碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第15話 契約1

 契約から二週間後の朝、フィンたちはFPWの格納庫へ向かった。油と鉄の匂いに、運河から漂う潮のにおいがわずかに混じる。そのシャッターの前で、おやっさんとカリーナが待っていた。

 

「来たか」

 

 おやっさんが油で汚れた手を布で拭きながら言った。

 

「エンジンの方は予定通り進んどる。だが、今はそっちじゃねえな」

 

「ああ。まずはエンツォたちと正式に契約だ。そのあとFPWともな」

 

「なら、さっさと片づけてこい。終わったらこっちの状況を説明してやる。カリーナ、契約は任せた」

 

 カリーナは図面を抱えたまま肩を竦めた。

 

「こっちよ」

 

 カリーナとともに事務所へ戻っていくと、工房区画を抜けた先の運河沿いで、エンツォとベアトリーチェが待っていた。

 

「来たわね」

 

 ベアトリーチェが言う。

 

「二週間。長いようで短かったわ。準備はしておいたわ」

 

「こっちも同感だ。紹介しておく、マヌエラだ。うちの事務を一切合切やってもらってる」

 

「はじめまして、マヌエラです」

 

「ベアトリーチェと言います。ルナのエージェントです。今回はよろしくお願いね」

 

 マヌエラとベアトリーチェは挨拶を交わすと、そのまま事務仕事に入りそうな気配だったので、カリーナが先に声を挟んだ。

 

「とりあえず事務所に行きましょう。うちとの契約もあるけど、まずはルナからね」

 

 事務所に入り、フィンたちが腰を下ろすと、ベアトリーチェがさっそく机の上に契約書を広げた。

 

「まず、大前提のサポート内容はこれでいいかしら?」

 

 ベアトリーチェから契約内容を書いた紙を受け取り、マヌエラは開いた帳面と入念に見比べていく。フィンも頷きながら読み込んでいたが、アリスには半分ほどしか理解できない内容だった。

 

「持ち込む機材で大物になるのは、エンジン二基だ。問題ないか?」

 

「ええ、私たちはいつも二機分サポートしていますから、今回だけで言えばかなり余裕があるわ」

 

 エンツォも同意する。

 

「いつもは結構やりくりして飛んでるんだが、今回はかなり楽だな。おかげでサポート部門の上位を狙えるかもしれん」

 

「そりゃ助かる」

 

 フィンとマヌエラは二人でやり取りを続け、やがて一通りの確認が終わった。

 

「さすが慣れてる。問題ない」

 

 続いてマヌエラが事務的な確認をする。

 

「では確認します。契約料は四百五十、支払いは前金と残額の分割。サポート対象はクラス2のフィン機一機。サポート内容は先ほどの明細通り」

 

「問題ない。カツカツだが、遊んでるよりよっぽど良い」

 

「あと、サポートチームの経費だけど、エントリー費や参加に必要な一切合切は契約料からルナ側で支払う。これでよかったかしら」

 

「ええ、問題ありません」

 

「わかりました。エントリー用の名簿は、今日もらえる分を正式とします」

 

 ベアトリーチェは迷いなく頷き、リストを手渡した。

 

「こちらは十人よ。責任者はエンツォ。会計と文書窓口は私」

 

「こちらの同行者は、フィンたちとは別に三人見込みです。監督のカリーナ、私、それともう一人。席は用意できますか?」

 

「もちろん。メンバー移動用の機体はあるわ。移動の細かい段取りは、道中で詰めてもいいわよ」

 

「……お前、レースにも同行するつもりか」

 

「当たり前でしょう。私が行かずに何かあったらどうするんです。書類と金の話を貴方に任せきれるわけがないでしょう」

 

「おいおい、そこは来る前に決めとけよ」

 

 エンツォが肩を竦め、話を戻すようにフィンへ向き直った。

 

「燃料に関してはどうする? 必要量を言ってくれればこっちで準備できるぜ。もちろん代金は後でもらうが」

 

 フィンが答えようとしたところに、カリーナが割り込む。

 

「燃料は私が調達するわ。父がエンジンを弄ってるから、それなりに質の高いものを準備しないと怖いもの」

 

「分かった。じゃあタンクは空けておく」

 

「何か質問はある?」

 

 マヌエラに振られ、アリスは一瞬だけ考えた。

 

「あの、食事はどうなるのですか?」

 

 ベアトリーチェが目を細める。

 

「参加者は主催者がケータリングしてくれるので、貴女達はそちらで食べられるわよ。サポートスタッフは自前で準備するけど、一緒に食べても大丈夫よ」

 

「なるほど、そうなのですね。なら安心ですね」

 

「そういえば、食事代の扱いは確認していませんでしたね」

 

 マヌエラが思い出したように言う。

 

「そこはまとめてやるから、サポート代のうちよ」

 

「分かりました」

 

 一通りの確認が済んだところで、カリーナが口を開いた。

 

「で、チーム名はどうするの? こっちもデザインの発注とか準備があるのよ」

 

 フィンとマヌエラがあっ、という顔をする。

 

「しまった、考えてなかった」

 

「え!? マジかお前?」

 

 さすがにエンツォとベアトリーチェもあきれ顔だ。しかしアリスは意味が分からず、きょとんとしている。それを目ざとく見つけたエンツォが丁寧に説明する。

 

「お嬢さん、大会に出るには名前が要る。チーム名ってやつだな。チームを組んだからには、俺たちもその名前で出ることになる」

 

「アリスと呼んでください。そういうものなんですね」

 

「それがおめぇ、まさかチーム名すら考えてなかったとはな」

 

「すまん。色々やることがあったもんで、後回しにして忘れてた」

 

「忘れてた、で済む話じゃないのよ」

 

 カリーナが額を押さえる。

 

「機体の塗装も、書類の見出しも、応援旗も、全部そこに繋がるんだから」

 

「応援旗まであるのかよ」

 

「あるに決まってるでしょ。勝つ気があるならなおさらね」

 

 フィンは腕を組んだまま唸った。

 

「……変に気取ったのは嫌だぞ」

 

「名前がないと、エントリーシートも書けねぇぞ」

 

 エンツォが現実的な調子で言う。

 

「格好つけるのでも、分かりやすいのでもいい。とっとと決めてくれ」

 

 少しの間だけ、机の周りが静かになった。その沈黙を、マヌエラがあっさり切った。

 

「ガネットで良いんじゃないですか。フィンの機体の名前ですし」

 

 全員の視線がマヌエラへ集まる。本人は帳面から顔も上げないまま、淡々と続けた。

 

「変に飾るより分かりやすいですし、書類上も扱いやすいです。島の人間にも通じます。呼びやすいのが一番でしょう」

 

「……チームガネット、ってことか?」

 

 フィンが確認するように言うと、マヌエラはようやく顔を上げた。

 

「ええ。それで十分では?」

 

 エンツォがふっと口元を緩めた。

 

「ガネット、カツオドリか。大空をゆったり飛ぶ感じでいいじゃねぇか」

 

 そこで一拍置いて、肩を竦める。

 

「……だが、レース機の名前にしちゃちょっとのんびりしてるな。ファルコンとか、もっと速そうな鳥にしなかったのか?」

 

 フィンは呆れたように鼻を鳴らす。

 

「双発の貨物機に何を求めてるんだよ」

 

「夢くらい見てもいいだろうが」

 

「見たって機体は軽くも速くもならねえよ」

 

 その返しに、エンツォが肩を揺らして笑った。

 

「違いねえ」

 

 カリーナは不満げに言いながらも、どこか納得したように肩を竦める。

 

「まあ、フィンが気取った名前つけるよりは自然ね」

 

 アリスはその名前を小さく口の中で繰り返した。

 

「チームガネット……」

 

 華やかではない。けれど、妙にしっくりきた。

 

「いいんじゃないですか」

 

 アリスが言うと、フィンは短く息を吐いた。

 

「……じゃあ、それで行くか」

 

 合意したところで、フィンとエンツォがお互いに署名をした。紙が重ねられ、控えが分けられたところで、フィンがふと顔を上げた。

 

「ところでエントリーはどうする?」

 

 エンツォが片眉を上げる。

 

「どうする、とは?」

 

「俺たちの分は島で出す。今回は島にも大会事務所があるからな。そこに持っていくつもりだ」

 

 少しだけ間があった。ベアトリーチェが先に口を開く。

 

「書類だけ渡して終わりより、その場で見た方が早いわね」

 

「島にも行っておきたいってことか」

 

 フィンが言うと、エンツォは短く鼻を鳴らした。

 

「そうだな。紙の上だけで組んだ気になるのは性に合わねえ」

 

 それから彼は椅子の背にもたれ、はっきりと言った。

 

「一緒に出す。せっかくだから一度島に行くさ」

 

 フィンは頷いた。

 

「分かった。じゃあ、島で落ち合おう」

 

 その一言で、ただの契約相手だったはずの距離が、もう少しだけ縮まった気がした。

 

「ルナの話は終わったから、次はうちの番よ」

 

 よほど言いたいことがあるのか、カリーナは妙に張り切っている。こういう時のカリーナはろくなことにならないと、フィンの経験が告げていたが、ここは逃げられる場所がない。

 

「ほんとにチーム名すらないとは勘弁してよ。明日にはデザイン発注決定の予定なのに」

 

 そう言うと、カリーナは大きく丸めた紙を一本取り出し、机の上に広げた。みんなが自然とその上をのぞき込む。

 

「まて、契約もまだなのに、そこまで進んでるのか?」

 

「チーム名は空欄にしといたわ。そこはうち《FPW》のスポンサー範囲で、機体の整備扱いでね。名前さえ決まれば、明日には発注できる」

 

「フィンの今の機体は白一色でしょ。そこは大きく変えたかった……のだけど、嫌がられそうだから、島のエメラルドグリーンと大空と海の青を差し色にラインを入れるだけにしたわ。羽の先とボディね」

 

 少し重たげな双発の胴体に、緑と青のラインが流れるように走っていた。その線に沿うように、フォージド・プライド・ワークショップの文字が入っている。派手ではない。けれど、白い機体の印象を崩さないまま、確かに前より強く見えた。

 

「えっ……とても素敵です。本当ですか、これ!」

 

「アリスにはずいぶん受けがいいわね。フィンはどうなのよ?」

 

「悪くない。これならいい」

 

「何と戦ってるのよ貴方は……このカリーナ様の渾身のデザインだというのに! フィンにはもったいないわ」

 

「え!? お前、デザインもするのか。……初耳だ」

 

「えっへん、私の才能を崇めなさい」

 

「フィンがそれだけ言うなら上出来ですね」

 

 マヌエラが淡々と言うと、アリスはもう一度図面へ目を落とした。

 

「白の印象がちゃんと残ってるのに、前よりずっと強く見えます。ちゃんとフィンさんの機体だって分かります」

 

 エンツォが感心したように口笛を鳴らす。

 

「いいじゃねえか。このくらいなら、うちも差し色だけ揃えるか」

 

 ベアトリーチェも小さく頷いた。

 

「ええ、機体色まで全部変えなくても、ストライプだけ合わせれば十分だわ。外から見ても同じチームだって分かるもの」

 

「そうそう、それでいいのよ。元の色は残して、揃えるところだけ揃えるの」

 

「……まあ、アリスが気に入ったなら、これで行くか」

 

「よし、塗装は決まりね」

 

 カリーナが図面を軽く叩いた。

 

「じゃあ次は格納庫ね」

 

 カリーナが立ち上がった。

 

 

 

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