碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第20話 試運転

 朝、アリスは格納庫の隅に机を出して海図を広げる。時計を置き、飛行ログを開き、昨日までなら見たくなかった数字を一つずつ拾い直す。いつもガネットが収まっている場所に代替機がある。目に入るたびに、機体が北大陸に残っていることを思い出す。

 どこで迷ったか。なぜ確認が遅れたか。次に何を先に言うべきか。

 景色の印象ではなく、手順として洗い直す。何度も線をなぞっているうちに、失敗はぼんやりした後悔ではなく、遅れた順番として見えてきた。

 

「こっちだ」

 

 昼になると、フィンと日課の訓練を始める。

 格納庫の脇、空いた場所に座る。目の前にあるのは機体ではなく、海図と時計と木箱だけだ。

 

「現在位置は?」

 

 唐突に言われ、アリスは海図へ目を落とす。

 フィンが細かい状況を設定していく。

 

「南の岬の手前です」

 

「次」

 

「白岩。通過後、右に二度食わせます」

 

「その次は?」

 

「方位だけ見ないで、到達時刻も見ます」

 

 景色の代わりに、線と数字と順番だけを頭の中で回す。

 最初のうちは、それでもすぐ詰まった。だが何日か続けるうちに、言葉が少しずつ速くなった。答えを出すまでの間が、ほんの少し縮まる。

 

「今のはまだ遅い」

 

 フィンは言う。

 

「でも昨日よりましだな」

 

 それだけで十分だった。アリスは海図を見下ろした。機体がなくても、詰められることはある。そのことが、少しずつ分かってきた。

 トーノは格納庫の代替機を見て、何度か肩をすくめた。

 

「いつもの機体がねえと、やっぱ変な感じっすね」

 

「そうですね」

 

「でも、だからって暇になるわけじゃないのが面倒っす」

 

 笑いながら、荷の手配表を持っていく。マイケルは船着場の都合を押さえ、ジュリアは島の連中へ声を掛けて回る。

 機体《ガネット》はない。けれど、チームは止まっていなかった。

 夕方、灯りの下で海図を見直していたアリスが、小さく息を吐く。

 

「次、白岩。通過後、右へ二度。その先で横風を見て、灯台の手前で修正……」

 

 口に出した順番が、前より自然に繋がる。

 フィンが椅子の背にもたれたまま言った。

 

「今のは悪くない」

 

「本当ですか」

 

「褒めてるわけじゃねえ。ようやく遅れの出方が見えてきただけだ」

 

「それでも、前よりは……」

 

「ああ。前よりはましだ」

 

 その言葉に、アリスはわずかに背筋を伸ばした。待つしかない時間でも、詰めるものは残っていた。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 ひと月が過ぎる頃には、島の空気も少し変わっていた。準備はもう、始める段階ではなく、揃えて待つ段階に入っていた。

 夕方、店の奥に置いた事務机でマヌエラが封筒を整理していると、店の入口に郵便局員が顔を出した。

 

「電報です」

 

 その一言で、店の奥の空気が少し締まった。帳場の脇にいたフィンが歩み寄り、封筒を受け取って中を開く。目を通す時間は短い。表情も大きくは変わらない。だが、封筒を机へ置く手つきに、わずかな重みがあった。

 

「予定通り進んでるそうだ」

 

「受け取りはできそう?」

 

 マヌエラがすぐ訊く。

 

「向こうの最終確認が済めばだな。細かい日取りは、もう一報寄越すとよ」

 

「じゃあ、ほぼ見えてるのでしょうね」

 

 マヌエラが言う。

 

「そうだな」

 

 フィンは頷いた。改修は予定通り進んで、受け取り日も見えてきた。

 マヌエラは机の上の束を指先で叩いた。

 

「日取りが決まったら、翌日すぐ動けるようにします。荷はまとめてあります。連絡先も押さえてあるわ。島側で残ってるのは、ほんの細かい確認だけね」

 

「分かった」

 

「あなたはその『分かった』で本当に分かってるんでしょうね?」

 

「分かってる。連絡が来たら、すぐ北大陸へ行くさ」

 

「よろしい」

 

 いつものやり取りなのに、今日は少しだけ響きが違った。待っていたものが、ようやく手の届くところまで来たからだ。

 アリスは窓の外を見た。夕方の海は穏やかだった。次に会うガネットは、どんな顔をしているのだろう。前より速くて、鋭くて、自分を置いていくような機体かもしれない。楽しみだった。怖さも消えてはいない。

 でも、そのどちらも抱えたまま行くしかない。

 フィンが椅子から立つ。

 

「じゃあ、今日はもういい。連絡が来るまでに、頭の方をもう一度回しとけ」

 

「はい」

 

 アリスは頷いた。

 残るのは、受け取りの日取りと、機体だけだった。

 翌日の午後、続報が届いた。フィンが封を切り、短く目を通す。

 

「明後日、受け取りOKだ」

 

「では明朝、出発ですね」

 

 マヌエラは帳面を開いたまま頷いた。段取りはもう頭の中に入っているらしく、ペンの動きに迷いがなかった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 翌朝、二人は早くに島を出て北大陸へ向かった。

 ガネットより遅い代替機で北大陸へ着く頃には、もう日が沈みかけていた。

 宿に入り、食事をとる。

 スープに手を伸ばしながら、アリスは口を開いた。

 

「……ちゃんと出来るでしょうか」

 

「何がだ」

 

「コ・パイの仕事です。特訓で飛んで、少しずつ出来ることは増えてると思うんですけど……本番までに間に合うのかなって」

 

「最初から出来るやつなんかいねえ」

 

 短い返事だった。フィンはスープをひと口すすった。

 

「俺だって飛び始めた頃は散々だったぞ。結局は経験だ。飛んで覚えるしかない」

 

「……フィンさんでも、ですか」

 

「当たり前だ。たった数ヶ月で何が出来る。それを分かったうえで、出来ることをやるしかねえ」

 

 少し間が空く。

 

「……どうして、私が乗るのを許してくれたんですか」

 

 フィンの手が止まる。

 

「前は、邪魔になるなら降ろされても仕方ないと思ってました」

 

「行きがかりだ。もちろん放り出そうかと思ったがな」

 

 アリスは黙って聞く。

 

「だが、お前は熱意を持って向かってきた」

 

 フィンはコップを持ち上げる。

 

「あげくスポンサーにまでなってみせた。その熱意に負けただけだ。だったら、乗せない理由がねえ」

 

 愛想のない言い方だった。けれど、そのぶんだけ本音だった。

 

「……はい」

 

「勘違いするな。出来るようにならなきゃ困るのは俺も同じだ」

 

「はい」

 

 食事が終わり、フィンが立ち上がる。

 

「もう休め。明日も早いぞ」

 

「はい。おやすみなさい」

 

「ああ」

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 翌朝、二人は宿を出て、代替機でFPWへ向かった。

 港から工房街へ近づくにつれ〜代替機を止め、FPWへ歩くフィンの歩調は自然と速くなっていた。

 格納庫前で、重いシャッターが持ち上がる。

 その奥に置かれていた機体を見た瞬間、アリスは思わず足を止めた。

 

「……あ」

 

 間違いなくガネットだった。見慣れた双発機だ。機首も胴体も翼も知っている。見慣れたはずの機体なのに、受ける印象はまるで違った。

 カラーリングが施されている。

 前に見た時の重たい印象が薄れ、胴の線がすっと前へ出て見えた。同じ機体のはずなのに、少し離れたところから見ているような気分になる。

 ノーズに書かれた女神のデザインが目を引いた。

 

「どうだ」

 

 おやっさんが油染みの布で手を拭きながら出てくる。

 

「文句あるか?」

 

 フィンはすぐには答えなかった。視線が機首をなぞり、胴の線を追い、エンジン周りへ移る。

 

「……いや」

 

 低く漏れた声は、ほとんど感嘆だった。

 

「やりやがったな」

 

 おやっさんが鼻を鳴らす。

 

「当たり前だ。半端な物を出す気はねえ」

 

 カリーナが横で腕を組んだ。

 

「塗装だけじゃないわよ。ちゃんとレース機らしく見えるようにはした」

 

 アリスはなおも目を離せなかった。きれいだ。格好いい。見惚れる。その一方で、前より少し近寄りがたい感じもある。理由までは分からない。ただ、知っているガネットと同じようでいて、どこか違って見えた。

 

「感心するのは後だ。まず説明を聞け」

 

 おやっさんが言う。

 改修内容の説明は簡潔だった。重量を落とした箇所、調整したエンジン、反応が出やすくなる回転域、最初に見るべき項目——それだけだった。

 

「要するに、軽くなって前へ出る。だが無茶な賭けはしてねえ、ってことだな」

 

 フィンがまとめる。

 

「そうだ」

 

 おやっさんは頷いた。

 

「最後まで飛べることは崩してねえ。その上で余計な物を削って、反応を詰めた」

 

「レース機らしくなった、ってわけね」

 

 カリーナの言葉に、フィンはもう一度だけ機体を見た。その顔には満足もある。だが同時に、これから確かめるものを見る目もあった。

 

「まずは様子見だ」

 

 搭乗前、おやっさんが言う。

 

「感触を見ろ。いきなり攻めるな」

 

「分かってる」

 

 フィンが短く返し、機体へ手を掛ける。

 アリスも後席へ乗り込んだ。見慣れたはずの位置なのに、ベルトを締める手には少しだけ力が入る。さっき感じた違和感が、まだ胸の底に薄く残っていた。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 点火。

 腹へ響く音が、前よりはっきりしていた。芯は太いのに重くない。振動も細かく均されている。

 滑走が始まる。水面を切る抵抗が後ろへ流れ、機体が前へ出る。その伸び方が、アリスにも分かるほど前と違った。

 そして離水。

 身体がふっと持ち上がる。軽い、とアリスは思った。上昇に入った途端、機体は迷いなく前へ伸びていく。

 

「……いいな、これは」

 

 フィンが低く呟く。

 反応は早い。伸びもいい。上がり方が、前より一段鋭い。

 

「ちっ」

 

 いつものつもりで当てた操作に、返りが半拍早い。前の加減のまま流すと少しずつずれる。危ないわけじゃない。

 速度を乗せると、思ったより一歩先へ出た。

 

「前より出るな……」

 

 さらに旋回へ入る。入りはいい。戻しも悪くない。だが、これも前のつもりで触ると少し深い。

 悪いんじゃない。むしろ、いい。

 

「厄介だ」

 

 フィンは低く呟いた。

 前の機体《ガネット》のつもりで触るたび、身体が覚えた間合いだけがわずかにずれる。後席のアリスにも、その違いは伝わっていた。

 前より音も振動も細く、鋭い。前へ前へと出たがる感じがあるけれど同時に、前より少し荒い。

 

「フィンさん」

 

 思わず声を掛けると、すぐ返事が来た。

 

「何だ」

 

「前と、少し違います」

 

「分かってる」

 

 短い返答だった。その声の硬さで、アリスはフィンにも余裕がないのだと気づく。

 一本目の慣らし飛行は、大きな危なさもなく終わった。外から見れば順調そのものだっただろう。

 だが、地上へ戻ったフィンの胸に残っていたのは、素直な手応えではなかった。

 

「どうだ」

 

 おやっさんに聞かれ、フィンは短く息を吐いた。

 

「悪くない。速いし、反応もいい」

 

「だが?」

 

「前のつもりで触るとずれる。同じ機体《ガネット》のつもりじゃ駄目だ」

 

 横でアリスも口を開く。

 

「前より、ちょっと気が強い感じがします」

 

 皆の視線が集まる。それでもアリスは続けた。

 

「前の機体は、もっとゆったりしていました。今のは速いし格好いいんですけど、少し気が強いというか」

 

 カリーナが小さく笑う。

 

「悪くない言い方ね」

 

 おやっさんは腕を組んだ。

 

「そりゃそうだ。元の緩さを残したままじゃ、レース機にはならん」

 

 ぶっきらぼうな声だったが、否定ではない。

 

「仕上がりは狙い通りだ。直す話じゃねえ」

 

 フィンの視線が上がる。

 

「前の癖を引きずるな。新しい出方に身体を合わせろ。覚えてた感覚は捨てろ。新しい感覚で上書きしろ」

 

 逃げ道のない言い方だった。だがフィンは、それで腹が決まるのを感じた。

 

「ああ、もう一回飛ぶ」

 

 フィンが言う。

 

「さっきより詰めるぞ」

 

「はい」

 

 アリスはすぐ頷いた。

 運河沿いの空は鈍く曇っていた。冷えた風が格納庫の口を抜け、まだ熱の残る胴体を撫でていく。

 フィンは何も言わず、もう一度だけ機体を見上げた。

 

 

 

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