なんでもする。少なくとも大人なら、今の君に何もしないってことはあり得ない」
まだほんのり紅い目元を擦りながらゆっくりと顔を上げる。僕の答えに少しだけほっとしたような表情を浮かべながら、確りとした口調でその願いを伝えた。
「……委員長を、助けて欲しいのです。私には出来ませんでしたが、あの日、あの場所で、あの選択をした貴方には出来るはずです」
この子はさっき、「生と死を司る」力とかなんとか言っていた。アコがゲヘナ所属ってことを考えると、元ネタ的に何かそういう悪魔の力なのだろう。僕はあまり宗教チックな知識は持っていないから分からん。それに色彩は元々外の世界から飛来するものらしいし、これらの力を使うことでキヴォトス外の僕の魂を、その内部へと送るつもりなのだろう。
だが……
「聞いてほしいんだけど、僕はあのとき、ただ選択をしただけだよ。それでも大丈夫?」
僕は、自分が作中の「先生」ほど立派な大人であると明言することは出来ない。ただ選択肢に出てきた言葉を選んだだけだ。
僕だけで全ての騒動を終わらせ、ハッピーエンドまでたどり着けるとは到底思えない。
「ええ、存じております。ここから貴方達の物語を観測していましたから。キヴォトスが箱庭として認識されていたことも。ですので、ついでの様にお伝えして申し訳ないのですが、先生のこともお願いします」
「「箱」や「カード」といったオーパーツ、その行使が可能な「先生」を、最低でも条約の締結までお守り下さい。…それに委員長は、彼に想いを寄せていたようですからね」
「うん、了解」
なるほど。僕の役割は「先生」ではないんだ。まぁそれもそうか。そも、僕は物語の主人公をはれるような性格でもないしな。高校時代も大人になってからも、書類と向き合って誰かをサポートする立場に属することが多かった。
それに、誰かを教え導くことなんてやった試しがない。せいぜい寄り添って、頷いて、共感することだけ。
あれ、でも今の僕って魂だけなんだよね?転生してヒナや先生を助けるにしても、どうすればいいの?その辺のオートマタにでも憑依する?…絶対怪しまれるでしょ。
そんなくだらないことを考えていると、目の前のアコは静かな表情で立ち上がった。
どこからか吹いてきた風のせいか、片目を隠していた髪がなびき、穏やかな表情で覆われた彼女の顔があらわになった。
「そうですね、確かに魂には器が必要です。……あるじゃないですか。目の前に」
「
清々しささえ覚えるような、晴れやかな表情で言い放つ彼女とは対照的に、僕の心の中は酷くざわめき始めた。
全部あげるって、そんな…他に方法はないのだろうか。アコの存在を犠牲にしてしまうぐらいなら、僕はその辺のオートマタでもゲマトリアでも何にでもなるのに。
「反転した私の力は、「死」をもたらすことは簡単ですが、外から「生」を呼び込むには私の精神をまるごと消費しなければいけないようです…って、そんな顔しないでください」
「私はただ貴方を見ていただけですが、命を懸けてもいいほど貴方のことを好ましく思っていますし、委員長のことも任せられると確信しています」
な、なんでそんなに好感度高いんだろう…確かに僕はアコが最推しで絆も上限近くまで上げてたけど、他の生徒ほどデレてくれなかった気がする。
「なんですか、こんなに私が信用しているっていうのに。…じゃあ賭けますか!?勝った方が相手に首輪をつけて貰いましょう!私は迷い無く貴方が成功する方に賭けますが!?」
(ボロボロの首輪を取り出し興奮した様子のアコをなだめるのに、少々時間がかかった…)
■
それからしばらく、ヒナの好きなところを語り合ったり外の世界について説明したりして、とりとめも無い会話をしながら過ごした。
しかし、ふとした瞬間から電車に揺られているときのような振動と、微かな耳鳴りを覚えた。
やがてその異変は大きくなり、今僕たちがいる空間ごと揺れている錯覚に陥る。
「いえ、錯覚ではないですよ。……そろそろ時間みたいですね」
そう言って彼女は僕の手を取り、優しく握った。その手のぬくもりが、僕にとって今まで経験した中で最も心地よいものだった。
…待って。今更だけど、心の声を読めるのか?まずい……
「えぇ、読めますよ。ここでは私と貴方の存在が混じりつつありますもの。…●●先生ったら、さっきはあんなに格好良かったのに、首輪の話をしたときから邪なことばかり考えて」
うぅ…だって仕方ないじゃない。あんな
ただ、お話していたときから、彼女の表情が柔らかくなってきた気がする。諦観を帯びた人妻みたいな雰囲気も素敵だけど、やっぱり女の子は笑顔が似合うよね。
「褒めていただけるのは嬉しいですが、そろそろお別れです」
そんな言葉が残念そうな表情の彼女から紡がれるたびに、その切なさが僕の心を締め付けた。
僕も微笑んで、彼女に向かって綺麗な瞳で見つめた。
「僕もなんとなく分かる。でも、これが最後じゃないって信じてるよ」
彼女は僕の言葉に希望を見出そうとしたが、その希望は涙の中に隠れてしまった。
そして彼女は僕から離れ、微笑みながら手を振った。
「最後に、一つ。私は貴方の天雨アコではありませんが、あの子はあんな態度をとっておきながらも、貴方の事を好いていたと思いますよ。…私が、少々妬ましく思うほどに」
崩れゆく視界の中で最後に聞けた言葉はそれだった。彼女にしては珍しい、直接的な言葉。
だが、それはただの少女としての本音であり、最後にそれが聞けて嬉しくもあった。
「君は、私が知っているアコじゃないのかも知れないし、きっと苦しいことも沢山経験してきたんだと思う。でも、短い間だったけど、最後に君とお話しできて、思い出が出来て嬉しかったよ」
“本当によく頑張ったね。ここからは僕に任せて”
各所の神々や悪魔をモチーフにしている節があるので、全ての生徒は「反転」して元ネタの性質が無理矢理引き出される可能性があるものだと妄想しています。