由良来祓魔譚 作:マキアン
少なくとも、在原由良来という人間はその時までそうでしかなかった。
それが決定的に変わったのはあの日、彼女があの場に居合わせてしまったからであることは間違いないだろう。
ともすれば、それは"運命"と、そう呼ぶべきものであったのかもしれない。
──朝霞刀岐の手記より抜粋──
邂逅
「朝霞班長」
「ん、報告して」
関東地方某県北部、人の営みから大きく外れた夜の山林。雲間から差し込む月明かり以外に周りを視認できる術のない自然が生み出した闇世界。
しかも雨が降った後らしい。ぬかるんだ地面はさながら底なし沼のように歩く者の足を攫うだろう。
ざぁざぁと葉が擦れる音も相まって不吉な想像には事欠かない、正しく異界の如き様相が広がっていた。
そこに十数人分の人影があった。
その中で一際異彩を放つ淡く紫を帯びた白髪の女、
「境界対策課実働班L63総員並びに特務派遣神祇官四名、いつでも動けます」
「わかった。……各員、聞いて」
彼らには一つ、秘密があった。
これから戦いに赴く彼らには一つ、大きな罪があった。
それがどんな理由に拠るものであれ、彼らは呪われていた。
これは人々の営みを守るための、そして組織の先行きに影を差す不安要素を間引く為の最重要機密作戦だった。
「これより境界対策課実働班L63副班長九基兼光以下所属班員十四名は第四次五号級界異【アラハバキ】撃退作戦において
その口から紡がれるのはこれから起こること。定められたこと。
耳を傾ける者たちの顔には怯えも恐れも憤りも無かった。
「五分後、作戦を開始する」
事実、知られれば知られるほど、畏れられていれば畏れられているほど存在として強固になる境界異常というモノ達において、【アラハバキ】などと呼称されるほどの存在ともなればそれはカミにも近しいナニカだ。
だからこそ、今日彼らはここで死ぬ。
一般的な祓魔師よりも強い彼らであっても、人である限りカミには勝てないのだから。
「はーぁ。ホント、ヤになるわぁ」
まだ十代であろうか、狩衣を着崩した若い女がぽちぽちとスマートフォンを弄びながら零す。
「やめろ。朝霞班長に拾われた命だ。ならば使い果たすのもあの人の命令次第だろう」
「そりゃ、朝霞ハンチョーには世話んなったけどぉ。流石に最初から死ぬ前提なのはムカつかない? つーか」
「まぁ、それには同意だがな」
「……むぅ」
スマートフォンから目を離さない女も、苦言を呈した堅物風の男も、少女の言葉に同調した不真面目そうな男も、誰も彼もが狩衣という装い以外には一貫性が無い。動きにも、在り方にも。
それもそうだろう。
ここにいるのは正規の祓魔師だけでなく、一般人や中には犯罪者すらも混じっていた。
「つか、アタシの形代、もう一枚ダメ代になってんだけど」
「俺もすっげぇゾクゾクするわ、相当キモイのがいる」
真っ黒に染まった人型の紙をヒラヒラさせる女に、骨が浮くほど痩せた男が身震いしながら宣う。
形代、そう呼ばれる身代わりの祭具。持ち主に降りかかる破滅を肩代わりする祓魔師達の必需品。
本来なら白かったそれが黒く変色しているということは、ナニカが既に一度起きたということ。既に一度、持ち主が死んだということ。
そして、そのナニカが依然として彼らの命を付け狙っているということであり、
「っ、総員警戒!」
命を狙うナニカの存在を察した刀岐がそれを伝えるより早く、首が一つ宙に舞った。
◾️
「はっ、はっ、はっ」
森の中、少女が一人息も絶え絶えになりながら駆け抜けていた。
その手には忌み火により鍛えられた刀、黒不浄が握り締められている。
彼女の青い視線の先には地面を高速で這うように蠢く界異、一号級界異【黒百足】。全長は少女の身の丈の三倍はあるか。兎にも角にも百足に近い様相ではあるが、その図体は百足とは思えないほどに大きい。対面すれば恐怖を煽られることは必至であろう。
だが、界異は既に幾度となく切り付けられてぼろぼろだった。
「せぇい!」
女が飛び込みざまに黒不浄を振るい、百足らしく無数とも思える足の内の数本を斬り捨てる。
目に見えて動きの悪くなった界異は逃げるのをやめて反転し、最後の力を振り絞るように巨体を揺らして女を叩き付けようとする。しかし少女はそんな攻撃では遅すぎるとばかりにひらりひらりと回避してみせる。
一向に捕まらない脅威を前に、焦れた界異が大振りの動きで胴体を振りかぶった。それが致命的であり、それこそが少女の狙いであることも知らずに。
「これで、最後ぉ!!」
界異の攻撃と交錯するように踏み込み、刀を一閃。
受けて界異は真っ二つとなり、断末魔すらあげずにその活動を停止した。
残心の要領で警戒を解かず物言わぬ界異を見詰めるが、やはりうんともすんとも言わない。
完全に沈黙したようだ。ならば早いところ祓滅処理をしてしまおう。
界異の残骸も生物のそれと同じように腐る。が、界異の場合はただ腐るのではなくさまざまな要因から人々の営みに深刻な不具合を齎す可能性と成り得る。
だからこそ、きっちりと最後まで祓わなくてはならない。
「よし、お祓い完了!」
残骸に簡単な処置を済ませ、刀を腰に納めてほっと一息。後は勝手にチリとなって消滅するだろう。自分の仕事はこれで終わりである。
腕の時計を見やれば深夜二時、作戦開始時刻は午後十一時半からであったから、作戦遂行時間はざっと二時間半。帰ったらまた教官のお小言の嵐かと辟易する。
とはいえ自分はやることはやったのだ。なら温情はあるはず、である。
何はともあれ連絡を入れてから帰宅しよう。
そう思い、辺りを見回してから少女は呆然とした。
「こ、ここどこですか……?」
彼女の名前は
境界対策課に所属する祓魔師の一人である。とは言え、なって半年も経っていない新人祓魔師ではあるが。
同僚の二人の祓魔師(こちらも新人)と共に一号級界異【黒百足】討滅の任を受けて現場入りし、同僚の制止の声も無視して界異を追いかければ、気がつくと見知らぬ森まで辿り着いてしまった次第であった。
「電話は……だめか」
スマートフォンで電話を掛けようにも圏外。これでは助けを呼ぶどころか、マップを見て自力で帰ることもままならない。
さて、どうしたものか。頭を捻って打開策を考える中、少女はあることに気がついて顔を青くする。
「圏外? なんで?」
森の中とはいえ、今の時代関東の山林で一切電波が通っていないことなどあるのか。
思えば、任務と帰りのことで頭がいっぱいになっていて気が付かなかったが、どことなくこの森は気味が悪くて不吉な気配がする。
生憎とあまり霊感能力に優れているわけではないが、そんな自分にもわかるのだ。
この森は、
「っ!」
自分が今危機的な状況に置かれていることを理解したのと、動かなければ死ぬという直感に体が弾かれたのは一瞬かつ同時であった。
『ウォォォォォォォオ!!!!!』
何かが自分の横を通り過ぎ、自分が先までいた場所に砲弾のように着地する。
爆発と聞き紛うような音。そして追いかけるようにして木々を薙ぎ倒しながら現れた、遠くからでも吐き気すら覚えるほどに濃い瘴気を纏ったナニカ。
『どうしたどうしたァ! アサカトキィ!!』
「ぐぅっ!?」
『オレサマの分け身じゃなけりゃ手も足もでねえのか!』
「舐めるな……ッ!!」
血塗れになった白髪の女祓魔師と、黒い靄を纏った辛うじて人型と分かる身の丈一丈程の界異。
最高等級の界異であると一目でわかるほどに澱んだ空気、穢装を身に纏ったソレに対して、女祓魔師は怯むことなく果敢に斬り掛かる。
「刺ィ!」
『そうだァ、それでイイ!! オマエは限界まで力を出させてからコロスって決めてたんだからよォ!』
「悪趣味……! 後悔しながら消えろ!」
『オレサマは悪趣味の化身よ!! ありがとよォ、最高の褒め言葉をォ!!』
祓魔師の斬撃と、界異の手足から放たれる衝撃波を伴った攻撃が飛び交う。余波だけで爆発音が響き、木々がひしゃげて地面が砕ける。
由良来の目の前で繰り広げられているのはさながら神話のような暴力の応酬であり、圧倒的なカミと人間との間の
到底自分のような人間が立ち入れる領域じゃない。
怖い。
恐ろしい。
逃げ出したくてたまらない。
本能的な恐怖に身慄いしながら、それでも由良来は動けずにいた。
『もう守ってくれるナカマはいねえぞ! 死ぬなら今しかねえなァ!!』
「死ぬわけには、いかない……!」
それはひとえに、泣きそうになりながら戦っている祓魔師の女が気になってしまったから。
無表情で刀を振るう姿からは、本当に泣きそうになっているかなんて確証もない。だが、由良来には確かにそう見えてしまった。
ゆえに、もう退くことなどできるはずもなかった。
「助太刀します!」
『ァア? まだ生き残りがいやがったのか』
「っ、別の班の祓魔師……!? 来なくていい!」
来たら殺す、女の気迫に気後れして一歩が出遅れる。
なんとも情けない。けれども格好付けたくて飛び出したわけじゃない。
ああ、分かっている。
自分が足手纏いにしかならないことは。
在原由良来は路傍の石だ。何の期待もされず、それに応えるような力もない、そんな存在だ。
「やぁあ!!」
しかし、命を使って何かをするのであれば、なんらかの手助けくらいはできると思いたい。
そう、例えば身代わりくらい全うできれば一助にはなるだろう。
もちろん死にたくはなかったが、そんな選択肢を取れるくらいには在原由良来という少女は破滅的なお人好しだった。
「はぁっ!」
『……チッ、弱いな』
思い切り振り下ろした渾身の一撃は、【黒百足】相手なら真ん中から真っ二つにしてしまうほどの威力を伴っていた。
だが、纏う穢れの強度、穢装等級にして最大のVクラスを誇る【アラハバキ】の体表には傷の一つもつけられはしない。
防ぐような動作もなく、ただの一瞥もない。格の差を弁えろ、そう告げるだけのノイズ混じりの声音。
『死ね』
「くっ!」
『ア? なんで一回で死んでねえんだ。死ねよ』
「まずっ、ぐぅっ!」
何もない人間だったが、目の良さと体の頑丈さには自信があった。
音速にも迫る界異の攻撃を命からがら回避、時には黒不浄を攻撃との間に挟み込んで飛び退く。
命拾いという奇跡を手繰り寄せ続ける。
十数キロの道のりを界異を追いかけて全力疾走してきた疲れも、もう既に感じてはいなかった。
否、今は時間を稼ぐことだけしか考えられなかった。
「誰だか知らないけど、貴女程度が敵う相手じゃない! 逃げて!」
「関係ありません! 貴女こそボロボロじゃないですか! 早く逃げてください!」
『キーキー耳障りだ……いきなり出てきて邪魔しやがってよォ!』
度重なる奇跡に何らかの違和感を覚えた【アラハバキ】は、怒りに支配されながらも冷静な思考回路で策を講じる。
『アァ、面倒くせェなァ!! 纏めて死ねェ!!』
そう言って、【アラハバキ】は両の手の指で印を結ぶ。
タールみたくどろりとしたどす黒い液体をぼたぼたと全身から滲ませながら、にたりと口を開く。
『唸れ、オレサマの
「っ! 界異が祓魔術……!?」
『クハハハハ! この身体は具合が良くてなァ!! 加護だって引き出し放題! イイ拾いモンしたぜェ!』
「みちる……!」
悲壮な声で今は亡き仲間の名を呼んだ刀岐のことなどお構い無しに、【アラハバキ】は穢れを加護の形に練り上げ続ける。
それを止めんと刀岐も由良来も得物を振るうが、【アラハバキ】の肩からずるりと新たに生えた二腕がそれを受け止め、いなし、彼女達の妨害を封殺する。
そうして目に見えて黒い穢れの奔流が辺りを埋め尽くし始めた時、
『クハッ、キタぜ、キタぜェ!?』
「くっ」
黄泉の門が開かれ、本来ならこの世に非るモノを還す術は、その反対の性質を持ってこの世に在ってはならぬモノを吐き出す。
『────《
色すら分からぬほどに濃い闇。黄泉の泥。
解き放たれたソレに飲み込まれた時、由良来の意識はそこで一度途絶えた。