碧海のサルティーナ   作:あんさん

19 / 24
第19話 正式受理

 昼下がりの事務所で、フィンがアリスに口頭で問いを投げていた。海図と時計を前に、コースを読みコール順を繰り返す。いつもの訓練だった。

 その時、事務所の扉が開いた。

 

「電報です」

 

 三人の動きが止まった。マヌエラがぱっと顔を上げ、アリスは海図を持ったまま固まり、フィンが立ち上がり詰め寄った。郵便局員は三人に一斉に見つめられ、目を丸くして封筒を差し出すと、逃げるように帰っていった。

 

「フィン、開けて」

 

「待て、今やってる」

 

 フィンは封筒を受け取ったが、指先がうまく動かない。その横からマヌエラがペーパーナイフを差し出しながら身を乗り出す。

 

「はいこれ、どうなってます?」

 

「だから今──」

 

「早く!」

 

 アリスまで詰め寄ってきて、フィンは舌打ち混じりに封を破った。紙を広げる。目が文面を追う。一呼吸、間があいた。

 

「……通った」

 

 低い声だった。安堵した表情でフィンは紙を二人に向けて広げた。

 

『キデンノ エントリーニタイシテ タイカイホンブハ サンカヲ ショウニンス』

 

 アリスは声にならず、両手で口を押さえたまま目が潤んだ。マヌエラは眼鏡の位置を直し、小さく息を吐いた。フィンは紙を握ったまま、天井を仰いで長く息を吐いた。

 

「よし」

 

「嘘みたい……スタートラインに立てるのですね」

 

「通りましたね。残りの準備、進めましょう」

 

 三者三様に喜びを顔に浮かべていた。マヌエラは電報を机に置いた。その手つきだけが、少しだけいつもより丁寧だった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 エントリー正式受理の知らせが届いた夜、カフェ『Domus Flatus Maris』はいつもより少しだけ賑やかだった。

 大騒ぎではない。料理が一品増え、グラスが軽く触れ合い、常連たちが「ようやくここまで来た」と笑い合う。その程度の、ささやかな祝いだ。

 

「正式受理、おめでとう」

 

 ジュリアが皿を置きながら言う。

 

「ようやく、スタートラインに立てましたね」

 

 アリスが小さく言うと、マヌエラは帳面を閉じて肩を竦めた。

 

「無事に受理されたけど、明日から本番の準備です。浮かれるのは本当にスタートできるようになってからにしてください」

 

「明日、北大陸でしたよね」

 

「ああ」

 

 フィンが短く頷く。

 

「機体を預けて終わりじゃありません。それからが大変なんですから」

 

「そうだな。預けたら島へ戻って、アリスの仕込みが待ってる」

 

 その一言で、胸の奥がまた少しざわついた。

 

「それでも一区切りには違いないだろ」

 

 マイケルが杯を上げる。

 

「ここまで来るだけでも大仕事だったんだ」

 

「ほんとですね」

 

 トーノの声を聞きながら、アリスはじんわりと広がる実感を持て余していた。本当に出るのだ。そして明日には、もうガネットを預けに行く。

 

「明日、預けに行くんですよね」

 

 アリスが言うと、フィンは短く頷いた。

 

「ああ、明日北大陸まで飛ぶ。長距離だ」

 

「……はい」

 

 店の空気は和やかだったが、フィンはあまり杯に手を伸ばさなかった。視線が時々、店の外へ向く。頭の大半はもう、明日の飛行へ向いているのだろう。

 

「浮かれるのは結構ですが、飲みすぎは禁止です」

 

 マヌエラがぴしゃりと言う。

 

「明日は長距離飛行です。寝不足でぼんやりされても困りますからね」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「本当だ」

 

 そのやり取りに小さく笑いが漏れる。

 ジュリアはアリスの前に温かい皿を置いた。

 

「あなたも。今日はちゃんと食べなさい」

 

「はい」

 

 大きな宴ではなかった。

 皿が空き、笑い声が少しずつ静まっていく。それでも、誰も早く帰ろうとはしなかった。まだ何も勝っていない。それでも今夜ばかりは、卓を立つ気になれない空気が店に残っていた。

 店を出る頃には、海風が少し冷えていた。

 

「眠れそうですか」

 

 アリスが訊くと、フィンは少しだけ空を見上げた。

 

「寝とけ。明日もただ飛ぶだけじゃないぞ。頭を使う」

 

 それだけ言って歩き出す背中は、やはりいつも通り無愛想だった。アリスはその後を追いながら、なぜか少しだけ安心していた。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 翌朝、二人は早くに島を出て北大陸へ向かった。

 離陸してしばらくは、なんとかついていけた。島影を離れ、最初の区間を抜けた。

 

「今どこだ」

 

 アリスは海図を見て、窓の外を見る。

 

「……まだ西寄り、だと」

 

「その次」

 

「無線です」

 

「取れ」

 

 受信に耳を澄ます。数値を拾う。海図へ落とす。そこまでは出来る。だが、その先が出ない。

 

「……東寄りです」

 

「どれくらいだ」

 

 詰まった。

 

「……そこが、まだ」

 

「いい。じゃあ見込みは」

 

 時計を見る。数字を追う。風を思い出す。その全部が、そこでばらけた。

 

「……分かりません」

 

 言った途端、喉の奥がひりついた。海の真ん中へ出ると、目印が消えた。前方は空と海だけになって、無線も時計も見ているのに、次へつながらなかった。

 

「無線方位」

 

 数値を拾う。海図へ落とす。線を引く。そこまでは出来る。だが、その線の先が出ない。

 

「……まだ東です」

 

「次は」

 

「……」

 

「どうする」

 

 アリスは唇を噛んだ。海図を見る。窓の外を見る。無線の数値を思い返す。全部を追おうとして、全部こぼれた。

 

「……分かりません」

 

 数分後、フィンが前を見たまま低く言った。

 

「かなり西へ流れてるな」

 

 胸が冷えた。

 

「え……」

 

「確認しろ。無線と時計、両方だ」

 

 慌てて数値を拾い、海図へ落とし、見込み位置を引き直す。ようやく出た線は、思っていたよりずっと南へ外れていた。

 

「……西に、外れてました……」

 

「どれくらいだ」

 

 喉が詰まる。だが、言わなければならない。

 

「……このままだと、一時間近く遅れます」

 

 言ってから、自分でも黙りたくなった。フィンは少しだけ機首を入れた。

 

「修正する。指示を出せ」

 

「……はい。〇一一へ、すみません」

 

「ミスは織り込み済みだ、再チェックしておけ」

 

 震える指で時刻を書きつける。方位も時計も見ていた。でも、次が出なかった。そこから先も、アリスは何とか声を出した。無線の確認も、時間差も、修正も。だが、どれも遅い。何か言うたび、またその先で詰まった。北大陸の海岸線が見えても、少しも楽にならなかった。

 予定より大きく遅れて着水し、機体を岸壁の脇へ寄せる。エンジンが止まると、急に静かになった。

 フィンは先に機外へ降りた。

 

「今日はもう宿へ入る。機体の話は明日だ。記録を見直しておけ。どこで分からなくなったか、そこから逃げるな」

 

「……はい」

 

 アリスは紙を抱えたまま、そこでようやく息を吐いた。それから紙を抱え直し、フィンの背を追った。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 翌朝、わずかな寒さで目が覚めた。窓の外はもう白み始め、北大陸は島の朝より冷えていた。港の方から、鉄と油の匂いがかすかに流れ込んでくる。

 アリスは寝台の上で膝を抱えたまま、昨夜の紙を見ていた。海図の端には、時刻と修正の走り書きが残っている。

 一時間近い遅れ。風を軽く見て、遅れに気づくのも遅れた。その積み重ねが、あのロスになった。

 扉の向こうで足音が止まり、控えめなノックが鳴った。

 

「起きてるな」

 

 フィンの声だった。

 

「……はい」

 

「なら朝食に行こう。そのあと預けにいく」

 

 慰めるでも突き放すでもなく、今日やることだけを告げる。

 

「昨日の記録は島へ戻ってからでも詰めれる。今日は機体だ」

 

「はい」

 

 返事をしてから、アリスはようやく紙を畳んだ。

 

 朝食を済ませ宿を出る。フィンはほとんど無駄口を叩かなかった。歩く速度も昨日と変わらない。機体を預けると決めた時点で、もう気持ちはそちらへ切り替わっているのだと、横顔を見るだけで分かった。

 機体をFPWへ回送する。格納庫へ入れると、飛行の熱は消えようとしていた。銀色の肌だけが、朝の光を鈍く返していた。

 おやっさんは機首の前で腕を組み、カリーナは脇の机に図面を広げていた。

 

「来たか」

 

「ああ」

 

 フィンが短く答える。

 

「予定どおり頼む」

 

「ああ任せとけ」

 

 おやっさんはそう言って、ガネットの胴を軽く叩いた。

 

「今日から正式に預かる。こっちで一通りばらして、組み直して、飛ばして癖を見る」

 

 その言い方は淡々としていたが、預かる責任までまとめて引き受ける声だった。

 カリーナが図面を押さえたまま口を開く。

 

「大枠は前に話した通りよ。軽くするところは軽くする。でも飛ばなくなる軽さは要らない。反応は上げるけど、気難しいだけの機体にもしたくない」

 

「分かってる」

 

 フィンが言う。

 

「一番欲しいのは、最後まで飛べることだ」

 

「ええ。そこは崩さない」

 

 カリーナは頷いた。

 

「仕上がりを楽しみにしてなさい」

 

 その言葉に、アリスは思わずガネットを見た。昨日まで、自分たちを運んでいた機体だ。けれど、次に会う時には、昨日までと同じままでは戻ってこない。

 おやっさんが続ける。

 

「期間はひと月見ろ。途中で部品待ちや飛ばしての確認もある。こっちから連絡が行くまでは、受け取りに来るな」

 

「ひと月……」

 

 アリスが小さく呟くと、おやっさんはちらりとだけ視線を向けた。

 

「短い方だ。こいつで本番行くならな」

 

「受け取りの目安は?」

 

 フィンが訊く。

 

「順調なら、ひと月くらいで一度連絡する。そこで飛ばせる段階まで行ってりゃ、来いと言う」

 

「分かった」

 

 会話はそれだけだった。それだけなのに、預けること、触る範囲、受け取りの目安、その全部がはっきりしていた。

 フィンは機体のそばへ寄り、後席に積んであった地図板と紙束、細かい工具を自分の手で下ろす。いつもなら乱暴なくらい手早いのに、その時だけは確認が一つずつ丁寧だった。降ろし終えても、すぐには離れない。機首の脇に手を置いたまま、ほんの短いあいだ黙る。

 おやっさんは何も言わなかった。茶化しも、急かしもせず、預かる側の顔でただ待っていた。

 やがてフィンが手を離す。

 

「頼む」

 

「ああ」

 

 短い受け渡しだった。だが、それで十分だった。

 アリスはガネットの銀色の胴を見上げた。次に会う時には、機体の方も、自分の方も、昨日までのままではいられないのだと分かった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 北大陸を発ったのは翌朝だった。おやっさんが手配してくれた代替機はガネットより一回り小さく、操縦席の感触も違う。後席に落ち着くと、アリスは膝の上に紙束を抱えたまま、窓の外を見た。

 岸壁の向こう、格納庫の並びはすぐに見えなくなった。それでも視線がそちらへ引かれる。

 

「まだ見てるのか」

 

 隣でフィンが言った。

 

「……はい」

 

「見てても早くはならん」

 

「分かってます」

 

 分かってはいるが、置いてきた実感がまだ薄い。あの機体は、今も北大陸の格納庫にある。自分たちはそれを置いて、別の機体で帰る。

 機体が海へ出る。振動はガネットと違う。だが、慣れない軽さがかえって落ち着かない。

 アリスは膝の上の紙を見下ろした。昨夜のログ。時刻。遅れ。修正。

 

「どこで拾えたと思う」

 

 不意にフィンが言った。

 

「え……」

 

「昨日の遅れだ。どこで気づけた?」

 

 アリスは息を止め、紙の上を見た。

 

「最初の修正のあとです。あそこで、予定との差をもう一度きちんと数えていれば……」

 

「その先は」

 

「小島影を拾った時です。方位だけ合ってるから大丈夫だと思って……風の押しを、軽く見ました」

 

「そうだな」

 

 フィンは頷いた。

 

「じゃあ島でやることは決まってる」

 

「……はい」

 

「海図とログを洗え。遅れが数字になる前に、どこで顔を出してたか拾え。あと、コール順を頭に叩き込む。機体がなくても詰めるもんはある」

 

 感傷に浸る余地を与えず、前へ置き直してくる言い方だった。

 

「機体がなくても、ですか」

 

「あるからできることと、なくてもできることは違う。今は経験を積む時間だ」

 

 アリスは小さく頷いた。怖さは消えていない。だが、やることは見えていた。

 

 

 




日程の管理ミスで18話の最後をこちらに移動しました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。