異世界緋想天 ~天子と衣玖の異世界旅行紀~ 作:火也(かや)
おい、戦闘(デュエル)しろよ
ガヤガヤ、と途絶えることなく続く喧騒。時折叫び出す怒号と取っ組み合いのガタンガタンと床を鳴らす響き。そしてそれを煽り立てる野次馬の叫び声。辺りは混ざりに混ざった混沌と、安っぽい葡萄酒の匂いで満ち満ちていた。
木製の家具がギシギシと悲鳴を立て続ける酒場の中で、天子と衣玖の二人はその喧騒から避けるようにしてひっそりとテーブルについていた。時々チラとそちらを振り向きはするものの、基本的には我関とせずの姿勢だった。元より二人には関係のない諍いである。
二人は目の前に置かれてある小皿に盛られた料理を摘まみながらチビチビと酒を啜っていた。衣玖はもとより、普段豪快に酒を呷る天子のその光景は少し珍しい。
しかし、二人の心情を鑑みればそれは至極当然のことであった。とてもではないが、酒をがぶ飲みする気分ではなかった。
「………」
「やけに、静かですね。明日は槍でも降るんですかね」
「しばくわよ。……いや何、エルフの方は大丈夫かな、って思ってさ」
天子が言いたいのは昨日起こったエルフの件のことだろう。それも特にあの手紙について言っているに違いない。
「……あれに関しては部外者でしかない私たちではどうしようもありませんよ。事が大きすぎます」
「部族全体に関わるかもしれない問題だもんね、あれは」
先日天子と衣玖がエルフの里を訪れた際、見知らぬ誰かから脅迫状のようなものが届いた。フィオナのとの関連性についての直接的な言及はなかったが、十中八九フィオナ関連の脅迫状であるのは間違いない。最後の一行に拒否権はないと思え、という文章があったことが何よりの証左である。
あのあと、オリヴァーは至急集会の方へ取り急ぎ、慌てて出て行った。天子と衣玖はそれ以上何をすることもできず、一応二人がすべきことは決まっていたためそのまま里を出て町へと戻って来たのだった。
現状、二人がすべきことは当初より決まっていた外での情報収集活動しかない。脅迫状紛いについては、残念ながら二人が関与できる許容範囲外であるため加担すること不可能だ。アルバートから聞くところによるとも最重要案件として緊急集会を招集する予定らしい。
それで戻って来て早々情報収集に勤しもうとしたわけであるのだが……。
「そもそも情報収集って言ったって何をどうして探せばいいのよ」
「現状、フィオナさん失踪に関してのあらゆる情報が不足している状況ですから、その手掛かりになり得るもの全てでよろしいのではないですか?」
「その“あらゆる”がアバウトすぎんのよ」
フィオナについて、分かっている情報は限りなく少ない。ほとんど分かっていないと言った方が正しいだろう。故に、オリヴァーが情報を求めているのは十分に理解できるし、衣玖の言ったあらゆる情報が欲しいというのはおそらく間違いではない。
しかし、“あらゆる”というのは具体的にどのあたりまでなのか、その部分がさっぱりであった。こういった状況には非常に便利であったが、抽象的な言葉すぎてどのような行動をとればいいのか分からなかった。
「……そもそも何をとっかかりにして調べていけばいいのかさえも分からない、足取りが完全に不明。どうしろっての言うのよ……」
天子はぐでーっと弱々しくテーブルに突っ伏した。狭いテーブルに天子の体が覆いかぶさり、衣玖は「邪魔です」とにべもなく言う。
しかし無理もないことだった。何をすればいいのかは、衣玖自身も分からなかったからだ。
そもそも二人は情報収集活動など経験が無い。情報収集のためのノウハウやスキルなど会得しているわけでもない、依頼をこなして戦うだけのただの冒険者である。この世界に来る前は、それこそただの天人と妖怪として生きていたにすぎない。何から始めるべきなのか全く分からないのが正直なところであった。
しばらくの間二人はこれから何をすべきなのかを考えた。やることが多すぎるが故に、何をすればいいかが見えなくなる。まずは初歩中の初歩についてを考えることにした。
そんな中で、天子が突っ伏した態勢でつぶやいた。
「……私が読んでた推理小説があるんだけどさ」
「いつのまにそんなの読んでたんですか」
「就寝前にちょこちょこ。町の本屋で安く買った。旅には邪魔だから読み終わったら売り払ってたけど。……まあそんなことはどうでもいいよ重要なことじゃない」
よいしょ、と天子は顔をテーブルから上げて言葉を続ける。
「その小説の中でさ、事件に遭遇した探偵はまず聞き込みをやってるんだよね。周辺住民に対して事件の当時に現場周辺で起こっていたことを事細かく」
「聞き込み、ですか」
「何か不満でも?」
「不満はありませんが、そんなので情報が集まりますか?」
「いや聞き込みは捜査の第一歩でしょ。警察お手上げのどんな迷宮入りの事件だって絶対に人の視線からは逃れられないんだから。それに、現場検証っていう手段もあるわよ」
「……現場検証はともかく、聞き込みに関してはおそらく無駄骨に終わるのではないかと」
「……どうしてよ?」
「思い出してください。フィオナさんと最初に出会ったときの服装、決して綺麗とは言いがたいローブを羽織っていましたよね? あの深長なローブはフィオナさんが人の目に触れないようにするために着込んでいたせいか、素顔はおろか腕とか足も全部覆っていました。かろうじて背丈で女性と分かる程度で他人が特徴を把握できるはずもありません」
天子は思い出したかのように苦い顔をした。確かに全身が隠れるほどのローブを羽織られていては身体的特徴など望むべくもない。
フィオナの人目から避けようとした結果がここで悪い方向に表れてしまったのだ。
じゃ、じゃあ……と天子は言う。
「ローブそのものを特徴に……」
「できるわけないでしょう? カモフラージュが目的で羽織っていたんですから。町にローブを着込んだ人なんて五万といるし、そもそもあんな人混みじゃ誰か一人をなんて到底見ていられませんよ」
ただの群集としてしか、と衣玖は付け加えてから目の前の肴を一つ摘まんで口に放り込んだ。眉間に皺を寄せた天子は、自分の意見が一蹴されて不貞腐れたのか、そっぽを向いて酒を啜っている。
衣玖の反論通り、現状では聞き込みの効果は薄いと見える。目撃者がゼロというわけではないだろうが、こそこそと人目を憚るように行動し、尚且つローブをかぶっていたフィオナを見分けるのは非常に困難だと言わざるを得ない。
聞き込みの効果が見込めないのは手痛い。
推理小説などフィクションに限ったことではなく、人探しで最も有効な手立ては聞き込みだ。他人の会話に衝立を立てられないのと同様に、人の目も誤魔化すことはほぼ不可能に近い。それこそ、そういった訓練を受けた者か魔法などの術に頼らない限り。
「ローブを取っ払った中は一発で人目を引く外見なのにね……」
そう天子はぼやく。確かにエルフの特徴である長耳と、フィオナの美少女顔を見れば大抵の人は忘れないだろうが、今更そんなたらればを言っても仕方のないことだ。
「それでも、しないよりはずっとマシでしょ。
「そうですね。理論づけなんて総領娘様には全然似合いませんね」
「うっせー。とにかく、明日あの場所に行って現場検証、周辺の聞き込みよ!」
否定はしなかった天子は、そう言うとグラスに残っていた酒を一気にぐびっと呷り、テーブルに置かれていた勘定書を取って席を立った。
ここの酒はどうも合わない。舌がざらざらする、安っぽい味がした。
◇
「―――という特徴なのですが」
「んー……継ぎはぎのボロいローブに背丈は女の子くらい……と言われてもねえ」
翌日。天子と衣玖は予定通りにまず聞き込みから行うことにした。
場所はフィオナが連れ去られそうになった現場に程近い通り道。そこで毎日店を開いていると言った店主に話を伺っている途中だった。
この辺りでヤマを張って何度か聞き込みを続けているが、そのどれもかんばしい結果を得ることはできずに空振りに終わっている。
そして今回も、どうやらいい話は聞けそうになさそうであった。
「こうやって店を構えている以上人なんざ一日に数えきれないほど見ることになるから、意識的に探そうとしない限り覚えてられないねえ。それに、そもそもそんな恰好をした輩なんてそこら中にごろごろ転がっているじゃないか」
「やはり、ですか……」
「力になれなくてすまないね」
「いえ、お時間をとらせてしまって申し訳ありませんでした。失礼します」
ぺこりとお辞儀をした衣玖は仕事の邪魔にならないようにそそくさと商店の前から離れ、「またハズレ、ですか……」と溜め息を吐いた。足取りは重く、これまで収穫ゼロという事実もただの徒労だったと認識を強くさせてしまい、まるで足に重りをつけているかのような感覚だった。
衣玖は昼過ぎの一層増した人混みの中を歩く。衣玖一人であるのは、今天子とは別行動をとっているからだ。聞き込みをするならば別々に行動する方がいい、という至極真っ当な理由を衣玖が言ったからである。二人で行動するのは、あまりに非効率すぎる。そういった理由から天子と衣玖は別行動をとっており、時間が来ればもう一度集合という手はずになっている。
天子と約束した合流地点には既に天子が待機しており、衣玖の姿を認めるなり挨拶とばかりに右手を小さく挙げた。
「おーっす衣玖、どうだった?」
「残念ながら。そちらは?」
「右に同じ。収穫ゼロ」
やれやれとばかりに肩を竦める天子。半ば予想していたことだが、天子の方まで収穫が無かったと言われるとなかなかにクルものがあった。
合流地点は現場の目の前の通りである。天子と衣玖は現場までの短い距離を歩きながら、各々ポツリとつぶやき出す。
「……いきなり躓いたわね」
「手がかりが何もない真っ暗闇ですからね……ある意味仕方のない結果だとは言えますが」
「それをどうにかしなきゃダメなんだよねー……」
溜め息を吐きながら着いた先は、フィオナと初めて出会った場所。より正確に言うならばフィオナが謎の黒ローブの男に連れ去られそうになった場所である。
現場は依然と変わず、表通りの喧騒が側から聞こえてくる。建物の陰で周囲は薄暗く陰鬱としており、表通りから響く喧騒が、まるで無理やり暗いイメージを払拭しようとしているような無粋感―――場違いなBGMとして流れている。
裏路地のそこはまるで異界と感じさせるほど、表通りの違いは顕著であった。表通りが明るく活気溢れる光の世界だとするならば、裏路地は光の届きにくい影の世界、とでも言うべきだろうか。
日常から遠く、しかしながらそこにフィオナ失踪の痕跡が見出せるほどの非日常性は感じない。あくまで日常との地続きとしての異質、そのようなものでしかなかった。
天子は当時フィオナが立っていた場所をじっと凝視したかと思えばぐるぐるその回り出し、うんうんと色々ポージングをとり始める。奇怪な行動に目を奪われることなく無視している衣玖も思索に耽る。
そのときのフィオナは一体何をしていたのか?
再三の注意を受け、自らしばらくはジッとしていると言ったフィオナが、何故それを反故したのか?
そしてフィオナ失踪とおそらく無関係ではない脅迫状の存在―――
事態はどうやら静かに、しかもかなり深い所まで進行しているらしい。じわりじわりと、しかし確実に、毒が全身を蝕んでいくが如く、時間の進行はまるで毒の侵蝕だった。何か解決策となる解毒剤を打たなければ、毒は最早止められなくなる地点まで進んでしまうだろう。侵蝕しきった先に何があるのか―――あるいは、何もないのかもしれない。
「……けど、大変な状況なのはエルフだって変わらない。ううん、当事者なんだから私たちより数倍焦ってるはずよ。過酷な状況の縁に立たされているはず。……私たちが弱音を吐くわけにいかないわね」
「はい。……これ以上、ここに留まっても何も出てこないでしょうし、一旦どこかで情報を整理しましょうか」
そう言うや否や、二人は現場から離れ、ほどなく離れた喫茶店に入店してテラスの席に座る。ベージュ色の暖色を基調とした店内には多くの観葉植物が置かれており、温かなイメージを抱かせる。白色のペンキで塗られたテラスは、太陽の光を飲み込んでより一層光を放っているように見えた。
コーヒーとミルク、トーストを注文し、ウエイターが離れていくのを見計らって衣玖はポケットからメモ帳とペンを取り出す。ペンを手に取って無地白紙のメモ帳にさらさらとこれまでの情報を走り書きしていく。
「前提として、フィオナさんは誘拐されたと見るのが妥当でしょう。今後はそれを念頭に置いて話を進めていくとして……まずは誘拐推定日時から。アルバートさんの話では、フィオナさんが失踪したのは一週間以上前、正確には今日で十日目ですね。つまり、十日前にフィオナさんの行方が知れなくなった。時間帯は定かではありませんが、エルフの里の結界周辺の警備の目のことを考慮すると、日中に抜け出したとは考えにくい……」
「警備って太陽が昇って明るくなり始める明け方が一番油断するからね」
「ええ、その通りです。夜中の森で暗中行軍はなかなか厳しいですからね。それはアルバートさんもそう仰ってましたし、概ね間違いではないかと。それで明け方に出発したとなると、里から一番近いこの町に着くのは日が完全に昇りきった頃になります」
「誘拐されたと仮定するならその頃以降ってことになるわね」
「加えてフィオナさんは決まってその日のうちには帰宅していたようですから、今回もそのように考えると日が落ちてからの誘拐は考えにくいでしょう。帰るまでにも時間がかかりますから」
「ってことは、どうしても誘拐が起きたのは日中ってことになる。ま、前も白昼堂々だったから有り得ない話ではないか」
「はい。で、結局のところ誘拐された時刻はある程度絞れますが、具体的にいつ頃だったのかは分からない……というのが結論ですね。この項目はこのくらいでいいでしょう」
衣玖は結論、と書き足し、さらに点を付け加える。
「次は犯人の目的。これは、全く不明です」
「フィオナはエルフから見れば相当の地位に立ってるけど、でもそれが犯人が知っていたとはどうしても思えないわね。……となると、別に対象は誰でもいい無差別なものだった、ってことかしら?」
「……どうでしょう。何分可能性の話ですし、それも結果論でしかありませんからね。犯人がどこかしらから情報を手に入れていた可能性もあります」
「親にも秘密にしていたことを部外者が知り得たかしら? 普通に考えれば有り得ないと思うけど……まあ可能性としてはゼロじゃないもんね」
「話を戻して目的ですが……誘拐の目的は身代金目的だと相場は決まっていますが、どうも腑に落ちない点が多いですね。無差別に人を攫ったとしたら身代金目的は絶対に成り立ちません」
「貧乏な家の子を攫ってもお金なんて取れないしね。身代金の線は消えるとして、じゃあ後は一体何が残る……?」
まさか愉快犯なんてことはないでしょうね、と天子は不安がるが、誘拐なんてリスキーな賭けにただの愉快犯目的で行うことなんて普通しない。快楽目的の殺人ならば有り得なくもないが……。そもそも脅迫状が届いた時点で殺人の線は消えていると見ていい。
もっとも、今後の対応でどうなるか……それは分からない。
「んあーーもーー! 分からんことばかりで訳分からんくなってきた! 情報整理しても碌に分からんし、分かってるのは大まかな時刻くらい……一体これからどうしろって言うのよ……」
ガシガシ頭を掻きむしりながら喚く天子。気持ちは非常に分かる、と衣玖は思った。
そうなるのも無理なかった。二人が今現在手にしている情報はごく僅かしかなく、いくら情報を整理しようとしたとしても、そこから推察を広げようとしても判明したものが無い以上さらなる考察は不可能だった。なればこそ天子の言う通り聞き込みなど実地調査を実行して、証拠を手にすることが不可欠になってくるのだがその効果が見込めない。
人よりも超越した力を持つ二人も、この手の事件にはお手上げだった。
「………」
「……どしたの衣玖、さっきから静かね」
「いえ……っと」
机に突っ伏した状態のまま天子は尋ねるが、ウエイターに声をかけられて話は一時中断した。注文した品を置き、丁寧にお辞儀して去って行ったのを見計らって衣玖は話を再開する。
「憶測にすぎないのですが……脅迫状が送られてきたということはある程度計画性はあったんだと思います」
「フィオナが攫われたのは計画犯行だって言うわけ? でもそれは、相手側がエルフの情報を知り得るはずがないって言ったじゃない。結界に閉ざされたエルフの里のことを外の人間が知ってるはずがないのに、どうやって計画性なんて持てたのよ」
「……偶然、ではないですか? 犯人は偶然フィオナさんを見かけて、それで犯行に及んだ……」
「はあ? 本気で言ってんの?」
「だから憶測ですってば。私の勝手な想像ですよ。ですけど、これしか考えられないんですよ」
衣玖は目の前のコーヒーを手に取って口に運ぶ。この世界に来てから随分と飲み親しんだコーヒーの苦みが体に染み渡っていく。それを見た天子も思い出したかのようにミルクを飲んだ。
「おそらく犯人はどこかでフィオナさんの姿を見かけていたのでしょう。これは何回も町に来ていたのならば決してありえない話ではありませんし、いくら深いローブを着ていたとしてもそれで完璧に姿を隠したとは言えませんから」
「まあ、それくらいなら……」
「エルフは話では六百年近く人との交流を閉ざしていた種族です。それが、たった一人で無防備に町にいれば、悪党ならばそれを利用しようと考えるかもしれません。関係が断たれていたエルフは中には黄金が詰め込まれているかもしれない、ある意味宝箱のような存在ですから。で、その宝箱を開こうと目論んだ犯人は、その鍵となり得るフィオナさんを誘拐しようと考えた」
「鍵……なるほど、確かにフィオナは鍵ね」
現状エルフに干渉する方法が知れないため、わざわざ町までやって来るフィオナの存在は甘い蜜に誘われた蝶の様だった。さながら、歩く鍵と表現できようか。
「しかしフィオナさんはその日のうちに帰ってしまうのでなかなか見つからない。そこで私たちが出会ったような裏稼業の者を利用しながら捜査範囲網を広げ、以前はそれに掴まり、そして今回もそれに見事捕まった……」
「それってつまり、フィオナは以前から犯人に目をつけられていた、って衣玖は言いたいの? ―――前提がまるっきり今までと逆ね、まるでチェス盤をひっくり返すようだわ」
今まで考えてきた前提、予想を全て裏返す。理論を組み立てて駒を進めてきたチェスを全て無に帰させて強制的に白紙に戻させるように、盤ごと裏返す。そこにあるのは線で整然と区切られた盤があるだけだ。
前提が違えば、見える地平も違ってくる。今までは犯人がフィオナのことを“知っているはずがない”という指向性で議論してきたが、それを百八十度裏返す“知っていた”という考えで進めると途端に視界が開けてくる。
「六百年もの間関係が遮断されていれば、エルフに対して何がしか幻想を抱いていてもおかしくないわね。山のような黄金を蓄えているとか、計り知れない技術を持っているとか……秘密の存在って妄想を広げるには格好の的だもの、エルフは何がしかで金になり得るって考えても不思議じゃないわ」
運ばれてきた、もう一つの品のトーストにジャムをこれでもかというくらいに塗りたくり、口いっぱいに広げて齧る。こんがり焼けたトーストのサクサク感にもっちりしたパンの食感、乗せたジャムの甘酸っぱさが広がっていく。幸せそうにモグモグ咀嚼し、飲み込んだ天子はふうと息を吐く。
「……確かにしっくるわね。というか偶然で事が成立するなら推理もクソもないじゃない、考え込むだけ無駄だったわね」
「あくまで偶然を前提にする憶測です。これを動機と確定するにはあまりに投機的すぎますよ」
「まあ、偶然を理由にしちゃあ何でもアリだもんね」
そう結論づけると二人の間にしばらく沈黙が続いた。コップや皿をカチャカチャする無機質な音が、その挙措に伴って二人の耳に入ってくる。
これ以上の推察を広げることは難しかった。二人も沈黙の合間に考えてみてはいたが、先の衣玖の憶測以上にしっくりくるものは考えつかなかった。
「……とりあえず、これだけでも報告しとく?」
「いや……憶測は所詮憶測です、確固たる情報でないと受け取ってくれないでしょう。向こうが必要としているのは事実だけであって私たちの勝手な憶測ではないのですから」
「そう、よね。必要なのは事実、結局振出しに戻るわけか」
はあ~、と長い溜め息を吐いた後、天子はテラスからまるで絵画のように見える風景を見た。通りの人混みとは無縁のテラスから見える風景は穏やかそのものであり、とても人攫いが起こるような風景には見えない。
しかし実際にこの町の裏では人一人が確実に消えているわけで、そういう意味でどこかこの平和な風景が仮初めのハリボテにしか見えなくて。少し、空虚だ。
「これからどうします。もう少し捜査の範囲を広げてみますか?」
「今のところ打てる手だては、結局のところ根気よく探すことしかできないわけだしね。……今度はこの前フィオナが連れ去られそうになったルートをたどるわよ」
善は急げとばかりにガタッと立ち上がった天子は足早に階段を下りていく。出遅れた衣玖は店員を呼んで軽食の料金を支払い、チップとして硬貨を数枚握らせた。
今度こそは何とか手がかりを見つけなければ。そう密かに意気込んだ衣玖は先を行く天子を追うようにテラスを下りていった。
私が初めて推理小説に触れたのは中一のときに読んだ江戸川乱歩の「大金塊」でした。それがきっかけで推理小説(主に江戸川乱歩シリーズ)を読むようになりましたね。シャーロック・ホームズよりも明智小五郎の方が好きだったのでコナン・ドイルはあまり読みませんでしたが。
ちなみに知っている人もいるかもしれませんが、本文の天子の「チェス盤をひっくり返す」という表現は「うみねこのなく頃に」に出てくる表現です。うみねこはアガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」をモチーフにしていますので、興味のある方は是非に。