ウマ娘の寿命が現実の馬と同じ世界線の恋愛事情 作:daidains
ところで前話のあとがきで書いた、「鉄腕アトム」要素がどこにあるかわかりましたか?
あの日の母との約束以降、私は母と過ごす時間を、なるべく多くとるようにした。
「妹の分も一緒にいる」という約束を果たすため、私はレースや放課後の練習、クラスでの活動などからは遠ざかってなるべく早く帰宅するようにしていた。
ほとんどの生徒が委員会活動などを通してトレセンに何らかの形で貢献をする中、そういった貢献を一切しないで毎日さっさと帰宅してしまう私に対していらつく同級生もいたのも事実だ。時には直接苦言を呈されることもある。
しかし、それでも私は母親のため、同級生の呼びかけを無視して帰宅するようにした。
そうした日々を重ね続けたおかげで、母の不安定さはある程度鳴りを潜め、徐々に回復の道をたどっているように思われた。実際、以前ほど病的に仕事に打ち込むこともなくなった。
しかし、完全に克服できたわけではない。母は、私が不在になると途端に不安に苛まれるようであった。
「アヤベ……どこへ行ったの?」
母親はずっと私の姿を求めていた。私が帰ってくると彼女は決まってこう言って出迎えた。私はそんな母親を安心させようと、できる限り彼女といる時間を増やそうとしたが、それでも足りないくらいであった。
私は、走りたい。
「妹の分まで生きる役割を強制されてほしくない」と母は語っていたが、残された者としての使命があることもまた真理だと思う。
だから、本来私は高等部に進学するタイミングで入寮し、レースに注力する予定を立てていた。しかしこのような状態の母を放置しておくこともできない。そのため私は入寮の予定をズルズルと先延ばしにして、自宅通学と言う形を取り続け、今は高等部1年の夏の終わりを迎えていた。
私はこの時期になってもなおメイクデビューを済ませていないどころか、自分を担当してくれるトレーナーすら見つけていなかった。そもそもレースに出ずにサッサと帰宅しているのだから当然だ。
事情が事情なので学園側もある程度柔軟に対応してくれているが、それも最早限界に近い。最近は学園側から「トレーナーを見つけるか、チームに所属するように」との通告を受け続けており、これ以上放置すれば退学すらあり得る状況だった。
しかし、だからと言って、練習に時間を割くわけにもいかない。
一日、二日程度ならともかく、練習で私の帰りが遅くなる期間が長引けば、母はきっとまた
過去の悲しみに飲み込まれてしまう。私が母のそばにいなければ、彼女の心の傷は再び開き、かつてのように自分を傷つける行動に出るかもしれない。だから私は、レースや練習に出ることを躊躇っていたのだ。母の安定が最優先であり、それ以外のことは後回しにするしかなかった。
この日も、授業が終わった後、いつものようにすぐに私は帰宅しようとした。したのだが――
「ちょっと、アンタ、待ちなさい」
「……何?」
呼び止められた私は、その声の主に振り向いた。そこには、クラスメイトが立っていた。彼女は私を度々非難しているメンバーの一人で、私に対して明らかに敵意のこもった視線を向けている。
「アンタ、最近何やってんの」
「何って……別に」
「別にじゃないでしょ?毎日毎日授業が終わるとすぐどっか行っちゃうし。それに最近ずっとトレーナーもつけずにいるじゃん。練習さぼってるってことでしょ」
「別にさぼっているわけじゃ」
「じゃあ何なのよ!毎日毎日、早く帰るだけ帰って!ちょっとくらいトレセン生としての自覚を持ったらどうなの!?学校の仕事も何一つせず任せっきりにして!これ以上続けると、アンタ本当に退学になるよ。それでもいいの!?」
「……」
「何とか言ったらどうなの!?」
相手は早口に捲し立てると、私の腕を強引につかむ。
「……私には私の事情があるの」
私はそう答えると、彼女の手から腕を解放しようとした。しかし、彼女は手を放そうとしない。逆に、彼女の表情は更に険しくなり、声を荒げた。
「事情があるって、何の事情よ!?ウマ娘は皆、トレセン生活の中でいろんな困難に直面してるの!でも、みんな何とかして乗り越えてるのに……アンタに至ってはさんざんお目こぼしもらってきたのに……アンタだけがこれ以上特別扱いされる理由がどこにあるのよ!ほんの少しでも自分の家のこと以外を考える気はないの!?」
「それは……」
「走るつもりがないんならトレセンなんて辞めて他の学校へ行け!入りたくても入れないやつが山ほどいるのに……!それを自覚もせず……」
その瞬間、後ろからもう一つの声が介入した。
「ちょっと!何の騒ぎですか!?」
艶やかな金髪をセンターで分け、おでこを大きく出した髪型が特徴のウマ娘が、私たちの元まで歩いてきた。
「トップロードさん」
「トプロ委員長!」
ナリタトップロード――彼女は私のクラスの委員長で、学園内でも有名な生徒だ。
彼女は私やクラスメイトの二人を交互に見ると、少し困ったような顔をした。
「落ち着いてください、何があったんですか」
トップロードさんが言葉をかけると、周りが少しずつ静まり返ってきた。クラスメイトは彼女に向かって、今の状況を一気に話し始める。
「トプロ委員長、アヤベは、毎日授業が終わるとすぐに帰っちゃって……トレセン生としての自覚が全然ないんです。それにトレーナーもつけずに、練習もサボってるみたいで……」
「ですから少し落ち着いてください、アヤベさんの事情も聞かないと」
「委員長!事情があったとして、これ以上トレセン生として何も責務を果たさない状態を放置していい理由にならないでしょ!?」
「それは……」
「委員長はアヤベの肩を持つんですか?」
トップロードさんはこういう荒事に慣れていない。この場を収めようとしてくれているが、クラスメイトはその程度では収まらない様子だ。彼女はなおも畳みかけるようにして私に言葉を浴びせる。
「……いいわ。こうなったら実力行使よ!アンタ、私とレースで勝負しなさい!」
「……え?」
突然の申し込みに、私はらしくもない素っ頓狂な声を出してしまった。
「アンタのレースの才能は、噂話だけど私も聞いてる。でも!私が勝ったら、実力不足を認めて練習しなさい!」
「ちょっと、そんな勝手に……」
トップロードさんが慌てて止めようとする。しかし彼女はそれを振り切って、さらに言葉を重ねた。
「才能にかまけてるやつの行きつく先を私が教えてあげるわ。明日の放課後にターフに来ること。いい?約束だからね!」
「あっ、ちょっと!」
彼女はそう言って廊下を走り去って行った。
「アヤベさん……」
トップロードさんが心配そうに私を見つめる。
「ごめんなさい。私が不甲斐ないせいで」
「いえ、トップロードさんのせいじゃないわ。気にしないで」
「アヤベさんは、それでいいんですか?」
「……私は」
******
翌日放課後。私はターフに立っていた。周囲には多くのギャラリーが集まっている。その中にはトップロードさんと、そして彼女の取り巻きの姿もあった。
「逃げずに来たんだ」
昨日のクラスメイトは私に向かってそう言い放つ。
正直なところを言えば、無視して帰ってしまおうと思っていた。しかし、あの後彼女は「私とレースをする」ということをあちこちで言いふらしており、朝登校した時点で既にレースを行うことが既成事実化してしまっていた。なし崩し的に、私はレースに臨むことになったのだった。
「逃げられないようにしておいてよく言うわ」
「ふん、減らず口をたたくんじゃないわよ」
彼女の態度には、芯の通った自信が見て取れた。自分の勝利を確信しているのだろう。
彼女は本格化が私より早かったため、すでにデビューを果たしている。そのうえOPクラスに昇級を果たしており、有望株の一人だ。デビューすらしていない私の勝ち目は極めて薄い。
そして、また別の、私が不利な理由というのもあった。
「芝の2000mでいい?」
「ええ」
スタートラインとゴールラインには既に彼女の取り巻きたちが待機しており、レースの準備に勤しんでいた。ゲートを使用するような本格的なレースは行わず、スタートは周囲の声を合図に切る、簡易的なレースを行う。
「準備ができたらスタートラインに集合してください」
取り巻きがそう促す。私はスタートラインに向かった。
「いいですか?……よし、じゃあ、位置について……よーい、ドン!」
******
レースのスタートが切られると同時に、私は脚を全力で駆け出した。しかし、相手の背中はみるみる遠ざかっていく。10馬身近く離れたところでペースは落ち着き、私と彼女の距離差はいったん固定された。相手が逃げウマというわけでもないのに、この差はよろしくない。私はもう少しだけ距離を近づけようとするが、ちょうど透明な壁でも存在するかのように、全く距離は縮まない。
やっぱりだ。
やっぱり左脚が動きづらい。
レースの途中、私の左脚は不自然な重さを感じていた。その痛みは時折鋭く、時には重く感じられるが、今はそれを意識する余裕もない。だが、どうにもこの脚が私の動きを制限している。これが妹の脚なのだという事実が、今、重くのしかかってくる。
いくら双子の妹の脚と言われても、完全に自分のものとして機能するわけではない。事故の影響は、まだ私の身体に深く刻まれていた。
そうこうしているうちに、相手が最終コーナーに侵入していく。コーナーを曲がりきると、彼女はさらに加速していく。一方の私は、左脚の違和感に手を取られ、スピードを上げるどころか維持するのも難しい状況だ。
最終直線に入ると、周囲の応援の声が大きくなる。しかし、その声の中で私が聞き取れるのは、彼女の取り巻きたちの嘲笑のような声だけだった。
「見た?あれが実力不足の証拠よ!」
私は内心で叫んだ。いや、こんなはずじゃない。
私にも夢があった。トレセン学園に入学した時は、大きな夢を胸に秘めていた。しかし、家族を失い、母を支えることが私の生活の中心になってからは、その夢を追いかけることすらままならなくなっていた。
「……もっと、できるはず……!」
私は内心でそう叫ぶが、無情にも私の脚は重いままだ。
最早万策尽きたと思われた中、ある声が聞こえた。
******
正直なところ、アヤベさんの負けだと思っていました。
クラスの委員長として、彼女を何とかしてあげたい。その思いはありましたが、それでもアヤベさんがあの子に比べてトレーニングをしていないというのも事実でした。
そして、レースが始まってみると、その予想を裏付けるように二人の間は広がっていきました。しかし、レースの終盤、予想外のことが起こりました。
アヤベさんの走りが、突如として変わったのです。最終コーナーを過ぎたあたりから、彼女の動きが一変しました。それまでの左右のバランスの崩れたフォームから、体の全部が全て連動して動いている流麗なフォームで、まるで風を切るように加速していく。それまでの重さが嘘のように、彼女はスムーズに走り出しました。
彼女の背中には、何かを背負っているような重圧があったんです。けれども、その瞬間だけは、全てを忘れてただ前へと進むアヤベさんがいました。
私は息をのんでその光景を見守りました。距離は徐々に縮まり、ついにはアヤベさんが彼女を追い越しました。最終直線では、アヤベさんのリードはさらに広がり、見事な勝利を収めました。
レースが終わった後、アヤベさんは疲れ果てた様子でしたが――奇妙なことに、私よりも、レースの相手の子よりも、取り巻きの子たちよりも誰よりも――アヤベさん自身が、何が起こったのかわからない、と言う様子でした。
*******
何が起こった?
変な声がしたと思ったら、突然うまく走れるようになって……。
「……っ!ろくに練習もしていなくせに、なんで……!」
ゴール板を駆け抜けた私は、その場に座り込んだ。
レース相手は、信じられない、と言う表情をしている。こちらを睨む目は震え、怒りと悔しさに満ちていた。
勝った?私が? 信じられないが、目の前の光景はそれが事実であることを物語っている。
「アヤベさん!」
取り巻きの子たちを振り切って、トップロードさんがこちらに駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!?」
「……ええ」
「……途中で何があったんですか?」
「わからない、わからないの」
私はそう答えるのがやっとだった。
******
その後私は帰宅する準備を整え、トップロードさんと別れた。いつもより遅くなってしまったので、帰路を急ぐ。道中私の心の大部分を占めていたのは、レース中の、あの奇妙な出来事だった。
『まだ、もっと走れるはずだよ!』
私の耳に残っているのは、確かにあの声だった。本当に現実だったのかどうかすら定かではないが、あの言葉によって私の身体が突然軽くなり、走り方が変化したのだ。
「……」
私は一人、物思いにふける。
あの声は結局何だったのだろうか?でも確かに『……ねえ、ねえ、聞こえる?もしもし?おーい?』聞こえ……。
「!!また……」
またあの声が聞こえる。一体誰なの? 私は周囲をきょろきょろと見回した。しかし、周囲に人影はない。あるのは夕暮れで色づいた銀杏並木だけだ。
『上、上だよ』
声に促されるままに私は上を向いた。するとそこには、オレンジ色の空の中を泳ぐように、半透明の「私」がいた。
『久しぶり!お姉ちゃん!』
「!!」
私は驚きのあまり言葉を失った。目の前の人物は私の姿形を模している。しかし、その顔は私ではなく、私の妹だった。
『……どうしたの?』
「あなた……どうして……」
『どうしてって、お姉ちゃんが困ってたからだよ。片足しかないけど、力を貸してあげようと思って……戻ってきちゃった☆』
「そうじゃなくて!どうしてここに……」
『うーんとね……まあ、細かいことはいいじゃん!私にも未練とかあるんだよ、いろいろとね』
妹はそう言うと、私に近づいてきた。そして、不思議なことに、妹の姿は半透明でありながらも、その温もりは確かに私の肌に伝わってくる。
「……あのね、私、死んじゃったでしょ?私の体で残っているのは、お姉ちゃんの左脚だけ」
「ええ……そうね」
冷静に考えればおかしな状況だが、この時の私はあっさりと目の前の光景を受け入れていた。妹の温もりは、この状況を自然に受け入れさせるだけの何かがあった。
『私は死んでいるけど……その脚が、本来の役目を果たしている間だけは、レースを走っている間だけは、その脚を依り代にして、こうやって会いに来れるの。それだけじゃない。直接力を貸すこともできる」
「……今日のレースってもしかして」
「いきなりうまく走れるようになったでしょ?私が力を貸したの」
「本当に……?」
私は半信半疑ながらも、妹の言葉に心を動かされる。そうだ、確かにレース中には何者かの力を感じた。それが妹だったとは、思いもしなかったけれど。
『うん、本当だよ。お姉ちゃん、私がいなくなってから、ずっと悲しい顔してた。だからね、少しでもお姉ちゃんの力になりたくて……』
妹はそう言いながら、明るく微笑む。その表情には、かつて私たちが共有した幸せな日々の影がちらりと見える。
『……でも、もうそろそろ時間みたい。レースから時間が経ちすぎちゃった。また会いにくるね』
そう言うと妹の姿が少しずつ薄れていく。
待って、まだ話したいことが――だから、私は思わず叫んだ。
「待って!」
『ごめん。ムリ!でもレースに出ればまた会えるよ!』
そう言い終わると、妹の姿は完全に消え去った。私は一人、さっきまで妹がそこにいた、夕暮れの道を見つめながら、妹の言葉を反芻していた。
「レースに出ればまた会える……」
妹の真意はわからない。しかし、少なくとも彼女がまた私のもとに戻ってきたこと。そしてレースの世界でまた会えるという事実に、私は確かな希望を感じていた。
「おーい!君!」
神秘的な余韻に浸っていると、背後から私の名を呼ぶ声が聞こえ、私を現実に引き戻す。今度はしっかりとした、現実味のある声だ。振り返ると、そこにはスーツ姿、ある若い男性がこちらに走ってきていた。よほど一生懸命に走っているのか、その呼吸は荒い。
「ああ、間に合った……すまない、いきなり呼び止めて」
「いえ、大丈夫です。それより何か御用でしょうか?」
息を切らしている彼に対し、私はそう尋ねた。すると彼は息を整えながら、話し始めた。
「……結論から。君をスカウトさせてほしい」
「え?」
「いきなりごめん。俺はここのトレーナーで……さっきの君の走りを見たんだ」
彼は何度か深呼吸をし、息を整えてから続けた。
「本当に素晴らしい走りだった。君には確かな才能がある。だからこそ、俺のもとでさらに磨きをかけてみないか?」
彼は私の能力を見込んでスカウトにやってきたらしい。それ自体はありがたいことだ。しかし、私の頭の中は複雑な思いでいっぱいだった。母のこと、妹のこと、そして私自身の夢。すべてが交錯して、どう答えていいかわからない。
「でも、私……」
彼は私の言葉を遮るように言った。
「わかってる。君には家庭の事情があるらしいってことも。だから、練習は最低限にする。それでも、君なら結果を出せるはずだ。君にはそれだけの才能がある」
彼の真っすぐな視線が私を捉えて離さない。
私はしばらく黙って返事を考えていたが、やがてその決心が固まると、私は彼に向かって深く一礼した。
「……わかりました。お願いします」
彼の提案に、私はそう答えた。もちろん、トレーナーを見つけて、レースに出なければ、待ち受ける未来は退学だけ、という当時の危機的状況も関係した決断であったことは間違いない。しかしそれ以上に、私自身、妹の言葉を思い出して、この決断に至ったのだ。
『レースに出ればまた会えるよ!』
レースに出ることで、再び妹との繋がりを感じられる――それだけで私にとっては、この道を選ぶに足る理由だった。
「……本当か?もっと知り合ってから決断しても……」
「いいの。どうせ別のトレーナーを見つける時間なんて、私には残ってないから」
「……わかった。後悔させないように頑張るよ」
これが、私と彼のファーストコンタクトだった。
続きます