碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第17話 エントリー

 島へ戻った翌日、港で偶然マリエッティと顔を合わせた。彼女は自分の機体のそばで荷の確認をしていたが、フィンたちを見るなり、軽く手を振る。

 

「聞いたよ。いよいよ出すんだって?」

 

「ああ。そっちはもう済ませたのか」

 

「もちろん、初日に出したわ」

 

 ふふっと柔らかく笑ったマリエッティは、アリスへ目を向けた。

 

「あなたも、とうとう本番ね」

 

「まだ提出前です……」

 

「でも、もう覚悟を決めた顔してる」

 

 からかい半分のようでいて、口調は軽くない。マリエッティは今度はフィンの方へ視線を戻した。

 

「で、準備はどこまで進んでるの?」

 

「オーバーホールの予定も立った。サポートチームとも正式に契約した。エントリー書類も、あとは出すだけだな」

 

「'あとは出すだけ'が一番面倒なのよね」

 

 マリエッティは小さく笑う。

 

「その一歩手前で躓く人、結構いるから」

 

「耳が痛いな」

 

「痛くて当然。レースって、飛び始める前に半分くらい勝負が決まるもの」

 

 アリスが思わず口を開く。

 

「そんなにですか?」

 

「そんなよ。機体、整備、資金、人手、書類。どれか一つでも甘いと、スタート地点に立つ前に脱落する」

 

 マリエッティは荷札を確かめながら、さらりと言った。

 

「うちだって楽じゃないわよ。エントリーは済ませたけど、予備部品はまだ詰め切れてないし、整備班とも毎日揉めてる」

 

「お前のところでも揉めるのか」

 

「揉めるわよ。軽くしたい人間と、壊したくない人間と、金を出す人間の言うことが全部違うもの」

 

「それはどこも同じか」

 

「でしょ? しかも今年は皆、本気度が高い。腕に覚えのある連中が一気に戻ってきてる」

 

 フィンは小さく鼻を鳴らした。

 

「嫌な話だ」

 

「嫌でも現実よ。あんたのところは?」

 

「機体は向こう《FPW》任せだ。こっちは人を集めて、書類を揃えて、アリスを叩き込んでる」

 

「叩き込まれてます……」

 

 マリエッティはくすっと笑った。

 

「いいじゃない。今の時期に甘やかされるより、よっぽどましよ」

 

 アリスは小さく頷いた。マリエッティは荷札を一枚めくり、少しだけ声の調子を落とした。

 

「夢が現実になる時って、案外こんなものよ。劇的な何かがあるんじゃなくて、気づいたら変わっているわ」

 

 フィンは黙って聞いていた。

 

「先輩としての忠告よ。……まだ出してないなら、明後日にしなさい。初日に出したけど、二度とやりたくない」

 

 その表情を見たフィンが苦笑する。

 

「忠告通り避けるか」

 

「三日目ならオススメよ。締め切りギリギリも混むから」

 

 アリスはその言葉に、少しだけ背筋を伸ばした。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 そして夕方。事務所に戻ると、マヌエラが机の上に一式の書類を揃えて待っていた。

 

「確認してください。機体登録、パイロット登録、コ・パイロット登録、仮チーム名簿、資金証明、連絡先、全部です」

 

「……早いな」

 

「でしょ? 褒めてくれていいわよ」

 

「ああ、感謝してる」

 

 フィンが一枚ずつ目を通し、アリスも横から確認する。自分の名前が、コ・パイロット欄にきちんと記されているのを見た瞬間、胸の奥が小さく震えた。

 

「ISAFの資格証は?」

 

「ああ、取ってきた」

 

 フィンが二枚の紙を出す。

 

「俺のは軍歴記録で申請が通った。アリスは先日、組合事務所で一日講習を受けてる」

 

「……あの講習、思ったより大変でした」

 

「証明書が出たなら問題ありません」

 

 マヌエラは二枚を確認し、書類の束に差し込んだ。

 

「署名を」

 

 マヌエラに促され、まずフィンが書く。続いてアリスがペンを取った。何てことはない、ただの手続きのための署名《サイン》にすぎないはずだった。けれど、その一行を書けば、自分はもう見物人ではいられない。ほんのわずかに指先へ力が入り、ペン先が紙の上で止まった。

 

「アリス《偽名》でいい。今は細かいことは気にするな」

 

 その言葉に促され、ようやく名前を書き終えたアリスを見て、フィンが低く言う。

 

「OK、空を飛びたいと願ったのは'アリス'だからな、それでいい」

 

 アリスには、その言葉がフィンなりの気遣いだと分かった。

 

「ええ。押しかけた私をここまで連れて来ていただき、ありがとうございます」

 

 答えると、フィンはほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「お前の行動力の結果だ。誇れ」

 

 マヌエラが最後の書類を揃え、封筒へ入れる。

 

「では、これで出しましょう。ここまで揃えて、ようやく申込みです。受理されて、書類審査を通って、初めて正式なエントリーです」

 

「そうだな、まだスタートにも立ってない」

 

「あたりまえですよ」

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 翌朝。ジュリアの店のカフェ席には、いつもより早い時間から人が集まっていた。窓から朝日が差し込むが、港から吹き込む風がまだ少しだけ冷たい。焼きたてのパンとスープの匂いが、その冷たさをやわらげていた。

 

 テーブルに着いているのは、フィン、アリス、マヌエラ、ジュリア、トーノ、マイケル。そして夜明け前に運河沿いへ姿を見せたエンツォとベアトリーチェだった。島へ来たばかりのはずなのに、二人とも妙に馴染んだ顔をしている。

 

「全員いるわね」

 

 マヌエラが封筒を机の上に置いた。

 

「では最終確認です。提出は今日。受理されるまで、誰も'出た'とは言わないこと。分かりましたね」

 

「はい」

 

 アリスが頷く。マヌエラは封筒の口を開き、もう一度だけ中身を確かめた。

 

「機体登録、参加登録、コ・パイロット登録、チーム名簿、資金証明、ISAF競技資格証……足りてるわね」

 

「まだだ、こいつを預かってる」

 

 テーブルの端にいたエンツォが薄い封筒を一通、指先で弾いて寄越した。

 

「……推薦状?」

 

「俺たちが島へ発つ前に、おやっさんが寄越してきた」

 

 フィンがそれを見て、わずかに眉をひそめる。

 

「軍歴はあっても、レースの実績はない。だから保険を掛けた、だとよ」

 

 エンツォは肩を竦めた。

 

「少し金は使ったが、無駄にはならんだろう。持って行け……だそうだ」

 

 フィンは小さく息を吐いた。

 

「余計な気はするが……まあ、ありがたく使わせてもらう」

 

 マヌエラが即座に封筒を受け取り、提出書類の束へ差し込む。

 

「ありがたく使わせていただきましょう。書類審査がある以上、補強材料は多い方がいいですからね」

 

「分かってる」

 

 フィンが封筒を手に取ろうとすると、マヌエラがさっと押さえた。

 

「細かい書類の順番は私が持ちます。フィンは余計なことを言わない」

 

「余計なことは言わん」

 

「その'言わん'が信用ならないんです」

 

 ぴしゃりと返され、ジュリアが吹き出した。笑いながら、アリスの前に温かいスープを置く。

 

「食べときなさい。緊張してても、空っぽじゃ頭は回らないわよ」

 

「……ありがとうございます」

 

 トーノはまだ少し落ち着かなげにきょろきょろしていた。

 

「なんか、本当に大会って感じですね……」

 

 ベアトリーチェが小さく肩を竦める。

 

「ここまで来て震えてるのは、あなた一人じゃないわ」

 

「別に震えてません」

 

「顔が強張ってる」

 

 エンツォがぼそりと混ぜると、場に小さな笑いが起きた。フィンはパンを一つ口へ放り込み、短く言った。

 

「行くぞ」

 

 街へ出ると、朝のサルティーナはすでに目を覚ましていた。魚を運ぶ荷車、店を開ける商人、港へ向かう水夫。そんな中を、フィンとアリスは並んで歩く。少し後ろを、マヌエラはマイケルと並んで封筒を抱えて付いてくる。

 

「おい、フィン!」

 

 最初に声を掛けてきたのは、顔見知りの漁師だった。

 

「本当に出すんだってな!」

 

「ああ」

 

「なら勝ってこいよ! 島の看板背負ってんだからな!」

 

 そのまま笑って去っていく。続いて雑貨屋の店先からも声が飛ぶ。

 

「アリスちゃん、頑張んなさいよ!」

 

「……はい!」

 

 応援ばかりではない。半信半疑の視線も混ざる。けれど、それでも町が自分たちを見ているのだという実感は、確かにあった。

 

 大会事務所の前には、すでに人だかりが出来ていた。受付窓口へ続く列。書類を抱えたチーム関係者。怒鳴り声を上げる整備士。泣きそうな顔で控えを探している若い参加者。初日ほどではないにせよ、十分に混み合っている。

 

「……すごい人」

 

 アリスが思わず呟く。

 

「マリエッティの言った通りだな」

 

 フィンが答える。その時、入口付近がひときわ大きくどよめいた。新聞記者たちが取り囲んでいる中心にいたのは、背が高く、整った顔立ちで、笑えば絵になる青年だった。いかにも人目を引く男で、周囲の視線が自然と集まっている。

 

「どなたでしょうか? 有名な方なのですか?」

 

「去年の総合優勝者エリオだ。モデルもやってて顔が売れてる」

 

 確かにそう言われてみれば、いかにも'華のある勝者'という雰囲気を纏っている。しばらくして取材の輪が解ける。エリオは受付を済ませたらしく、書類控えを手にしながら人波を割ってこちらへ向かってきた。すれ違いざま、その視線がフィンに止まる。

 

「……フィンか」

 

 アリスは驚いてフィンを見た。フィンは一瞬だけ眉を動かし、短く答える。

 

「エリオ……」

 

「久しぶりだな。お前も出るのか?」

 

「出る」

 

 エリオの視線がフィンの後ろへ流れた。エンツォたちの顔ぶれに気づいたらしい。

 

「紹介しておく。うちのサポートチームだ」

 

 フィンが横のエンツォを示すと、エンツォは軽く顎を引いた。エリオはその顔を一瞥し、ほんの少しだけ口元を上げた。

 

「面白くなるな。──お互い通るといいな。……久しぶりに、楽しみが増えた」

 

 それだけ言って、彼は去っていった。アリスはフィンを見たが、フィンは何も言わない。その横顔には、さっきまでと少し違う硬さがあった。

 

「……強い人ですか?」

 

 アリスが小声で訊いた。

 

「去年勝ってる。それだけで十分だろ」

 

 それだけ言って、フィンは列の先を見た。ようやく順番が回ってきた。受付窓口の係員が、無表情のまま手を差し出す。

 

「申請書類一式。機体登録、参加登録、チーム名簿、資金証明、ISAF競技資格証、サポートチーム関連資料。それに推薦状」

 

 マヌエラが封筒を開き、順番通りに書類を差し出していく。係員の指が速く動く。ページが捲られ、印鑑の位置、署名、番号、控えの有無が、容赦なく確認されていく。推薦状のところでほんの少し動きがよどんだ。アリスは横で息を詰めていた。ここまで揃えた。署名もした。契約も済ませた。それでも、今この場で何か一つ抜けていれば終わりなのだ。

 

「コ・パイロット、アリス……」

 

 係員が淡々と読み上げる。その無機質な声に、アリスの心臓が強く跳ねた。だが係員は顔色一つ変えず、次の紙へ移った。隣でフィンが、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのが分かる。

 

「エントリーフィーを」

 

 係員の言葉に、アリスは用意していた財布を開いた。この日のために確保しておいた金額を、きっちり数えて窓口へ置く。あの日手放した宝石の重さが、一瞬だけ指先に戻った気がした。

 係員は金額を確かめ、領収証を切り、エントリーフォームの控えに朱印を押した。ぱん、と乾いた音がした。受付表と控えが手元に戻される。

 

「サポートチーム登録がありますね。登録書類をお願いします」

 

 エンツォが一歩前に出て、ベアトリーチェが用意していた封筒を差し出した。係員がざっと目を通す。

 

「責任者エンツォ、文書窓口ベアトリーチェ。……問題なし」

 

「受理はこれで完了です。受付番号はこちら」

 

 その一言が、あまりにもあっさりしていて、アリスはすぐには理解が追いつかなかった。マヌエラが受領票を受け取ると、ようやく長く息を吐く。

 

「……よし。受理は済みました。次は書類審査です」

 

 その瞬間、固まっていた空気が一気にほどけた。フィンは肩の力を抜き、アリスはその場でようやく息を吐き切る。後ろでエントリーを待つエンツォが口笛を吹いた。ベアトリーチェは小さく頷くだけだったが、その目は明らかに安堵していた。

 

「無事受理されたな」

 

 そう言って右手を差し出す。フィンがそれを握り返すと、エンツォは口元だけで薄く笑った。

 

「こっちも準備を進める。だから、選考で落ちるんじゃねえぞ」

 

「縁起でもないことを言うな」

 

「念押しだ。受理されたからって、まだ終わりじゃないからな」

 

 短いやり取りのあと、二人は手を放した。

 

「これで、本当に……」

 

 アリスが呟くと、フィンが受領票を見ながら答える。

 

「ああ。これでスタートラインの一歩前だ」

 

 事務所の外へ出ると、昼の光が眩しかった。手元の紙は薄い。けれど、その中には機体も、人も、金も、覚悟も、全部が詰まっている。フィンはその紙を一度握り直し、静かに言った。

 

「勝ちに行くぞ」

 

 その場にいた全員が、それを自分への言葉として受け取っていた。

 

 

 

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