ウマ娘の寿命が現実の馬と同じ世界線の恋愛事情 作:daidains
真空管を舐めるスズカさん(意味不)を書いている時の次くらい楽しかったんです。
ルドルフの過去編に相当する話ですが、これ単体で読んでも全く問題ないはずです。
是非ご覧ください。
それと、改めて皆様に感謝を。
ついに評価バーが赤で埋まりました。とても嬉しいです!
名前出していいのかわからないのでぼかして言いますが、いつも誤字報告してくれる方にもこの場でお礼申し上げます。
恋するルナちゃん
なんだか床が昨日より綺麗じゃないか?
トレーニングルームに入った時、最初に感じたのはそんなことだった。最近塗料を塗りなおした床は、上の方にあるカーテンの隙間から漏れてくる光で、艶やかに輝いている。その光景は、ちょうど朝の光を反射する凪いだ湖を連想させた。
はて、どうして自分はそんな連想をしたのだろう?
とはいえそんなことをいちいち深く考えることもなく、カーテンを開けるために窓の方へと向かった。
朝方、熱心な生徒たちはここに集まり、自主練を行っている。ここのトレーニングルームは一般的なトレーニング機材のみならずランニングフォームや跳躍の動きを分析するためのシステムが整備されており、人気がとても高いのだ。高精度なセンサーやカメラがあちこちに設置され、水冷式の空調や機器も完備されており、学園がありったけのお金をかけて用意した施設であることは明白である。普通はトレッドミルやエルゴメーターに水冷システムが搭載されることなどないが、ウマ娘の本気の出力に耐えるためにはどうしても必要になる場合があるらしい。
万一壊れたりしてはたまらないので、これらの機器に対するもろもろの操作に関して一般生徒が行うことは禁止されており、トレーナーや一部の職員しか操作できない決まりだ。
だから生徒が来る前に部屋の鍵を開け、練習環境を整えておく必要があるのだ。時期によっては始業時間の二時間近く前にやってくるウマ娘もいるので、準備のためには相当早起きしなければならない。負担がそれなりに大きい役回りなので、週ごとにトレーナー間で持ち回りになっているのだった。そして今週の当番は自分だった。
ぺちゃり。
足元から変な音がした。汁気をたっぷり含んだような音だった。
なんだ?と不思議に思い視線を落とす。瞬間、靴の底の方から冷たい感触が染み出してきた。ぎょっとして足を上げる。
そこには本当に水面が広がっていた。
――まさか!
心臓がキュウっと締め上げられる感覚がして、藁にもすがる思いで反射的に窓に駆け寄る。べちゃべちゃした音を無視しながら突き進み、その勢いでガラス越しにカーテンを開くと、室内に光が満ちた。思わず手で目を覆う。しばらくしてようやく目が慣れてきたところでゆっくりと視線を下ろすと――壁から伸びた配管と機材の間から広がるようにして、床には一面の水たまりがあった。
見間違いではなかったのだ。
そんなそんなそんな――!
きちんと確認したはずだ。手順に従って機材のスイッチをオフにして、空調も、そして水冷システムの圧力も落としたではないか。手に持っていたバインダーに挟んであるチェックリストを急いで確認する。「アイソキネティックトレーニングマシン」……OK、問題ない。その他の項目も同様だった。実際、昨日の時点では異常なんてなかったはず。
そう思うと少しだけ安心した。自分のミスではなく、何かしらの不測の事態で起こったことに違いない。しかし一体何がどうなったらこんなことになるというのだ?漏水元となっている接続部を確認すると、水漏れの勢い自体はほとんどなく、ぽたり、ぽたりと雫が落ちる程度だった。応急処置としてパイプ側をグイっとねじ込むと、水漏れは完全に止まった。
ひとまず水をふき取ってしまおうと思い、雑巾を取ってきて床の水をふき取りながら頭の中で原因を考える。昨日、自分はこの部屋で何を見ていたか――
「あっ」
瞼の裏側で火花が散って、思わず変な声が出た。
そうだ。もろもろの機材をチェックした後、最後に水冷システムの圧力を下げようとしていた時だった。トレーナー仲間が帰る前に自分の元を訪ねてきて、少し雑談を交わしていたのだ。
『お疲れ、そろそろ終わり?』
『一応ね』
『ならちょうどよかった。今晩ちょっと飲みに付き合ってほしいんだよ』
彼は自分と同じくトレーナー職に就く同僚であり、同時に旧友でもあった。担当バとの関係性がうまくいかず苦悩している時に励まし合った仲でもあるし、お互い気心が知れた間柄であった。
『今夜?なんでまた急に』
『いやー、男女3対3で飲む予定なんだけど、男側に一人ドタキャンされてさ。急だけどお前しかいないと思って』
『あんまりそういう場は得意じゃなんだけど』
『大丈夫だって。女の子の方もよく知ってる子たちだし、みんないい子だからさ。お前もきっと楽しめるよ!』
なんでも彼の友達の一人が結婚することになったらしく、それにあやかって独身組の自分たちも恋人探しをしてしまおうという趣旨の会らしかった。自分があまりそういう場を好んでいないというのは彼も承知していたので、最初は誘わなかったのだが、人数合わせが必要になってしまったため急遽声をかけてみたということらしい。いろいろ問答を繰り返した末、よく世話になった彼を無下にするのも気が引けたので、結局行くことにした。
そこからはドタキャンした人物の愚痴に始まり、職場のあれこれについて話したりととりとめのない話に終始したのち、集合時間・場所を教えてもらっていよいよ彼は去っていった。約束の時間までどれくらいあるだろうと思い時計を見てみると、自分が思っていたより話し込んでしまっており、たづなさんを待たせているであろうことに気づいた。チェックリストにはその日のうちにたづなさんの判を貰う必要があるのである。慌てて最後に「圧力」の項目に丸を付け、バインダーを閉じ――
背中から嫌な汗が流れた。
――圧力を下げていない
やった。
やってしまった。完全に忘れていた。間違いなくあれが原因だ。口が渇いてひりつくのを感じながら、震える手で床をふき取り続ける。いや、でもまだ何とかなるかもしれない。漏水自体は既に止まった。だから機材そのものが無事なら、実質的な被害は何もないはずだ。そう自分に言い聞かせて自分を落ち着かせ、床を完全にふき取った後再度部屋中を確認していった。
******
結果から言うと――残念ながらダメだった。
片っ端から機材の電源を入れてみると、一台だけエラーコードが出て起動しなかった。それはよりにもよって一千万を余裕で超えるくらい高価なもの――VRウマレーターだった。いや、サトノグループが威信をかけて開発した代物だという話を聞いたことがあるし、もしかすると億にすら到達するのでは……?
震える指先でパネルをタッチした。思ったとおりにタッチできない。画面は変わらない。
部屋の棚に収納されていた説明書を急いで読む。頭から丁寧に読んでいる暇はない。要点を急いで探すため、ページの中心から放射状に視線を広げる。目が滑るばかりで内容が全く頭に入ってこない。
いや、落ち着け。
こんな精密機械、もはや鉄の箱と化してしまった状態から復旧することなど、エンジニアではない自分ではそもそも不可能だ。
理事長に自白するしかない。正直にすべて話して謝罪するしかないのだ。今すぐにでも向かって――
そう思ったところでふと気づいた。
こんな早朝では、まだ理事長は出勤してきていないだろう。ならばメールか電話の方が適切だ。連絡だけでも早い方がいい。すぐにスマホを取り出し、
ギョッとした。
「プールの水流出 440万円弁償 教員の責任はどこまで?」
画面の上の方にニュースアプリからの通知が入ってきた。見出しが目に入るや否や、半ば無意識のうちにタップしていた。
○○市の市立小学校で、昨夏にプール用の水が大量に流失した問題で、市教委は、約440万円の水道料金を、水栓を閉め忘れた男性教諭と同校の男性校長、教頭の3人が弁済したことを明らかにした。
市教委によると、3人は弁済を3分の1ずつ行ったといい、市教委は3人を厳重注意とした。市教委によると、このプールでは男性教諭が水栓を閉め忘れたため、7、8月の連続約20日間にわたり水が流出し続けた――
頭の中が真っ白になる。視界が明滅し始めて、文字が読めなくなっていく。
そうだ、民間とは違うのだ。公務員の場合、過失があっても自治体が負担するとは限らない。元のお金が税金である以上、本来払わなくてもいい損害に対して税金から全額を補填するというのは、市民の理解が得られにくいからだ。過去には教員に対して半額の弁償を請求をした際、「全額請求すべき」と住民監査請求や訴訟を受けた事例もあったはずだ。
ならば今回のケースについても、実際に自分が賠償責任を負う可能性がある。
自分だけではない。最高責任者の理事長と、チェックリストに判を押したたづなさんにも責任が発生することになるのではないか?厳重注意を受けて、名前が出てしまう可能性も――
脳裏に二人の顔が思い浮かぶ。
『トレーナーさん、今年度もお疲れ様でした!』
『うむ!よくぞここまで成長してくれたものだ!』
二人はいつも自分のことを気遣ってくれた。自分に期待してくれていた。自分のために頑張ってくれていた。
そんな二人に、自分は何てことをしてしまったのだ。自分のミスのせいで、自分のせいで、二人まで巻き込んでしまうのか? 思考がぐらぐらと傾いていく。胃の中に鉛を流し込まれたような心地になって、思わず膝をつきそうになる。右手を壁について耐え、左手で顔を覆う。
どう言えばいい?
すべて丸く収める方法はないのだろうか?
――本当のところ、実はその方法を一つだけ思いついてしまっていた。
ぼんやりとした形ではあるが、妙な生々しいリアリティをもって頭の中に浮かんでくるアイデア。しかし、それを実行に移すということは、つまり――
「ああ、いたか」
唐突に背後から声がかかって、びくりと全身が跳ねそうになった。
振り返ると、ドアのそばに立っていたのは我が担当バ――シンボリルドルフだった。いつの間に入ってきたのだろう?足音一つ聞こえなかった気がする。いや、自分の視界が狭まりすぎていただけかもしれない。
「おはよう、トレーナー君」
「お、おはよう、ルドルフ。早いね」
「今週の開錠当番が君だと言っていたからね。一緒にトレーニングルームを独占して使える機会を無駄にはできないさ」
ルドルフは既にジャージ姿に着替ており、朝練をする気満々といった様子であった。「柔軟は自分で済ませてきた。早速だがアップを始めても構わないかな?」と言いながらつかつかとこちらに歩み寄ってきた。
「ふむ?」
数歩先まで近づいてきたところでルドルフは立ち止まり、普段通りの涼やかな表情のままこちらの顔をしげしげと眺め始めていた。
一瞬、ルドルフの眉根が寄る。何かを感じ取ったのかもしれない。そしてルドルフは大股で一気に数歩の距離を詰めると、「失礼」と言ってこちらの手を取ってグイと引き寄せてきた。突然のことであったうえに、そもそもヒトの力ではウマ娘の力に逆らうことなどできるはずもなく、そのまま息がかかりそうな距離にまで引き寄せられてしまった。
「……」
「な、何!?」
ルドルフは無言でこちらを上から下まで眺めていき、それからさらに顔を近づけてきて、すんすんと匂いを嗅いできた。ルドルフの整った顔のパーツの中でもひときわ存在感を放つ大きな耳が眼前に迫り、甘い香りとともに微かな吐息の音が耳元を撫でるものだから、ただでさえ近い距離感も相まって変にドキドキしてしまう。
あまりのことに混乱してしまってされるがままになっていると、やがて彼女は小さく息をつくと、ゆっくりと身体を離した。その時のルドルフは、何も感情が代入されていないような表情をしていた。
「……やはりそうか」
「え?」
「
心臓が跳ねる。
「別に、何も隠してないよ」
「嘘はいけないな」
「本当だって」
言ってしまった。反射的に嘘をついてしまった。
――隠蔽
先ほどからずっと頭の中を行ったり来たりしているアイデアというのがまさにそれだった。実行に移してしまえば、教育者としてもはや顔向けできない存在になり下がることは分かっていた。だから頭の隅の方へ何とか押しやってしまおうとしていたのだ。
でもルドルフを目の前にしたら、そのアイデアが脳の正常な機能を奪ってしまうくらい肥大化してきてしまった。
だって。
だってだってだって――自分が、こんな不祥事を起こしたことが明るみになってしまえば、ルドルフまで巻き込まれてしまうではないか!
もちろんやったのは自分であって、ルドルフは全く関係ない。しかし有名人の担当トレーナーが起こしたトラブルということで、当然マスコミはルドルフもセットで報道するに違いない。いくら皇帝といえども、スキャンダルに巻き込まれることは免れないはずだ。ルドルフという名前に、変な負荷が乗っかった状態で世間に知れ渡ってしまうことになる。
自分はどうなってもいい。
だけど、理事長、たづなさん、そしてルドルフだけは守らなくてはならないのだ。弁償だけなら申し出れば自分が全部引き受けることができるかもしれない。しかし事件が表沙汰になってしまった場合、それ以外の領域で3人を守ることは非常に難しくなるだろう。
ルドルフの顔を通してその未来がはっきりと見えてしまった瞬間、もう本能的に嘘を吐いていた。
「……ならば何故目をそらしている。君の眼はそんなものじゃなかったはずだ」
「!」
「もう一度だけ言う。何を隠している?」
目を合わせられないままでいると、痺れを切らしたように両手で肩をつかまれた。
グッと顔が近づいてきて、鼻先同士が触れ合いそうなほどの距離になった。
長い睫毛に彩られた鋭い眼光からは、一切の虚偽すらも許さないという強固な意志を感じさせられる。まるで心の奥底を見透かされているような感覚を覚えてしまって、思わず顔を背けてしまいそうになる。
それでも、歯を食いしばって必死にこらえる。ここで目を背けたら負けだと思った。
黙りこくっていると、次の瞬間ルドルフの瞳の奥がぎらりと光ったような気がした。
「忠告はしたぞ」
そして次の瞬間には、自分の視界は天井を向いていて、床に仰向けに倒されていた。背中への衝撃に思わず顔をしかめていると、今度はルドルフの顔が視界に飛び込んできた。まるで押し倒されたような体勢である。こちらを見下ろす彼女の瞳の奥には、先ほどの比ではないほどの強い光が宿っていた。
あっけに取られているうちに両手首をまとめて押さえつけられ、完全に身動きが取れなくなってしまった。
「さあ、白状してもらおうか」
「……ッ!」
至近距離にある彼女の紫色の瞳は、怒りの赤と悲しみの青を混ぜたような、どちらともつかない複雑な色を宿していた。いつもは見るものを魅了するような美しい輝きを放っているそれが、今は激情によって暗く淀んだ色に染まっていた。
ああ、これはダメだ。
「――ごめん」
「観念したか」
「君の眼もそんなものじゃなかったはずだ。そんな目をさせてしまって本当にごめん――話すよ、正直に」
絞り出すようにそう言うと、ルドルフの瞳に浮かんでいた感情の色がスッと消えて、元の紫色に戻ったように見えた。その瞳が一瞬だけ伏せられてから、再度視線がかち合う。そして掴んでいた手首を放すと、上体を起こして立ち上がった。
自分も遅れて立ち上がる。
「ありがとう……ごめんね、こんなことさせちゃって」
「いや、こちらも手荒な真似をしてすまない……それで?隠し事は何だい?」
「……実は、」
そこまで言いかけてから言い澱んでしまう。今さっき決意を固めたばかりだというのに、いざ打ち明けようと決心するとどうしても口が重くなってしまう。
そんな自分をルドルフは黙って待っていてくれていた。急かすでもなく、かといって先を促すわけでもなく、ただ黙って待ってくれていた。彼女なりの気遣いなのだろうと思う。
だから、思い切って口を開いた。
「実は……ウマレーターを、壊してしまったんだ」
そう告げると、ルドルフは目を丸くした。それはそうだろう、あんな大事な物を壊したら、そりゃあ驚くに決まっている――と、思っていたのだが。
「……
「は?」
拍子抜けしたような口調で返ってきた言葉に、今度はこちらが目を丸くする番だった。ルドルフはきょとんとした顔でこちらを見つめている。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、少し動揺してしまう。
「いや、一大事だよ!だってこれはめちゃくちゃ高い機材で、しかも僕は公務員だから弁償も自分でしないといけないかもしれなくて、その報道に君が巻き込まれることだって――」
「いや、わかっている。それはわかっているよ。しかし、ふむ。これは……」
ルドルフは顎に手を当てながら何やら考え込んでいるようだった。その様子を見ているとだんだんと冷静さを取り戻していくことができたが、それと同時に不安にもなってきた。いったいどういう反応なのだろうかこの態度は。
「――なるほど」
しばらく考えた後考えがまとまったのか、ルドルフはウマレーターの方へ歩いていくと、その側面に手を当てつつこちらを見て言った。
「しかしだね、トレーナー君。このウマレーター……アップデートが必要だとは思わないかい?」
「え?」
「常々測定機能を強化するべきだと思っていたんだよ。ついでに
なにを――なにを言っているのだ。
信じられなかった。
今のが自分の聞き間違いでなければ――『隠蔽に手を貸す』と言っているのだこの人は。
あまりに驚いてしまって、言葉が出てこない。そんなことをしたら、ルドルフも事件の中心人物になってしまう。
「……どうしたのかな?そんなに驚いた顔をして」
「……なんで……そんなのダメだって」
やっとのことで絞り出した言葉は、自分でも情けないほどに震えていた。ルドルフはそれを聞くとフッと笑った。それからこちらに歩み寄り、ポンと肩に手を置いてくる。
「何がダメなのか私には分からないな。……しかし、早い方が良いだろうね。皆がより良い環境を享受できる環境は早急に整備するべきだ。今日にでも手配しておくとしよう」
ルドルフはそう言った直後こちらの口を掴んで塞ぎ、反対の手でスマートフォンを取り出すとどこかへ電話をかけ始めた。
止める暇すらなかったし、口を塞がれたままだったので何も言うことができなかった。しばらくして通話を終えるとこちらへ向き直り、ニコリと微笑んできたのだった。
「今日中に見に来てくれることになったよ。ただ、すぐに作業に入れるようにスペックやら自己診断機能の結果やらのデータを用意しておいてほしいそうだ」
ルドルフがこうやって行動に出てしまった以上、もはや後戻りはできないのだと悟った。
こうなったら覚悟を決めるしかない。やってやる。
しかしそういう覚悟の有無とは別に、今のルドルフの発言には実行が難しい点があった。
「……タッチパネルが壊れていて操作できないから、自己診断とかはできないと思う」
そうなのだ。画面を使った操作ができないため、内部のデータを参照することができないのである。これではどうしようもないだろう。
しかしその発言を聞いても、ルドルフは特に慌てる様子もなかった。それどころか余裕のある表情を崩すこともなくこう言ったのだ。
「君のスマホで管理者用アプリを使って操作すればいいだろう?」
「あっ」
言われて初めて気づいた。そうだ、ウマレーターで取得したデータを取り出したり、設定を操作するためのトレーナー用アプリがあったではないか!
確かにこれを使えばタッチパネルを介さず操作できるから、自己診断機能も使えるかもしれない。すっかり忘れていた。
自分のスマートフォンを取り出して早速アプリを起動してみる。そしてウマレーターと接続しようとしていると、ルドルフが画面をのぞき込もうとしているのに気付いた。
「ごめん、少し向こうを向いていてくれないか?」
「どうしてだい?」
「いや、一応データ関連の操作にはパスワードの入力があってさ。ダウンロードしたりするもにも他のところに送信したりするのにもパスワードを使うんだけど、それを生徒に見せるのはまずいんだ」
ウマレーターには、それを使用した生徒の情報がこれでもかというほど詰まっている。その中には当然、ウマ娘たちのセンシティブかつトップシークレットの個人情報も含まれているわけで、外部への流出を防ぐために、パスワードによって関係者以外からのアクセスを制限する措置が施されている。接続時にも、アプリを用いて取得したデータをどこかに送る際にも、自分で設定したパスワードを入力する必要があるのだ。
「なるほど。じゃあ入力が終わったら声をかけてくれるかな」
「うん」
ルドルフが背中を向けたことを確認してから、パスワードを入力する。数秒後、無事に認証が完了してデータを取り出せるようになったことを確認した。
「終わったよ」
「じゃあ取得が必要なデータの類に関しては私が聞いているから、そこからは私が操作しよう。いちいちどれが必要か君に伝えて、確認を取って、ダウンロードして――では煩わしいからね。他の生徒が来る前に終わらせたいだろう?」
ルドルフはそう言うと手をこちらに差し出してきた。どうやらスマートフォンを渡してほしいということらしい。たしかにその方が効率的だし、手間も少なく済むだろう。しかし――
「?どうしたんだい?早くしてくれ」
渡しかけた手が止まった。こちらに手を差し出すルドルフの目は三日月形になっており、口元はわずかに吊り上がっていた。
獲物を前にした肉食獣のような笑みだ。
本当に渡してしまっていいのか?反射的にそう思った。ここで渡してしまうと、致命的な何かを失ってしまうような予感。
まごついているとルドルフの方から口を開いた。
「……なるほど。君の命運を握るデータが入るスマホを、他人に預けるのが怖い。そうだろう?」
「――!いや、そうじゃない。信用してないわけじゃないんだ。でもなんだか――」
「言い繕う必要はないよ。『緊急時に本当の性格が現れる』なんていう輩もいるが、緊急時に出るのはあくまで緊急時の人格に過ぎないものだ。失望したりしないさ」
確かにこれから取り出す情報は、具体的な故障の内容を含む。それはつまり自分がウマレーターを壊してしまったことの証拠に他ならないわけで、それを他者に知られるというのは非常に危険な行為であると言えるだろう。しかしためらっていたのはそれが理由ではないのだ。自分を見るルドルフの表情が、どこか不気味に見えたからだった。まるで罠にかかった獲物を見下すような、そんな視線をこちらに向けているような気がしたのだ。
そんな思いとは裏腹に、ルドルフはさらに言葉を続けていく。
「安心してくれ。君が言ったんじゃないか。『パスワード』だよ」
「あ」
「データの送信にもパスワードが必要なんだろう?だから私が操作したところで外部にデータが行ったりしない。私はパスワードを知らないからね。あくまでデータ取得の操作をするだけだよ」
そうだった。
先ほどのルドルフの表情は気になるところだが、パスワードが存在する以上、こちらの意に反してデータを流出させたり悪いように使ったりすることはできないはずだ。逆にルドルフが自分をかばうため「私が壊しました。このデータが証拠です」といった具合にデータを利用した嘘の自白をする可能性も考えていたが、自分の手元からデータが離れない以上、それもなさそうだ。
ようやく決心がついて、スマートフォンを手渡す。
「ありがとう。じゃあ人が来ないか、廊下の方を見ていてくれるかな?」
受け取った後、ルドルフはそう言ってすぐに操作を始めた。
確かに生徒がトレーナー用のアプリを使用している光景を見られるわけにはいかないし、そろそろ朝練に来た誰かが通りかかってもおかしくはないだろう。自分は言われたとおり廊下に出て、人が来たら知らせることにした。
幸い誰も来ることなく15分ほど経った頃だろうか。ドアが開き、ルドルフが外に出てきた。
「終わったよ。ほら」
そう言ってスマホをこちらに返してくれた。
「後でエンジニアとデータを共有するためのシステムに招待するメールを送る。後は指示に従っていけば何とかなるよ」
「ありがとう……!」
「礼はいらないさ。一応、こちらからできるのはデータの閲覧だけ、というシステムにしておくよ。ダウンロードはできないから安心してほしい。心配なら同じシステムを使って『閲覧のみ』に設定したものを送付するから、実際に操作ができないことを確かめてみるといい。スマホか何かで撮影されるのが心配なら、作業の様子を全部撮影しておくから不審なところがないか後で確認できる」
こちら側の懸念になりうることをすべて先回りして解決してくれるとは。配慮の行き届き方が学生とは思えないほどだ。
「時間を多少取ってしまったが、本題に入ろうか」
「本題?」
「トレーニングだよ。そのために来たんだから」
そう言って笑う彼女からは、先ほどまで感じられた得体の知れない雰囲気はすっかり消え去っていたのだった。
しかし結局あれは何だったのだろう?
*******
~~♪
放課後のトレーニングを終え、私はらしくもなく鼻歌を歌ってしまうほど上機嫌になっていた。
小動物みたいに縮こまったトレーナー君の顔が思い出されて笑いが込み上げてくる。
あんなに怖そうにされると、普段はそんなことないのに嗜虐心のようなものが湧いてくる。そんな風ではライオンに食べられてしまうぞ?いや、むしろ向こうから食べられに来ているのではないか?そうに違いない。
「ふふっ」
私の手にはスマートフォンがある。
その画面には、先ほど
迂闊だなあ、迂闊だよ、トレーナー君!
大事なパスワードを
大事なパスワードを推測されやすいものになどしないだろうか、と半分諦めつつ試しに私の名前のごろ合わせを入力してみたら、なんとあっさり通ってしまった。そうして廊下で見張りをしていた彼に全く知られることなく、私は自分のスマホにデータを送ったのだった。彼のあまりの迂闊さに笑いがこみあげてしまいそうになった一方、大事なパスワードとして私の名前を使ってくれていることに愛おしさを感じずにはいられなかった。
ああ、嬉しいなあ。 思わず口角が上がる。
言い訳がましくなってしまうかもしれないが、普段の私ならこんなことはしなかった。しかし今朝の私は掛かってしまっていたのだ。
トレーニングルームに入って、彼に近づくにつれ感じた違和感。彼から嗅いだことのないにおいがしたのだ。その正体を突き止めなければという衝動に、本能的な水準で突き動かされた。彼を引き寄せてよくよく嗅いでみると――腹立たしいことに、酒と
私というものがありながら、夜遊びするとはいい度胸じゃないか。
というわけで、隠し事がないか彼に問い詰めた。ちょっとやり方は強引だったかもしれないが、そこまで粘ることもなく彼は口を開いてくれた――のだが。
『ウマレーターを、壊してしまったんだ』
返ってきたのは思いもよらない答えだった。私としては女遊びの件を問い詰めていたつもりだったのでやや驚いてしまったが、すぐに「この状況は使える」ことに気づいた。
――うまくいけば、彼を好きなようにできる証拠が手に入る。
パスワードがあることを聞いた時はダメかと思ったが、あっさりと解けてしまったパスワードによって、彼の命運を握るデータが私の手元にある。実に滑稽で愛おしいことだ。
安心してくれ、トレーナー君。悪いようにはしないさ。
君自身が不幸せになることは、私の本意じゃないんだ。
まあ、あれだ。
徳倫理主義的に言えば多少の問題があるのかもしれないが、功利主義的に言えば、最終的に彼を幸せにできるのなら問題ないはずだろう?
だからこれは、
「楽しみだな」
私は日暮れの空に向かって小さくつぶやく。オレンジ色に染まった空は、きっと明日も晴れるだろうと予感させた。
最終的にちゃんと幸せにしてあげたうえで結婚したからセーフ
自認としてはルドルフを推しって程には思っていなかったんですが、ルドルフ書くのって妙に楽しくて「シンボリルドルフの場合」に引き続き長くなってしまいました。
「彼女の紫色の瞳は、怒りの赤と悲しみの青を混ぜたような、どちらともつかない複雑な色を宿していた」が今回の個人的なお気に入りフレーズです。
色で思い出しましたが、よく私のSSで夕焼け空が出てくるのはオレンジ色が好きだからです。名前にもdaidai(だいだい=オレンジ)が入っているでしょ?