昼下がりの事務所で、フィンがアリスに口頭で問いを投げていた。海図と時計を前に、コースを読みコール順を繰り返す。いつもの訓練だった。
その時、事務所の扉が開いた。
「電報です」
三人の動きが止まった。マヌエラがぱっと顔を上げ、アリスは海図を持ったまま固まり、フィンが立ち上がり詰め寄った。郵便局員は三人に一斉に見つめられ、目を丸くして封筒を差し出すと、逃げるように帰っていった。
「フィン、開けて」
「待て、今やってる」
フィンは封筒を受け取ったが、指先がうまく動かない。その横からマヌエラがペーパーナイフを差し出しながら身を乗り出す。
「はいこれ、どうなってます?」
「だから今──」
「早く!」
アリスまで詰め寄ってきて、フィンは舌打ち混じりに封を破った。紙を広げる。目が文面を追う。一呼吸、間があいた。
「……通った」
低い声だった。安堵した表情でフィンは紙を二人に向けて広げた。
『キデンノ エントリーニタイシテ タイカイホンブハ サンカヲ ショウニンス』
アリスは声にならず、両手で口を押さえたまま目が潤んだ。マヌエラは眼鏡の位置を直し、小さく息を吐いた。フィンは紙を握ったまま、天井を仰いで長く息を吐いた。
「よし」
「嘘みたい……スタートラインに立てるのですね」
「通りましたね。残りの準備、進めましょう」
三者三様に喜びを顔に浮かべていた。マヌエラは電報を机に置いた。その手つきだけが、少しだけいつもより丁寧だった。
◇◇◇◇◇
エントリー正式受理の知らせが届いた夜、カフェ『Domus Flatus Maris』はいつもより少しだけ賑やかだった。
大騒ぎではない。料理が一品増え、グラスが軽く触れ合い、常連たちが「ようやくここまで来た」と笑い合う。その程度の、ささやかな祝いだ。
「正式受理、おめでとう」
ジュリアが皿を置きながら言う。
「ようやく、スタートラインに立てましたね」
アリスが小さく言うと、マヌエラは帳面を閉じて肩を竦めた。
「無事に受理されたけど、明日から本番の準備です。浮かれるのは本当にスタートできるようになってからにしてください」
「明日、北大陸でしたよね」
「ああ」
フィンが短く頷く。
「機体を預けて終わりじゃありません。それからが大変なんですから」
「そうだな。預けたら島へ戻って、アリスの仕込みが待ってる」
その一言で、胸の奥がまた少しざわついた。
「それでも一区切りには違いないだろ」
マイケルが杯を上げる。
「ここまで来るだけでも大仕事だったんだ」
「ほんとですね」
トーノの声を聞きながら、アリスはじんわりと広がる実感を持て余していた。本当に出るのだ。そして明日には、もうガネットを預けに行く。
「明日、預けに行くんですよね」
アリスが言うと、フィンは短く頷いた。
「ああ、明日北大陸まで飛ぶ。長距離だ」
「……はい」
店の空気は和やかだったが、フィンはあまり杯に手を伸ばさなかった。視線が時々、店の外へ向く。頭の大半はもう、明日の飛行へ向いているのだろう。
「浮かれるのは結構ですが、飲みすぎは禁止です」
マヌエラがぴしゃりと言う。
「明日は長距離飛行です。寝不足でぼんやりされても困りますからね」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
そのやり取りに小さく笑いが漏れる。
ジュリアはアリスの前に温かい皿を置いた。
「あなたも。今日はちゃんと食べなさい」
「はい」
大きな宴ではなかった。
皿が空き、笑い声が少しずつ静まっていく。それでも、誰も早く帰ろうとはしなかった。まだ何も勝っていない。それでも今夜ばかりは、卓を立つ気になれない空気が店に残っていた。
店を出る頃には、海風が少し冷えていた。
「眠れそうですか」
アリスが訊くと、フィンは少しだけ空を見上げた。
「寝とけ。明日もただ飛ぶだけじゃないぞ。頭を使う」
それだけ言って歩き出す背中は、やはりいつも通り無愛想だった。アリスはその後を追いながら、なぜか少しだけ安心していた。
◇◇◇◇◇
翌朝、二人は早くに島を出て北大陸へ向かった。
離陸してしばらくは、なんとかついていけた。島影を離れ、最初の区間を抜けた。
「今どこだ」
アリスは海図を見て、窓の外を見る。
「……まだ西寄り、だと」
「その次」
「無線です」
「取れ」
受信に耳を澄ます。数値を拾う。海図へ落とす。そこまでは出来る。だが、その先が出ない。
「……東寄りです」
「どれくらいだ」
詰まった。
「……そこが、まだ」
「いい。じゃあ見込みは」
時計を見る。数字を追う。風を思い出す。その全部が、そこでばらけた。
「……分かりません」
言った途端、喉の奥がひりついた。海の真ん中へ出ると、目印が消えた。前方は空と海だけになって、無線も時計も見ているのに、次へつながらなかった。
「無線方位」
数値を拾う。海図へ落とす。線を引く。そこまでは出来る。だが、その線の先が出ない。
「……まだ東です」
「次は」
「……」
「どうする」
アリスは唇を噛んだ。海図を見る。窓の外を見る。無線の数値を思い返す。全部を追おうとして、全部こぼれた。
「……分かりません」
数分後、フィンが前を見たまま低く言った。
「かなり西へ流れてるな」
胸が冷えた。
「え……」
「確認しろ。無線と時計、両方だ」
慌てて数値を拾い、海図へ落とし、見込み位置を引き直す。ようやく出た線は、思っていたよりずっと南へ外れていた。
「……西に、外れてました……」
「どれくらいだ」
喉が詰まる。だが、言わなければならない。
「……このままだと、一時間近く遅れます」
言ってから、自分でも黙りたくなった。フィンは少しだけ機首を入れた。
「修正する。指示を出せ」
「……はい。〇一一へ、すみません」
「ミスは織り込み済みだ、再チェックしておけ」
震える指で時刻を書きつける。方位も時計も見ていた。でも、次が出なかった。そこから先も、アリスは何とか声を出した。無線の確認も、時間差も、修正も。だが、どれも遅い。何か言うたび、またその先で詰まった。北大陸の海岸線が見えても、少しも楽にならなかった。
予定より大きく遅れて着水し、機体を岸壁の脇へ寄せる。エンジンが止まると、急に静かになった。
フィンは先に機外へ降りた。
「今日はもう宿へ入る。機体の話は明日だ。記録を見直しておけ。どこで分からなくなったか、そこから逃げるな」
「……はい」
アリスは紙を抱えたまま、そこでようやく息を吐いた。それから紙を抱え直し、フィンの背を追った。
◇◇◇◇◇
翌朝、わずかな寒さで目が覚めた。窓の外はもう白み始め、北大陸は島の朝より冷えていた。港の方から、鉄と油の匂いがかすかに流れ込んでくる。
アリスは寝台の上で膝を抱えたまま、昨夜の紙を見ていた。海図の端には、時刻と修正の走り書きが残っている。
一時間近い遅れ。風を軽く見て、遅れに気づくのも遅れた。その積み重ねが、あのロスになった。
扉の向こうで足音が止まり、控えめなノックが鳴った。
「起きてるな」
フィンの声だった。
「……はい」
「なら朝食に行こう。そのあと預けにいく」
慰めるでも突き放すでもなく、今日やることだけを告げる。
「昨日の記録は島へ戻ってからでも詰めれる。今日は機体だ」
「はい」
返事をしてから、アリスはようやく紙を畳んだ。
朝食を済ませ宿を出る。フィンはほとんど無駄口を叩かなかった。歩く速度も昨日と変わらない。機体を預けると決めた時点で、もう気持ちはそちらへ切り替わっているのだと、横顔を見るだけで分かった。
機体をFPWへ回送する。格納庫へ入れると、飛行の熱は消えようとしていた。銀色の肌だけが、朝の光を鈍く返していた。
おやっさんは機首の前で腕を組み、カリーナは脇の机に図面を広げていた。
「来たか」
「ああ」
フィンが短く答える。
「予定どおり頼む」
「ああ任せとけ」
おやっさんはそう言って、ガネットの胴を軽く叩いた。
「今日から正式に預かる。こっちで一通りばらして、組み直して、飛ばして癖を見る」
その言い方は淡々としていたが、預かる責任までまとめて引き受ける声だった。
カリーナが図面を押さえたまま口を開く。
「大枠は前に話した通りよ。軽くするところは軽くする。でも飛ばなくなる軽さは要らない。反応は上げるけど、気難しいだけの機体にもしたくない」
「分かってる」
フィンが言う。
「一番欲しいのは、最後まで飛べることだ」
「ええ。そこは崩さない」
カリーナは頷いた。
「仕上がりを楽しみにしてなさい」
その言葉に、アリスは思わずガネットを見た。昨日まで、自分たちを運んでいた機体だ。けれど、次に会う時には、昨日までと同じままでは戻ってこない。
おやっさんが続ける。
「期間はひと月見ろ。途中で部品待ちや飛ばしての確認もある。こっちから連絡が行くまでは、受け取りに来るな」
「ひと月……」
アリスが小さく呟くと、おやっさんはちらりとだけ視線を向けた。
「短い方だ。こいつで本番行くならな」
「受け取りの目安は?」
フィンが訊く。
「順調なら、ひと月くらいで一度連絡する。そこで飛ばせる段階まで行ってりゃ、来いと言う」
「分かった」
会話はそれだけだった。それだけなのに、預けること、触る範囲、受け取りの目安、その全部がはっきりしていた。
フィンは機体のそばへ寄り、後席に積んであった地図板と紙束、細かい工具を自分の手で下ろす。いつもなら乱暴なくらい手早いのに、その時だけは確認が一つずつ丁寧だった。降ろし終えても、すぐには離れない。機首の脇に手を置いたまま、ほんの短いあいだ黙る。
おやっさんは何も言わなかった。茶化しも、急かしもせず、預かる側の顔でただ待っていた。
やがてフィンが手を離す。
「頼む」
「ああ」
短い受け渡しだった。だが、それで十分だった。
アリスはガネットの銀色の胴を見上げた。次に会う時には、機体の方も、自分の方も、昨日までのままではいられないのだと分かった。
◇◇◇◇◇
北大陸を発ったのは翌朝だった。おやっさんが手配してくれた代替機はガネットより一回り小さく、操縦席の感触も違う。後席に落ち着くと、アリスは膝の上に紙束を抱えたまま、窓の外を見た。
岸壁の向こう、格納庫の並びはすぐに見えなくなった。それでも視線がそちらへ引かれる。
「まだ見てるのか」
隣でフィンが言った。
「……はい」
「見てても早くはならん」
「分かってます」
分かってはいるが、置いてきた実感がまだ薄い。あの機体は、今も北大陸の格納庫にある。自分たちはそれを置いて、別の機体で帰る。
機体が海へ出る。振動はガネットと違う。だが、慣れない軽さがかえって落ち着かない。
アリスは膝の上の紙を見下ろした。昨夜のログ。時刻。遅れ。修正。
「どこで拾えたと思う」
不意にフィンが言った。
「え……」
「昨日の遅れだ。どこで気づけた?」
アリスは息を止め、紙の上を見た。
「最初の修正のあとです。あそこで、予定との差をもう一度きちんと数えていれば……」
「その先は」
「小島影を拾った時です。方位だけ合ってるから大丈夫だと思って……風の押しを、軽く見ました」
「そうだな」
フィンは頷いた。
「じゃあ島でやることは決まってる」
「……はい」
「海図とログを洗え。遅れが数字になる前に、どこで顔を出してたか拾え。あと、コール順を頭に叩き込む。機体がなくても詰めるもんはある」
感傷に浸る余地を与えず、前へ置き直してくる言い方だった。
「機体がなくても、ですか」
「あるからできることと、なくてもできることは違う。今は経験を積む時間だ」
アリスは小さく頷いた。怖さは消えていない。だが、やることは見えていた。
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