ウマ娘の寿命が現実の馬と同じ世界線の恋愛事情 作:daidains
こちらだけでもおそらく理解に差し支えありませんが、両方読んでいただくと繋がりが見えてくると思います。
一気読みできるように、今日はもう一回更新するつもりです。
トレセン編の完結まで、全部で3万字とかいっちゃうかも……
【重要】
独自設定ですが、この世界では、アヤベさんの妹はアヤベさんと一緒に無事産まれてきています。やったね!
あと、この話は今は非公開にしている私の初投稿作品がベースになっているので、見覚えがある人もいるかもしれません。
そういう方がいれば、あなたは私の最古参の読者です。
アドマイヤベガの過去【トレセン編①】
アドマイヤベガは、静かな寝室の中で目を覚ました。窓の外はまだ暗く、静寂が部屋を包んでいる。彼女はベッドの中でしばらく天井を見つめていた。レースの日はいつも、こうして夜中に目を覚まし、過去と現在が交錯する瞬間に思いを馳せる。特に明日はダービー――これに勝てたら引退してもいいと公言するウマ娘やトレーナーさえいる、最高の名誉をかけたレース――を控えている。
彼女は天井を見ていた。
だから、明日、何かが変わる。
彼女自身はそれを自覚していないが――アドマイヤベガの運命が大きく変わる瞬間というのは、偶然か必然か、決まって彼女が天井を見る機会を伴っていた。
その夜、アドマイヤベガは夢を見ていた。父、母、弟たち、そして双子の妹と共に過ごした、あの幸せな日々の夢だ。彼らは一緒に笑い、語り、そして生きていた。夢の中で彼女は再びその幸福を味わい、そして痛みを感じる。
「夢だけど、現実だったのよね……」
彼女はふと思った。彼女の過去は、彼女の心の中で生き続けている。その記憶は時に彼女を苦しめ、時に彼女に力を与える。
アドマイヤベガは静かにベッドから出て、窓際に立った。外はまだ闇に包まれており、遠くに見える星が静かに輝いている。彼女はその星を見つめながら、遠い記憶を辿り始めた。
それはさながら、夜空の星々を目印に、航海に出る船乗りのようであった。
かつて彼女の乗る船には女神の加護が宿っていたが、今や彼女は大海へと自力で漕ぎ出さなければならない。
そしてアドマイヤベガは――まだその運命を知らない。
******
私は死んだ。
そのはずだった。
それなのに目を覚ました。眼を開けると、目の前には白い天井が広がっていた。見慣れぬ場所の、清潔で冷たい天井。それは私の部屋ではない。気がつけば、あの馴染み深い自室の天井が、私の日常を支える大切な一部だったことに初めて気づく。しかし、今はどこにいるのかもわからない。
未だに心は、何か大切なものを失ったような混沌とした感情にとらわれている。ぼんやりとした記憶の中で、何かがあったことを感じる。大きな衝撃、それに続く深い沈黙。だが、具体的な出来事はまだ頭の中からはっきりと浮かんでこない。
左脚からの痛みが、現実を教えてくれる。何かが傷ついたのだろうということは理解できるが、その痛みの原因は見当がつかない。
私は非日常を象徴する白い天井から視線を外し、周りを見渡す。どうやらここは病院の一室らしい。窓は開け放たれていて、そこから入ってくるそよ風が、カーテンを優しく揺らしている。
私が横たわっているベッドの周りには白いカーテンが掛けられていて、その向こうにいる人間の姿はわからない。ただ、耳をすませば話し声がわずかに聞こえてくる。その声は次第に大きくなり、何人かの人がこちらに近づいてきていることを知らせた。
「アドマイヤベガさん、失礼します」
誰かが私の名前を呼んだ。それが誰だか思い出せないまま、私は声の方へ顔を向ける。私の瞳に映ったのは一人の女性看護師らしき人物であった。
「……!!!目が覚めたんですね……! ああ、本当に良かった……!!」
女性は私の顔を覗き込んでそう言った。驚いているのか両手で口元を抑えていて、彼女の目元しか表情を推し量る手がかりがなかったが、その瞳にはありありと安堵の色が映っていた。私は、自分の置かれている状況がまだ飲み込めていないながらも、目の前の女性が私を心から心配してくれているということは感じ取れたので、なんとか声を出そうと口を開いた。
「……は……い」
しかし、思っていた以上にうまく声が出せず、喉からは掠れた空気が出るだけだった。それでも、私の声に反応して彼女はハッとしたような表情を浮かべた。
「無理に喋ろうとしないでください。今、先生を呼んできますからね」
女性はそう言うと、急いで病室から出て行った。一人残された私はぼんやりと天井を見つめながら、自分の身に何が起こったのか思い出そうとしていた。
私は父、母、双子の妹、そして弟たちと一緒に車に乗って、キャンプ場から帰路をたどっていたところだったはずだ。
記憶はあいまいだが……
私と妹と一緒にそこで走っていたような気もする。
その途中で……事故に遭ったのだろうか。それとも、私の知らないうちに何かあったのだろうか。
事故に遭ったのだろうという漠然とした感覚はあるが、それを裏付けるような出来事は思い出せない。
しばらくして、医者や看護師たちが病室に入ってきた。彼らは口々に「意識が戻って良かった」と私を労り、もう命の心配はないことを教えてくれた。いろいろと大手術があったが、すべてつつがなく成功したとのことだ。病み上がりにあまりたくさん話しかけられるのも大変だろうということで、その日教えてもらったことはそれでおしまいだった。
******
事故後、私は本当に長い間目を覚まさなかったらしい。事故に遭った日は夏だったが、今はもう秋だ。換気のために時折少しだけ病室の窓を開けるのだが、その風がひんやりとした秋の肌触りをしている。
目を覚ましてから二、三日もたつと、私の意識もだいぶはっきりし始め、やや突っかかりはするが、会話ができるようになった。
会話ができるようになったことを確認した医者は、無理せず話せる範囲でね、と前置きをしたうえでいくつかの質問をしてきた。しかし私はまだ自分の置かれた状況がよく理解できておらず、曖昧に頷くことしかできなかった。
「―――では、今日はこのあたりで。お大事になさってください」
診察が終わり、病室を出ようとする医者に、私はひとつだけ聞きたいことがあった。
私が事故に遭ったのなら、一緒に車に乗っていた家族たちも巻き込まれたはずだ。
「先生……あの子は、妹と弟たちは……無事ですか?母と父は……?」
医者は俯き、首の後ろを擦りながらしばらく黙っていた。私の視線を避けているようだった。その間、病室の空気が重くなり、私は不安と焦燥感に押しつぶされそうになった。医者は何度か口を開いて喋ろうとしてはためらいがちに下を向くのを繰り返し、ようやく深いため息をついてから、慎重な言葉を選びつつ言った。
「まず最初に、あなたの回復が順調であることをお伝えしたい。手術も成功し、あなたの命には別に心配はありません。ただし、辛いお知らせがあります」
「辛いお知らせ」という言葉に反応し、自分の体の血圧が上がるのがわかった。それに伴って心臓が激しく鼓動を打ち始め、自然と手に力が入る。私は医者の目を見つめ、彼の次の言葉を待った。
「あなたの妹様と弟様、そしてお父様は、事故で亡くなりました」
言葉が宙に浮いたかのような感覚に襲われ、私はただ凍りついたままでいた。医者の言葉が私の心に届かないように、それを拒絶するように、回復に向かっているはずの思考は停滞した。
「お母様は軽傷で入院していましたが、すでに回復して退院しています。身体の上では無事ですが、お母様にとってもこの事実を受け入れることは容易ではないでしょう」
妹と弟、そして父親。私は彼らと一緒にいたはずなのに、いつの間にか彼らはこの世界から去ってしまったのだ。医者は少しの間、私の反応を見守っていた。
「辛いことをお聞きさせてしまい、申し訳ありません。しかし、あなたの回復が順調であることは幸いです。今は、現実を受け入れる時間が必要です。時間がかかるかもしれませんが、少しずつ受け入れていってください。私たちはここにいます」
私は何も言えなかった。目の前の現実を受け入れることができるのか、どれほどの時間がかかるのかを理解しきれないまま、空虚と混沌が同居した思考が私を覆っていた。
その後、どうやって会話を切り上げたのかさえ覚えていない。病室のベッドでただ静かに流れる時の流れに身をまかせていただけだった。
いつの間にか眠っていたのか、気づけば窓から夕日が差し込んでいることに気づく。時計を見ると、午後五時を指し示していた。
視線をぐるりと回すと、ベッドサイドのテーブルに小さな花瓶が飾られていることに気がつく。私が眠っている間に誰かが持ってきたのだろう。そこにはピンク色の花々が綺麗に生けられていた。
「お見舞いのお花です」
不意に聞こえた声に私は驚く。そこにいたのは看護師だった。彼女は少し気まずそうに笑いながら、私に話しかけてきた。
「あの……ごめんなさいね、驚かせちゃって」
彼女は私に気を遣わせないように言葉を選んでくれているのか、ゆっくりとした口調で語りかけてきた。
「実はアドマイヤベガさんが何日か前に目を覚ましたのを聞いて、お母さんが何度もお見舞いに来てくれているの。タイミングが悪くていつもあなたが寝ている時間にかぶってしまっていたのだけれども……。今ちょうど入れ違いになったところで、まだ帰っていないと思うから呼んできますね」
にこやかな笑顔でそう言い残して病室から出て行った。
それから数分後、母がやってきた。母は私の顔を見ると安心したのか、少し涙ぐみながら私の名前を呼んだ。
「ああ……本当に良かった……!!アヤベが無事で……!!」
母が私を抱きしめた時、私もやっと現実を直視することができたのかもしれない。
その事実を噛み締めながら、私は泣いた。今までこらえていた全てが、涙となって溢れてきた。
「先生からあなたの目が覚めたと聞いて……ようやくこの目で確かめられて安心したわ……!」
母は泣きじゃくる私の頭をなでながら、ゆっくりと話してくれた。その言葉は温かくて、とても心地よかった。
声は震えていて、涙ぐんでいて聞き取りづらかったが、それでも私の心にしっかりと響いた。彼女は私を抱きしめていてくれたが、同時に私も彼女を抱きしめていた。そして私達はお互いの存在を確かめ合うように強く抱きしめ合った。
しばらくして落ち着くと、母は
「脚……左脚は、動かせる?」
と私に問いかけてきた。
「痛むけど……少しなら……動かせる」
私は正直に答えた。手術後の経過は良く、左脚の感覚も戻ってきていた。
「あなたの脚のこと、お医者さんからもう話を聞いた?」
「脚……」
私はその言葉に一瞬戸惑った。思えば目を覚ました時から左脚に痛みがあった。十中八九事故のせいだろう。そしてそれを聞いてくるということは。
「もしかして……もう、走れないの?」
「術後の経過次第だけど、まだあきらめる必要はないわ。そのために手術してもらったんだから」
そう語る母の表情は、優しいながらも少し曇っていた。その顔は明らかに私が受けた手術が単なる手術ではないことを示していた。私は布団をぎゅっと握り、次の言葉を待つ。
「……あなたの脚はね、事故で完全につぶれていたの。切除するしかなかった」
母から告げられる現実に、私は言葉を詰まらせた。いや、しかしおかしい。左脚は痛むが、しっかりとついているではないか。切除したなら、私は今頃片脚のはずだ。
「でもね……奇跡的に、あの子は即死だったけど脚は原型を留めていた。だから、移植することができたの」
「……!」
「双子だったから、サイズも問題なかったし、拒絶反応もなかったわ。アヤベ……あなたの脚は、あの子の、あなたの妹の脚よ」
その言葉の意味を、私はゆっくりと咀嚼して理解する。布団を握る手に一層力がこもった。
「……あなたは意識がなかったから、私の独断で手術してもらったわ。移植するにはタイムリミットがあって、あなたの意志を聞くまで待つことができなかったの。あなたの怪我を何とかしたかったし、一部でもいいからあの子が生きていた証を残したかった。だから、勝手に……」
母はそこで言葉を詰まらせた。私が目を覚ますまで、一人で抱え込んでいたのだろう。
私は布団を少しめくって、患者衣を引き上げ、自分の左脚を見つめる。そこには太ももをぐるりと囲むようにして縫い目が走っていた。
「母さん……」
私は口を開いたが、まだ自分の気持ちを整理することができないでいた。左脚を見るたびに、その事実が私に迫ってくる。
母も私の言葉を待っているように見えたが、どんな反応が来るか分からないという不安そうな表情を浮かべている。
「私、言葉にならない。こんなことが……本当に……」
私の胸の中には様々な感情が渦巻いていたが、どれも言葉になる前に消えてしまう。それでも私は懸命に言葉を紡ぎだそうとしていた。
「母さんは……これが本当に最善だと、思ったの?」
「……最善だと思ってそうしたけど……正直、後悔がないわけじゃないわ。あなたに、その脚と一緒に、死んだあの子の分まで『生きる』役割を強制することになってしまうから。アヤベは責任感が強い子だから、きっと多かれ少なかれ『背負って』しまうでしょう?」
母はそこでいったん言葉を区切り、俯いた。そうして目を閉じたまま鼻筋をつまみ、しばらく固まった後、顔を上げてこう言った。
「けど、何を選択としたとしても、母さん……結局後悔していたと思うの。移植しなかったらしなかったで、『やっぱりしておけば』ってきっとなる。母さん、どうしようもない優柔不断で、何を選んでも結局選ばなかった方の可能性を考えてしまうのよ」
母の言葉は切れ切れで、話しているうちに声が小さくなっていったせいで最後の方はもうほとんど聞こえなかったが、顔はこちらから背けなかった。私を見るその眼は、単に私を見ているわけではないように思われた。私を見ているが、同時にその向こうまで見ているような。そんな視線だった。
私は母の言葉に耳を傾けていた。それ以上でも以下でもなかった。ただ、母がこの決断を下さざるを得なくなったことを理解するだけだった。私が意識を失っている間、辛い決断を強制された母への憐憫も感じていた。
私にできることは、ただ受け入れることだけだった。
「わかった……もう何も言わないで」
私はそう言って母を制止する。母の目線がこちらに戻ったとき、その目元にはわずかに涙が浮かんでいた。
「……ありがとうね、アヤベ」
彼女は優しく微笑むと、ゆっくりと手を伸ばして私の頭をなでた。
太陽はほとんど沈んでしまっていて、空には一等星が浮かびはじめていた。少しだけ冷たくなった風が秋の色づいた葉を散らし、何枚か病室の窓の高さまで吹き上がる。
その風が、ちょっとだけ太腿の傷跡に沁みた。
******
それから数週間が経ち、私は徐々に回復していった。幸いと言っていいのかわからないが、事故後眠りこけてる間に左脚は大体くっついてしまっていたらしい。走ることはまだできないけれども、松葉杖を使うようになって母や医師の許可を得て屋上に出てみたりもしている。秋の夜空はよく澄んでいて綺麗だから好きだ。夜風が沁みるといけないから外出は短時間しか許されていないが、この頃には屋上に出て星を眺めるのが私のルーティンになっていた。
「やっぱりここにいた」
聞きなれた声に振り返ると、親がそこにいた。この一か月間はほとんど毎日見舞いに来てくれているが、母以外の人間が屋上に来ることはほとんどない。医者も看護師も気を使ってくれているのだと思う。
「ここに座って星を見ているアヤベが一番リラックスしているように見えるわ」
母はそう言いながら私の隣に腰かける。秋風がなでるように吹いて私たちを包み込む。彼女の長い栗毛の髪が風に揺られて靡いた後、次第に肩に落ちる。
「脚は大丈夫?」
母は心配そうに顔を覗き込んでくる。私は軽く頷きながら微笑んだ。
「お医者さんが言ってたわ。よくここまで回復したって」
「きっとアヤベなら大丈夫よ」
「うん……母さん、心配かけてごめんなさい。毎日お見舞いに来てくれてありがとう」
「なんで謝るの。アヤベは何も悪くないでしょ」
母が微笑むと私もつられ笑いをしてしまう。ずっと一人で部屋に居るのは少し心細いものがあるから、こうやって顔を出してくれる人の存在は本当にありがたかった。
「退院した後の予定ってある?」
「お医者さん曰く、来年の3月には退院できるそうよ。だからトレセンは新年度から復帰できると思うけど……無理していかなくてもいいのよ?家でしばらく休んでいてもいいと思うわ。まだ中等部なんだから休んでいても留年する心配もないと思うし」
胸元を覆うように、肩を前の方に丸めて母はそう言った。幾ばくかの恐れのようのものが、その動作には感じられた。
「……私が退院したら、まず最初にお墓参りに行かせてほしい」
母ははっとした顔で私を見るが、すぐに首を下の方に曲げ視線を私の方から外した。
「偉いね、アヤベは本当に立派だわ。きちんと前に進もうとしているのね」
その時の母の様子は少し変だった。言葉の上では私のことをほめてこそいるが、その声はとても弱々しい。
「母さん……?」
「……きっと、すぐに独り立ちしてしまうのね。そうなったら、母さんは取り残される気がするわ」
「え?」
「……ごめんなさい。なんでもないの。今日のところは帰るわね」
母は何か言いたげだったが、それを飲み込んでしまうかのように立ち上がった。そうして私を抱きしめてから、軽く背中をポンポンと叩く。
「絶対に無理はしないで。脚の違和感や不調があったらすぐ先生に言ってね。それと……」
「わかっているわ。私は大丈夫だから」
母は私の言葉を受けて頷き、屋上から去っていった。去り際に見せた彼女の表情はどこか陰りが見受けられたが、その真意は私にはわからなかった。
母が去った後屋上に一人残った私は、いつもより少しだけ体の芯が冷えているような気がして早めに病室に戻った。体を温めようと布団にくるまって寝たが、それでも体が温まることはなかった。母の去り際の表情が、寝るまでの間ずっと脳裏にこびりついていた。
******
医者も驚くくらいの速度で私は回復し、退院できることになった。とはいえ数か月も入院していたため、看護師とはすっかり顔なじみになっており、退院できる喜びと共に、一抹の寂しさも感じながら、私は病院を後にした。
家に着くと二人で車から荷物を下ろした。
事故後に新調したその車は、以前のものと比べすっかり小さくなっており、4人も乗れば車内はぎゅうぎゅうになるだろうという広さだった。
久しぶりの自宅に到着し、玄関を開けて家に入ると、家の中には明らかな影が落ちている。電気をつけていないとかそういうことではない、生活感じみた温かみが明らかに減っているのだ。私はほんの少しの悪寒を気にしないよう頭の隅に追いやって、荷物を部屋に運び入れる手伝いをした。自分の部屋はそのままになっていたが、妹や弟たちの部屋、そして母と父の部屋は少し片付いていた。母が整理を進めていたのだろう。
こうして改めて見回してみると、以前にもましてこの家が大きく感じられた。今やこの家は私と母の二人には大きすぎて、誰も住まなくなった部屋には寂しさがすっかりしみ込んでしまっている。
「広かったのね。この家」
「ええ。確かに二人だと大きすぎるかもしれないけど……でも、思い出の家だもの。引っ越したりできないわ」
母はそう言った。
「そうね」
私は母の言葉に返すようにそう言うと、再び荷物の整理に戻った。
そうして作業を続けてしばらく時間が経った。やがて「そういえば」と母が切り出した。
「アヤベ、もう新学期から学校に行くのよね?」
「うん、なるべく早く復帰したい」
「でも、正直言って母さん、アヤベはまだしばらく休んでいてもいいと思うの」
「ありがとう、でも皆に遅れをとっているから。なるべく早く復帰して取り戻さないと」
「……脚の件があったからって気負わなくていいのよ?」
「そういうわけじゃないわ。私が走りたいと思っているの。走らなきゃ、とかそういうことじゃない」
「……やっぱり強いのね。アヤベは」
母は、寂しそうに笑った。その笑顔を見て、褒められているはずなのに私の心にちくりと針で刺されたような痛みが走る。
「母さんも、前に進まなきゃならないのよね」
母はそう言ったが、その顔は私ではなくやはり虚空を向いているように見え、悲壮な決意が浮かんでいた。
******
嫌な予感に限ってあたってしまうものだ。
結論から言ってしまえば――この日から、母は少しずつおかしくなり始めた。母のあの顔の真意は、私が退院してから徐々にに明らかになっていったのである。
私が退院してから1か月が経った頃、母は本業に加え内職をするようになった。
「ただいま……母さん、これ何?」
「これ?母さん内職を始めようと思って」
「本業は?」
「もちろん続けるわ」
「……無理のない範囲でね」
母の言う通り、最初は趣味程度であった。しかし、徐々にその時間は増えていった。母は私に心配をかけまいと隠しているが、内職を始めてから数か月もたったころになると、明らかに疲労の色が濃くなっているのは明らかだった。
「母さん、最近無理し過ぎじゃない?」
「ごめんね、でもアヤベにお金の苦労をさせたくないし。大丈夫よ」
「お金がないのなら私が奨学金をもらうから。お願いだから少し休んで」
「アヤベに借金を背負わせたくないわ。本当に母さんは大丈夫よ」
母は微笑みつつも、頑として私の申し出を聞き入れようとはしなかった。母なりの意地と覚悟の表れなのだろう。
しかしその姿勢は確実に彼女の身体を蝕んでいった。
「母さん、もうやめて!働き過ぎよ!」
「ごめんなさい……。でも働いていた方がマシなの」
「そんなわけないじゃない。最後にちゃんと寝られたのはいつ!?」
「でも、何もしないでいるとダメなの、母さん。どうしても寂しくて。働いていれば少しだけ忘れられるの……」
「それにしたって――」
私が退院してから一年もたつ頃になると、母は仕事に病的なほど打ち込んでいた。最近は本業から帰宅するや否や、仕事部屋に直行してこもりっぱなしというありさまだ。同じ屋根の下に住んでいるのに関わらず、ほどんど母と顔を合わせていない。
食事は内職部屋の前に定期的に置いておくだけ。いつの間にやら空っぽになって、ドアの前に返却されている。
「働いていれば少しだけ忘れられる」
母はそう言っていた。その言葉が何度も頭の中で反芻される。
母の仕事はそれこそ身を削るような働き方だったし、私はそれがとても辛かった。さすがに心配して仕事部屋に無理やり入ったこともある。しかし、そこで見た光景――家族全員が写った最後の集合写真を傍らに置き、私がドアを開けた事にも気づかずに充血した目で作業に没頭する様――を見た私は、本能的にこれを邪魔してはいけないのだと感じ取った。
これが母なりの傷の癒し方なのだ――そう理解した私は、それを無理に止めることはしなくなった。こうして私にとって母の仕事部屋のドアは「開けてはいけない」ものの象徴となっていった。
本来なら治療のために病院に言ったりカウンセリングを受けたりしたほうがいいのではないか、とは思った。しかし母が「行かない」と言ってしまえば子供の私にできることはなかった。
しかし、だからといって何もせずにいるということは私にはできなかった。高等部に進学するのと同時に私はトレセンの栗東寮へと入寮する予定になっていたが、せめて何とか母がこれ以上体を壊さないようにしようと、入寮は取りやめて自宅通学することにした。それに加えて放課後の練習を減らしてなるべく早く帰宅するようにした。何かあった時のために、できるだけ母の傍にいるようにしたのだ。母の負担を減らすため、無理を言って家事のいくつかの担当を私に移させたりもした。
こうした不健全な日々が続き数か月もたったころ、ある日帰宅すると奥の部屋からただならぬ音がしていた。
どすん、がたん、という玄関のタイルにまで振動が伝わってくるような音がいたのち、何かを引き裂くような音もする。私は玄関で靴を放り捨てるように脱ぎ、慌てて音の発生源へと向かった。それは母の作業部屋からだった。
「母さん!?」
部屋の外から大声で呼びかける。しかし返答の代わりに聞こえてくるのは、何かが割れたり壊れたりする音だけだった。
異常事態だ。しかし、開けて大丈夫なのか。今すぐ入りたいという衝動を抑え、私は例の「開けてはいけない」ドアの前で少しの間逡巡した。
この先で見るものが、私のこれからの人生を、何か致命的に変えてしまうかのような予感。
今思えばそれは予感ではなく、私の未来から伸びていた導火線に火が付きかけた瞬間だった。
しかし、そうしている間にも何かが崩れるような音は続いている。私は覚悟を決めると、ノブに手をかけた。
そしてドアを開け放つ。
「母さん!大丈……」
部屋の惨状はあまりにも凄まじかった。床にはありとあらゆる種類の木工用の道具が散乱し、机や椅子のいくつかは無残にも破壊されていた。そして部屋の中央では母が腕から血を流して工具を振り上げていた。
私は母の腕が振り下ろされる前に無我夢中で母親に飛びついた。
「やめて!」
そこで初めて母は私の存在に気が付いたようだった。
私は母の腕を必死で掴み、力の限り引き離そうとした。彼女の目は激しい感情に満ちていたが、私が声をかけ続けるうちに、徐々にその光は弱まり、やがては涙に変わった。
「ごめんなさい……アヤベ……私、もう……」
その言葉を最後に、母は力なく道具を床に落とし、その場に崩れ落ちた。私はすぐに母の側に座り込み、彼女を強く抱きしめた。母からはじっとりとした温もりが感じられ、彼女の肩が小刻みに震えているのが伝わってきた。長い間、私たちは言葉を交わさずにただその場にいた。
母が落ち着いたのを確認してから、私は声をかけた。
「もうそんなことはやめて……。私がいるわ。
「でもアヤベも、すぐに母さんをおいていくのよ。アヤベも、お父さんみたいないい人と出会って、恋をして、結婚して、子供ができて……。子供は成長するんだから。アヤベはただでさえウマ娘なのよ、すぐに大人になる。母さんは結局独りぼっち」
この時、ようやく私は母の本心を理解した。
私達ウマ娘は、寿命の関係上、自分が先に死ぬことについては受け入れられるケースが多い。私達の寿命差は、何千年も前から繰り返されてきた世の真理だ。だから、パートナーはお互いに、ウマ娘側が先立つことの覚悟を固めておく。しかし、逆に「人間側が先に死ぬ」という場合は極めて少なく、その死を受け入れること、孤独の中に置かれることの難しさは想像に難くない。
母の心の中には、失った家族への深い悲しみと共に、私への愛情が溢れていた。
だが、それは同時に、私を失うことへの深い恐怖でもあった。私たち母娘にとって、この家は喪失と愛情が交錯する場所となっていた。そして今、その愛情が母を苦しめ、縛り付けていたのだ。
こんな状態の母を一人にしてはいけない――そう思った私は、母を安心させるため、精一杯の笑顔を浮かべてこう言った。
「私は大きくなったりしない。おいていかないわ。私はいつまでも母さんの娘よ。ずっとあなたの子供」
そう言って私は母をさらに強く抱きしめた。部屋には壊れた家具の残骸と、過去と現在が交錯する重苦しい空気が満ちていたが、母との間に流れる温かな絆はそれらを包み込むようにして存在していた。
「ありがとう……アヤベ……本当に……ありがとう……」
母は涙ながらにそう呟いた。
私たちはしばらくの間、言葉を交わさずにお互いの存在を感じ合った。部屋には静けさが戻り、外から聞こえる夜の虫の音だけが時間が経過していることを教えてくれた。
その夜、私たちは長い時間をかけて話し合った。過去、家族について、そしてこれからのことについて。その話し合いの中で、私たちは一つの大切な決断を下した。
「アヤベ、私たち……もう少し一緒に時間を過ごしましょう。もう少し……ゆっくりとね」
今の母に必要なのは、なによりも私の存在で、それが私たちが取り組むべき治療だ――
「もちろんよ」
そう思った私は、母の言葉を了承した。
今思い返せば、この瞬間こそが、私に呪いがかかった瞬間だった。
本作を書くにあたって、活動報告欄で頂いた「トレーナーがウマ娘を残して事故で早逝してしまう話はどうでしょうか」というコメントを参考にさせてもらいました。
ネームドではありませんが、アヤベさんの母親にそのまま適用させてもらいました。
ちょくちょくあるアイデアではありますが、寿命差世界ではまた違った味わいが出てきて、個人的に気に入っています。ありがとうございます。
付記すると、実はこのストーリーの元ネタはもう一つありまして、それは「鉄腕アトム」です。
どこに鉄腕アトムの要素を取り入れているのか分かったら、マ~ジですごいです。
本気でわかる人いるのかどうか気になるので、「これかな?」と言うのがあったらコメント欄に書いてみていただけると嬉しいです。
過去編を書き終わったら、鉄腕アトムのどこを参考にしたのか、答え合わせを含めて、制作過程を活動報告に上げようと思います。
お楽しみに!