碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第13話 始動

 夕刻。フィンとおやっさんは、格納庫に鎮座する愛機のカウリングを開け、懐中電灯で細部を照らし出していた。

 フィンの双発機は、腹を開かれた獣のように無防備な姿を晒している。

 

「……油漏れが少しあるな。パッキンも緩んでる。おそらくシリンダーの磨耗は想定内だろうが、点火プラグには少し焼けムラがある。どっちにせよエンジンとキャブレターは全バラにして組みなおしだろう」

 

「で、結局どこまでやるの?」

 

 カリーナが図面を指先で叩きながら言った。

 

「全部だ。と言いたいところだが、全部は無理だな。エンジンは全バラして点検。摩耗部品は交換、キャブも見直す。計器も増やしたい。だが、今から三ヶ月でレース本番だ。間にテスト飛行も入れるなら、欲張りすぎると逆に全部間に合わん」

 

「だろうな。それに予算も無限じゃない」

 

 フィンは肩をすくめる。

 

「でも、勝ちに行くなら速度も欲しいでしょ。プロペラも見直したいし、軽量化もしたいし、燃料系統だって──」

 

「無茶して壊れたら元も子もない」

 

「そう結論を急ぐな。エンジンならいい方法があるぞ。幸いこの型式は簡単に手に入る。オーバーホールまでにエンジンを組んで換装する。二基ならフルチューンしてでも一カ月あれば間に合うからな」

 

「なんだって? そりゃ出るからには予備のエンジンも要るとは思ってたが、フルチューンで載せるだと? まてまてまて」

 

「最近良いアフターパーツがぼつぼつ出回っていてな、プロペラもレーシング用が揃えられるぞ」

 

「……そんなパーツも出てるのか」

 

「ああ、モノ好きが高じて工房を立ち上げたやつがいてな、実際に何機か使ってみたがモノは良い」

 

 フィンは黙って開かれたエンジンを見上げていた。

 勝つための機体にしたい。だが、完走できない機体にしては意味がない。クラス2は花形だが、同時に金と整備と手間を食う。速いだけでは勝てない世界だ。

 

「フィン、お前はどうしたい」

 

 おやっさんに問われ、フィンはようやく口を開いた。

 

「そりゃ勝ちたいさ」

 

 短い言葉だった。

 

「だが、まずは最後まで飛べることだ。速度は二の次とは言わんが、信頼性を捨てるつもりはない」

 

 おやっさんは満足げに鼻を鳴らした。

 

「もちろんだ。レース仕様にはするが、馬鹿みたいな賭けはしない」

 

「……堅実すぎない? 勝ちに行く機体なんでしょ」

 

 不満そうなカリーナに、フィンは諫める。

 

「お前が監督候補なんだろ。だったらなおさら、潰れずに勝てる段取りを考えろ」

 

 むっとした顔のまま、カリーナは見取り図へ視線を落とした。

 悔しいのは確かだが、理屈は分かる。ここで無茶を通してゴールできなければ元も子もない。監督を任されるかもしれない立場である以上、欲しい改修を並べるだけでは済まないのだ。

 少し離れた場所でその様子を見ていたアリスは、機体の横腹に刻まれた小さな擦り傷へ目を留めた。

 今までただ「フィンの愛機」として見ていた機体が、こうして分解され、工程表の上で数字と部品名に置き換えられていくのを見ていると、自分たちが本当に大きなことを始めようとしているのだと実感する。

 

 おやっさんが部品表を指で弾く。

 

「で、パーツはオーダしていいんだな?」

 

「何度も言ってるが予算は無限じゃないんだぞ」

 

「分かってる、そこは勉強してやるよ。工房にもスポンサーにならないか打診してやろう。うまく行きゃパーツは現物支給だ」

 

「……そりゃ助かる」

 

「あとはお嬢ちゃんの仕事場だな。新しい計器の設置と配線……機材を乗せるスペースを作るには、シートも少し弄る必要があるな」

 

「ああ。それならトイレを貨物室前方に移せるか? 若い娘が視界に入る範囲でトイレしているのは落ち着かないからな」

 

「それは大丈夫だ。シートは戻してトイレは要望に応えて後ろに設置してやろう。お嬢ちゃん」

 

 おやっさんがアリスを振り返った。

 

「この機体はな、飛ぶだけなら今のままでレースに出れる。だが、レースに出るってのはそういう話じゃねえ。飛べる、曲がれる、止まれる、壊れない、その上で速い。全部要る」

 

「……はい」

 

「で、その全部に金がかかる」

 

 現実的すぎる一言に、アリスは小さく息を呑んだ。

 宝石を手放して用意した金は、決して軽い額ではなかった。けれど、決して十分ではないのだと思い知らされる。

 

「一旦サルティーナへ戻れ」

 

 おやっさんは工程表の端を指で押さえた。

 

「必要部品の洗い出しを進めるから、それまでに人と金と実力、チームの形を揃えてこい」

 

「分かりました」

 

「そうだな。エンツォたちとの契約もあるし、エントリーの準備も山ほどある。何よりアリスのトレーニングもまだまだだ」

 

「うう、お手柔らかにお願いします……」

 

 弱気な言葉と裏腹に、アリスは覚悟を決めた顔でフィンを見返した。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 サルティーナへ戻ると、待っていたのは穏やかな南の陽射しと、穏やかではまるでないマヌエラだった。

 

「遅いわよ、フィン!」

 

 事務所へ顔を出すなり、机の向こうから飛んできたのは伝票の束だった。

 もちろん本当に投げつけたわけではなく、叩きつけるように置いただけだが、気配は十分に怒っている。

 

「北大陸に行って、チーム組んで、レース出ます、で終わると思ってるんですか? 契約書の控えは? 見積もりは? 仮の名簿は? 支払い予定は?」

 

「おかえりの一言も無しか」

 

「その前に仕事です」

 

 ぴしゃりと切られ、フィンは苦笑するしかなかった。

 その横でアリスは、少しだけ安堵していた。

 マヌエラがこうして怒っている時は、大抵きちんと回してくれる時だと、最近分かってきたからだ。

 マヌエラは眼鏡の位置を直しながらフィンとアリスを見る。

 

「サポートチームと仮でも話をつけたのは上出来ね。あとは契約ごとなのでこっちの仕事。エントリーに必要な書類、契約条件、こちらの人員、資金繰り、全部整理します」

 

「すまん、助かる」

 

「助かるじゃありません。ここからが本番です」

 

 そう言って、マヌエラは新しい帳面を開いた。表紙には太い字で、こう書かれている。

 

『ストラトス・グランプリ準備』

 

 それを見た瞬間、アリスは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じる。

 同時に、フィンを中心に人と仕事が回り始めている気配が、アリスの胸を奇妙に高ぶらせた。

 マヌエラはエントリーに必要な書類を洗い出し、仮の予算表を作り始めた。

 

 フィンは顔の利く相手に声をかけ、なんとなく拠点となったジュリアの店には自然と人が集まり始める。

 サポートに必要なのは、飛ぶ人間だけではない。

 荷を動かす人間、部品を管理する人間、飯を回す人間、連絡を受ける人間、金を数える人間。どれか一つ欠けても、チームはただの寄せ集めで終わる。

 

「体制は監督候補がカリーナね、事務は私。事務を回すなら、現場雑務に強い人が後二人は欲しいですね」

 

「そこは思いつかないな、探しておく」

 

 マヌエラが帳面を見ながらさらに言う。

 

「あと、島側で軽整備と雑務を回せる人も必要です。北大陸の本工場に任せきりにはできませんし」

 

 フィンが答える。

 

「それなら心当たりがあるな」

 

「ほんと?」

 

「ああ、普段、軽整備を頼んでる工場がある。FPWとも取引がある工房だが、まだ若いがレースに興味がある奴がいる。呼んでみるか」

 

 ほどなくして事務所へ作業着を着た青年がやって来た。

 

「タイド整備工房のトーノと言います。本当にチームに参加できるんですか? 俺でいいんですか?」

 

「良くなきゃ呼ばないわ、仕事はできるって聞いてるわ」

 

「そりゃ小さい工房なので何でもやる必要がありますんで……」

 

 マヌエラが帳面を閉じる。

 

「ならいいわ、雑用も多いし、レースだからって格好いい仕事ばかりじゃありません。手当だってお小遣いに毛が生えたくらいよ。それでも良いの?」

 

「それでもストラトス・グランプリに関われるなら十分です」

 

「分かった。当面は朝夕に顔を出して、マヌエラの指示を受けてくれ」

 

「分かりました、フィンさん。俺頑張ります!」

 

 もう一人、荷役と船着場の手配に強い中年男のマイケルも話に乗ってきた。島の運送で顔が広く、倉庫の空きや搬送の融通に詳しい。華やかさはないが、こういう人間が一人いるだけで現場はぐっと回りやすくなるとマヌエラは歓迎した。

 

 

 夜になると、ジュリアの店にはさらに人が増えた。

 島で小さく商売をしている者、フィンの配達に世話になった者、ただ面白がっている常連。ジュリアは大皿の料理を並べながら、半ば呆れたように笑った。

 

「で、結局みんな気になるのよ。フィンが本当にストラトスに出るのかって」

 

「噂が早いな」

 

「そりゃそうでしょう。島で一番無愛想な運送屋が、急に手当たり次第に声を掛け始めたんだもの」

 

 店内に笑いが起きる。その笑いの中で、ジュリアはそっと小箱をテーブルへ置いた。

 

「うちからはこれ。大した額じゃないけど、食事代の足しにはなるでしょ」

 

「ジュリア……」

 

「勘違いしないで。投資よ。店の宣伝に使わせてもらうからね」

 

 それをきっかけに、少しずつ話が広がった。

 服屋がチームのユニフォームを格安で融通してくれることになり、宿屋が遠征中のチーム員の荷物預かりを申し出る。常連の一人は燃料代の足しにと小銭を置き、別の一人は差し入れに新鮮な魚を持ってくる。

 派手なスポンサーではない。

 けれど、そうして差し出されるものの一つ一つが、アリスには不思議なくらい重く思えた。

 

「……もっと、どこか一つから大きなお金が入るものだと思っていました」

 

 店の隅でアリスが小さく呟くと、マヌエラが帳面からようやく顔を上げ、にこりと答えた。

 

「あら、それは貴女でしょ? フィンは幸運の女神を運んで来たって街の話題よ」

 

「え? 違いますよ、そんな女神なんて……」

 

「でも実際にフィンはストラトスに出られることになったでしょ? 島の人たちは皆ゲンを担ぐの。ありがたく受け取っておきなさい」

 

「結果的にはそうですけど……女神と言われると……」

 

「いいじゃない。それに大口のスポンサーだけじゃやっていけないの。現金だけじゃなくて、食事、道具、保管、輸送、そういう現物の支援は大事なのよ。むしろ、こういうのを拾えないチームは長続きしないもの」

 

 その言葉には妙な説得力があった。

 そこへ、場の空気を乱すような声が割り込んだ。

 

「へえ。泣ける話だな」

 

 

 

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