ウマ娘の寿命が現実の馬と同じ世界線の恋愛事情 作:daidains
「――今は何を考えているのかな、アヤベ」
「……ん」
レース前、控室で椅子に座りながら天井を仰いでいた私の様子を見かねたのか、トレーナーが声をかけてきた。
「……昨日、夢を見たわ」
「どんなのだったか、聞いても?そんな様子じゃ気になっちゃって」
「昔の夢よ。家族みんなそろってた頃の」
「いや、ごめん、無神経だったね」
私が少し目を伏せたのを見て、彼はすぐに謝罪した。
「いいの、気にしないで。自分もどうして今その夢を見てしまったのか、よくわからないから。誰かに話したかった」
私はトレーナーに、昨日見た夢について話した。
それは、私が中等部だった頃の記憶がほとんどだった。父も、弟たちも、そしてあの子もいて、みんなで楽しく食卓を囲んでいたり、出かけていたりする光景。とりとめもなく、しかし間違いなく幸せだった日々を、私は夢の中で鮮明に感じていた。圧縮された時間は、何年もの日常を一瞬に詰めてあっという間に過ぎ去っていった。そしてあの事故の日が近づくにつれて記憶の輪郭はどんどんぼやけていき、そして夢は終わりを告げた。
トレーナーは私の話に相槌を打ちながら聞いていた。
「なんでこんな夢を見たんだと思う?」
「いや、正直言ってわからない。そもそも専門家じゃないし、しかも夢が表す意味って言うのは学説が入り乱れている現状なんだ。フロイトに言わせれば『抑圧された願望の表出』だし、ユングに言わせれば『集合的無意識の元型が顕現したもの』とかね」
「全部はっきりしないのね」
私は少し落胆した。
「兎にも角にも。昔より『今』だ」
そう言って彼は私の手をそっと握る。
「過去のことで悩まず、今のことをまっすぐ見た方がいいぞ。トプロにも前にそう言われたんだろ?」
「……そうね」
******
ターフに出ると、そこには既にトップロードさんとオペラオーがいた。二人とも勝負服に身を包み、特別感を感じさせるレース前の緊張感があたりを満たす。しかしそんな重苦しい空気を全く意に介さないまま、オペラオーが私を見つけるなり芝居がかった声をかけた。
「やあ、アヤベさん。調子はどうだい?今宵はこの上なく麗しい一日にしようじゃないか!」
「……本心は?」
「おかしいね、真心のつもりなのだけれど」
「それだけじゃないでしょ。皐月賞の後のこと、忘れてないわよね」
私がそう言うと、オペラオーは大仰に肩をすくめて見せた。
「根に持っているわけなんかじゃないわ。あの時の私は本当にみっともなかった」
「……へえ」
「単純に聞きたいのよ――あの時と比べて、私はどう見える?」
私がそう聞くと、オペラオーは少し意外そうにしたが、考え込む仕草を見せつつ言った。
「……ずっと良くなったね、その眼。前より力強くなった。ボクのライバルとしてふさわしいくらいに仕上がってきている。でも」
オペラオーは私の目をまっすぐ見据えて続けた。
「まだ足りないね。もっと燃えて魅せてくれ、アヤベさん」
「『足りない』っていうのは、左右のバランスのことかしら」
「そんなの些細なことさ。重要ではあるけどね」
「どっちなのよ」
「それがわからないうちは、まだ君は本当の勝者にはなれないってことさ。一つだけ言えるのは、君のゴールはまだ先にあるってことだよ」
「――宣戦布告って解釈でいい?」
「おっとこれは物騒な物言い。言葉を選んでいこうかい?そうだな……」
オペラオーは腕を組み、眉をひそめながら10秒ほど考え込んだ。そして一瞬くすっと笑ったかと思うと、自信たっぷりに言った。
「君の物語がどれほど深い焔を灯せるのか――それを見せてほしいのさ!まだ足りない。君には”ボクに迫る”力が足りない。輝く星のような、目を奪われてしまう物語の続きをボクは期待しているのさ!」
もう一皮むけないと、ボクのスポットライトにしかなれないよ――それだけ言い切るとオペラオーは私の反応も待たず背を向けて歩いて行った。オペラオーの物言いはいつだって芝居がかっていて意味が分からない。どう解釈したらよいものか。呆気にとられていた私を我に返らせたのはトップロードさんだった。
「アヤベさん」
「トップロードさん」
「あはは、オペラオーちゃんらしいですよね」
トップロードさんはすっかり慣れた、と言うような様子で笑った。
「まあ、今のはオペラオーなりの激励だと思うことにするわ。あとトップロードさん」
「え?」
「ありがとう」
私がそう言うと、トップロードさんは目を白黒とさせた。
「『今を見つめなおす』って言葉の意味。ちょっとだけ、遅すぎたくらいだけど、分かってきたと思う」
「……そうですか!それはよかったです!」
トップロードさんは、私の言葉を聞くとぱあっと笑顔になって言った。
「アヤベさん、私はずっと待ってましたから。あなたが私たちと、そして自分自身と向き合うのを」
「まあ、オペラオーに言わせれば、まだ足りないみたいだけど」
私は少し恥ずかしくなり、最後の方は自嘲気味の小声でこぼした。しかしトップロードさんはそれに気づいたのか気づかなかったのか、私の目を見て言った。
「私も、アヤベさんはもっと輝けると思います。だから」
「ええ」
「だから……お互い頑張りましょう!」
「私も。ありがとう、トップロードさん」
******
空は晴れ渡っている。連日の天気予報通りで、馬場の状態も良い。追込の私にとっては好条件だが、ひとつ気になることがあった。
(あの子は大丈夫かしら)
馬場が良くても、私の末脚はあの子がいてこそだ。皐月賞の後――あの子は目を離した隙に消えてしまっていた。あれ以来あの子に会えていない。もちろんレースに出る時だけ降りてくるのが常だから杞憂に過ぎないのかもしれないが、それでも底知れぬ不安は消えなかった。何かあの子にあったのではないか、と思えて仕方がなかった。
「やあ、我がライバルたちよ!万雷の拍手は聞こえるか?我らを――」
既にゲートインを済ませた私の後方では、オペラオーが相変わらず声高らかに口上を述べていた。いつもと変わらないものを見ると、少しだけ不安が和らぐ。私は目を閉じて集中を研ぎすませた。
『各バ、ゲートイン完了しました』
やがてオペラオーも口上を切り上げ、その時はやって来た。私の耳に伝わる周囲の雑音が薄れていく。普段走っているよりもはるかにクリアに”今”が感じられる。そして――
がしゃん。
『スタートしました!』
ゲートが開き、レースが始まった。自分でも驚くくらい集中できていて、私は音が完全に脳に伝わる前に一歩目を踏み出していた。
スタートは上々。
ただ、ここで前に出るのは私のやり方じゃない。序盤はこれまで通り控えて、最後方に位置取ることを目指す。私はだれも内側に入れないくらいべったり内ラチに体を寄せつつ、徐々に順位を下げる。
最初のコーナーあたりで15番手くらいにつけ、状況は一旦安定した。余裕ができたところで周囲に目を向ける。
ペースはおそらく平均。しかし先頭集団と私のいる最後方との間隔が広い。縦長の展開だ。ゴムみたいに伸びたバ群の中ほどにオペラオー、中団やや後ろにトップロードさんがいる。
いい位置をとれた。ここからなら二人がよく見える。
徹底的に二人へと意識を集中させ、様子をうかがう。
オペラオーは道中静かなものだった。
プレッシャーを感じていないのか、集中しているのか。表情は窺えない。が、きっと真剣さを湛えたあの不遜な笑みを浮かべていることだろう。
トップロードさんもまた静かだった。彼女は闘志を漲らせて、むしろ静かすぎるくらいに落ち着いている。周囲の状況をよく把握しているようで、無駄な動きを徹底して抑えていた。二人共この展開に慌てず焦らず食らいついている。
大きく予想から外れることのない、比較的順調な展開だった。
戦える。懸念があるとすれば――
中盤に差し掛かってもなお、私はまだ一人で走っていた。
誰にも荒らされない展開がずっと続く。
ならば。後半以降の仕掛けですべてが決まる。
タイミングを探る。
私だけじゃない。皆五感を身体の外側まで延長させ、このレースに参加している。
しかしタイミングが分かったところで、その時点であの子が左脚に憑依していなかったら私は仕掛けられない。
(早く来て……!)
そう祈りながらじっと我慢して耐える。未だオペラオーとトップロードさんは動かない。
残り1000メートルを過ぎても、二人は動かずにいる。
その静寂が不気味だった。
まるで罠にはまった獲物を待ちわびる狩人のように、彼女たちはずっと息を潜めている。
(何やってるの……!)
焦りが胸中に渦巻いた。
いや、焦ってはダメ。
まだだ。まだ耐えろ。
あの子が来さえすれば、末脚がある。
まだ。
まだ、まだ――
瞬間。
オペラオーが進出を開始した。
レースは後半。坂を下り終わり、第3コーナーを周っているタイミングでのことだった。オペラオーは外から順位を上げていく。
それに合わせてトップロードさんはさらに外側からオペラオーを捕まえに行った。
マズい!
私は嫌な予想を現実に引き寄せる能力を持っているのかもしれない。
妹は仕掛けに間に合わなかった。
私の末脚はあの子の協力があってこそ発揮できるものだ。私は一人じゃ走れない。
だからお願い。
また一緒に走って。
早く。
早く、早く――
『母さん。きっと私たちまだやり直せるわ』
その刹那――頭をよぎったのは、母と新たに交わした約束。
『いつまでもあなたの娘ってだけの自分でいるわけにはいかない』
「っ……!」
ああ。
なんてことだ。
私は。私は!
自分で約束したんじゃないか。『大人になる』って!
五体満足の癖に一人で走れない大人がどこにいるのか。
母さんはきっと私以上に苦しかった。でも私の思いを受け入れ、先へ進むことを選んでくれた。
なら背負え。
あの子に助けてもらって走るんじゃダメなんだ。
母さんとの約束を、トレーナーの思いを、私自身の願いを、一人で全部背負って勝て!
私は掴まり立ちしかできない赤ちゃんから成長することを選んだんだろう!
あの子に頼らず自分で立て!歩け!
あとたったの500mくらいなんだ!走れ!
それが大人になるってことじゃないのか。
「あああああああ!!!!!」
私は吼えた。
レース中だとか関係ない。オペラオーもトップロードさんもだいぶ前の方にいる。
そして妹はいない。私は一人。
でも構わない。私は自分の力で――!
最終コーナーに差し掛かる。
私は最内から大外へと一気に持ち出した。
そして大外をぶん回しながら、脚を滅茶苦茶に回転させる。
「はあっ、はあ、あああああああ!!」
息が苦しい。肺が潰れそう。
結構――潰れてもいい。だから、もっと回せ!
最後の直線に入る。まだ前の方にオペラオーとトップロードさんが走っている。
わずかだがトップロードさんの方が先行している。
でもその背中は先ほどより大きい。近づけている。
負けられない。負けたくない。
もうオペラオーとトップロードさんの背中しか見えない。
「うおおおおっ!」
みっともなく限界を超えた咆哮を上げながら、私は死に物狂いで前を追う。
空気は鉄の混じった風味がする。冷たすぎる空気を吸い込んでしまった時の感じに近い。
肺は凍り付き、一方喉と脚先は燃えるように痛い。
でも諦めるな。
酸素だ。酸素だ。もっと酸素を持ってこい!
限界を超えた走りは苦痛しか生まない。それでも私は走り続ける。
だって大人になるって辛くて痛いことだ。でも、その痛みの先にしか未来はないってわかったのだから。
二人の背中を越えたゴール板の向こうにしか、私の目指す姿はない!
前だけ見る。二人を見据える。
その瞬間だった。
「!!!」
坂を上り切ったあたりで、オペラオーが鈍った。チャンスだ。
今!
私は目いっぱい加速した。
そして背中が迫ってくる。どんどん近づいてくる。
そして――
「くっ!」
並んだ。私はついにオペラオーをとらえた。
オペラオーの焦る声。
私は彼女の横に並ぶと――いや、並ばない!
まだ前にはトップロードさんがいる。もう残り200mを切っている。並んでいる暇はない。さっさと追い越せ!
私は更に脚に力を込め、オペラオーの横をすり抜けていく。
後ろでオペラオーの咆哮が聞こえた。
私は絶対譲らない。オペラオーにもトップロードさんにも! 最終直線を進む。
大人になるのを先送りにしていたツケを今ここで全部払う!
「はあっ、はあっ!」
もう何も考えられない。ただ走るだけ。
でもゴール板だけははっきりと見える。
あと100m! 私は歯を食いしばりながら、最後の搾りかすみたいな力を振り絞る。
そして――
「っ!!」
トップロードさんと並んだ。トップロードさんも私に並ばれたのに気付いた。
私は彼女の右半分の横顔しか見えないが、それでも驚いているのがはっきりわかる。
決して私を舐めていたことによる驚きなどではない。
日本ダービーの最終直線で先頭に立ち、トップロードさんは自分の勝つ姿が、きっと見えていたはず。
その姿が突如として変わる可能性に彼女の表情が戦慄した。
最後の50m、私たちは肩を並べながら駆け抜ける。
私は不要なものをそぎ落としていく。
子供が大人になる時に、いろいろなものを無くしてしまうように。
でもそれは悲しいことだけではない。それは成長で得たものの裏返しでもあるから。
だからいらない。いらない、いらない!
勝利以外全部いらない!
もはや観客席の歓声は耳に届かない。私の心と体は一つのことだけに集中していた。
――勝利への渇望。
トップロードさんは何かを叫びながら、さらに加速を試みる。倒れそうなくらいの前傾姿勢。
しかし、私も負けじと脚を動かし続ける。
その瞬間、彼女の横を抜き去り、先頭に立つ。
風が強く顔を叩くが、向かい風だとは思わなかった。むしろそのすべてが私を強く後押ししているようだ。
オペラオーも後方から追い上げを試みているようだが、この時点で私の前に立ちはだかる者は誰もいない。
ゴールが目の前に迫る。すべての筋肉が痛みを訴えているが、今はそれを感じる余裕はない。
目の前だけが全世界。
そして、ついに。
私はゴールラインを越えた。
その瞬間――私の全世界には、何者の後ろ姿もなかった。
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ダービーを勝つということは本当にすごいことだったのだ――と私は改めて実感していた。拍手と歓声、そして涙、その他諸々を述べる声はとぎれることを知らず、一時は聴覚に違和感を覚えるまでの盛り上がりを見せた。
『おめでとう、アヤベさん。流石は我が宿命のライバルだよ』
『ライバル、って言ってくれるのね』
『負けた身なんだから認めるに決まってるさ。それに実際、走る前と最中――特に最後3ハロン。アヤベさんのオーラみたいなものが一変してるのを感じた』
『なんて言ったらいいのか難しいんですけど、これまでよりもさらにキレ味があるって感じでしたね……』
レース後、ライブ前の控え室にて、トップロードさんとオペラオーは私に労いの言葉をかけにきてくれた。控室にはトレーナーもいたが、『お゛め゛て゛と゛お゛お゛ア゛ヤ゛ヘ゛エ゛』と感極まるばかりで、そちらとは会話にならなかった。
ウイニングライブの時に至ってもなおトレーナーの号泣は止まらなかった。後から聞いた話だが、最前列で顔中の穴という穴から汁という汁を流していて、その様子には、たまたまトレーナーの近くへとライブを鑑賞しにやってきていた『あの』マチカネフクキタルもドン引きしていたとのことだ。
ライブ後は一旦トレセン学園に戻り、そこで改めて、オペラオーとトップロードさんとトレーナーを含めた、小さな祝勝会をオペラオーの提案で行った。互いを労い、健闘をたたえ合う。ここまで来ることができたのは、間違いなくこの3人のおかげでもあるのだ。そしてこの頃になってようやくトレーナーと会話ができるようになった。
祝勝会もあっという間に終わり、現在私は家までの道を歩いていた。辺りはすっかり暗くなり、星空の下、私は川沿いの土手を一人歩いて帰る。川面が向こう岸の街灯の光を反射し、ちらちらと幻想的に輝いていた。まだ涼しさを宿す初夏の夜風が髪を撫でる。
ダービーを勝利したという晴れやかな心と同時に、私は一つの気がかりを抱えていた。
「……あの子、結局来なかったわね」
レース中、妹は降りてこなかった。来るのが遅れているだけかもしれないと思い、それとなく意識しながら待っていたものの、結局今になってもなお現れていない。
はあ、と私は小さくため息をついた。いったいあの子はどこに行ってしまったのか――
『――ため息をつくと幸せが逃げちゃうよ、お姉ちゃん?』
「!!!!」
後ろから聞こえてきたその声に、私は慌てて振り向く。声の主は闇の中からゆらりと溶け出てきた――かのように感じた。
見慣れた妹の姿がそこにあった。
「あなた今までどこに行ってたの……!」
『ごめんごめん。こっちとしても色々あったんだって』
妹はケラケラと笑いながらそう言ったが、不意にその笑い声を引っ込めたかと思うと、
『お姉ちゃん。私ね、お願いがあるの』
「え?」
妹は静かな声でそう言った。それはまるで、何か大きな決心をしたかのような、真剣な口調だった。
私は妹の言葉を待つ。妹は、少しの沈黙の後、ようやく続きを口にした。
次回、トレセン編最終回