異世界緋想天 ~天子と衣玖の異世界旅行紀~ 作:火也(かや)
爽やかな風が吹いていた。丁度良い塩梅の湿気を含んだ風が、白く透き通った素肌を心地よく撫で、緑に彩られた植物たちが一斉に左右に揺れてダンスパーティを開催していた。
頭上の若葉は枝葉ともに葉を擦らせて楽を奏で、それに乗せられた名もなき雑草たちが周りに合わせて踊り出す。葉擦れのコーラスを聞きつけた小鳥が一羽、さえずりのヴォーカルを木の幹の上の舞台で歌う。
自然が奏でる、ささやかなコンサートだ。
そんな小さなコンサートの席に、たった一人の観客が座る。
「……素晴らしい演奏会。精霊たちも喜んでるわ」
瞳を閉じ、口元を緩めているのはフィオナだった。観客席とは名ばかりの滑らかな岩を座席代わりに、小さな小さな、しかしどこでも行われているコンサートに耳を傾けていた。
フィオナの周りには、赤緑青土色…色彩豊かな小さな蛍火のような精霊たちが彼女を取り囲むようにして浮かんでいた。
数はおおよそ二十匹前後。エルフの里領域は精霊が集いやすい空間となっているが、一点にこれほどまとまって精霊たちが屯することはごくごく稀な現象である。
精霊が集まりやすい理由に、一つはその場所の清浄さや静謐さが挙げられる。そしてもう一つは、精霊が好む魔力や雰囲気を纏っていることにある。前者は空間的な要素、後者は個人的な要素である。
重要なのは空間的要素の方である。魔力が豊富な土地であることは、精霊が魔力を核として存在する生命体であることからも大前提として含まれる。清浄さと静謐さ―――要はどれだけ穢れが少ない土地であるか、が問題なのだ。つまり、どれだけ人の手が加わっていないか、である。
人間が居住する場所はおおよそ清浄さと静謐さからかけ離れたものになる。それは必然的なものであり、人間に限らずそれはエルフにも言えることだ。エルフの場合、それをなるべく低く抑えてあるだけである。
フィオナはよっ、と岩から飛び降りる。それに合わせて精霊たちもそれぞれ複雑な軌道を描いて動き出した。
現在地は里から少し離れた森の中。少し奥に行くと上から流れ落ちる落差七メートルほどの滝と、深い滝壺が見える。その周りには、大小色彩様々な精霊たちの群集。
群青色に染まった水を両手で掬い、ぱしゃっと顔にかけた。
「んーーー冷たい! ―――それっ!」
もう一度両手に水を溜めたフィオナは、今度はそれを自分にかけるのではなく目の前で浮かぶ精霊に向けてかけた。驚いた様子の精霊たちはそれを慌てて回避。回避しきれなかった一部の精霊は、水たまりに落ちた蝶のようにバタバタ暴れ出す。
「あははは! ちょ、ちょっ! 冷たいって!」
魔力エネルギーで構成される精霊だが、ちゃんと実体はある。じたばたする精霊の動きで水が四方に撥ねてその一部がフィオナにふりかかっていた。
難を逃れた精霊はぷんすかと怒りを露わにしながらつんつんとフィオナに体当たりを敢行している。精霊の体重はほとんどないためぶつかっても蠅に当たったくらいの感覚しかない。しかしそれが何十体も来ればたまったものではない。
「ごめんごめん、もうしないから! あはははっ!」
つんつんしてくる精霊から頭を抱えながら逃げ回るフィオナの顔は、笑っていた。ただひたすら純粋に、まるで無垢な子供のように。
精霊も怒りながらも、どこか楽しげである。悪戯を楽しみながら笑いあう子供同士の絵面が、水飛沫を上げて展開されていた。
フィオナが精霊に好かれるのは、このように純粋な心を持っているからだ。ここまで楽しげに精霊と戯れることができるのは、エルフでもフィオナ以外においていない。
魔力エネルギーで構成されている、単純な構成である精霊は、純粋な心に引かれやすい。フィオナのもとに多くの精霊が集まるのは、道理と言えた。
精霊たちと遊ぶこと。ここ一週間のフィオナの日課だった。
◇
「あーーー……勉強おーわりー…」
午前中は精霊たちと戯れていられるが、午後はそうはいかない。自由人なフィオナと言えど、一日中遊ぶだけでは流石に族長の娘としての沽券に関わる。
午後の時間の使い道は多岐にわたる。表に出歩いて里人と交流を深めたり、子供の遊び相手をしたり、または家で両親から勉強を教わったりしている。
里人と会話したり、子供たちと一緒になって遊んだりするのはよいのだが、殊に勉強―――族長の娘としての恥ずかしくない程度の教養と題しての学問は、フィオナにとって苦痛の他になかった。
「ペンよりもボール握ってた方がよっぽど有意義だってーのに……そりゃあ勉強できた方がいいかもしれないけどさ」
自室のベッドに飛び込みながらフィオナはそう呟いた。枕に顔を埋めながら、ぐるりと寝返りを打つ。
「……やっぱ外で動く方が、私は好きだなあ」
フィオナは根っからの体育会系であった。家でじっとしているよりも外に出てどこかに出かける方が性に合っている冒険家気質である。
故に、本を読みながら机上の政治運営論を学ぶよりも、市井の生の声を傾けるやり方がフィオナは好きだった。当然そういう学問的手法もあろうと両親は咎めはしていないが、それでも重用すべきは理論であると一定時間の座学は設けられている。
しかし座学嫌いのフィオナは、時間になっても家に戻らないことが時折あった。所謂サボりである。
時刻は午後五時。夕闇が広がり、部屋は少し薄暗くなっている。
しばし顔を埋めていたフィオナは跳ねるようにベッドから起き上がり、そのままベッドに腰かけて口ずさむように唱えた。
「ライト」
そう唱えると、フィオナの指先から蝋燭の火のような灯りが小さく現れる。水滴一粒ほどのほんの僅かな魔力を使用して灯した魔法の光を、フィオナは部屋の中央に垂れ下がる燭台に放った。
ぼわっ。
燭台に火が灯ると、部屋は昼間のような明るさを取り戻した。風で消えることのない魔法の光は、蝋燭の火というよりは電灯の明かりである。もっとも、通りに設置されている照明灯とは仕組みは少し異なるが。
「魔法だって、精霊魔法と生活魔法さえできればそれで事欠かないわよね」
そう言うフィオナは、今度は椅子に座って頬杖をつく。
面倒くさそうに呟くフィオナだが、実はフィオナの魔法の腕はかなりのものがある。衛兵見習いとして警備に当たるアルバートよりも魔法の使い方は卓越している上に、使用できる魔法の類も専門の魔法使いと遜色ないレベルのものを使用することができる。
それは勉強して会得したものではなく、むしろそれほど努力せずに使用できるものであった。所謂天才肌である。
天子とアルバートに介入した際の魔法も、それなりの熟練度が必要な技である。少なくとも簡単に習得可能なものではない。
さらにもう一つ、フィオナは学問の成績も悪くない。飲み込みが早いフィオナは本に書かれていることを瞬時に理解してしまうほどである。
だからこそ、勉強は苦痛であった。本に記されている情報・問題や口述される理論が即座に解けてしまうため、座学による学問は苦手であった。
ぶっちゃけ、つまらないのであった。
退屈だった。
結界に閉じられた、危険のない安全な環境。そんな中で、しかも族長の娘として将来が既に決定している身は贅沢な悩みかもしれないが、退屈な身の上であった。
「楽しかったなあ、外は……大きな町があって、エルフじゃない人がごった返して、露店にはたくさんの果物とか宝石が並んでて」
思いを馳せるのは結界を飛び出した外の世界。緑の草原を抜けた先には石造りの堅固にそびえ立つ城壁。大通りに沿って並ぶ露天商の帆布のテントと人間。濃すぎる人口密度から生まれる砂埃と淀んだ空気。到底精霊が住むには適さない土地柄……。
それでも、刺激が一杯の未開の土地だった。まるでまだ見ぬ
しかし、冒険は危険と隣り合わせのリスキーなものだ。実際、フィオナは何者かに拉致されかけるという事件に巻き込まれかけたのだから。
「……けどまあ、あんなことがあったんじゃあ、流石に出歩けないよね。あのときも天子と衣玖が助けてくれなかったらどうなってたのか想像もできないし、そもそも理由が分からないんじゃあね―――」
そこまで言った点で、フィオナは言葉を止めた。
「……理由?」
思い出に耽っていたフィオナは、何気なく発した言葉に、違和感を抱く。
「理由って……何? 理由、訳、原因―――そうよ、原因。物事には必ず因果関係があるのだから。どうして、私は―――」
―――攫われかけたのだ?
「原因は何? 何で私が攫われそうになったの?」
フィオナには拉致される原因が見当たらなかった。里では喧嘩程度の小競り合いならば時折発生するが、犯罪のような大事件は稀だ。誘拐など、紛れもなく大事件の類である。まだ若いエルフのフィオナはそういった大事件に未だ遭遇したことはなく、今回の件が最初のそれである。
関連があるとしたらフィオナの立場。族長はエルフの民にとって重要な役職であり、その娘であるフィオナは必然的に重要な存在として他のエルフからは認識されていた。
しかしそれはエルフの事情である。それを、あの誘拐犯が知っていたとはどうしても思えないし、六百年関係が途絶しているのに若いフィオナの事情をどうして知ることができようか。
そもそも、フィオナが里を脱走したことはそれを手伝ったアルバートだけが知る極秘事項である。父オリヴァーや長老は知っていた風であったが、それでも少数である。ならば、どうして誘拐など計画的な犯行が行えたのか?
頭をぐるぐる回転させて、論理を一つ一つ、糸のように結び繋げては解きほぐす。時に糸は絡まり合いながら太くなると、いずれは解けて元の長さに戻る。
しかし、残念ながら最適な解を探ろうとしても、糸の長さが圧倒的に足りなかった。あまりに情報が不足しており、結論にたどり着くことができない。
コツコツと机を叩きながら思考の迷路に潜るフィオナ。その複雑怪奇な迷路を脱出するには、さらに長い毛糸玉が必要なようだ。
「……確かめなきゃ、いけない。何があったのか。いや、何が起こってるのか―――」
何かが起きている。私たちエルフの知らない水面下で何かが蠢いている。雪に埋もれた落落葉の下で春を待ち望む、毒矢を仕込んだ虫のように。
「お父様も、アルも―――私も、今の今まで全然気づいていなかった。二人とも、もう人間に関わるなとしか言わなかったし、それって根本的な解決になってないわ。ただ、一方的に関係を遮断してるだけ、原因なんか考えもしてない」
胸がざわつく。考えれば考えるほど、今外で何が起きているのか、不安が浮き彫りになってくる。
この不安を解消する術を、フィオナは一つしか知らなかった。
「……行こう」
再び町へ。
そこで彼女に何があったのか、そして何が起きているのか、確かめるために。
◇
闇は深く、背の高い木々はまるで地中から突き出した巨人の腕のように林立している。見慣れた昼の森の風景からは想像もできない不気味さを醸し、何度も脱走を実行したフィオナもこれには未だに慣れずにいた。
気を緩めてしまえば森に飲まれる―――そう錯覚せざるを得なかった。
森の暗さで時間感覚が正常ではないが、現時刻は太陽が稜線下で準備し始める明け方である。フィオナはいつも持ち歩いている懐中時計を閉じて懐に仕舞った。
明かりをつけなければ目の前もろくに歩けぬ時間だが、フィオナはこの時間に発てば森を抜け、町に着くころには日が昇りきった頃になるのを経験から知っていた。何度も脱走していれば嫌でも覚えるというものだ。
「いつもはもう少し遅く出発するけど……アルの協力が得られない以上、いつも以上に慎重に行動しないと」
今回、いつも脱走の片棒を担いでいたアルバートの協力を得ることはできない。流石にあんなことがあった以上、今度こそ本気で待ったをかけてくるはずだからだ。
「正直に言わなきゃ良かったかなあ……いや、でも言わないとあの二人を入れる口実作れなかったから、結局言わなきゃダメだったよね」
はあ、と吐いた溜め息は夜闇に紛れて消えていく。いつも使用する道なき道と整備された道を交互に行き来する脱走経路を思い浮かべながら、フィオナは慣れた足捌きで森を進んで行く。
やがて、里と外を分かつ結界付近にやって来るとフィオナは足並みを止めた。
明け方近くに出発するのはこの時間帯に警備網が最も手薄になるからである。真の闇に包まれた真夜中は衛兵も一番気を遣うのだが、明け方は段々と明るくなって視界が開けてくる。故に警戒心が一番緩む時間帯なのである。
それでも結界付近では衛兵が一定数巡回している。できるだけ迅速に、バレないように行動する必要があるが、何度も脱走を成功させているフィオナは慣れた手つきで「
開門で開いた先には霧に覆われた一本の道が見える。その一点だけ霧に覆われている光景は、さながら異世界へとつながる門のような趣を見せている。
その表現はあながち間違いでもなく、実際エルフにとっては外界という異界であることには違いなかった。
フィオナは現れた霧の道に足を一歩踏み入れ、ふと思い返したように後ろを振り返った。
「……ごめん。でも私、やっぱり確かめたいから」
その謝罪は、一体誰に向けて放たれたのか。もしくは、誰かに言った言葉ではなく、自身を正当化するための免罪符だったのか。フィオナ自身も分からなかった。
目を伏せたフィオナはそれ以上の思索を止め、迷いを振り切るように駆け足で無限に続く霧の中へと飛び込んで行った。
走り去る後ろ姿が霧に見えなくなるまで、そう時間はかからなかった。
次回はちゃんと天子と衣玖さん出ます。