エントリーが受理された翌朝、サルティーナの港はまだ少し冷えていた。潮の匂いに、重たい油の香りが混じる。昨日感じた高揚感は、まだ胸の奥に熱として残っていた。
桟橋の脇に繋がれたガネットは、水面の揺れに合わせて小さく身を揺らしていた。フィンは桟橋の板の上に海図を広げ、その横に時計と鉛筆、それから無線方位を書き込むための紙片を並べていた。
「来たか」
「おはようございます」
アリスが歩み寄ると、フィンは海図の端を押さえたまま言った。
「エントリーが決まった以上、後戻りはできないぞ」
「……正直少し怖くなりました」
「それは普通だ。が、時間が無いので、急いで詰め込むぞ」
「よろしくお願いします」
「コ・パイの仕事は、つまるところ二つだ。自分の位置を把握する。その上で、パイロットに『次』を指示することだ。SSでもリエゾンでも、それは変わらん」
「……はい」
「SSでは、この先どう飛ぶか、一歩先の指示を出す。指示書はパイロットと一緒に作る」
「指示書、ですか」
「地形を見て、どこを目印に入るか、どこで抜けるか、その次に何を拾うか。先に決めておく。飛んでる間は、今どこまで来たか照らしながら次を出す」
「……見えているものを、そのまま言うだけででは、いけないんですね」
「駄目だ。目の前は俺も見てる。コ・パイが指示するのは、その先だ」
アリスは小さく頷いた。
「とにかく自分の位置を把握しろ。ロストするな。その上で、どっちへどう飛ばすか指示を出せ。無線で方角を取る。速度と風で見込みを出す。地文が使えるなら、それも使う」
「……はい」
「一度に全部は覚えられん。一つずつでいい。大事なのは状況を共有する事だ。位置を見失ったら隠さずに言え」
「……はい」
「まずは短いリエゾンだからいくぞ。無線である程度、向かう方向を掴む」
「はい!」
「計算尺の使い方は覚えてきたな?」
アリスは膝の上の円形計算尺を見下ろし、こくりと頷いた。
「無線で方角取るのは覚えてるな。乗るぞ」
ガネットに乗り込むと、水面の照り返しが風防の下から差し込んだ。機体が滑走を始め、浮き上がる。港の屋根がゆっくり低くなっていく。フィンは島の外れへ機首を向け、そのまま沖へ出した。
「今どこだ」
アリスは海図を見て、窓の外へ目をやった。
「……まだ岬の手前、です」
「次に向かうのは」
「……五海里先の小島、です」
「飛ぶ方向は」
「〇八九……です」
「あとどれくらいだ」
アリスは膝の上の海図の脇に置いた円形計算尺へ目を落とし、ぎこちない指つきで速度の目盛りを合わせた。
「……二分、くらいです」
「そうだ。そこまでは出せるな。今の風なら、その二分でどうなる」
止まる。窓の外では白い波頭が斜めに流れている。けれど、それが答えにならない。
「……すみません。そこが、まだ」
「いい。もう一回だ。今どこだ」
「……岬の先端を、過ぎるところです」
「次に向かうのは」
「……小島です」
「飛ぶ方向は」
「〇八九です」
「あとどれくらいだ」
「……一分半、くらいです」
「風は」
アリスは唇を噛んだ。
「……右から、です」
「そこまでは見えてるな。それで、どうなる」
「……分かりません」
「風に流されるから方向を補正する。〇九〇だ」
さらに少し進んだところでもう一度やらせたが、答えは同じだった。位置と針路と時間までは追える。けれど、風が入ると、その先が途切れた。
いったん戻って着水すると、フィンは桟橋の端にガネットを寄せた。
「昼だな。一回切ろう」
そう言って先に降りる。アリスも後を追ったが、足を下ろした瞬間、まだ身体の奥に揺れが残っているのが分かった。フィンは店で買ってきたらしい固いパンを半分よこした。
「無理でも食っとけ。午後はSSだ」
受け取っても、すぐには口へ運べなかった。頭の中が、まだ散らかったままだった。フィンは水筒の栓を抜き、ひと口飲んでから言った。
「今のは、どこで止まった」
アリスはパンを持ったまま少し黙った。
「……時計を見たところ、です」
「その前だな」
「え……」
「時計を見る前に、今どこを飛んでいるか見失っただろ。そこが抜けたまま、時計で埋めようとしたはずだ」
そう言われて、アリスは唇を噛んだ。反論は出来なかった。
「まず今どこか。それから次だ。分からんなら、黙る前に言え」
「……はい」
ようやくパンをかじる。味はよく分からなかった。
◇◇◇◇◇
少し休んでから、また二人は機体へ戻った。戻りで機首が返ると、飛び方が変わった。高度が少し下がり、海岸線が近づく。さっきまで穏やかに流れていた景色が、急に手前へ詰め寄ってきた。
「ここからSSだ。見えてから考えるな。次に使うものを持ってこい」
「……はい」
「入りの目印は」
白い灯台が見える。見えるが、それが何の始まりか分からない。
「……灯台、です」
「その次」
止まる。
「……分かりません」
「見ろ。岬の陰だ」
言われてから、黒い岩が見えた。見えた頃には、もう遅い。
「……黒い岩」
「その先」
「……」
「慌てるな。次を探せ」
そう言われても、景色の方が速かった。灯台はもう後ろへ消えている。黒い岩も流れ去った。新しい地形が入ってくるたび、さっきまで追っていたものが全部崩れる。
「白波」
「……白波」
「その先に何がある」
「……待って、ください」
「待つ暇はない。だから今のうちに持っとけ」
胸の奥が冷えた。見えているのに、言葉にならない。海図へ目を落とすと前が飛ぶ。前を見ると、もう次が来ている。
海岸線を回って戻る頃には、背中に汗がにじんでいた。着水して機体が静かになると、止まったはずなのに身体の中だけまだ揺れている気がした。
「……どうでしたか」
訊いた声は、自分でも情けないくらい小さかった。フィンは工具箱の上に海図と紙を並べた。
「リエゾンは順番が見えてない。SSは、その前だ。目の前のもんで手一杯になってる」
アリスは何も言えなかった。
「今日はここまでだな。明日もやるぞ」
「……はい」
◇◇◇◇◇
部屋へ戻った頃には、もう日が落ちていた。ベッドに腰を下ろすと、そのまましばらく動けなかった。頭の中で、さっきの灯台や黒い岩がまだ散らばったままだった。飛び始めた途端に、全部飛んだ。
……全然、駄目だ。
口に出した途端、余計に息が詰まった。昨日の高揚は、もう消えかけていた。そこまで考えて、アリスは唇を噛んだ。やめたい、とは言えなかった。
窓の外で、波の音がしていた。ベッドへ倒れ込んでも、目を閉じると灯台と黒い岩と白波が、ばらばらに浮かんだかと思えば、消えていく。
……私で、よかったのかな。
ただ、明日もまた同じところで止まる気しかしなかった。
◇◇◇◇◇
次の日も、その次の日も、うまくはいかなかった。朝は短いリエゾンを飛び、戻れば海図を広げた。午後は海岸線へ出て、夕方には紙とにらみ合った。無線で止まり、見込みで詰まり、SSではまた次が飛んだ。
「違う」
「遅い」
「その先だ」
「今のままだと足りん」
フィンの声は毎回同じだった。詰まれば切り直し、止まればもう一度やらせる。夜になるたび、アリスは紙を前に座り込んだ。昼間の飛行を思い返して、どこで止まったのかを辿ろうとする。ここで無線を聞いた。そのあと時計を見た。そこまでは思い出せる。その先が、どうしてもつながらない。
エントリーは済んでいる。ここまで来たらもう引き返すことはできない。いずれ、北大陸へ渡る日は来る。その日までには——と、膝の上の拳に力が入った。
4/17 日程にミスがあり最後のパート削りました。失礼しました。