島へ戻った翌日、港で偶然マリエッティと顔を合わせた。彼女は自分の機体のそばで荷の確認をしていたが、フィンたちを見るなり、軽く手を振る。
「聞いたよ。いよいよ出すんだって?」
「ああ。そっちはもう済ませたのか」
「もちろん、初日に出したわ」
ふふっと柔らかく笑ったマリエッティは、アリスへ目を向けた。
「あなたも、とうとう本番ね」
「まだ提出前です……」
「でも、もう覚悟を決めた顔してる」
からかい半分のようでいて、口調は軽くない。マリエッティは今度はフィンの方へ視線を戻した。
「で、準備はどこまで進んでるの?」
「オーバーホールの予定も立った。サポートチームとも正式に契約した。エントリー書類も、あとは出すだけだな」
「'あとは出すだけ'が一番面倒なのよね」
マリエッティは小さく笑う。
「その一歩手前で躓く人、結構いるから」
「耳が痛いな」
「痛くて当然。レースって、飛び始める前に半分くらい勝負が決まるもの」
アリスが思わず口を開く。
「そんなにですか?」
「そんなよ。機体、整備、資金、人手、書類。どれか一つでも甘いと、スタート地点に立つ前に脱落する」
マリエッティは荷札を確かめながら、さらりと言った。
「うちだって楽じゃないわよ。エントリーは済ませたけど、予備部品はまだ詰め切れてないし、整備班とも毎日揉めてる」
「お前のところでも揉めるのか」
「揉めるわよ。軽くしたい人間と、壊したくない人間と、金を出す人間の言うことが全部違うもの」
「それはどこも同じか」
「でしょ? しかも今年は皆、本気度が高い。腕に覚えのある連中が一気に戻ってきてる」
フィンは小さく鼻を鳴らした。
「嫌な話だ」
「嫌でも現実よ。あんたのところは?」
「機体は向こう《FPW》任せだ。こっちは人を集めて、書類を揃えて、アリスを叩き込んでる」
「叩き込まれてます……」
マリエッティはくすっと笑った。
「いいじゃない。今の時期に甘やかされるより、よっぽどましよ」
アリスは小さく頷いた。マリエッティは荷札を一枚めくり、少しだけ声の調子を落とした。
「夢が現実になる時って、案外こんなものよ。劇的な何かがあるんじゃなくて、気づいたら変わっているわ」
フィンは黙って聞いていた。
「先輩としての忠告よ。……まだ出してないなら、明後日にしなさい。初日に出したけど、二度とやりたくない」
その表情を見たフィンが苦笑する。
「忠告通り避けるか」
「三日目ならオススメよ。締め切りギリギリも混むから」
アリスはその言葉に、少しだけ背筋を伸ばした。
◇◇◇◇◇
そして夕方。事務所に戻ると、マヌエラが机の上に一式の書類を揃えて待っていた。
「確認してください。機体登録、パイロット登録、コ・パイロット登録、仮チーム名簿、資金証明、連絡先、全部です」
「……早いな」
「でしょ? 褒めてくれていいわよ」
「ああ、感謝してる」
フィンが一枚ずつ目を通し、アリスも横から確認する。自分の名前が、コ・パイロット欄にきちんと記されているのを見た瞬間、胸の奥が小さく震えた。
「ISAFの資格証は?」
「ああ、取ってきた」
フィンが二枚の紙を出す。
「俺のは軍歴記録で申請が通った。アリスは先日、組合事務所で一日講習を受けてる」
「……あの講習、思ったより大変でした」
「証明書が出たなら問題ありません」
マヌエラは二枚を確認し、書類の束に差し込んだ。
「署名を」
マヌエラに促され、まずフィンが書く。続いてアリスがペンを取った。何てことはない、ただの手続きのための署名《サイン》にすぎないはずだった。けれど、その一行を書けば、自分はもう見物人ではいられない。ほんのわずかに指先へ力が入り、ペン先が紙の上で止まった。
「アリス《偽名》でいい。今は細かいことは気にするな」
その言葉に促され、ようやく名前を書き終えたアリスを見て、フィンが低く言う。
「OK、空を飛びたいと願ったのは'アリス'だからな、それでいい」
アリスには、その言葉がフィンなりの気遣いだと分かった。
「ええ。押しかけた私をここまで連れて来ていただき、ありがとうございます」
答えると、フィンはほんの少しだけ口元を緩めた。
「お前の行動力の結果だ。誇れ」
マヌエラが最後の書類を揃え、封筒へ入れる。
「では、これで出しましょう。ここまで揃えて、ようやく申込みです。受理されて、書類審査を通って、初めて正式なエントリーです」
「そうだな、まだスタートにも立ってない」
「あたりまえですよ」
◇◇◇◇◇
翌朝。ジュリアの店のカフェ席には、いつもより早い時間から人が集まっていた。窓から朝日が差し込むが、港から吹き込む風がまだ少しだけ冷たい。焼きたてのパンとスープの匂いが、その冷たさをやわらげていた。
テーブルに着いているのは、フィン、アリス、マヌエラ、ジュリア、トーノ、マイケル。そして夜明け前に運河沿いへ姿を見せたエンツォとベアトリーチェだった。島へ来たばかりのはずなのに、二人とも妙に馴染んだ顔をしている。
「全員いるわね」
マヌエラが封筒を机の上に置いた。
「では最終確認です。提出は今日。受理されるまで、誰も'出た'とは言わないこと。分かりましたね」
「はい」
アリスが頷く。マヌエラは封筒の口を開き、もう一度だけ中身を確かめた。
「機体登録、参加登録、コ・パイロット登録、チーム名簿、資金証明、ISAF競技資格証……足りてるわね」
「まだだ、こいつを預かってる」
テーブルの端にいたエンツォが薄い封筒を一通、指先で弾いて寄越した。
「……推薦状?」
「俺たちが島へ発つ前に、おやっさんが寄越してきた」
フィンがそれを見て、わずかに眉をひそめる。
「軍歴はあっても、レースの実績はない。だから保険を掛けた、だとよ」
エンツォは肩を竦めた。
「少し金は使ったが、無駄にはならんだろう。持って行け……だそうだ」
フィンは小さく息を吐いた。
「余計な気はするが……まあ、ありがたく使わせてもらう」
マヌエラが即座に封筒を受け取り、提出書類の束へ差し込む。
「ありがたく使わせていただきましょう。書類審査がある以上、補強材料は多い方がいいですからね」
「分かってる」
フィンが封筒を手に取ろうとすると、マヌエラがさっと押さえた。
「細かい書類の順番は私が持ちます。フィンは余計なことを言わない」
「余計なことは言わん」
「その'言わん'が信用ならないんです」
ぴしゃりと返され、ジュリアが吹き出した。笑いながら、アリスの前に温かいスープを置く。
「食べときなさい。緊張してても、空っぽじゃ頭は回らないわよ」
「……ありがとうございます」
トーノはまだ少し落ち着かなげにきょろきょろしていた。
「なんか、本当に大会って感じですね……」
ベアトリーチェが小さく肩を竦める。
「ここまで来て震えてるのは、あなた一人じゃないわ」
「別に震えてません」
「顔が強張ってる」
エンツォがぼそりと混ぜると、場に小さな笑いが起きた。フィンはパンを一つ口へ放り込み、短く言った。
「行くぞ」
街へ出ると、朝のサルティーナはすでに目を覚ましていた。魚を運ぶ荷車、店を開ける商人、港へ向かう水夫。そんな中を、フィンとアリスは並んで歩く。少し後ろを、マヌエラはマイケルと並んで封筒を抱えて付いてくる。
「おい、フィン!」
最初に声を掛けてきたのは、顔見知りの漁師だった。
「本当に出すんだってな!」
「ああ」
「なら勝ってこいよ! 島の看板背負ってんだからな!」
そのまま笑って去っていく。続いて雑貨屋の店先からも声が飛ぶ。
「アリスちゃん、頑張んなさいよ!」
「……はい!」
応援ばかりではない。半信半疑の視線も混ざる。けれど、それでも町が自分たちを見ているのだという実感は、確かにあった。
大会事務所の前には、すでに人だかりが出来ていた。受付窓口へ続く列。書類を抱えたチーム関係者。怒鳴り声を上げる整備士。泣きそうな顔で控えを探している若い参加者。初日ほどではないにせよ、十分に混み合っている。
「……すごい人」
アリスが思わず呟く。
「マリエッティの言った通りだな」
フィンが答える。その時、入口付近がひときわ大きくどよめいた。新聞記者たちが取り囲んでいる中心にいたのは、背が高く、整った顔立ちで、笑えば絵になる青年だった。いかにも人目を引く男で、周囲の視線が自然と集まっている。
「どなたでしょうか? 有名な方なのですか?」
「去年の総合優勝者エリオだ。モデルもやってて顔が売れてる」
確かにそう言われてみれば、いかにも'華のある勝者'という雰囲気を纏っている。しばらくして取材の輪が解ける。エリオは受付を済ませたらしく、書類控えを手にしながら人波を割ってこちらへ向かってきた。すれ違いざま、その視線がフィンに止まる。
「……フィンか」
アリスは驚いてフィンを見た。フィンは一瞬だけ眉を動かし、短く答える。
「エリオ……」
「久しぶりだな。お前も出るのか?」
「出る」
エリオの視線がフィンの後ろへ流れた。エンツォたちの顔ぶれに気づいたらしい。
「紹介しておく。うちのサポートチームだ」
フィンが横のエンツォを示すと、エンツォは軽く顎を引いた。エリオはその顔を一瞥し、ほんの少しだけ口元を上げた。
「面白くなるな。──お互い通るといいな。……久しぶりに、楽しみが増えた」
それだけ言って、彼は去っていった。アリスはフィンを見たが、フィンは何も言わない。その横顔には、さっきまでと少し違う硬さがあった。
「……強い人ですか?」
アリスが小声で訊いた。
「去年勝ってる。それだけで十分だろ」
それだけ言って、フィンは列の先を見た。ようやく順番が回ってきた。受付窓口の係員が、無表情のまま手を差し出す。
「申請書類一式。機体登録、参加登録、チーム名簿、資金証明、ISAF競技資格証、サポートチーム関連資料。それに推薦状」
マヌエラが封筒を開き、順番通りに書類を差し出していく。係員の指が速く動く。ページが捲られ、印鑑の位置、署名、番号、控えの有無が、容赦なく確認されていく。推薦状のところでほんの少し動きがよどんだ。アリスは横で息を詰めていた。ここまで揃えた。署名もした。契約も済ませた。それでも、今この場で何か一つ抜けていれば終わりなのだ。
「コ・パイロット、アリス……」
係員が淡々と読み上げる。その無機質な声に、アリスの心臓が強く跳ねた。だが係員は顔色一つ変えず、次の紙へ移った。隣でフィンが、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのが分かる。
「エントリーフィーを」
係員の言葉に、アリスは用意していた財布を開いた。この日のために確保しておいた金額を、きっちり数えて窓口へ置く。あの日手放した宝石の重さが、一瞬だけ指先に戻った気がした。
係員は金額を確かめ、領収証を切り、エントリーフォームの控えに朱印を押した。ぱん、と乾いた音がした。受付表と控えが手元に戻される。
「サポートチーム登録がありますね。登録書類をお願いします」
エンツォが一歩前に出て、ベアトリーチェが用意していた封筒を差し出した。係員がざっと目を通す。
「責任者エンツォ、文書窓口ベアトリーチェ。……問題なし」
「受理はこれで完了です。受付番号はこちら」
その一言が、あまりにもあっさりしていて、アリスはすぐには理解が追いつかなかった。マヌエラが受領票を受け取ると、ようやく長く息を吐く。
「……よし。受理は済みました。次は書類審査です」
その瞬間、固まっていた空気が一気にほどけた。フィンは肩の力を抜き、アリスはその場でようやく息を吐き切る。後ろでエントリーを待つエンツォが口笛を吹いた。ベアトリーチェは小さく頷くだけだったが、その目は明らかに安堵していた。
「無事受理されたな」
そう言って右手を差し出す。フィンがそれを握り返すと、エンツォは口元だけで薄く笑った。
「こっちも準備を進める。だから、選考で落ちるんじゃねえぞ」
「縁起でもないことを言うな」
「念押しだ。受理されたからって、まだ終わりじゃないからな」
短いやり取りのあと、二人は手を放した。
「これで、本当に……」
アリスが呟くと、フィンが受領票を見ながら答える。
「ああ。これでスタートラインの一歩前だ」
事務所の外へ出ると、昼の光が眩しかった。手元の紙は薄い。けれど、その中には機体も、人も、金も、覚悟も、全部が詰まっている。フィンはその紙を一度握り直し、静かに言った。
「勝ちに行くぞ」
その場にいた全員が、それを自分への言葉として受け取っていた。