ウマ娘の寿命が現実の馬と同じ世界線の恋愛事情 作:daidains
その分1万字越えのボリュームです。
以前完結まで3万字行くかも、と言いました。現実は3万字余裕で超えたのにまだまだ終わらないじゃないか!
あとダイマします。こちらのメジロアルダン同人誌で、1ページだけ詩を提供させていただきました。私の好きな作家さんなのでよろしければ応援をお願いいたします。私には一円も入ってきません。
https://x.com/IZSWaaaaaaaaa/status/1809529461370438036
詩を閲覧したいだけでしたら、別枠で連載中の『駆ける思い、詩にのせて』で見ることもできます。
https://syosetu.org/novel/346493/1.html
負けらしい負けをしたのは初めてのことであったかもしれない。
デビュー戦は最終的に4着という結果になってしまったものの、それは降着処分の結果であって、手ごたえ自体はしっかりあった。
しかし弥生賞の負けというのは、私の中でずっと尾を引いている。
あの背中――地下バ道でみた、金色の背中が、未だあの日と同じように、私の記憶に立ちふさがっている。
人気は一番だった。上りも最速だった。でも結果は二着――届かなかった。
私は、彼女に負けたのだ。クラシックに挑む上で避けては通れぬ強敵、トップロードさんに。
『ごめん、お姉ちゃん私がうまくやれなかった』
レース後、妹はそう言って私に謝った。
「上りが最速で『うまくやれなかった』ことなんてないわ。私がダメだったの」
欠けているのは私の方だ。思うに、私はずっと何かが欠けたまま生きている。そしてそれをまだ取り戻せていない。
『……悔しくないの?私を責める気は、少しも、ないの?』
「ないわ」
負けが悔しくないと言えば嘘になるのかもしれない。今までずっと勝ってきた。メイクデビューのように負けること自体はあったけど今回の敗戦は質が違う。重厚で絶対的な敗北だ。
でも不思議と涙は出てこなかった。どこか他人事のような感覚が付きまとう。負けを実感できていないのだろうか?悔しいから泣いた方が良いはずなのにどうしてかそう思えなかった。
今の私は一人放課後の教室で佇んでいる。そしてどこへ向かうでもなく、なんとなく右耳と左耳の飾りを交互に触っていた。右のメンコと飾りは、かつてトレセンの合格祝いとして、母からプレゼントしてもらったものだ。事故の後は妹がつけていた飾りを引き継いで左耳につけている。お守りみたいなものだ。
誰もいなくなった教室の窓の外では天気雨が降りはじめていた。ちぎられたわたあめのような雲が、風に流されるままにふわふわと浮かんでいる。地面にしずくがひとつ、またひとつとまぶされていき、そうして暗く色を変えた地面が、太陽の光でくっきりと映しだされていた。
窓を開け放つと、草原を思わせる匂いが私の身体を包み込んだ。それは幼いころに感じたかもしれない、ノスタルジーを感じさせる匂いだった。
「プルースト効果ってやつかしら」
私はそう独り言ちる。プルースト効果――フランスの作家マルセル・プルーストが提唱した心理現象で、ある匂いを嗅いだ際にその匂いの記憶が呼び起こされるという現象。
「『失われた時を求めて』……」
本のタイトルを呟く。あの本は私も少し読んだことがあった。でも内容はほとんど覚えていない。ギネスに登録されるくらい長い小説だから、そもそも全部読んでいない。ただとても印象に残っているシーンがあったのだ。それは主人公がマドレーヌを食べるシーンである。主人公は仕事の合間に紅茶とマドレーヌを食べることで、自分が今フランスにいることを思い出すのである。
彼はフランスにいること――つまりは自分の所在――を思い出した。
さて、一方
もちろん日本国東京都府中市などという答えを欲しているわけではない。
この世界の中で、戸籍に相当するものが欲しい。何者かになりたいなんてたいそうなことは望んでいない。私になりたいだけ、それだけだ。
私の中にずっと残っている失われた過去の一つに、アクセスできそうで、できないもどかしさ。焦燥感と懐かしさという、一見矛盾しそうな感情どうしを抱え込みながら私は目を瞑り、息を吐く。そしてそれらをコーヒーに注がれたミルクのように混ぜ合わせようとした。
とりあえずの平衡状態に到達し、ゆっくりと目を開いたとき。
「……アヤベさん」
後ろを振りむくと、そこに立っていたのはトップロードさんだった。彼女は少しばつが悪そうな顔をしている。
「……トップロードさん、どうしてここに?」
「気にしちゃいますよ。弥生賞の前から、ずっと何か考え込んでいるみたいだったので。気になっちゃって」
「そう、心配かけたわね。ごめんなさい」
「いえいえそんな!」
トップロードさんは手を振りながら否定した。本当に優しい人だ。社交辞令だけではない、人の小さな機微に気が付けるその温かさこそが、彼女の美点なのだと改めて実感させられる。
――貴女くらい
彼女と言葉を交わしているうちにそんな思いが口を突いて出てきそうになった。しかしぐっと堪えると当たり障りのない言葉をかけてその場を切り抜けようとしたのだが、彼女から思わぬ提案が出てきた。
「よかったらこれから二人で散歩しませんか?しばらく外の空気を吸ったら気が晴れるかもしれませんよ」
「雨が降ってるのに?」
「たぶんそんなに長く降らないと思います。天気雨ですから。それに雨が降った後の方が、すごく良い空気になりますよ」
草や土が雨を吸って、それが空気中に発散されて……って感じで――彼女はそう続けようとしたが「すみません、やっぱりうまく言えません!」と笑った。私はその笑顔を見て「ああ、この娘には敵わないな」と思ったのだった。
私の、負けなんだ。
******
新学期はいろいろごたつくものだ。だから一か月なんて時間はすぐ過ぎてしまう。ちょうど天井のシミを数えている時のように。
「――アヤベ、君は、制限こそあったかもしれないが、その中でできる限りのことをやってくれたと思っている。確かに弥生賞は負けた。でも本命は
新しい年度になって心機一転、なんて人も多いが、トレーナーは相変わらずの熱っぽい語り口調で、控室の中、私にそう語り掛けた。
「本当にそう思うの?」
「……痩せてしまったことは懸念材料として確かにある。君自身が何かに悩んでいることも」
「正直ね、だから信頼できるのだけれど」
「俺から言いたいことは、『他人に勝つ』ことにとらわれ過ぎないでほしいってことだ。大事なのは出し切ることで、君のポテンシャルを思えば、結果なんて後からついてくる」
「……ありがとう」
トレーナーは私の目をまっすぐと見つめながら言った。本当に彼は変わらない。私と違って、自分の所在を探すことなどしなくてもいいのだろう。
彼の視線から逃げるようにして、私は天井を見上げた。弥生賞と同じ会場のはずなのに、前より天井が低くなっているような気がする。なんだか息苦しい。
すると控室のドアの向こうから足跡が近づいてきて、コツコツコツとドアを叩いた。「どうぞ」と答えるとすぐにドアが開き、係員が顔を覗かせた。
「失礼します。そろそろお時間です」
わかりました。すぐ行きます――私はそう答え、パタパタと部屋を出た。「がんばれよ!」という声が背中越しに聞こえ、私は振り返ることなく頷いた。
部屋から出た後、ターフを目指し地下バ道をカツカツと音を立てて歩く。地上を目指しているはずなのに、反響した音に包まれ、まるで音の海に沈んでいくようだ。そんな中、別の足音が混ざっていることに気がついた。その足音はどんどん私の方に近づいてくる。
「おーい、アヤベさんじゃないか」
「……やっぱり」
「一番人気、おめでとう」
「ありがとう、オペラオーさん」
「前も呼び捨てでいいと言ったのに、よそよそしいね。どうだい?ボクは間に合わせてみせたよ」
足音の主はテイエムオペラオーだった。彼女は不敵に笑いながら私に言った。彼女はかつて宣言したように、過酷なローテをこなしきって、クラシックレースの第一戦である皐月賞の切符をつかみ取って見せた。その自信は、まさしく宝塚で星をつかんできた実力派スターのようで、強者の佇まいといっていいものを全身から放っている。
「なら、オペラオー。ええ、本当にすごいと思うわ」
私は素直に称賛の言葉を口にした。しかし彼女はそれに気をよくすることもなく、真剣な表情で私を見つめ返してきた。彼女の鋭い視線が私の瞳を射貫く。私はつばを飲み込んだ。ナルシストであっても、彼女は己自身だけを見ていたわけではないのだ、ということを改めて思い知らされた気がした。
「本当かな――君は何を気に病んでいるんだい?ボクはその瞳の中にいたけれど、その実何も見えていないようだよ」
「……」
「あの時からあまり変われていないように、いや、もっと悪くなったようにすら見える」
彼女はさらに距離を詰めてきた。私の目と鼻の先から、私を覗き込んでいる。その声色からは冗談やはったりと言った雰囲気はなく、本当に私の中身を覗き込もうとしているようだ。
「今一度尋ねるよ、アヤベさん」
そうして彼女は畳みかける。
「君は何がしたいんだい?」
******
皐月賞はもう中盤に差し掛かっていた。
現在位置はバ群の中団やや後ろ。すぐ右側、内の方にトップロードさんがいる。これが今回の作戦だった。彼女に後塵を拝した弥生賞の反省を活かし、徹底的にマークすることを決めていた。トップロードさんもこちらの存在に気づいていて、時折こちらを横目で確認している。普段は決してお目にかかれない、ほとんど睨んでいると言っても過言ではない目つきだった。彼女の意気込みは並大抵のものではない。彼女は、いろいろなものを背負って走ることを自分から引き受ける覚悟がある。それが今の彼女を形作っているものだ。
『――今来たよ!お姉ちゃん!』
「!」
来た。妹の声が聞こえた。ここからだ。
「トップロードさんに合わせて仕掛けるから、そのタイミングでお願い」
私は周囲に怪しまれないよう、小さな声でそう言った。レース中のごうごうとした足音の中ではかき消されてしまうような、そんな程度の声ではあったけれども、妹にはきちんと届いたようで、『ラジャー!』と返事が返ってきた。
トップロードさんのすぐ外側に張り付き続け、状況を見守る。その間、私と彼女の間では見えない火花が散り続けていた。私は自分の全力を使って、彼女はそれを上回る力で、一歩でも先に進もうとする。
そうして最終コーナーが近づいてきた頃――彼女が、少し姿勢を低くして――ぐっ、と踏み込んだ。
「『いま!』」
彼女の足元で爆ぜた地面を合図にして、私もトップロードさんに追いすがる。妹が左脚のエンジンを回す。
雨は降っているが、バ場の状態は悪くない。ここから追い込むことも、十分に可能なはず。
彼女を右前方に見るようにして、最終コーナーを回っていく。
「はあああああっ!!」
彼女の気合が私の耳に突き刺さってくる。
しかし。
そんな声を突き破り――左後方から、「ズンッ」とした重い音が聞こえた。まるで、何かが地面に突き刺さるような音だった。
私は思わずその方向に目をやった。
「は」
――オペラオー!
彼女の姿が目に飛び込んできた。大外を回って一気に距離を詰めた彼女が、私達に並ぶようにして駆けてきている。
……速い!
『抜かれちゃう!』
妹が訴えてかけてくる。
「まだ!」
私は踏ん張った。抜かせまいと必死に足を回す。
「うおおおおおおお!」
オペラオーの咆哮が聞こえる。その声はどんどんと近づいてきて――やがて並び――そのまま、私を置いて去っていった。
「くっ!」
まわせ、まわせ、ぶんまわせ。
そうは思ってみても、トップロードさんとオペラオーはどんどん私から離れていく。その背中は、まるで翼でも生えているかのようだった。
「はあ……っ!」
私は空気を欲するダイバーのように思わず空を見上げた。
雨雲に阻まれて何も見えない、陰鬱な灰色の空がそこには広がっているだけだった。
******
『一着はテイエムオペラオー!二着にはナリタトップロード!そして三着は――』
名前が順に読み上げられていくが、それを待つことなく私はターフを後にしようとしていた。どうせ呼ばれることはない。
つまり私は掲示板に入ることができなかった。結果は6着。一番人気を背負っておいて、なんとも情けない結果だ。
『お姉ちゃん……』
「……ごめんなさい」
『……ううん、私も』
そんな短い言葉を交わすと妹は押し黙った。きっと妹もまた私に対してかける言葉が見つからなかったのだろう。
『……ねえ、お姉ちゃん』
しかし幾ばくかの沈黙ののち、妹は再び口を開いた。何か、どうしても伝えたいことがあるとでも言いたげな顔をしていた。
「どうしたの?」
『……あのね、最近気になることがあって。レースのことなんだけど――』
「――何だったんだい?今日の体たらくは」
妹の声を遮って、私の隣に誰かが立った。いや、誰かなんてぼかす必要はない、この声は。
「……オペラオー」
「嫌な予感はしていたけど、まさかここまで酷いとはね」
「酷いのは自覚しているわ」
「していない。自分事だと思っているように思えない。自分がどれだけ酷いかわかっていないんだ、君は」
「……どういうことかしら」
オペラオーはそこで一度黙った。相変わらず視線を私にしっかりと合わせながら、何かを抑え込んでいるかのように語り始めた。
「目的がない」
彼女は俯きながら首を横に振って、再び顔をあげた。その口は真一文字に結ばれている。
「自分の夢がない、重荷を理由に自分から背負おうとしない、そして何かに立ち向かおうともしていない。諦めるために負け続けているのかい?なぜ一度でも自分で立ち上がろうとしないんだ?」
彼女の射貫くような視線が容赦なく私に突き刺さる。それに耐え切れず思わず目を逸らそうとしたところで「逃げるんじゃない!」という怒号が飛んだ。
「君は!!!自分のレース結果を!!!それ以外のことだって!!!自分に起きたことを、たったの、一度でも、自分のこととして、本当に受け止めたことがあるのかい?」
オペラオーは私の肩をつかみ、強引に私と視線を合わせた。その目はまるで私を焼き尽くすかのように燃えているように見えた。
「だって君――自分で何かを決めたことがないじゃないか!今だってレースの結果を直視しようともせず、あまつさえボクから逃げようとしている。『周りがこうだから』、『求められたから』、『仕方がないから』、受け入れる……それだけにしか見えない。これじゃあ、歩くべき道を示す誰かがいないまま大きくなっただけのお人形さんだよ。君に大変な事情があるらしいってことは、人づてだけど聞いている。それでも、ボクは君に自分をはっきりさせる選択肢を考えてほしいんだ!自分が何者か決められるのはアヤベさん、君自身しかいないんだよ」
堰を切ったようにあふれ出す彼女のその言葉には、一言一言に熱が入っていた。いくら彼女でもここまで言うつもりはなかったのだろう、息を切らしたその姿は初めて見たものだった。私は何も言い返せなかった。
「何か言い返してくれないかい、アヤベさん。受け入れるだけなんて、もうやめてくれ。それ以外にできることはあるはずなんだ。そうじゃなきゃ君は君自身になれない。今日だって、アヤベさんが走っているんじゃなくて、
「――!」
「オペラオーちゃん、そこまで」
気がつくと、私たちのすぐ近くに、トップロードさんが立っていた。彼女はオペラオーの肩に手を置いて、なだめるように語り掛ける。
「……すまないね」
「ううん、大丈夫。でもアヤベさん、私からもお願いです。『今』をしっかり見つめてみてください」
「……」
「正直な話、私もオペラオーちゃんと同じことを思っている部分はあります。私は……いえ、私たちは、貴女が何に悩んでいて何を思っていてどうしてほしいかはわかりません。でもそれはきっと私たちには言いにくいものなんですよね?だから何も言ってくれなくても構いません」
「でも」
「『でも』は無しです。だって、トウィンクルシリーズは始まったばかりで、アスリートとしての私たちはまだ出会ったばかりですから。だから……今じゃなくていい。いつかアヤベさんが自分の言葉で私たちに何かを伝えてもいいなって思った時でいいんです。それまで待っていますから。ですから他ならぬ、貴女自身の意志で、『今』を選んでください」
――今を大切にすることが、今に流れ込んできた全ての過去と、ここから流れ出す全ての未来を大切にするってことでもありますから。
トップロードさんはそういうと、私に礼をした。そして背中を向け、去っていった。
「……君には才能があるよ、アヤベさん。これは皮肉じゃない。本心だよ」
オペラオーが、つぶやくように言った。そうして彼女も去っていった。周りにはもはや誰もいない――誰も?
「……あの子はどこ?」
気が付くと妹もいなくなっていた。いくら見渡してみても、どこにもいない。ウイニングライブより前にいなくなるなんて、これまでになかったことだ。
私は一人になった。
相変わらず雨が降っていた。でも、先ほどまでの勢いは失われつつあった。少し弱まったぬるい雨と、駆け抜けていく風の音を聞きながら、私は傘も差さずに立ち尽くしていた。
******
私にも、夢があったはずだった。
左脚の接合部を撫でる。家族がみんな揃っていたころ、何も欠けていなかったころ。家族全員で「トレセンへ行く」という目標を定めて、妹と二人で必死にそれに向かって努力していたころ。
懐かしい光景を思い出す。大人たちがその夢を真剣に応援してくれていたこと。父と母が私のことを自慢の娘だと言ってくれていたこと。そして、私がレースに勝った時にみんなが喜んでくれたこと。
立ち上がって、歩く。失われた時を求めるように、過去を探し当てるように、私は一歩ずつ進んでいく。トレーナーが荷物をまとめて待ってくれているであろう控室へ。
『だって君――自分で何かを決めたことがないじゃないか』
頭の中で、オペラオーの声が反芻される。
『諦めるために負け続けているのかい?なぜ一度でも自分で立ち上がろうとしないんだ?』
「だって」
そう言いかけて口をつぐんだ。「だって」?いつからこれが口癖になってしまったのだろう?いつからこの二文字が、私の行動の全てを縛る鎖となっていたのだろう? 何かを決意した瞬間に、諦めを口に出すことが当たり前になっていた。
私は失ったものを取り戻そうともせず、ただその状況に合わせて生きていただけ。その結果がこれだ。
『君の夢は?』
――私の、夢
『貴女自身の意志で、今を選んでください』
私の目的。なりたい自分。目指したい姿。確かにあったはずなのに忘れかけていたもの。
探せ、思い出せ、失われた時を求めろ、私は何が欠けている?今の私に流れ込んできた過去に、その答えはあるはずなんだ。
欠損部位を探すようにして、私は自分の体を触ってみる。左脚の接合部から始まり、肩、腕、胸、下半身、顔、背中。ランダムにあちらこちらを触ってみる。しかし今挙げた部分には見当たらない。どこだ?
ならば、と私は自分の頭に手をやり、そして右耳を触った。
「あっ」
――刹那、メンコと耳飾りの感触と共に、私の脳内に映像が流れ込む。
『合格おめでとう、アヤベ!……でね、じゃーん!合格祝いのプレゼント!』
『えっ?』
『ほら、アヤベがこの前見ていたメンコと……こっちが耳飾り。お父さんと一緒に選んだのよ』
『わあ……ありがとう!』
『父さんちょっとセンスに自信がなくって……どうだ、アヤベ?』
『すっごくすき!』
『そう言ってもらえるとこっちも嬉しいな。これはね、アヤベが一人でも頑張れるようにな、お守りみたいなものだよ』
このメンコを両親に貰ったときの記憶だ。あの日以降、私はこれを外そうとしなかった。耳にあてると心地よくて、安心した。
記憶の中の私はメンコをはめて嬉しそうだ。
『アヤベ、メンコの付け方わかる?』
『えっと……こう!』
『うん!上手よ』
「ああ……」
記憶の中の私は、自分の耳に耳飾りを留めた。
『トレセンでもつけてていいの?』
『もちろん、それをつけて頑張っておいで』
『うん!』
『その調子!……ところで、トレセンでは何を目指して頑張るつもりなんだい?』
「私、は……」
私は、何になりたかった?
――あのね、わたし、ダービーウマ娘になる!
そして今。私の目の前には、夢があった。
答えはちゃんと、そこにあった。
『……そうか、それはいい目標だ』
『アヤベならきっとなれるわ。母さんも、父さんも、みんな応援してるから』
「……っ」
込み上げてくるものを抑えきれずに、私は嗚咽した。その夢は、私の中の『今』と確かに結びついていた。
私の夢も、託された思いも、ずっとこうやって身にまとっていたはずなのに、気が付けなかった。ごめんね、ずっと前にもらったのに。大切にできなくてごめんなさい。これをつけてきたのに、あなたたちからもらった夢を忘れようとしてごめんなさい。
こんな娘で、本当に……本当にごめんなさい。
涙で歪んだ視界の中歩き続け、私はやがて控室の前にたどり着いた。私はそこで小さく息を吐くと、ドアに向かい合う。
――ここが、境界だ。
進むか、退くか、変わるのか、変わらないのか。私は私の意志で今ここで決めなければならない。そう自分自身に言い聞かせるようにして、私は涙をぬぐった。そして、私自身へ答えを求めるように私は扉を開けた。
******
「なんて声をかけよう……」
控室の中、アドマイヤベガのトレーナーは一人頭を抱えていた。無理もない。担当のレース結果は、これまでで最悪と言って差し支えないものであった。その上、レース後にはテイエムオペラオーがアヤベに怒号を飛ばしていたのが確認されている。アヤベのメンタルがこれ以上にないくらいにズタボロになっていることは想像するまでもなくわかる。まずどういった対応をとるべきか、頭の中で整理がつかない状態だった。
「『気にするな!次頑張ればいいさ!』……違う、なら『サポートできなくてすまなかった』?……これも違う。『とりあえず今日は帰ろう』……あ、ちょっとしっくりきたな」
「何してるの?」
「うおっ!!!」
トレーナーが独り言を呟きながら思考を回していると、突然横から声をかけられた。反射的にその方向を見ると、そこにはアドマイヤベガが佇んでいた。忍び足で入ってきたわけもないが、思考に没入していた彼には全く察知できなかった。
「そんなに驚く?」
「あ、いや……その……と、『とりあえず、次頑張ればサポートできなくて、帰ろう』!」
「は?」
焦りに焦ったトレーナーはキメラ的表現を口走ってしまった。アドマイヤベガは首を傾げ、見るからに困惑しているといった顔で彼を見つめている。
やってしまった……そう思いながらトレーナーがその失態の言い訳を考え込んでいると、アドマイヤベガの方から先に口を開いた。
「ねえ、お願いがあるの」
「……え?」
「私を、強くして」
アドマイヤベガはトレーナーを見つめたまま言った。目は赤く腫れている。しかしその透き通るような色だけは失われていない。
「……私は、本当にダメなウマ娘だった。トレーニングメニューも、片付けや準備もあなたに任せっきりだし、周りに流されるばっかりで。自分で成し遂げた事なんて一度もなかった。欠けていることだらけ。何もかもが足りないの」
彼女の言葉が、部屋に積もっていく。アドマイヤベガはトレーナーに一歩近づいて、さらに続けた。
「でも足りないことから目をそらして、欠けたところにツギハギして見えないようにして、ずっと逃げてきた。それで今までやってきたの、私。でもそれじゃもうだめ。私は……今のままじゃダメ。自分で埋めなきゃいけないの」
「アヤベ……」
トレーナーは驚いていた。アドマイヤベガがこんなにも長く、そして強く自分の考えを話すのを見るのはこれが初めてだった。
「でも、私は弱い。ずっと後回しにしてきたツケのせい。一人じゃ、何もできない。だから」
「だから、俺に『強くしてくれ』と?」
「……そう、私に欠けているものを埋める手助けをしてほしい。その代わりにあなたをダービートレーナーにしてみせる」
「――!」
「あなたに頼まれたからレースに出るってだけじゃない。私も、ダービーを取りたいの」
アドマイヤベガは言い切った。その目は、真剣だった。
「……お母さんのことは、どうするんだ?」
「自分の家のことだもの、私が何とかするわ。私の力でできることはきっとまだある。何より」
そこで一度区切ると、アドマイヤベガは大きく息を吸った。そして、これまでで最大の思いを込めて言葉を放った。
「勝ちたいの。レースにも、過去の自分にも、未来の自分に対しても。背負って進んでいけるようになりたい」
「……わかった」
彼女のその宣言にトレーナーは大きくうなずいた。もう、迷いはない。彼の目には今、アドマイヤベガが誰よりも立派なウマ娘として映っていた。
******
ふわり、ふわり。
彼女は此岸の者には見えない領域の中で、宙をぷかぷかと漂っていた。
『……おかしい。あっちにいられる時間がどんどん短くなってる』
彼女はあごに手をやり、ぽつりとつぶやく。
『レース中の憑依も弱くなってる。うまく入りこめないから、前よりずっと動かしにくかった。そのせいでお姉ちゃんは……』
彼女は目をつむった。頭の中に、皐月賞の光景が思い浮かんでくる。
『でもどうして?私の脚なんだし、私が一番使いこなせるはずなのに』
彼女はしばらく首を捻っていたが、『まさか』とやがて何かに思い至ったかのように目を見開いた。彼女の脚が、アドマイヤベガに移植されてから優に1年以上は経過している。細胞が交代するのには十分すぎる期間。ならば――
『
【遅れた理由一覧】
・就活
・実験
・短歌を読みまくってた
・グラスワンダーが南北戦争にタイムスリップする話の構想を練っていた
・他の人の作品を読んでた
・批評を書いていた